雑録

大内氏歴代当主の菩提寺と墓所

2020年9月16日

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宗景法師(俗名:多々良武護)

大内氏氏寺と歴代当主の菩提寺・墓所とは?

大内氏の始祖・琳聖太子から、三十一代・義隆までの歴代当主の氏寺や菩提寺、墓所などについては、『山口市史』などにまとめられています。残念ながら、嫡流が断絶し、菩提寺を守り伝える子孫が途絶えたことから、完全な形で現代にまで続く例は皆無です。けれども、地元の方々や研究者の先生方によって整備され、名前の知られた当主については、そのほとんどをお参りすることが可能となっています。

大内氏氏寺と歴代当主の菩提寺・基本情報

大内氏の氏寺は興隆寺です。これについてはもはや書くまでもないでしょう。菩提寺については大内氏が滅亡してしまったゆえに、少々ややこしいことになっています(後述)。まずは滅亡以前、当主や家臣たちが歴代当主の菩提寺をどのように規定し、敬っていたかということを、二十九代・政弘代に定められた掟書からまとめておきます。

文明十八年(1486)九月四日付で出された文書で、歴代当主の命日にはその菩提寺に行き、墓参りせよ、みたいなルールが定められました。これを見れば、歴代の菩提寺と命日がはっきりします。

二十二代・重弘 乗福寺 三月六日
二十三代・弘幸 永興寺 三月六日
二十四代・弘世 正寿院 十一月十五日
二十五代・義弘 香積寺 十二月二十一日
二十六代・盛見 国清寺 六月二十八日
二十七代・持世 澄清寺 七月二十八日
二十八代・教弘 闢雲寺 九月三日

当然のことながら、まだ存命の政弘以下は載っていませんが、始祖さまから、二十一代までの墓参は義務づけられていない、ということになります。乗福寺には始祖さまの供養塔が「きちんと存在する」ことを知っている我々からしたら、やや奇異に感じます。さすがに、あれをホンモノと思う方はおられないと思いますが、せっせと『家譜』を造り、盛見代には古墳まで造営したのに二十一代以前が墓参対象になっていないとは。自ら「家譜」がいい加減だと自白してるみたいです。

現代の研究でも、始祖以降何代か、名前すら不明な方々がおられ、史料として正式に「存在」の確認が取れているのは平安時代の終わりくらい以降です。今よりずっと過去に近かった当時でも、命日、菩提寺について確定できるのは、この代までが限界だったのでしょう。

ですが、現代の我々的には、二十一代・弘家さんの墓所まで確認が取れており、政弘以降の三人の当主(+一名・傀儡)まで判明しております。命日などどうでもいいので、まとめると以下の通りです。

歴代当主の菩提寺(判明分)

二十二代・重弘 乗福寺 
二十三代・弘幸 永興寺 
二十四代・弘世 正寿院 
二十五代・義弘 香積寺 
二十六代・盛見 国清寺 
二十七代・持世 澄清寺 
二十八代・教弘 闢雲寺
二十九代・政弘 法泉寺
三十代・義興 凌雲寺
三十一代・義隆 龍福寺
※二十一代・弘家(、三十二代・義長)は、菩提寺不明ながら、墓は知られている

せっかく歴代当主の菩提寺が判明したというのにきわめて残念なのですが、以下の三つの重大な問題があります。

一、菩提寺が現存しない
一、菩提寺 = 墓所ではない
一、もしかしたら、その墓所は「ニセモノ」かもしれない

以下、このことについて考えていきたいと思います。

大内氏氏寺と歴代当主の菩提寺・現状

菩提寺が現存しない

これは非常に悲しい現実です。滅亡した一族の宿命として、菩提寺を管理する子孫がなく、自然に荒れ果ててしまったほか、後から入植した支配者たちによって消滅させられてしまうなど、さまざまな理由から寺院そのものがなくなってしまっているのです。

このことについて、最初に気付かせてくださったのは、大内氏歴史文化研究会様の『室町戦国日本の覇者・大内氏の文化をさぐる』というご本の中で、伊藤幸司先生が書いておられたコラムでした。あまり感情的なことを書くのはよろしくないので、さらっと流します。

毛利輝元の代、香積寺を破壊して萩に城を建てる材料にしたとか、他家に寺院を建てる材料として渡したりとか(五重塔すら取り壊そうとして地元の方々の猛反対にあって諦めた)、国清寺の経堂を園城寺に譲り渡してしまったりとか、大内氏のものであった寺院を隠滅して回ったのです。

ただ、これはある意味、仕方のないことだと考えています。正直なところ、最初は内心憤りを覚えました。でも、考えてみてください。毛利家の方々とて、故郷である安芸国を追い出され、無理矢理隣の国に押し込められたのです。香積寺を破壊した問題とはやや性格を異にしていますが、元大内氏当主菩提寺だったところに、毛利氏当主菩提寺が引っ越して来る、という事態があれこれ発生しています。元々の寺院を破壊せずにそのまま寺地と建物を再利用してくれた場合、そこは毛利氏歴代菩提寺として大切にしてもらえますから、そのお陰で残された国宝クラスの建築物が今に伝えられているケースもあるわけです。

祖父や父の菩提寺がきちんと広島にあったのにもかかわらず、山口に持ってこなければならなかった輝元さんも気の毒です。山口に引っ越した後、広島の元就さん菩提寺・洞春寺や隆元さん菩提寺・常栄寺が元々あった場所は、「跡地」として、何もない削平地となってしまっています。お祖父上、お父上の墓所も元の場所に残されたままです。つまり、大内家における、凌雲寺跡地、法泉寺さま墓所のようなことになっているんです。幸い、のちに広島藩主となった浅野家では、これらの墓所を大切に保護してくださったようです。また、幕末まで存続し、明治維新で大活躍した毛利家の方々の墓所として、元就さんのお墓は現在、厳重に守られておられますが(法泉寺さま墓所とはまるで違います……だから、山口県が墓所を粗略にしているという意味ではけっしてないです。元就さんのお墓をチラ見していただかないと、この違い、上手くお伝えできません……)。⇒ 関連記事:毛利元就公墓所吉田郡山城跡

とはいえ、輝元さんが、香積寺に限ってなにゆえに破壊したのか理解に苦しみますし、凌雲寺が荒れるに任せたのも、法泉寺さまのご位牌などを管理していた寺院の僧侶がほったらかしにして還俗したため何もかもが消失してしまったのも、なんとなく意図的な気がしなくもないですが……。

まとめると、菩提寺が現存しない、もしくは、名前を変えてほかの人物の寺院となってしまっている、ということです。

大内氏歴代当主菩提寺の現状

重弘 乗福寺⇒※
弘幸 永興寺⇒「永福寺」と改名して移転(現在岩国に同名の寺院あり)※
弘世 正寿院⇒※ 
義弘 香積寺⇒「跡地」に陶弘房菩提寺・瑠璃光寺が移る
盛見 国清寺⇒毛利元就菩提寺・洞春寺となる 
持世 澄清寺⇒廃寺 
教弘 闢雲寺⇒小早川隆景菩提寺・泰雲寺となる
政弘 法泉寺⇒廃寺
義興 凌雲寺⇒廃寺
義隆 龍福寺

いくつか注釈が必要です。まず、乗福寺ですが、現在はその塔頭・正寿院だったところが存続しているにすぎず、元ははるかに大規模な寺院でした。弘幸の菩提寺・永興寺は永福寺と名前を変えて別の場所に移っていますが、これを元の寺が存続しているものと見なしてもいいのかどうか、素人にははかりかねます。永興寺については、岩国にも同名の寺院が存在します。こちらは、再興された寺院となるのですが、元々永興寺は何カ所かに同名の寺院があったとする説もあって、弘幸菩提寺を再興したものと見なしてよいものかどうか、悩ましいところとなります。政弘菩提寺・法泉寺についても、宇部に同名の寺院があるものの、「名前だけ」引き継いだにすぎず、ほとんど関連性はないと見て差し支えないと思います。

こうしてみてくると、「跡地」に移った瑠璃光寺が引き継いだのは元・香積寺の五重塔くらいであったことは別として、毛利元就菩提寺になった国清寺、小早川隆景菩提寺となった闢雲寺は、火災による焼失などで伽藍が失われることはあったにせよ、毛利家による補修管理のお陰で現在まで守られてきたと言えるでしょう。

菩提寺 = 墓所とは限らない?

この問題があてはまるのは、二十五代・義弘、三十一代・義隆のお二人です。じつはこのお二人だけとは限らず、畳の上で(?)まともに亡くなったケースがきわめて少ないのがこの家の当主の特徴とも言えます。

二十五代・義弘 ⇒「応永の乱」により堺で戦死(自害) 
二十六代・盛見 ⇒ 九州で戦死
二十七代・持世 ⇒ 嘉吉の乱に巻き込まれて重傷を負って亡くなる 
二十八代・教弘 ⇒ 四国で合戦中病気にかかって亡くなる
三十代・義興 ⇒ 安芸国で合戦中病気にかかったことがもとで亡くなる※
三十一代・義隆 ⇒ 家臣の叛乱に遭って亡くなる(自害)

※二十八代・築山大明神さまは戦死ではないですが、合戦という非日常の中で病を得、他国で亡くなっておられることから「合戦関連死」と見なしています。また、現在菩提寺にあるのは墓所ではなく、「供養塔」でして、菩提寺にて埋葬されたのか、もしくは亡くなった異国の地に埋葬されたのかはイマイチわかりません。葬儀が菩提寺で執り行われたことは確かなのですが、現在菩提寺にある立派な石塔は、最近になって寺院さまが建ててくださった「供養塔」であり、墓碑ではありません。長い年月を経て、埋葬地が菩提寺内のどこであったのか不明となったのか、もしくは、そもそも亡くなった場所にある供養塔付近こそが埋葬地であるのか、もはや確かめようはないのかもしれません。

三十代・凌雲寺さまについては、帰国して亡くなってはいるものの、合戦の最中に得た病が元で亡くなっているという点では祖父さま同様「合戦関連死」と言えなくもありません。それ以外の方々はおよそ自然死とはほど遠く、二十五代、三十一代にいたっては、ご遺体が亡くなられた場所で埋葬されており、いわゆる菩提寺には何もない状態です。なお、他国で亡くなられた二十六代、二十八代については、亡くなられた場所にも供養塔があります。二十七代も他国で亡くなったことに違いはないですが、自らの京屋敷であったゆえにか、現地に供養塔があるという話は今のところ耳にしておりません。

二十五代・義弘 「瑠璃光寺五重塔」そのものが、義弘を供養するために建てられたものである、という理由から、この下にご遺体が埋葬されているという噂があったりしたようです。何かの機会に調査したところ、それらしきものはなかったそうです(書店で立ち読みした本に書いてあったので、うろ覚えです)。洞春寺に位牌と木像があるほか、戦死した場所である堺・本行寺に石塔があります。この人に限っては、いわゆる墓石のようなものを見たいと思うなら、堺にいくよりほかないようです。

三十一代・義隆 このお方は周知のように、家臣らの叛乱によって、大寧寺で亡くなっています。ゆえに墓所も大寧寺にありますので、菩提寺である龍福寺には埋葬されておられません。ただし、この菩提寺・龍福寺が義隆の養女を妻としていたという関連で、義隆を「舅」と見なした毛利隆元によって建立された寺院です。滅ぼされた家の人に菩提寺を造ってもらうという謎なことになっております。まあこれは、三十二代目をどうとらえるかによって見方が変ってくる微妙な問題ではあります。

ここで、とても興味深いことに気付きます。上述のように、大内氏歴代の菩提寺は廃寺となったり、毛利家歴代の菩提寺に変ったりと、建物的にはあれこれと変化したものの、基本的に、墓所じたいは動いていない、ということです。つまり、法泉寺や凌雲寺が廃墟となっても、政弘墓、義興墓は寺院跡地に残されていますし、国清寺が毛利元就菩提寺洞春寺に変っても、盛見墓はその境内にある、ってことです。要するに、上で特記した義弘墓、義隆墓以外は基本、元の菩提寺「跡地」にあります。

そのお墓、ニセモノかも?

築山大明神さまの例からもわかる通り、墓所なり供養塔なりが建っているところが、本当にその方々の墓所であるのかどうかについてはじつははっきりせず、「伝承」の域を出ないのが実状とも言えます。かなり前のことになりますが、凌雲寺にある大内義興墓は南北朝時代のモノである、と石塔研究の権威の研究者の方が書かれた史料を郷土史の先生から頂戴しました。あまりの衝撃に、未だに最後まで読了できずにおります。南北朝時代に作られた石塔が、凌雲寺さまのお墓であるはずはなく、だとすれば誰の墓所なのか、ホンモノの凌雲寺さまの墓所はどこに行ってしまったのか、と考えると頭の中が真っ白になります。

自治体さま発行の史料、いわゆる「自治体史」(『山口市史』とかですね)や、案内看板の類に「○○の墓といわれる」「○○の墓と考えられている」「伝○○墓」などと記述されていることからも、「断定はできない」ということは明白です。誰だかわからない人の石塔を、凌雲寺さまはこの下に眠っておられるーと市内から遠すぎる凌雲寺跡地に通っている身にはあまりにも辛い現実です。ただし、皆さまにも同じ苦労を味わっていただきたくはないゆえ、敢えて非情な事実を書き添えます。信じればいいだけじゃん。これが絶対にホンモノだ! と常に明るく振る舞える方でしたら、ここに書かれている墓所、すべてを回ってくださっても、何ら問題はありません。ですけど、なぬ!? あれはニセモノかも知れなかっただと!? と疲れ果ててしまわれる方には「墓参り」はオススメできません。

大内氏歴代当主の墓所

弘家 光円寺※
重弘 乗福寺
弘幸 永興寺「跡地」
弘世 乗福寺 
義弘 本行寺(大阪府堺)
盛見 毛利元就菩提寺・洞春寺境内 
持世 澄清寺「跡地」 
教弘 小早川隆景菩提寺・泰雲寺境内
政弘 法泉寺「跡地」
義興 凌雲寺「跡地」
義隆 大寧寺(長門深川)
(義長 下関・功山寺)

注釈すべき点がいくつか。

弘家墓 現在の寺院は、元弘家の館跡と伝えられる地に建立された。寺地=元館跡、と思われ、そもそも弘家の菩提寺はどこのなんという寺院であったのか、その後どうなったのかなどは不明(書いている人が知らないだけです)。ゆかりの地に無関係な寺院が建っている、というイメージ。

盛見墓 洞春寺には石塔のほかに位牌もあります。九州で亡くなったために、現地にも供養塔があります。泉蔵寺(福岡県糟屋郡柏屋町)、福岡県前原市深江(戦死地)にそれぞれ石塔。

教弘墓 泰雲寺の墓は場所がわからなくなって、最近再建されたものとなります。戦死地の興居島に祠があります。

持世墓 菩提寺だけではなく、墓も失われています。現在見ることができるのは、ここに墓があった、という石碑だけです。

義興 玄済寺に位牌があります。

義隆 龍福寺に位牌があります。

20220815追記:個々の寺院(現在の姿)についてはそれらの関連個所で、当主たちの墓所についてはそれぞれの説明文の中で触れたいと思うけれども、『山口市史 史料編 大内文化』を参照させていただき、上掲表の当主名と菩提寺名、およびその組み合わせについて確認・修正をすませたことを書き添えておく(第八編 史跡、表1「大内氏歴代の墓所等一覧」平成二十二年、山口市様編集発行)。 

20230301追記:大内氏文化探訪会様発行の『大内氏歴代当主とゆかりの地』では、歴代当主の墓所、菩提寺(含跡地、毛利家菩提寺となっている寺院)、戦死地などの供養塔、県内にはない義弘の墓などすべてを回られて、丁寧にその由来や現状を書き表しておられる素晴らしいご本です。ご研究の成果を余すところなく記してくださっておられ、これさえあれば、何も要らないというくらい懇切丁寧な有り難い宝物。……問題は、拝読すると現地に行きたくなってしまう点で、九州とか、大阪とか、どうしよう……となりますね。

おまけ・その他一門関係個所(未整理)

大内弘直 普門寺※
大内持盛 国清寺※
大内晴持 金剛福寺(高知県)※
大内義尊 大寧寺※
大内義長 功山寺※
大内輝弘 茶臼山※

大内弘直 戦死地(島根県)、居館跡(熊毛郡)にも石塔があります。

大内晴持 位牌のみ

大内義尊 長門市俵山にも石塔があります。

大内輝弘 祠があります。

教幸(盛見・子)菩提寺 広沢寺
大内弘直 菩提寺、墓所 普門寺
大内持盛(義弘・子)菩提寺 観音寺

※こちらはまだ確認してないです。

大内氏氏寺と歴代当主の菩提寺・墓所まとめ & 感想

大内氏歴代当主の菩提寺・墓所まとめ

氏寺:興隆寺
菩提寺:
二十一代・広家 光円寺 ※菩提寺名不明(調査中)
二十二代・重弘 乗福寺
二十三代・弘幸 永興寺(跡地)
二十四代・弘世 乗福寺
二十五代・義弘 香積寺 現瑠璃光寺(陶弘房菩提寺) 大阪府堺市・本行寺に供養塔
二十六代・盛見 国清寺 現洞春寺(毛利元就菩提寺)
二十七代・持世 澄清寺(跡地)
二十八代・教弘 闢雲寺 現泰雲寺(小早川隆景菩提寺)
二十九代・政弘 法泉寺(跡地)
三十代・義興 凌雲寺(跡地)(国指定遺跡)
三十一代・義隆 龍福寺 墓所は大寧寺
(三十二代・義長 功山寺

「跡地」となっているところには、寺院はありません。「現○○」となっているところは、現在ほかの方の菩提寺となっているところです。ほとんどの方は、書かれている場所、寺院(リンク先)にそのままお墓がありますが、義弘さんだけは県内に墓所がなく、大阪府に供養塔があります。

いうまでもなく、政弘期はこの家が最高に繁栄していた時代です。彼以上に完璧な当主はいません。むろん、大内氏歴代は皆、それぞれに優秀であり、政弘期の繁栄はその上に成り立っています。しかし、息子の代から面倒な事に巻き込まれて揺らぎ始め、孫に至っては「繁栄しすぎて」いたがゆえに何もする必要がないと勘違いでもしたのか、遊び呆けて自滅しました。無念と言うよりほかありません。

その政弘期に書かれた歴代当主の菩提寺墓参の掟書。忠義の家臣たちがせっせと命日に墓参りをすることが、未来永劫続いて行くだろうと、疑いもしなかったと思うのですが。歴史はあまりにも残酷です。

ところで、誰それの菩提寺が誰それの菩提寺になり、名前を変え……という事態は、歴代当主のみならず、その夫人の菩提寺などでも起っています。のみならず、この寺地の変遷や寺名の変更ということは、一度や二度にとどまらず、二回三回と移転や変更を繰り返し、さらに、合併したり再分裂したりとややこしいことこの上ないです。これは山口県だけの特異な事例なのか、ほかの場所でもそうなのかわかりませんが、寺院の変遷だけで論文が一つ書けそうなくらいすさまじいことになっているケースもあります。

にもかかわらず、お墓だけは元の場所から動かない。後には「改葬」という例も出てきますから、絶対とは言い切れませんが、少なくとも、中世などはお墓を動かすことは禁忌だったんじゃなかろうか、と思いました。だって、毛利元就さんのお墓も、今なお広島県にありますからね。それに気が付いた時、墓だけは放りっぱなしで、寺院は切り売りかい? と腹を立てたことをものすごく反省しました。墓じまいなんてことが話題になる昨今ですが、中世の偉人方のお墓だけは今後も未来永劫まもられていくのでしょうか?

参照文献:『山口市史 史料編 大内文化』、大内氏歴史文化研究会様『室町戦国日本の覇者・大内氏の文化をさぐる』、大内氏文化探訪会様『大内氏歴代当主とゆかりの地』※これらのご本はまだ消化しきれておりません。

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ミル

究極のところ、みんなが図書館でこれらのご本を読んでくださればいいと思うの。こんなボロなサイトの存在意義って何?

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五郎

そんなことより……俺とか父上の墓はどこにあるの? 俺みたいな分家の次男坊で滅んだ家の子なんて、墓なくなっちゃったんだよね、きっと……。

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ミル

(君の墓は……いくつもあるんだよ。ある意味、歴代当主の誰よりも君の墓は数が多い。毎年お参りする身にもなって欲しいの……)。

※この記事は 20230918 に加筆修正されました。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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