細川髙国・敵か味方か? 謎すぎる細川一門

一人称はこの私、畠山尚順だ。義材様は生涯に三回も名前を変えておられるが、もっとも親しみやすい「義材」で統一している。ほかの者も同様だ。

敵か味方か? 謎すぎる細川一門・細川髙国

細川家といえば、大内家の天敵である。庭園の主様が応仁の乱で西軍に馳せ参じたのも細川が東についていたからだ。
将軍家との関係を安定させることが最重要課題であった大内家と畿内との関わりは、徐々に、大内家と将軍家の関係というよりも、大内家と細川家の関係に左右されるものという位置づけになっていく。そして、だいたい先代の頃くらいには、畿内との関わり=細川家との関係に完全にすり替わってしまっていた。
先代の話は列伝に譲るが、主様はお父上、つまり先代の「仇」として細川家を憎んでいた。
つまり、大内vs細川は、私と義豐のような関係。互いに絶対に相容れない仲なのである。にもかかわらず、この細川髙国という男だけは、なにゆえにか、我ら義材様派の中にいつの間にか滑り込んできた。

何がどうしてこうなった? いったいこやつは何者?

細川政元が殺されたのはいい気味だったが、そのせいで、この手で父上の仇を取ることが出来なくなってしまった。その意味では、心中、やや複雑だ。しかし、政元の死が、我ら義材様派の面々の運命を変えたことは事実である。
そもそもなぜ、政元は家臣の手にかかるなどという無様な死を遂げたのか。それについての詳細は、政元の項目に譲る。とはいえ、この事件、この空間に出没する細川関連の者すべてに深い関わり合いがあるため、どうしても話が重複する。
この髙国という男を一言で表すとまずは「細川政元の養子」である。

細川政元の三番目の養子

聞くところによれば、あの奇人変人細川政元は、ある日突然、思い立って旅に出ようとした。もちろん、修行のためだ。なにごとも、凝り性の人間というのは困りもので、先は義政将軍から、庭園の主様まで、何かに没頭すると「隠居したい」となる。まあ、義政将軍は東山の造営に、主様は歌の道に没頭していたのだから、雅で麗しいのだが……。

わしは当然修行に没頭するためだ。何か問題が?

……。

問題がないと思う者などいないであろう……。
政元は修行の旅に出る前に、養子を決めておこうと思った。何しろ「修行」の旅だ。なにがあるか分らない。そこで、白羽の矢がたったのが「六郎」という十歳の少年だった。京兆家の傍流という。
しかし、政元の母が必死になって止めたので、政元は領国を離れることをあきらめ、よって養子の話も立ち消えになった。
そう、この「六郎」こそ、のちの細川髙国である。

反澄之=親澄元じゃないの?

六郎が政元の養子になる、という話はその後しばらくなりをひそめていた。政元は公家・九条家から養子を迎えてしまったからである。これが、後の澄之。政元は変わり者なだけあって、別に養子が「細川姓」でなくとも気にしなかったようである。
それを証拠に、この澄之は、幼少期には京兆家代々の「聡明丸」を名乗ることを許され、やがて、政元の口から今後政務は聡明丸に、とのお言葉まで飛び出した。実際、澄之は政務のいろはを学び始め、このままだと、ほんとうにこの「訳の分らない公家」に細川家が乗っ取られてしまう。
細川一門衆は大挙して政元に抗議した。家督を継がせるなら、当然「細川姓」の者で。というのである。まあ、彼らの言い分は至極真っ当だ。
何しろ細川家は大所帯。畿内を中心に四国にまで大量に一門がいた。
そして、我ら畠山家や一足先に没落した斯波家とは違って、これまで長いこと「一枚岩」で団結していたお家柄である。
まあ、我らの場合、細川家の陰謀で、お家騒動がややこしくなった、という事実もあるが。そうやって、あの手この手で悪さをし、(人々はこれこそが『政治』である、という。もしそうなら、私も亀殿も、それに、義豐も政治には向いていない……)邪魔物を蹴落として自らの勢力範囲を広めてきた連中である。
ところが、ここに政元という異端児があらわれたせいで、これまで、この手の騒ぎが比較的少なかった細川家に、とんでもない家督騒動の嵐がやってきてしまった。
政元も、どうせなら最後まで「変わり者」を貫けば良かったのに、面倒になったのか、彼自身の体調不良なども加わり、気がついたら、勝手に「澄元」という新しい養子ができあがっていた。ここに、澄之vs澄元という細川家を真っ二つにする対立の構図が出来てしまったのだ。
ん? じゃ、髙国は?
というのが、じつはよく分らない。三人目の養子であったことは確かだが、恐らくは、澄元と時を同じくして、やや遅れて、といったところではないだろうか。調べておく。
まあ、どちらにしても、髙国本人は、当初家督争いレースには加わらなかった。彼は、同じ「細川姓」である澄元のサポート役に徹したのである。なにしろ、この髙国はじめ、細川家のほぼ大半が澄元を推している。やり場のなくなった澄之はなんとも気の毒である。そして、まずいことには、暴走した彼の家臣が政元を暗殺するという事件を起こしてしまう。
政元の死で、「順当に」家督を継いだのは澄之だったが、誰一人認めてはくれない。澄元はさっそく将軍の元に「養父の仇討ち」を願い出るとともに、細川家の正統な相続人としての地位も認めさせた。
こうして、澄元は何の苦もなく澄之を倒し、細川家を我が物とした。
謎の展開はこの後である。澄之と澄元の争いにおいては、澄元をサポートしてきた髙国であったが、どういう経緯があったのか、二人は不仲となり、澄元が髙国を「追い出す」などという噂が流れる有様であった。
ならば、つぎは澄元vs髙国のマッチレースが始まったのか?
まあ、そういうことになるのだが、髙国の行動は素早かった。養父・政元の暗殺事件、それにつぐ澄之の敗死など、騒然とする京に颯爽と現われたのが大内殿に守られて上洛した我らが義材様である。「が、」なんと、この男は義材様に「寝返り」いつの間にか我らのメンバーに入ってしまっていたのだ。

気が付いたら管領職

義材様の上洛で、将軍・義澄とそれに連なる細川澄元は命からがら近江に逃げ込んだ。ところが、応仁の乱から続く「敵の敵は味方」パターンから行くと、義澄将軍を掌中におさめている澄元と不仲になった以上、髙国の行き場は、義澄将軍の「敵」義材様の元以外あり得ないのである。
八年もの間、周防国で義材様をお守りした義興殿、その前に、越中で義材様を匿っていた我が家臣・神保長誠の苦労はなんだったのか。

だから申し上げたではありませぬか。大内などに義材様を預けてはならぬと。あやつらに良いとこ取りされたら、若殿のご苦労は水の泡になります。お父上をなくされてからこの方、我らがどれほどあの「元」将軍に尽くしてきたか。それなのに……何もかも大内に持って行かれてしまっては亡き殿に面目が……

何もかも頂戴したのはこの私、細川髙国ですが、何か? 

ええええーーーーー?????? いったいどこから?

義材政権下、知らぬ間にナンバーワン

義材様政権下の功臣は何と言っても大内殿だ。そこに、私と髙国も加わった。だが、大内殿は管領になれる家柄ではなかったので、管領「代」にしかなれなかったのである。

我らにとって、肩書きなどどうでも良かった。義材様を無事に将軍職にお戻しする、これこそが、長年に渡る我が夢であったのだから。

しかし、近江では義澄と澄元が再起を図ろうと画策していたし、京も平穏ではなかった。
義材様が澄元が送り込んだ刺客に襲われて負傷なさるというような物騒な事件まで起こった。義材様は髙国の従兄弟を大将に、近江に大軍を派遣して、義澄派を一掃しようとした。しかし、これがとんでもない大敗に終わり、逆に相手を勢いづかせてしまう。
我らは義興殿の発案で、敵にいったん京を明け渡し丹波へと逃れた。

オジサン弱いよ。役立たず。

何という無礼な子どもだ。私は政治家だ。得意とするのは戦ではない。だいたい、実際に出陣したのは私ではなく、従兄弟だ。

先祖代々犬猿の仲・大内義興と仲間に

好むと好まざるとにかかわらず、髙国は役職の上では最高位。それに、細川家も分裂した以上、澄元と敵対するなら、過去のことは水に流し、我らと手を組むほかないのだ。
それにしても……。まさか、義興殿と細川家の人間が親しく交わることになるとは、主様が知ったらどれほどお怒りになるか……。

ぎくっ……

愚かな。なにゆえ細川の者などと行き来しておるのだ(怒)

その後、我らは舟岡山の決戦にて澄元らを蹴散らし、再び京暮らしに戻る。

いや、最高の功労者はお前じゃないよ

京では一見すると平穏な日々が続いていた。元将軍・義澄は舟岡山の決戦を前に病没しており、もはや、義材様の政権は安定したかに見える。
大内殿らも、京で公家達と交流してお父上を真似て雅な世界に浸ってみたり、のんびりと過ごされていた。
京の平穏は、大内殿の軍事力で保たれていたようなものだから、義材様はもちろん、朝廷までもが、帰国を望む大内殿を京に釘付けとした。
遠く故郷を離れて、領国のことも心配であったろうに。上洛は十年にも及んだのだから、それこそ気が遠くなる。

のろまな亀もブチ切れた横暴ぶり

いっぽう、義材様は何やら機嫌が悪かった。それが、我ら、特に細川髙国の横暴ぶりへの不満であったというから驚く。一度など、臍を曲げた義材様が近江に出奔なさるというようなこともあったほどだ。
我ら一同は、義材様を京に連れ戻すため、けっして背いたりはいたしません、と起請文まで書かされる始末だった。そのくらい、義材様の目には、髙国の横暴、大内殿の兵力の強大さなどにあれやこれや我儘な不満が募っていたのだろう。
大内殿も帰国の願いが許されぬまま時が流れるうち、髙国との間で軋轢もうまれた。なんといっても、犬猿の仲の両家なのだ。
よくも十年ものあいだ我慢なさったものだと思う。
さすがの私にも、細川髙国が何をし、何を理由に重く取り立てられ、何を元手に横暴に振る舞っていたのか、まったくもって理解に苦しむ。

ふふふ、何かご用でしょうか?

義豐は誤解してるけど、僕、政元だの澄元だのより、本当はこっちの細川のほうがもっと苦手。
細川家の連中の狡猾さにはついていけないよ。
あの、のろまな亀殿すら、最後は怒りだした始末だから……。

一言言わせてくれ。
結局の所、どっちがホンモノとか俺的にはどうでもいいんだけど、義材ってのが、もう一度将軍になるために、畿内で孤軍奮闘してたのが、この於児丸、つまり尚順なのよ。
にもかかわらず、復職した将軍の管領になったのは、この細川なんたら。
大内の亀って野郎も、「家格」の問題とやらで、管領「代」にしかなれんの。
けど、この男、いったい何の手柄をたてたわけ?
俺には、どっかから急に降って湧いたようにしか見えんのよ。
これ、親父の代からずっと於児丸と争っている俺が言ってるのだから、信憑性有りよ。
そういう、家格だとか何だとか、不公平なんだよ。な?

だから、家中で揉めたせいで家全体が傾いて、細川一門が威張り腐る状態になったのは誰のせいだ?
我が父上を差し置いて、家督を継ごうなどと喚きだしたお前の父親のせいだろうが。

んだと、こら。折角お前の肩を持ってやろうってのに、いきなり喧嘩売ってくるなよな。
そもそも、お前の親父がいけないだろ?
家は直系が継ぐものと相場は決まってんのよ。
じじ上様にお子がなけりゃそれまでだけど、立派な息子がいるのに、なんで甥なんかに家継がせるか?

お前が自分で家格だの家柄だのは云々と言ったばかりではないか。
お前の父親は直系だったかも知れないが、血筋に問題があり、その上、人柄も我が父上のほうが……。

ちくしょう、マジで俺を怒らせたな!!
俺のことは何言っても許すけど、親父のことは許さねぇ。

はいはい、喧嘩はおやめなさい。
一族どうして争っていると、我々のように悲惨なことになりますよ。
我が養父など、あろうことか、家臣に刺し殺されて命を落としたのですからね。
さて、私は政務多忙ゆえ、お先に。

な、なんだ、あいつ、エラそうに……。

ある意味、この「エラそうな」ところも才能である……。
私は生涯において、義材様の一番の「忠臣」であったが、あれこれの点で、あまり優遇されなかった。
人はそれを「損をしている」と同情してくれるが、義材様はこのような輩に気を遣わねばならなかったから仕方ないことなのだ……。
私や亀殿は、あまり多くを望まない。だから、あまり「もらえない」。
確かに損しているのかな?

何事も控えめに。目立たないことが一番だぜ。
威張り散らしたい奴には威張らせておけばいいじゃない。
ホントのイチバンは君だ!!

誰だろ、今の人。
何だか分んないけど、なぜかちょっと懐かしい。
誰かに似てるみたいだ……。
どこかで会ったかな?

けっ、俺、すごいことに気が付いちまった。
元祖・取ったもん勝ちの俺の親父を真似してんのが、こいつだ。
すったもんだの末、結局こいつが細川継いだ。
「取ったもん勝ち」
世の中、道理もへったくれもないわな。

その後の畿内? どうでもいいちゃ

大内殿はこれ以上付き合いきれないとしつこく帰国を迫り、何やら我らを煙たいと思い始めていたらしき義材様はついにその願いを聞き入れた。
大内殿が去った後の京がどうなったのか。庭園の面々にはどうでもいいことであろうが、いちおう簡単に見ておこう。

だが、実際の所、この騒ぎはこれでおしまいではなかった。
戦国マニアなイマドキの民が、「コイツなら知ってるぜ」などと喚いている、「細川晴元」。
さて、この男、いったい「どの」細川の息子だと思うだろうか?
恐らく、皆の予想は外れているはずだ……。
同様に、将軍後継者のほうもとんでもない展開に。勿論、我ら畠山家のごたごたもまだ終わらないぞ。

いちおうさらっと

大内軍がいなくなった京都に、早速攻め込もうと画策する細川澄元。どうやら、細川髙国の傍若無人ぶりを苦々しく思っていた義材様は、なんと密かに澄元と内通していたようである。まさに信じられない展開だ。これでは、将軍の支持を失った髙国のほうが途端に危うくなる。
しかし、都合の良いことには、上洛を目前として、澄元が病に倒れ、あっけなく世を去る。これ幸いと義材様とよりをもどそうとした髙国だったが、やはりいったんねじれた関係は元には戻らず、義材様はこんどは堺に出奔した。
義材様というお方も、我儘なのか幼稚なのか、この「家出」騒動でまたしても髙国を跪かせようとしたらしいが、ここは髙国のほうが一枚上であった。
髙国は義材様に見切りをつけ、これまた、なんと、あの元将軍・義澄の忘れ形見を新たな将軍位に就けてしまった。
これが足利義晴である。
再上洛の望みもかなわず、病死した父・義澄の末路を見れば、その遺児たちの運命も風前の灯火である。しかし、義材様には御子がいなかったので、実際には、彼らが将軍職に就ける確率はかなり高いものではあった。
なぜなら、なにがどうあっても、将軍職に就けるのは「足利姓」のものでないとダメだからだ。
同じ理由で、義材様(もちろん、義晴など将軍と認めてはいない)は義澄のもう一人の遺児を養子(猶子)にした。これが足利義維である。義材様はその後、堺から淡路、阿波へと移ったが、例によって例のごとく、「淡路御所」とか「島公方」などと呼ばれ、この義維はその後継者となったのである。
しかし、義材様もその養子も、その後、二度と「将軍職」に就くことはなかった。

そして一門は永遠に続く

細川家がその後も脈々と続いて行き、今なお子孫の方々がやんごとなき一族の末裔として健在であることは周知のとおり。
しかし、よくもまあ、ころころと手を組む相手をかえるものだな。さすがに、ここまで見てくると、義豐が父上の仇であった記憶すら曖昧になりそうだ。
足利義晴と細川髙国は親しかったと言われている。二人の関係は、まるで足利義澄と細川政元に似ていなくもない。将軍の首の挿げ替えをやり、傀儡将軍を手元に置いたのだから。
そして、政元同様、義晴政権下では髙国の専横が続いたという。しかし、義晴が幼かったこともあり、二人の関係は終世良好であった模様だ。
悪いがこの頃には、私も義材様ももはや世事には疎い状態で、これ以上のことはわからない。

お、どうやら時間が来たようだ。何? 細川晴元? そうだな。まだ今回はそこまでいけなくなってしまったようだ。