
龍文寺・基本情報
住所 〒745-0125 周南市長穂門前1075−1
電話 0834-88-1072
最寄り駅 徳山駅からバス40分
山号・寺号・本尊 鹿玉山・龍文寺・釈迦牟尼仏釈迦如来
宗派 曹洞宗
龍文寺・歴史
龍文寺は陶氏の菩提寺として有名な寺院であるけれど、それと同じくらい重要なのは、全国的にも著名な曹洞宗の大寺院であったこと。ゆえに、資料は膨大におよび、まとめるのは至難の業。いったいどれほどの歴史書、研究書に記述があるか想像できない。ここでは、『都濃郡誌』、『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』、『周防国と陶氏』を読んでわかったことを書いているが、すべてが相当のボリュームであって、消化不良もあると思う。また、それぞれのご本には典拠となる古文書が載せられていたりするが、古文書は研究者以外に読めるものではないから、書名を書いていても、直接見て確認しているわけではない。
略年表
永享元年(1429) 、陶盛政は寺院建立を思いたち、在山曇璿に相談する。
永享二年(1430)、開基を陶盛政、鹿王山龍門寺として、寺院建立なる。
※寺院の建立年は、史料によって1429か1430でズレがあります。
永享三年(1431)、薩摩国福昌寺第二世・竹居正猷を招いて開山第一祖とする。竹居は多くの僧侶とともに周防に入り、開堂(新たに住職となった僧が法堂を開き最初の説法を行なう儀式)。在山和尚を二世とする。
永享六年(1434)二月、竹居は在山和向に席を譲る。
永享十一年(1439)、陶盛政、梵鐘、僧堂鐘(在山和向の銘あり)施入。
永享十二年(1440)、陶盛政、寺領を寄進、四至傍示を定む(『四至傍示』は領域を定めるための標識、ここでは寺域の範囲を定めたの意)。
文安元年(1444)、在山和尚、師匠・竹居和尚に代わり丹波・永沢寺の輪番(順番に交替して寺務を処理する僧)となる。
文安二年(1445)在山和尚、永沢寺で亡くなる。器之為璠が三世となる。陶盛政が亡くなる(戒名:大造道均)
文安五年(1448)、この頃、器之為璠、越前・龍泉寺の輪住となった際、永平寺に立ち寄り、荒廃した有り様を見て復興を発願(偈あり)。
宝徳二年(1450)、器之和尚、「門という字を文に改める」というお告げを夢に見て、 龍文寺と名を改める。※龍文寺の改名については、ほかにも伝説がある。「周防国飢饉により、僧団解散の危機となったときに、龍女が現われ、「龍文鼎裡炊萬斛」の文章を示し、毘沙門が出現して長粳米を献上した。これにより「龍文」寺としたというもの)
享徳三年(1454)陶弘房が仏殿を、伊予の河野氏が僧殿を建立し、諸堂が完備する。
長禄二年(1458)陶弘房室、器之和尚に受戒(仏門に入るため弟子として、戒律を受けること。受戒は生前にも可能)、戒名:華谷妙栄
寛正二年(1461)十月二十五日、竹居和尚、長門大寧寺で亡くなる(八十二才)。 器之和尚、大寧寺住持を兼任。
寛正四年(1463)、器之和尚、大寧寺住持を大庵須益に讓り、丹波・永沢寺に輪住。
寛正六年(1465)、弘房室妙栄、保安寺を建立。器之和尚を開山に招請(器之為瑞禅師塔銘)。
応仁二年(1468)、器之和尚、龍文寺で亡くなる(六十五才)、大庵和尚、大寧寺住持を全厳東純に讓り、龍文住持となる。陶弘房が京都で亡くなる。
文明五年(1473)、 大庵和尚が亡くなり、五世・為宗仲心が住持となる。(この年、永平寺が焼失)。
明応八年(1499)、 五世・為宗仲心、越前・龍泉寺に輪住。
文亀三年(1503)、 為宗和尚は永平寺再建に着手していたが、四年かけて、この年に復興事業が完了。
文亀四年(1504)、永平寺復興の功により永平寺から専使。「鎮西吉祥山の山号」の称号を得、「山陽山陰西海道の総僧録」を任される。
永正二年(1505)、為宗和尚が亡くなる(八十三才)。陶興房、僧堂に茶釜を寄進。
永正三年(1506)、春明師透が住持となる(仲心弟子・金岡と春明は住持職を互いに譲り合ったため、三年間無住となっていた)。
永正五年 (1508)、 陶興房、尾張権守となり、龍文寺に先祖の墓を整備。
永正十三年(1516)、興房、莇地三十二石の寺領を寄進。
永正十七年(1520)、春明和尚が亡くなり、雲庵透龍が継ぐ。
大永ニ年(1523)、 七世・雲庵和尚『龍文六代誌』を編纂する。
亨禄二年(1529)、陶興昌が亡くなり、海印寺に葬られる。
天文八年(1539)、陶興房が亡くなり、建咲院に葬られる。
弘治二年(1556)、陶長房、龍文寺に於て自刃。※若山城で亡くなったという説もある。
永禄二年(1559) 毛利元就、寺領安堵状を送る
永禄七年(1564)、同上
元亀二 年(1574、毛利輝元、寺領安堵状を送る
元和二年(1616)、熊谷信直の息女電光元永、「永平開山自画賛の像」を龍文寺に納める(十六世・竺翁章琳代)
元和八年(1622)、毛利輝元、豊太閤の神祇神像を預託(十七世・昌奕代)
寛永十六年(1639)、永平寺・二十三世秀察、曹洞宗諸法度を制定。五世・為宗の永平寺復興の功による「鎮西吉祥山」号を認め、中国九州の門下の諸法度施行を命じられる。
寛文二年(1662)、毛利綱廣、龍文寺伽藍を再建。
寛文五年(1665)、綱廣、山門の額「鎮西吉祥山」を寄進。
享保三年(1718)、永平寺三十九世・則地、山号および中西三道大録司を認め、防長三録司の一員として麾下門流を差配する。
天正十三(1585) ~正保元年(1644)、この期間の毛利家当主による讓状承認、住持の補任状等の記録がある
明治十三年(1880)夏、火災により伽藍を焼失。
明治十四年(1881)、再建。
(参照:『龍文六代誌』を参照して書かれた『周防国と陶氏』の記事)
由来と伝説一・龍池と鹿玉
永享元年(1429)、陶盛政は寺院を建立しようと思い、宗祖・道元禅師から九世の孫・在山曇璿(大寧寺四世)に相談した。和尚は承諾し、寺院建立にふさわしい地を探した。現在の龍文寺付近には当時、「龍が潭」と呼ばれる池があり、龍が隠れ住んでいるといわれていた。在山和尚は山に登り、龍が棲むという池に臨んで結跏跌坐し、龍の降臨を祈った。
座禅すること七日七晩におよぶと、七日目の夜、龍女が現れた。「和尚よ、この地に住むがよい。吾が守護しよう」と言い終わると、風と波が激しい音をたてた。池面はあたかも龍の文様のようになり、林も谷も震動した。しばらくして空が晴れ、雲が消えて風がおさまると、深淵はたちまちに平地に変ったのだった。
和尚はこの不思議なできごとを盛政に知らせ、相伴って彼の地に向かった。すると、突然に青衣を来た童子が現れ、「大王が来る」と告げた。ついで、口に珠を含んだ金毛の鹿がやって来て、また去って行ったのだった。ゆえに、山号を「鹿玉山」とし、寺号を龍門と名づけた。(以上、参照:『山口県寺院沿革史』、『都濃郡誌』)
いっぽう、これとはやや異なる伝承もあり、以下のようなもの。
在山和尚は寺を建てる場所を探している時、白鹿に招かれて大沼のほとりに案内された。その夜、池から龍女が現われ、沼を埋め立てて平地とし、和尚に献上した。龍女は深く仏教を信仰しており、「安龍妙楽大姉」という仏名を授かっており、池の献上はそのお礼であり、在山和尚に寺の建立を勧めたという。(参照:『周防国と陶氏』)
いずれにしても、龍と鹿に由来がある点は同じ。『周防国と陶氏』が最新の研究成果に基づいて書かれたご本であることから、後者が正しいのかと思う。ただし、由来については伝承的要素が濃いので、様々な言い伝えがあっておかしくない。二系統の伝承があるのかもしれない。
由来と伝説二・龍女と長梗米
周防国に飢饉が起ったとき、龍門寺も僧侶たちを養っていくことができなくなり、僧団を解散するよりほかに手立てがない、という悲痛な決断を迫られた。そんなとき、寺院建立の時に現われた龍女が再び姿を見せた。龍女は「龍文鼎裡炊萬斛」の文と長梗米を献上した。
この七文字は「龍文寺の台所にはいつも沢山のお米が炊けるようになりますよ」(『周防国と陶氏)』)という意味。
龍女が伝えた七文字にちなんで、龍「門」寺を龍「文」寺と名を改めた。また、長梗米が献上されたことから、「長穂」の地名が生まれた。(以上、参照:『周防国と陶氏』)
※「『龍文六代誌』によれば、宝徳二年(1450)に三世・器之為璠が、夢に門という字を文に改めるお告げを受けて、 龍文寺に改めた。」(『周防国と陶氏』)ともあるので、改名の由来についてはいずれとも決めがたいものと思われる。
鎮西吉祥山・曹洞宗中国三ヶ寺の繁栄
文亀四年(1504)、大本山・永平寺から専使(特使)が来て、龍文寺は山陰山陽西海三道の総僧録に任じられ、「鎮西吉祥山」の称号を得た。「僧禄」というのは、禅宗寺院の統率機関をいったが、一般に寺院を統括し、人事などを執り行う機関のことを指す。「総」僧禄ということは、総元締め的な意味と思われ、山陰山陽西海三道とつくことから、九州、中国地方についてのこれらの任務が龍文寺に一任されたということ、つまり、この地域における曹洞宗寺院のトップとして認められたに等しい。
「吉祥山」というのは、永平寺の山号であり、総本山と同じ山号を用いることを許可されるというのは、たいへんに名誉なことであった。「鎮西吉祥山」というのは「鎮西」はつまり、九州ということだけれども、もっと広い意味で山陰山陽西海を含めた「西国」というような意味合いがあるのではなかろうかと思う。つまり、西国のことは龍文寺にお任せしますよ、という意味であり、このことから龍文寺は「扶桑第二の吉祥山」などと称されたのである。
このような恩寵は、五世・為宗仲心が焼失した永平寺の再興に尽力した功績によるものとはいうけれど、もちろんその功績は大きいが、単に寺院の再建に尽力したというだけで、西国の曹洞宗寺院の総元締めまで務められる力量があるかどうかとはいえないから、龍文寺がこの地域の中心寺院たりうるような名実ともに立派で、優秀な人材を輩出した大寺院であったればこその任命と思う。
なお、永平寺再建に尽力という点でも、為宗仲心は末寺や、陶氏はもちろん多くの人々に援助を求め、その費用捻出のために、たいへんな努力をしたという。伽藍の復興にはじつに四年もの歳月を要している。こうして、龍文寺は「曹洞宗中国三ヶ寺」の一つとして、西国にある多くの曹洞宗寺院を管理管轄する地位に就き、ますますの繁栄を極め、「周防・長門のほか伊予・筑後・肥前・石見・出雲・安芸 ・備後・紀伊・山城・近江にわたり、直末六十ヵ寺、門末二百三十八ヵ寺を抱える巨刹」となった。
※現在も多数の末寺がある(龍豊寺、建咲院、興元寺、極楽寺ほか山口県三十ヶ寺、島根県六ヶ寺、広島県五ヶ寺、愛媛県四ヶ寺、福岡県一ヶ寺、佐賀県一ヶ寺、滋賀県二ヶ寺、三重県一ヶ寺という。寺院の数は、参照文献が出版された当時のものです。参照:『周防国と陶氏』)
明治維新まで、龍文寺は大内氏(陶氏)、毛利氏の「禄所」として、「禄」を得ていた。堂宇は永正五年(1508)と寛永十六年(1639)に火災にあったが、時の当主らの援助や寺院自身の繁栄により、「旧に倍して」再建されたという。「八箇國分限帳」では二百八十八石七斗三升を得ていたとされ、伽藍の修築修繕もすべて藩によって運営されたのである。藩籍奉還の時点では九十石七斗五升まで減少してはいたが、一字三星の紋章を許されるなど、毛利家から特別の待遇を受けていた。
龍文寺は広壮な伽藍が美しい大寺院であったが、明治十三年(1880)夏に火災に遭い、伽藍は焼失してしまった。現在の建物は明治十四年(1881)の再建であり、旧時の壮観さを偲ぶことはできない。唯一楼門だけは焼失を免れ、その後旧観の通りに再建されている。(以上参照:『徳山市史』)
寺宝の数々
『都濃郡誌』によれば、龍文寺には数え切れないほどの貴重な品々が伝えられており、それがゆえに「寶物古文書の府」と呼ばれ、その名は全国に知られていた。しかし、「明治十四年五月の火災でこれらの多くを焼失した」(『徳山市史』)。『都濃郡誌』は古文書みたいで、文字を読むことも難しいけれど、その「什寶目錄」にある宝物名とゆかりある人物名だけを拾ってみると、大正時代の時点ではつぎのような状態だった(※どれほど数が多かったか、どのような人が寄進していたか、だけを見るための参考なので、具体的にどんな品なのか不明な物、旧字体も一部そのまま)。
西王画、中興・器之禅師像(毛利秀就公寄附)、虎の書(毛利秀就公寄附)、龍画、僧録状塗箱、毛利日向守墨跡桐箱、子昂筆(大内義興公寄附)、金剛経張郡文筆(大内義興公寄附)、金剛経南宋篆字南宋張即筆、聖德太子誕生像(大内持盛公寄附)、古金襴大衣(大内義興公寄付)、陽成院宸筆和歌(大内持盛公寄附)、唐画龍文、唐画白山、青貝香炉台、秀吉公画賛、天竺織黄段水引(毛利輝元公寄附)、利休居士浮牡丹香炉、唐青磁香炉、唐桐形香炉二口、御開山法衣、秀吉公御頭巾、昆沙門弘法大師像、六角法華塔、五色佛舍利(大内持盛公寄附)、天竺菩提樹数珠、御開山硯、★開山衣、唐絵地蔵尊(毛利輝元公寄附)、★鎮西吉祥山額独立筆、★鹿王山額月舟筆、緘閉(★長粳米、★龍文 龍紋鼎裡炊萬斛、★藕絲之袈裟 唐芙蓉山道楷禅師僧袈裟一肩。緘閉は密封の意味で、「以上三品不許見」とある)、★馬角水晶、★鹿玉、大香合・小香合(毛利輝元公寄附)、堆朱香合(毛利輝元公寄附)、九條袈裟(毛利元次朝臣寄附)、毛利元就公外御判物数十通、★鑵子量入三斗八升(陶尾張守興房寄附)、永平寺祖鏡影、★聖徳太子作応神天皇誕生御容(大内義興公寄附)、龍虎図二幅、★秀吉公画像
★のついているものが、『都濃郡誌』が書かれた時点では「現存」していたもの。すでに宝物リストの大半は失われていたことがわかると同時に、なおも残されていたそれらの「現存」物も、明治時代の火災でほとんど焼失したとあるから、どれほど惜しいことかと思うわけである。スゴい方々によって寄進された寺宝だらけだったことから、現存していれば、その多くが文化財指定となったはず。現状、文化財指定されているものが、奇蹟的に焼け残った物である、という認識で当たっていると思う。
龍文寺二十四景
『都濃郡誌』には「龍文寺二十四景」として、以下の地名が載っている。その名は広く世に知られている、とある。『都濃郡誌』は大正時代の書籍なので、令和の現在はどうなっているのか、今もすべてを見ることができるのかはわからない。
獅子峯、聯芳林、清凉谿、飛鼎石、屏風岩、慶雲嶺、金芽園、寶珠淵、佛涌嶺、水碓磨、 蘸月池、臨月亭、登天嶺、雲龜峰、松柏丘、通天橋、藏鹿峯、瑇琩園、鳴玉川、鳥道關、錦鏡池、楓林亭、株蓮橋、吐雲澤
龍文寺附近の古戦場
近藤清石先生は、最後の当主・陶長房が亡くなったのは龍文寺であろうと推測なさっておられ、『都濃郡誌』では、龍文寺付近を、かつての陶残党と杉重輔らの合戦跡地として史跡扱いしている。戦死者を埋葬したと思われる「千人塚」という古塚、陶氏の一族・陶興光なる人物が逃れて自殺した場所である「興光峠」などの記載がある。
ただし、『陰徳太平記』を史料的に引用していることから、信憑性が薄いものとして、これらについては「みどころ」には入れない。「千人塚」については、『大内氏実録』中で近藤先生も同様の塚について触れておられるので、実在したように思えるけれども、いずれにせよ、明治大正時代には存在していたとしても、現在は確認がとれない(ゆえに最新の郷土史資料、自治体紹介の観光資源案内内での紹介がない)ものとして、残念ながら、スルーします。明治時代に火災に遭っていることから、陶氏の墓も含め、『都濃郡誌』執筆段階では確認できたものが、火災の後には失われた可能性も高いと思います。
将来、旧跡が発見されるなどして、その存在が証明されることを切に願います。
陶氏菩提寺
陶氏は二代・弘政が吉敷郡陶から移って以来、都濃郡富田保を領有した。永享元年(1429)八月、五代・盛政は曹洞宗の高僧・在山曇璿(大寧寺住持)を招聘して富田保・長穂村に寺院を創建(大内持世の下知による)。陶氏の菩提寺とした。以来、大内氏とその重鎮・陶氏の繁栄とともに、寺門も栄えた。
在山和尚は師匠・竹居正猷(薩摩国・福昌寺)を開山とし、自らは第二世となり、福昌寺の末寺になった。最初、龍門寺といったが、永享二年(1430)に龍文寺と改めた(寺号変更の時期については、宝徳二年(1450)という説もありいずれが正しいのか不明)。山号は鹿玉山。
在山和尚が亡くなると、兄弟子・器之為璠が住持となった。人々は器之和尚を中興の祖に推したが、器之は師匠・竹居正猷を開山、在山を第二祖とし、自らは第三祖となった。四世・大菴須益、五世・為宗仲心、六世・春明師透ら歴代住持は皆、非常に優れた才能ある人たちであった。竹居正猷は石屋真梁に師事したが、その後南禅寺の惟肖得厳からも教えを受けた著名な禅僧だった。
器之為璠も惟肖得巌から内典外典(内典は仏典のこと。外典は儒教のこと)を学んだ。生まれつき聡明で、勤勉な人だったから、師匠から「器之」と名乗るよう命じられたのだった(『器之』の名乗りは師匠がこの弟子を、ひとかどの人物として高く評価していたことのあらわれ)。寛正二年(1461)、龍文寺を去った器之和尚は、長門・大寧寺の竹居正猷から奥義を授けられてその後を継ぎ、同四年(1463)に丹後・永沢寺の住持を務めたのち、寛正五年(1464)に再び龍文寺に戻った。弟子である大菴須益に住持の任を譲ると、寺の南に視雲亭を建てて修行の場所とした。器之和尚のもとには多くの修行僧が集い、龍文寺は禅僧たちの宗教・文学の中心地として大いに栄えた。
器之為璠には『為璠禅師行巻』という詩集があり、視雲亭と龍文寺玄関の雲板銘、在山和尚、福禄寿、竹居正猷、智翁永宗、福昌寺三世中翁和尚の像賛、自賛八首などの詩文、陶家人伊香賀氏・深野氏・杉重隆等の寿像賛、陶盛政小祥忌、同七回忌・十三回忌・十七回忌等の法語、大内教弘・陶盛政妻定窓妙観大姉・伊香賀対馬守らの下炬語などが伝わる。在山曇璿は龍文寺の鐘銘と雲堂前の鐘銘、金岡用兼は陶弘護三十三回忌、陶興房百ヶ日、陶興昌慈明忌香語、為宗仲心は全巌和尚像賛、幻中瑞秀には竹翁宗松像賛、陶興房寿像賛……と、歴代住持の手になる像賛、銘文、法語の類が多数残されている。(以上、参照:『徳山市史』)
陶氏の当主たちは、これらのすぐれた住持たちを師と崇めていた。当然、彼らにも相応の素養があったのである。『徳山市史』にはさらに、天隠龍沢、了菴桂悟、惟参周省、策彦周良ら五山僧と龍文寺のゆかりまで載っているけれど、どの道、これらの漢字だらけの文章はまるでわからないので、「文芸関連的にも」すごい寺院だった、という趣旨がわかれば十分です。
天文の政変、厳島の戦いと大きな歴史的出来事が続き、主家・大内家の滅亡からほどなく、陶氏嫡流もまた断絶した。中世寺院の特徴として、龍文寺も要塞的用途を兼ね備えていたと思われ、弘治元年(1555)十月、杉重輔との同士討ちに遭った最後の当主・長房は若山の城を離れ、この寺院に逃れてきて自刃したとされる。(※現在では、長房が亡くなった年については、弘治三年(1557)とされているが、『都濃郡誌』や『徳山市史』などの以前の史料では、弘治元年(1555)となっており、現在もこの説を唱える向きもある)。
当寺を攻めあぐねた敵方は、念仏踊りの民衆に紛れ込んで寺内に乱入したとの伝承がある。念仏踊りの逸話は「伝承」であり、そもそも長房らが当寺院内で亡くなったことを同じく「伝承」とする人もいる。大内義隆が、防御に向かないただの「館」だった大内氏館を捨てて、法泉寺に逃れたのは普通に理解できるけれど、長房は若山「城」にいたのである。立派な城を捨てて、寺院に逃げる理由がわからない。研究者の先生方が嫌う『隠徳太平記』だと、長房は城内で自害し、弟の小次郎が兄の命令で龍文寺に籠って再起をはかる設定になっている(結局やられるけど)。
近藤清石先生は、『大内氏実録』の中で、やはりここ、龍文寺で亡くなったとするのが妥当だろう、と仰っている。なぜなら、この付近で、複数の人骨(戦闘が行われた証左)が見付かっているとか。ここで何らかの戦闘があったことは、確かなのだろう。
『都濃郡誌』には「龍文寺近傍古塚」とあって、「千人塚と稱し弘治元年十月陶五郎長房杉重輔に襲擊せられ龍文寺に於て死せる時戦死せし者を埋めたる塚なりと云ひ傳ふ」と書かれている。近藤先生が書いておられるのもこの伝承だろう。
陶長房が城ではなく、寺院内で亡くなったことに関連する疑問について。『周防国と陶氏』には、龍文寺の要塞的すごさを語りつくした名文があります。
錦川上流のこの要害の地に寺を建てることは一城を築くに等しく陶家最後の拠点とするもので、寺には壮大な建物があり、食料は平常より備蓄しておき炊事に慣れた修行僧が多く、いったん有事の際は本陣ともなり兵站本部ともなり得るものである。龍文寺末寺の玉真・西方の二ヶ寺は徳地口を、興元・建咲・保安・龍豊各寺は徳山富田方面より長穂に通ずる道路の咽喉首を抑える所に位置し、有事の際は出城とする軍事上の配慮がされたものと想像される。
新南陽郷土史会『周防国と陶氏』
しかし、「最後の拠点」って……。城よりすごいみたい。陶盛政がこの地に寺院を建てたとき、子孫がここに立て籠もるケースまで想定したんだろうか。陶盛政の偉大さを思うと同時に、この最後の拠点を本当に使わなくてはならなくなって、しかも、それでも叶わず家が滅亡してしまったと考えると悲しすぎる。
そもそも、この場所って、龍女が献上してくれた場所だったよね? 防御に優れた土地を探していて見つけたわけじゃなく? 言い伝えはしょせん言い伝え。いきなり現実に戻されてしまい辛い。考えてみたら、家が滅んだ後も、龍文寺そのものは繁栄し続けたことも、なんとなく悲しい。あまりにも繁栄しすぎた寺院だったゆえ、滅ぼした側も寺をつぶすことはできなかったんだろう。
龍文寺・みどころ
明治時代の焼失以前は、寺院のすべてがみどころの山であったと思われ、本当に惜しまれてならない。それでも、寺院関係者、地元の方々による再建、整備事業が今なお絶えることなく続けられており、何よりも、この地方を代表する著名な寺院であったという事実が最大の遺産である。むろん、現在にも受け継がれたみどころも少なくない。
周南市指定文化財 ⇒ 「金銅経筒」、「陶氏墓所」、「鉄造茶釜」、「木造釈迦如来坐像」等。
山口県指定文化財⇒「長穂念仏踊り」
「金銅経筒」:銅板で作られた六角形の経筒。越後国の住侶空源が弘治二年(1556)に奉納したもの(銘文)。法華経を六十六部書写して、それを全国の六十六霊場に納めて回る巡礼者を六十六部廻国聖(日本回国大乗妙典六十六部経聖)といい、この経筒はその法華経を奉納するための物。
「木造釈迦如来坐像」:応安七年(1374)、大仏師・院什法印制作(体内銘文)。56・4センチのヒノキの寄木造り。金泥彩。院什法印は院派(平安後期~鎌倉、室町時代の仏師)に属する人。像には南北朝時代の特色がよくあらわれている。
「鉄造茶釜」:永正二年(1505)、八代・興房が、龍文寺僧堂の公用として、筑前国・芦屋の金工に命じて作らせた特注の茶釜。総高42・Oセンチ、胴径48・5センチの大茶釜。典型的な真形釜で造形もたいへん優れている(中底にたっぷりと豊かな張りがあり、釜全体の形もよく整い、真底の外周に、煙返という細かい輪がある)。鉄鋳造で紀年銘がある茶釜としては県内では唯一。※上の宝物リストで「鑵子(かんす)」とあるのが、まさにコレです。
龍文寺茶釜銘:「為防州 富田 龍文 禅寺 僧堂 公用 多多 良氏 興房 置焉 永正 弐捻 乙丑 命工 鋳之」(参照:『山口市史 史料編 大内文化』)
「陶氏墓所」:本堂西側にある、陶氏一族の宝篋印塔や五輪塔。
『龍文寺六代誌』と『龍文考』:龍文寺七世・雲庵透龍和尚による、寺院が創建された永享元年(1429)から六世・春明師透和尚が亡くなった永正十七年(1520)までの九十年間の記録が『龍文寺六代誌』、その後、陶氏滅亡までの三十六年間を記したものが『龍文考』で、二つの記録をあわせて百二十六年間におよぶ寺院の歴史がまとめられている。龍文寺を菩提寺としていた陶氏に係わる事蹟も記されており、史料的価値がたいへんに高いもの。現在伝えられているのは、寛文二年 (1660)、毛利綱広が伽藍を再建した際、二十一世・笑峰守三和尚が書写したものであるという。(参照:『周防国と陶氏』)
山門
『周防国と陶氏』には山門(常楽門)と書いてあった。明治十三年の火災の時、山門だけは被害を免れたものの、経年劣化による老朽化が激しかった。現在の山門は、平成十四年四月に再建されたものとなるが、当時の姿が再現されている。(以上、参照『周防国と陶氏』)
龍女像と「龍文鼎裡」「炊萬斛焉」
山門の手前にある龍女の像と、石碑。寺院に伝わる龍女の物語ゆかりのもの。「安龍妙楽大姉」というのは、龍女の仏名。(以上、参照『周防国と陶氏』)
命響堂
この梵鐘は、太平洋戦争の際に供出された。戦後、島根県雲南市洞光寺にあることがわかり、平成時代になって、龍文寺に返還されたという。そこに至るまでには、多くの研究者の方々の調査や寺院の関係者、地元の方々などの協力があったのはいうまでもない。
現在の鐘楼は、平成二十一年(2009)六月六日に建立されたもので、「命響堂」という。
梵鐘は文化七年(1824)の再鋳で、陶盛政創建時のものではないが、鋳造された時の記録とともに、創建以来の歴史についても記されており、たいへんに貴重な文化財である。(以上、参照:『周防国と陶氏』)

梵鐘には「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」と刻まれているんだって。

ああっ、それって『平家物語』の「祇園精舎」で勉強したところだ。れいの「諸行無常」だ! 『涅槃経』にあるという偈の最初の一句だったよね。
陶氏墓所
龍文寺境内には、陶氏の墳墓として、多数の供養塔がある。寺院付近にゴルフ場を作ったとき、建設地が寺の一部分と重なったので、古墓のいくつかは、元の場所から現在の場所に移された。それぞれの石塔は、名前が不鮮明となってしまっていたり、あるいは、読むことができても、その名前が誰を指すのか判明しない場合もある。
五、六十基に及ぶ現存する古墓・供養塔のうち、人物が特定できるのは、陶弘護夫人の父・石見国・益田兼堯と陶興房夫人の二基のみ。江戸時代の文献によると、古墓類の数は九十基を超えていたらしい。つまりその後、三十基ほどが失われたことになる。事実だとしたら、たいへんに惜しいことだ。
つぎの写真のように、墓の前に名札が挿してあるものが、埋葬者が特定されているものとなる。
なお、大正時代に書かれた『都濃郡誌』には、「陶氏の墳墓」として、「陶越前守盛政墓、同妻墓、陶越前守弘房墓、同妻墓、陶尾張守弘護墓、同妻墓、陶小次郎興昌墓、陶家墓四十八基」と明記されている。それよりずっと新しい『徳山市史』にも「盛政・弘房・弘護・興房・興昌・長房および宗族・家臣らの五輪塔墓がある」と書いてある。
しかし、202003現在誰のものか判明している墓(供養塔)は四基だけで、これが今のところ最新の研究結果に基づいている(上に『二基のみ』と書いたのは、名前は判明しても、それが誰のことなのかわからないものを二基含んでいるため)。『都濃郡誌』や『徳山市史』にあるこれ以外の人たちの墓はどこに行ってしまったのであろうか? 自治体発行の書籍であることから、信頼がおけると思われ、現代になってから消滅する理由が分からないので、謎である。
念仏踊
陶晴賢が厳島の戦いで亡くなった後、若山城にいた子息・長房と小次郎は、大内氏家臣の杉重輔の攻撃に遭い、 龍文寺に逃れた。龍文寺は天然の要塞であったことから、寄せ手は一計を案じ、いにしえから伝わる周方神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱人した。このため、時の住職が諭して、陶氏の一族は自刃したと伝えられている。踊りはその後、陶氏追善供養のため、毎年七月七日に舞われ、やがて雨乞い踊りへと変化し、念仏踊りとして現在に至っている。(参照:説明看板)
『都濃郡誌』にはこの踊りについて詳細な記録があるので、どのような踊りなのか具体的に知りたい方は、そちらをご参照ください。「伝承」の内容については、『都濃郡誌』の参照文献が『陰徳太平記』であることから、信頼できるものとは思われず、ご紹介は控えます。
アクセス
徳山駅からタクシーを使いました。最寄り駅は徳山駅、バスでも40分以上かかると書いてありますので、歩いて行くことは難しそうです……。
参照文献:『山口市史 史料編 大内文化』、『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』、『都濃郡誌』、『周防国と陶氏』、『大内氏実録』、文化財案内看板
※『周防国と陶氏』は出版年も最近で、最新の研究成果を取り込んだ最も信頼できるご本です。さらに、陶氏にフォーカスして書かれたものであることも大きな特徴で、一般の自治体史とは趣を異にしている部分があります。ボリュームが多すぎて、現状、また完全に読了できていないことをお断りしておきます。そのことによる誤解や不確かな点がございましたら、お詫びいたします。
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周南旅日記(陶氏ゆかりの地)
陶のくに関連史跡総合案内。要するに目次ページです。
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