みやじま・えりゅしおん

「厳島神社○○」となっている建築物

2022-05-09

厳島神社御文庫と五重塔

広島県廿日市市宮島町の「厳島神社○○」となっている建築物とは?

名称が「厳島神社○○」となっている建築物とは、厳島神社宝物館、厳島神社御文庫、厳島神社宝蔵など明らかに厳島神社に関連する建築物とわかるものはもちろんのこと、一般に、五重塔、多宝塔となどと呼ばており、それ単体が著名な建築物となっているものにも、「厳島神社」の名前を冠しているものがございます。正式には「厳島神社多宝塔」「厳島神社五重塔」とお呼びします。つまりこれらはすべて、厳島神社に所属する建物なのです。

「厳島神社○○」となっている建物は、そのほとんどが厳島神社の周辺にございます。それらの建築物についてまとめてご紹介いたします。

「厳島神社○○」となっている建築物・概観

今回ご紹介するこれらの建築物はだいだい以下のような範囲内にあるものとなります。ほとんどが厳島神社の周辺にございます。

「厳島神社○○」となっている建築物(所在地図)

「厳島神社○○」となっている建築物・みどころ

具体的には、厳島神社五重塔、厳島神社多宝塔の二つの国指定重要文化財。それにプラスして、呼び名は違えど、普通どこの神社さまにもある宝物庫の類があります。五重塔と多宝塔は理解しやすいですが、宝物庫類までが国指定重要文化財になっていることがスゴいです。つまり、それらの建物にも由緒がある、ってことです。

厳島神社五重塔

厳島神社五重塔

応永十四年 (1407)に創建された、桧皮葺きの三間五重塔婆です。 和洋と禅宗様の折衷で、細かな装飾が特徴です。朱塗りの堂々たるお姿が宮島のシンボルとなっていますが、意外にもこれは、昭和時代の修理にあたって塗装されたのだといいます(参照:『宮島本』)。天文二年(1533)にも修理が行なわれているので、創建も修繕も大内氏全盛期時代の頃の建物と言えます。

外側からは見ることができない部分とはなりますが、塔内には蓮池図、白衣観音図、瀟湘八景、真言八祖像などの壁画が描かれているほか、一層柱に寄進者のお名前が記されています。

この五重塔の最大の特徴は、中心の柱が二層までしか到達していない、ということです。瑠璃光寺の五重塔は、下から上まで一本の柱が貫いているのだと教わり圧倒されましたが、こちらは二層どまりです。そもそも、一般に五重塔は柱が最上層まであるのが普通です。これだけ高い建物を支えなければならないのですから、当然と言えます。しかし、宮島の五重塔はそれが二層までしかないというのですから、いったい、どうやって支えているのだろうと心配になりますね。実際、三層以上は押すと揺れてしまうそうです。

このようになっていることには、もちろん理由があって、柳に風と受け流すことで、却って自然災害などの強い力がかかったときに、倒壊することを防いでいるのです。

五重塔は本尊として、釈迦如来が、脇士に普賢文殊菩薩がお祀りされている仏塔でした。けれども、明治維新となってこれらの仏像は大願寺に引き取られ、五重塔は厳島神社に帰属しました。廃仏毀釈の時代、神社の所有物であると主張することで、貴重な五重塔が守られたのです。

なお五重塔が建っている岡は「塔の岡」と呼ばれており、厳島合戦史跡の一つとなっています。詳しくは「塔の岡」をご覧ください。⇒ 関連記事:塔の岡

五重塔が映える撮影スポット

五重塔は見るべきものがいっぱいの宮島の中でも、厳島神社や多宝塔と並んで美しい建物の代表格です。ことに、高台にあること、五重塔ゆえ、塔じたいに高さがあることから、島内の至る所からそのお姿を拝めます。むしろ、真下まで行くと、大きすぎて画面に収まり切らないゆえ、遠くから仰ぎ見るほうがよかったりします。どこから見ても美しく、ココが最高! という場所はないのですが、写真撮影にオススメの場所は何カ所かございます。

それぞれ、その撮影場所がある観光資源のところでもご説明していますが、ここにそれらをまとめておきます。なお、撮影場所への行き方などは、それぞれのリンク先をご覧くださいませ。

山辺の古径からの展望山辺の古径からみた五重塔

町家通りから見た五重塔町家通りから見た五重塔

厳島神社御文庫

厳島神社御文庫

厳島神社に向かって参道を歩いて行き、神社には入らずになおも真っ直ぐ進んで行くと左手のほうにあります。名前の通り大切な文書を納めた場所です。見た目すごく新しくて綺麗なんですが、江戸時代の建物です。『宮島本』に、「寛政年間 (1790年代) 光明院の僧学信の発起により建てられ」たとあります。建物と中にある書籍とをセットにして、神社に奉納したんですね。

「名山蔵」と呼ばれ、中には孔子が祀られていたというので驚きです。「『二十一史』『十三経』など貴重書を納めていた」(『宮島本』)と、過去形になっているのですが、現在も蔵書置場として使われているのでしょうか?

背後に見えているのは千畳閣となります(上のほう)。

厳島神社宝物館

厳島神社宝物館

長い歴史をもち、多くの人々の崇敬を集めた厳島神社なので、伝えられている宝物もものスゴいものばかりです。平家一門にかかわるものから、大内氏の家宝まで(ほかにも大量にあるだろうけど、多すぎてよくわかりません)。それらがすべて、常に人目に触れる場所に公開されているとは思えませんが、貴重な文化財の数々をこの目で見ることができる場所です。

とはいえ、このようにして、神社や寺院の宝物を大切なものとして伝えて行こうという思想が発展したのは、じつはそう古い話ではありません。もちろん、個々の寺社さまはご自身のお手元に伝えられてきた宝物を大切にして来られました。けれども、個々の寺社さまにできることには限りがあります。やはり、国などの公的機関のサポートが絶対に必要です。にもかかわらず、文化財保護法ができたのって、戦後のことだったりして、この分野の歴史は浅いです。

明治時代にも「古社寺保存法」というものがあり、厳島神社の社宝も「特別保護建造物」や国宝となりました。けれども、この法律が発布されたのは明治三十年(1897)のことで、それまでには国内の数多くの貴重な文化財が海外に流出するなどして失われてしまいました。なんとももったいない話です。

宝物館の建物は昭和九年(1934) に建てられた普通の鉄筋コンクリート建造物ですが、いかにも荘厳な和風建築といったデザインで、見るからに立派です。それゆえにか、この宝物館じたいも国指定重要文化財となっています。設計者は大江新太郎氏、扁額は明治三十八年(1905) に制作されたものが使われており、九鬼隆一氏の手になるものです。

厳島神社多宝塔

厳島神社多宝塔

永正三年(1523)に建てられたということなので、応永年間創建の五重塔よりちょい新しいですね。永正年間、本家のご当主は三十代の義興公。応永年間は、義弘、盛見公の頃なので、曾祖父(盛見公)とその兄上(義弘公)てな感じです。もとは薬師如来が祀られていました。

和様、 大仏様、 禅宗様折衷で、梵字をくりぬいた装飾性の高い蟇股が特徴とか、あれこれ建築学的なご案内をお伺いしてもさっぱりです。多少は知識が増えたと期待し、恒例の勝山御館跡を訪問したついでに、多宝塔を観察しようとしたところ……なんと、修理中でした(202303 現在)。

厳島神社多宝塔(修理中)

このショック、かなり立ち直れそうにありません……。

「多宝塔
一 重要文化財
一 大永三年(一五二三)建立
一 総高一五・四六メートル

昔は塔内に須弥壇を設け本尊薬師如来が安置されていました 現在本尊は大願寺に移されております」
(由来看板)

由来看板の文字は目茶苦茶達筆で美しいです。

けれども、そもそも、誰が何のためにこの塔を建てたのか、ということが、『宮島本』にも由来看板にも載っていないのですが、不明ってことでしょうか? 「厳島神社多宝塔」という名称ですので、現在は厳島神社に帰属しています。

明治時代に入り、例の神と仏が分かたれ云々の際、本尊だった薬師如来は大願寺に引き取られ、ここはなにゆえにか加藤清正(マジ、なんで?)を祀る神社(宝山神社)にされてしまいました。明治十三年 (1880) 年のことです。そのご、大正七年 (1918)、加藤清正は豊国神社に合祀されていなくなりましたので、現在ここには、かつての本尊もなく、一時期御祭神だった加藤清正公(神?)もおらず、何も祀られていない建築物という認識であっているのでしょうか?

不勉強ゆえ、正確な由来がよくわからず、なのになにゆえにか惹かれてしまい、何度訪れたかわかりません。

義隆
殿様

んんん? ここには雅な仮の館があったはずだが? 父上とともに正月を迎えた記憶がある……。

ミルイメージ画像(怒)
ミル

よく覚えておいででしたね。

多宝塔がある岡には、勝山城跡碑が立っています。つまりここには以前、大内氏の館があったんです。⇒ 関連記事:勝山城跡「勝山城跡」石碑

五郎イメージ画像(怒)
五郎

陶入道が毛利家にやられちゃった時に最初、ここに陣を置いてたんだってさ。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

(はっ……。惹かれた理由はそれだったのか……『愛する人ゆかりの地』だったから……)

現在、この地には桜の木が植えられて、花見の名所となっているそうです。

厳島神社宝蔵

厳島神社宝蔵

厳島神社の社務所前の道を右折して、御綾橋を渡って右手にあります。上述の「厳島神社宝物館」に納められている貴重な文化財(平安時代の『平家納経』、『古神宝類』、鎌倉時代の甲冑や太刀、江戸時代の絵馬などなど)は、宝物館ができるまではコチラで保管されておりました。それゆえに、建物はとても古く、これじたいが国指定の重要文化財となっています。つまり、現在は宝物庫としての役割を終え、長い歴史をもつ建物として大切にされています。

創建年代ですが、仁安三年 (1168)の「造営記録」にその名前が出ていることから、この時点ですでに存在していた確認が取れております(参照:『宮島本』)。その頃から伝えられている宝物は、じゃんじゃんこの宝蔵に納められていたというわけです。とはいえ、当然のごとく、現在の建物は仁安年間そのままではなく、何度も修繕を繰り返されております。

建長二年 (1250) 、なんと、宝蔵に泥棒が入りました。「床を焼いて」(『宮島本』)侵入するという神をも畏れぬ手口でして、宝蔵の床をダメにしてしまった上、宝物も奪われてしまいました。具体的に何が盗み出されたのかは、わかりませんが、『平家納経』とか持ち去らなくて幸いでした。当時的には盗んでもお金にならないか、文化財の価値がわからない連中だったのかも。泥棒被害に遭った宝蔵がきちんと修繕されたことはいうまでもありません。

現在の建物は基本、室町時代初期のものとなります。けれども、これもびっくりですが、江戸時代には「拝見所」というものを取り付けて、一般参詣者に宝物を公開していました。ほかの神社さまの事情がよくわからないので、何ともいえませんが、社宝の一般公開なんてことが江戸時代から行なわれていたなんて……。この「拝見所」は昭和二十七年 (1952) の解体修理にあたって撤去され、現在は創建された時のままの姿に戻されています。

ところで、この宝蔵は「校倉造り」という建築様式が用いられています。受験参考書に必ず出ている正倉院のアレです。ついでに校倉造りって何なのか具体的に書いてくれてあればいいのに、書いてなかった……。要するに高温多湿の日本において、大切なものを保管するのに適した建築様式で、何やら弥生時代を思い出しますが、いわゆる「高床式倉庫」みたいなものです。

校倉造りとは、校木とよばれる三角材を井桁に組んで積み重ね(井楼組)、これを四方の壁体として、その上に屋根をのせた高床式の倉庫である。
出典:山川出版社『図説 歴史散歩事典』138ページ

説明見ても、よくわかりませんね。ちなみに「校木」は「あぜき」と読むので、「あぜくらづくり」という呼び名はそんなところから来ているのでしょう(多分)。

「厳島神社○○」となっている建築物(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

厳島神社五重塔
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厳島神社御文庫 〒739-0588 廿日市市宮島町大町1−4
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厳島神社宝物館 〒739-0588 廿日市市宮島町1−1
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厳島神社多宝塔 〒739-0588 廿日市市宮島町 70−2
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厳島神社宝蔵 〒739-0588 廿日市市宮島町中江町1−1
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おすすめルート

宮島に来たら何はともあれ、まずは厳島神社に直行! という場合は神社を見てから時間があれば周辺も……となります。けれども神社じたい、海上に浮かんでいるという独特な建築様式であるため、そこまで広大な敷地というわけではありません。なので、周辺に立ち寄る時間はじゅうぶんにあると思います。そもそも、無意識のうちに見てしまっているようなものがほとんどであるはずなので、ちょっとだけ意識して、これは何なのか、を確認すれば OK です。

まずは、神社入り口付近に、厳島神社御文庫があります。神社の入り口よりやや先にありますため、神社に入ってしまうと参詣前の見学・参拝はできません。ですが、神社内部は一方通行であり、帰り道で御文庫前を通ることになる(意図的にほかの脇道を通って戻った場合などを除きます)ため、あまり気にすることはありません。出口 ⇒ 柳小路 ⇒ 筋違橋付近と戻っていくと、三翁神社、荒胡子神社の摂社・末社、厳島神社御文庫の順番に現われます。宝蔵だけは、筋違橋を渡って左折します。宝蔵を左手に見ながら進み、御綾橋を渡ると三翁神社などに続く道に戻れます。

五重塔は参道沿いにはありません。五重塔がある岡に上がるには、四本もの道があり、そのうち一つが参道に接続しています。「神馬舎」の脇から階段を上って千畳閣に出る道です。千畳閣と五重塔が同じ場所にあるため、千畳閣を通り越した先が五重塔となります。いずれの道も階段がかなりキツいですので、足元にはじゅうぶんにお気を付けくださいませ。高さのある建物で、どこからでも見えるため、ほかの登り口も簡単に見付かります。

厳島神社宝物館と多宝塔については、神社の参拝を終えた後、すぐに桟橋に帰らずに寄り道します。宝物館は大願寺の向かいにあり、多宝塔もその隣に見えています。多宝塔は宝物館左手の道を上って行き、最初に現われた道を右折します。これ以外にも行き方はあるのですが、とんでもない石段を上がるなどたいへんなので、遠回りにはなりますが、宝物館左手の道からの行き方をおすすめしています。

参考文献:『宮島本』、『歴史散歩事典』

「厳島神社○○」となっている建築物(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想

「厳島神社○○」となっている建築物・まとめ

  1. 宮島のシンボル五重塔は応永年間の創建。元は釈迦如来や普賢文殊菩薩を祀る仏塔だったが、明治維新後、仏像は大願寺に移され、塔は厳島神社の所属となっている。
  2. 厳島神社宝蔵、厳島神社宝物館は厳島神社に伝えられてきた貴重な文化財を保管するための建物で、元は宝蔵が使われていたが、現在は宝物館に移されている。いずれの建物も、建物それ自体も貴重であるため、国の重要文化財となっている
  3. 厳島神社御文庫は江戸時代に建てられたもの。貴重な書物を保管するための倉庫
  4. 厳島神社多宝塔は、永正年間の創建とされ、多宝塔がある岡にはかつて大内氏の仮館があった。「勝山城跡」と呼ばれ、石碑が立っている。塔は国指定重要文化財。

厳島神社御文庫だけで一項目たてられるほどの著名サイトであれば、ひとまとめにして書くことはあり得ないのですが……。1ページ1キーワード(メイン)ってことくらいの知識はさすがにありますし……。けど、宮島って見るべきところが多すぎるし、それぞれ歴史が深すぎて全部網羅するなんて不可能に近い(言い訳)。それに、小さなお社などもたくさんありますが、さすがにそれだけでは文字ボリュームが足りないのです。地元の方々ならば、いくらでも心躍る逸話をご存じなので、どんなに小さなお社一つでも中身の濃いものをお書きになれると思うのですが。

というようなわけで、どういう分類にしようかと、毎回ない知恵を絞っております(絞れるような知恵がないよ……)。御文庫、宝蔵、宝物館などが厳島神社のものであることは誰の目にも明らか。敢えて神社の名前をつけるまでもありません。しかし、五重塔や多宝塔が厳島神社○○となっているのは、不思議な気がします。五重塔も多宝塔も、神社というよりは寺院の建築物であることが普通だからです。しかし神仏習合していた時代を思い出せば、これらが神社と深い関係をもっていたとしてもおかしなことではありません。けれども、同じ神仏習合がらみでも、五重塔や多宝塔はその後の神と仏が分かたれた時のほうに大いに関係があります。

明治維新の時、突然に神と仏を分離するように、という命令が出されます。現在の我々から見たら、神社と寺院が渾然一体としていた時代のほうが不可解ですので、きちんと分けることは至極当然のあるべき姿のような気がします。しかし、長い長い年月、普通に融合していたものを分割することは至難の業でした。のみならず、寺院や神社の整理も徹底されましたので、由来がはっきりしないだとか、信仰している人が少ないだとかの理由で、小さな神社や寺院は統合されたり、廃止されたりという憂き目に遭いました。小規模の寺社は経営的にもたいへんですので、ある意味これは仕方のないことです。ですが、統廃合に際して、仏像なども惜しげなく処分されてしまったようなんですよね。新政府はどちらかといえば、神社に優しく寺院に厳しかったので、厳島神社が五重塔や多宝塔を自らの所有物であるとアピールすることで、「神社の建物」として万が一にも破却されたりすることを避けたのでしょう。この辺り、とてもデリケートな問題なので、あまり云々したくありませんが、たまに地元の方がポロッとこぼすことがあるお話です。

こんな方におすすめ

  • 厳島神社に関連する建築物はすべて見たい方
  • 五重塔、多宝塔など塔が大好きな方
  • 御文庫、宝蔵など貴重な物が納められた建物に関心がある方
  • 厳島神社の宝物を見たい方(厳島神社宝物館へどうぞ)

オススメ度


いくつもの建築物がありますので、平均値です。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(涙)
五郎

五重塔って、まさか壊されるかもしれなかったってこと?

ミルイメージ画像(涙)
ミル

さすがに、宮島や瑠璃光寺の五重塔を壊そうとはしないと思うけどね。

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

五郎とミル(サイトのキャラクター)が広島県内を観光した旅日記総合案内所(要するに目次ページです)。「みやじまえりゅしおん」(宮島観光日誌)、「はつかいち町歩き」(廿日市とたまに広島市内の観光日誌)内それぞれの記事へのリンクが貼ってあります。

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