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乗福寺(山口市大内御堀)

2020年9月20日

乗福寺・山門

山口県山口市大内御堀の乗福寺とは?

大内文化が花盛りだった頃、山口が大内氏の政庁だとしたら、大内はその故郷。出身地であり、名字の地であり、とても大切な場所でした。京都に対する奈良のような扱いで、「古都」と称する郷土史もあるほどです。乗福寺はそんな大切な場所「大内」に存在した三大寺院の一つです。当然ながら、かつては非常に大規模で、多くの伽藍が立ち並ぶ壮観なお姿だったと思われます。しかし、現在はその塔頭の一つであった部分のみが伝えられて、「乗福寺」と名乗って存続するのみです。

大内氏の始祖とされる琳聖太子の供養塔、大内重弘、大内弘世の墓と伝えられる墓所があります。

お詫び

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乗福寺・基本情報

住所 〒753-0214 山口市大内御堀4丁目6−33
最寄り駅 山口駅からバスで15分、「御堀橋」バス停から徒歩で15分
山号・寺号・本尊 南明山・乗福寺・聖観音
宗派 臨済宗南禅寺派
公式サイト http://j3.hp-w.net/

乗福寺・歴史

略年表

(作成中)

創建は鎌倉時代終わり頃。開基・大内重弘(死後その菩提寺)。
建武元年(1334)に勅願寺化、建武五年(1338)に諸山昇格、貞和元年(1345)周防国利生塔にあてられるなど早くから重用された。後に十刹にも昇格している。

大内氏も幕府や他の守護家同様、五山の禅寺を重視し、歴代当主の菩提寺にも禅寺が設定されていた。しかし、後には曹洞宗寺院なども混じるようになり、時代ごとに異なる。なお、足利将軍家のように菩提寺を禅寺の塔頭にしたのは、弘世だけである。
1378年2月、大内弘世は乗福寺仏殿に碑文を記しており、この年に仏殿が改築された可能性がある。

なお、発掘調査により、かつての伽藍に使用されていたと思われる朝鮮式の屋根瓦が見付かっており、弘世の子・義弘代にこれらを用いて堂舎の整備を行ったとみられている。

大内文化の中心・三ヶ寺

大内文化の華やかなりし頃、その中心となっていた寺院は三ヶ寺ある。ひとつはいうまでもなく、氏寺の興隆寺。そして、乗福寺と仁平寺がそれである。ここでいう「大内文化」というのは当然、大内氏の文化ということになるけれど、この三ヶ寺を三大寺院と見なしている場合、「大内(地名)の文化」という意味合いが強い。大内はいわゆる守護大名大内氏として歴史に名を残した多々良氏の人々が地名を以て名乗りとした、いわゆる名字の地。すべての歴史はここから始まった。けれども、その後は山口に中心が移り、それ以後も多くの神社仏閣が建立されていく。氏寺・興隆寺はもちろん、二十四代弘世の菩提寺としての乗福寺もその後も崇拝の対象となった。けれども、仁平寺のほうは一族がまだ大内の地にあった頃、仁平寺本堂供養の華々しいイベント以後、あまり大々的に表に出てくることはなかった(ような気がする)。けれども、大内の地という括りで見た時、三大寺院みたいに突出して著名なのはこの三ヶ寺なのである。それゆえに、『大内村誌』でも特別にこの三寺院について詳細に記述している。とにもかくにも、乗福寺はそのくらい重要な寺院であった。

ミル涙イメージ画像
ミル

あのさ、乗福寺の秋景色が麗しく、とても由緒ある寺院だということは理解できたけども、「五山僧」の問題どうすりゃいいの? 漢字ばっかり……。何のために平仮名片仮名が存在するのか意味わかんない。

畠山義豊イメージ画像
次郎

身の丈に合わないことまでやる必要ないっての。そんなん、受験参考書の知識でじゅうぶん。俺の先祖なんて『管領宛には平仮名で』って配慮してもらったことあるくらいよ。『教養のため』とかいうけど、古文、漢文とか実社会に出ても何一つ役に立たない試験用の存在。必要になるのは、定年退職して郷土史に命懸けるようになってからのことね。俺らまだだいぶ先やん。

於児丸涙イメージ画像
於児丸

(義豊一家は身内の恥さらしと思い軽蔑するが、今回だけは身に覚えがあるため何も言えない……)

滅亡と受難

大内氏の滅亡後、何でもぶっ壊す毛利輝元は何と乗福寺も破壊していた。いったい何のためなのか、本当に理解に苦しむ。香積寺のことしか知らなかったので、己の住居とするための城を造るにあたり、建築資材が足りなかったのだろうと考えたのだが。ならば、乗福寺を解体したのち、それも建築資材にしたのならわかる。けれども、そうではなく、「他家に譲り渡して」いた。いったいどういうこと? と思うけれど、福岡の黒田なにがし(たぶん軍師官兵衛とかいう人物)が建物を欲しがったのであげちゃった、ってこと。別に他人サマが欲しがったところで、無視すればいいと思われるのだが、何か弱みでも握られていたか、見返りに何か得るところがあったんだろうか。

毛利輝元は乗福寺がなくなってしまう事態はマズいと思い、その塔頭だった正寿院を乗福寺であるということにした。つまり、現在の乗福寺はかつての一塔頭にすぎないレベルにまで縮小されている。寺院の名前を残そうとつとめてくれたくらいなのに、建物を譲ってしまった理由がますますわからない。

国清寺の経蔵を徳××康にあげちゃったような人物なので、壊すことも他人に譲ることも何のためらいもなくやってしまうお方だったんだろう。徳××康にゴマすりしなければならなかった気の毒な事情は理解できるけど、軍師官兵衛とやらにまでくれと言われてはいはいと渡してしまうの? そこまで卑屈にならなくてもいいと思うんだけど。現在、この「譲り渡し」の年代がわからず、これはひょっとしたら、先生方の研究でもよくわからないということなのかもしれない。お父上が早くに亡くなり、偉大なお祖父さまも亡くなられたあと、なんてことなんだろうこのお方は。

毛利輝元さんの名誉と自らの保身のために言っておくと、恐らくは当時、建築資材はとてつもなく高価で手に入りにくかった。その上、毛利家の経済状況は苦しかった。ゆえに、要らなくなった寺院を解体して建築資材に充当する、ということをせざるを得なかった、と思う。建築資材が貴重だったことの典拠はわからないけど、経済状況が苦しかったのは「当たり前」。すべては徳××康のせい。元々あれほど広大だった領地がわずかに二ヶ国に削られちゃって、途端に収入源が減ってしまったら、誰しも困窮する。時折、意図的に大内氏文化の遺産を隠滅して回ったみたいなことを書いておられる研究書があるけれど、たとえそうであったとしても、今は紛れもなく自らの領地なので、基本は何をしても OK なので、そこは研究者の先生方のように貴重な文化遺産を見極める目がない人間にとやかくいう資格はないと思ってる。

だけど、善人じゃないので、寛大な心で見守ることは無理なのと、黒田なにがしに建築資材提供した理由が不明なので、ここは単純に腹立つ。困窮してたのなら「売却」したのなら理解でき、どこかでそういうことを書いている人もいたような気もしたけど?

※リライト中です。まだ不正確ですみません。はっきりしているのは、

毛利輝元の頃、乗福寺を解体して黒田家に譲り、黒田家はそれを組み立て直し、博多の崇福寺ってお寺の建物に転用したらしい。

ということです。不可解な点も多く、そのいっぽうで確かに崇福寺に移ってた、と明らかになっている部分もあり、只今先生方のご研究を読書中です。

乗福寺・みどころ

山口十境詩・南明秋興

乗福寺・山口十境詩「南明秋興」碑

「山口十境」とは、大内弘世の時代、明国の使節・趙秩が山口に滞在したときに詠んだとされるもの。名前の通り、十ヶ所の風景を詠んでいる。いずれも劣らぬ美しい風景。該当箇所には、歌碑と案内板が置いてある。歌碑には原詩が、案内版には書き下し文とその場所の説明などが書かれている。場所にもよるのだけれど、ここの「南明秋興」には、訳文まで載っていた。残念ながら、写真が不鮮明でこの石碑も案内版も判読不可能。

山門

乗福寺・山門

琳聖太子供養塔

乗福寺・琳聖太子供養塔琳聖太子の供養塔を中央に配し、その背後に二つ並んで、重弘、弘世の墓がある。歴代当主の墓所は、どこも伝承的要素があって、本当にそれがその人物の墓所なのか、単なる供養塔なのか、あるいはただの無関係な石なのか、正確なことはわからない。

この始祖の墓といわれているものについてだけ取り上げると、どうやらかなり高い確率で単なる伝承であるようだ。ガイドさん曰く、色々なところから持って来た石を積み上げた可能性がある。素人目にはまったく判別できないのだけれど、石塔には地域や時代によって、使われている石だとか、形だとかに違いがあるはず。それらの一様ではない石が、一つにまとめて積まれている雰囲気のようだ。いずれの時代にか、そこら辺の別々の供養塔の石を持って来て、高く積み上げてこれを造った人がいたのかもしれない。

同じ観点から見ると、弘世・重弘の墓といわれるものは、それぞれまとまった一つの供養塔であることは間違いないらしい。ただし、本当にここに弘世公、重弘公が眠っておられるかは調べようがない。

専門家とご一緒していて、またとない機会だったので、この始祖なる人物は実在したのだろうか、という常日頃の疑問をぶつけてみた。研究者の先生方同様、やはりこれは疑問符であるらしい。ただし、観光に携わる方々の考え方としては、ここに始祖さまの墓所があると聞いて来ました~という、物好きな観光客が大量に訪れたほうがありがたいのです(現状、その手の人々はレアな部類にはいるようです)。

ミル通常イメージ画像
ミル

珍しいって。ミルたち、貴重な存在だね。

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五郎

ふふん、当然じゃん。

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於児丸

(変わり者、って意味、わかっているのかな、彼ら?)

それでは、本当の始祖というのは誰なのか、少なくとも渡来人であるという点は間違いないのか、とお尋ねすると、多々良という姓のお話をしてくださった。これは製鉄にかかわりのある技術系の渡来人を思わせるものである、と。だいたいそのような内容だったと思うけれど、記憶違いなどがあったらごめんなさい。

上田鳳陽先生の墓所

乗福寺・上田鳳陽先生の墓所碑

地元の方々にとって、この寺院内でもっとも重要なのはコチラ、山口大学の祖とされる石田鳳陽先生のお墓です。ほかのガイドさんからも鳳陽先生のお話をうかがっています(半分以上忘れてしまったから、急いで書き上げないと……)。江戸時代のお生まれで、明治維新前から学問所を作られた方であり、つまり山口大学は、東大なんかより、ずっと古いということです(確か)。

写真はお隣にあった石碑です。現在も、山口大学に関係する方々が先生を偲んでお参りしたり、清掃作業をなさったりされているのだとか。訪問した日はゆかりある時ではなかったので、静かに時が流れていました。

乗福寺(山口市大内御堀)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0214 山口市大内御堀4丁目6−33

アクセス

山口駅からタクシー、バス、レンタカーなど。ただし、最寄りのバス停「御堀橋」からも歩いて15分かかるので、バスの待ち時間などを考慮して車推奨です。大内にはほかにもみどころがあるので、まとめて回ってしまえばいいかと。

参照文献:

乗福寺(山口市大内御堀)について:まとめ & 感想

乗福寺(山口市大内御堀)・まとめ

※執筆中

感想文(執筆中)

こんな方におすすめ

  • 寺社巡りが好きなすべての方に
  • 秋景色が綺麗な寺院さまが好きな方に

オススメ度


紅葉の季節に訪れたならです。それでも満額にならないのは、当然ですが、往時の姿を留めてはいないからです。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎涙イメージ画像
五郎

やっぱりここも、衰頽してしまったんだね……。

ミル涙イメージ画像
ミル

まあそれは、全国どこの寺院さまにもよくあることなんだよ。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

続きを見る

※この記事は20220922に一部加筆修正されました。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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