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勝山城跡(安芸国)

2020年10月26日

石碑の写真

勝山城(大内氏勝山館)とは?

厳島(広島県廿日市市宮島町)にあった大内氏の館跡。安芸国での戦闘を指揮するために大内義興が建てた、厳島内の仮居館。実際には、付近の門山城などから出撃したので、ここはお休み処。おもてなし所的風合いが強いかと。遺構も何一つなく、詳細な記録もないため、実態は謎。

ミル

おそらくは雅なお館だったのではないかと思うの。

五郎

父上が先代さまをおもてなしするために腕を振るったのも、きっとここのお館でのことだよ。

ミル

君はまた食べ物のことばかりなのね。新介さ……お館さまは戦の監督に来ているっていうのに。

勝山城跡・基本情報

住所 廿日市市宮島町厳島神社多宝塔そば
最寄り駅 廿日市市宮島口からフェリー
名称:勝山城跡(別名:大内氏勝山館、厳島城)
築城:大永四年~廃城時期不明
立地:丘陵先端
形状:不明
遺構:なし
文化財指定:なし

勝山城跡・歴史

足利義稙の将軍復職を助けるために上洛した義興は十年にわたり在京を続け、その間に分国は風雲急を告げる事態となってしまっていた。厳島神領をめぐる争いもその一つ。

厳島神主の座を狙う友田興藤と、彼を支持する安芸・武田、背後に連なる尼子氏との戦いは、義興の死後も続く。神主家の問題は、子・義隆の代にいちおうの決着を見るが、尼子氏との戦いは終わりが見えず、大敗北のうちに、大内家自身の滅亡をも招いたのであった。

大内氏は宮島からほど近い、大野門山に城を築いていたが、のちに、渡海して勝山の地に仮の館をつくり本営とした。大永四年のこととされる。義興は勝山を本営として、付近の諸城・砦で戦う将兵たちを叱咤激励して回ったという。
「仮の館」と記されていること、厳島渡海は参詣の意味もあることなどから、山城というよりは文字通りの「館」= 居住施設的なものだったのではないかと推測する。しかし、遺構が何一つないため、研究者の先生方による公式見解もないようだ。

なお、のちに、厳島合戦の時、陶晴賢は最初、この地に本陣を置いたという。「厳島城」なる別名は『日本の城辞典』で初めて知ったが、「城」的なイメージは合戦の本陣とされたことから出てきたものだろう。なお、同書には「厳島神社を威圧し内海商業を掌握する居館」とのコメントが載っていたが、この内容も陶時代の香りがする(こっちの表記は『居館』だけどね)。

みどころ

多宝塔

多宝塔の写真

じつは、ほとんどの人は多宝塔を見るためにここへ来ている。城跡マニア的にも、遺構が何一つないとなると、目当ては単に「石碑」一つだから、特に築城者自身に個人的好感を抱いていないのなら、スルーされてしまいそうな「城跡」である。
なお『宮島本』によれば、多宝塔の建立は大永三年(1523)とのことなので、仮の館より先である。

「仮の館」跡からの展望

勝山城跡付近からの展望の写真

「石碑」があった丘から眺めた眼下の風景。丘陵に建っていたことは確かで、眺めはよかった。しかし、おそらくは、五百年前はこの辺りはすべて海だったと考えられる。

多宝塔のある丘はいわゆる「塔の岡」とは違う。塔の岡は五重塔がたっているので「塔の岡」と呼ばれていて、厳島合戦の舞台となったところ。こちらは塔は塔でも多宝塔であり、厳島合戦での大内(陶)軍本陣は最初は、ここに置かれたそうだが、そのあと、塔の岡に移ったので、ここは合戦とはほとんど関係ない。

関連記事:「塔の岡」五重塔勝山城跡写真集ページ

勝山城跡

所在地:廿日市市宮島町厳島神社多宝塔そば
アクセス方法:厳島神社の裏手にある。神社を見学した後、出口から宝物館のある坂道を多宝塔を探しつつ、登っていく。塔はすぐに見つかるが、城跡碑はみつけにくい。足場が悪い場所もあるので注意すること。

参照文献:『大内氏実録』、『宮島本』、『日本の城辞典』

付記:あなたはもう、絶対に迷わない!

ミル

あれれ? 城跡石碑はどこだっけ?

五郎

目の前にあるのに、なんで気づかないかな?

何度来てもそうなってしまい、GoogleMap 様、あなただけが頼りです! がまったく使い物にならないのが、この城跡だ(そもそも、宮島では Map が役に立たないところ多し。この件については、場所を改めて検討したい)。そもそも、多宝塔じたいが地味にわかりにくかったりするが、こちらは知らない人はいないし、Map 様も導いてくださるので問題はない。
こっちは塔の岡じゃないけれども、多宝塔が建っている岡(?)が狭苦しいことがいけないのである。およそこんなところに城跡などあろうはずが……と感じてしまうので、つい現在立ち入り禁止になっているロープの上なんかに隠れているのでは? と思ってしまう。でも、城跡(石碑のみだが)はそのような「危険個所」にはないので、絶対に入って行かないでください。

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1
多宝塔に背を向けて立つ

東屋の写真

すると、多宝塔と向かい合ってこのような東屋が建っているのがわかります。

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2
東屋の右後方にある

チラ見えてる石碑の写真

このように、チラとしか見えないため、見落としてしまう。見ての通り石碑の後ろにも立ち入り禁止ロープが見えている。石碑までは問題なく歩けるけど、いずれにしてもここら付近一帯の足場が悪いというわけだから、注意したほうがいい。

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3
石碑を信じて展望を確認

石碑傍からの展望の写真

本文中の展望写真と大差ないが、石碑が立っているその場所から見た景色。そもそも、石碑は東屋の隣にあったっていいし、いっそ多宝塔の前に置いてしまってもいいような気がする。このわかりにくい場所に立っている正当な理由がきっとあるはずと思うが、わからなかった。少なくとも、大内氏の仮館が上の東屋サイズのわけがないので、立ち入り禁止区域を含めて背後の山全体がそうだったんだろうか? いつ誰によって壊されたのかも不明というから、すべてが謎である。

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