陶のくに風土記

山崎八幡宮

2022-10-27

楼門の写真

山崎八幡宮・基本情報

住所 〒746-0017 新南陽市宮の前一丁目9-10
電話 0834ー63ー2550
祭神 主祭神:応神天皇、配祀神:田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命、神功皇后
主な祭典 例祭(九月第四日曜日)、春季大祭(四月十一日)、夏祭(七月二十五日)、茅輪神事(六月三十日)
社殿 本殿、幣殿、拝殿、渡殿、神饌殿、祖霊殿(神楽殿)、廳舎、楼門
境内神社 荒人神社(沖津彦神・沖津姫神)、恵美須神社、住吉神社(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、祖霊社(氏子家々之神霊)、今川神社(天満宮・菅原道真公) 、宮地嶽神社(息長足比売命外二柱)、稲荷神社(保食神)
主な建物 鳥居、注連石、灯籠、御神馬、神田講記念碑、 顕彰碑、句碑、 築山之碑詞、狛犬、由緒碑、手水舎、神輿庫、神庫、倉庫、社務所、御百度石
特殊神事 節分祭(追儺式)二月三日、六月祓(茅輪神事)六月三十日、 秋季例大祭の本山神事九月第四土・日曜日
奉納芸能 本山神事の囃子と舞(市指定文化財)
社宝 連歌懐紙六十二帳付重硯一式(市指定文化財)、天神像(奈古屋里人作)、屏風重硯文台、鎮西八郎の弓、猩々緋の幟
最寄り駅 新南陽駅、富田中学校前バス停から徒歩3分
公式サイト http://yamasakihatiman.com/

山崎八幡宮・歴史

神社の由緒には二つの説があります。

一つは、奈良時代の和銅二年(709)、新南陽市富田河内にある神室山に神が降臨され、これを奉斎したことを起原とするもの。

一つは、豊前国宇佐八幡宮の御分霊を祀ったというもの。

歴史の古いお宮さまなので、いずれが正しいのか決めることは難しいですね。神社さまのホームページ、『山口県神社誌』にも二つのご由緒が載っていました。

神社はこの後、宝亀元年(770)、山崎の地に移り「江宮」と呼ばれたそうです。平安時代の神仏習合時代には、真言宗の荘宮寺と習合し、「庄寺八幡宮」となりました。

明治維新の頃、元治元年(1864)に現在の「山崎八幡宮」と名を改められました。明治四年(1871)に郷社、昭和五年(1930) に県社に昇格しました。(以上、参照:『山口県神社誌』、山崎八幡宮HP)

山崎八幡宮・みどころ

秋祭には「神事能楽」が奉納されていましたが、その後、能楽神事はなくなり、かわりに徳山藩主が大小三つの山車(引山)を奉納するようになりました。この山車による神事は、今も「本山神事」として続けられており、山口県指定文化財となっています。

徳山藩では、年中行事として連歌の興行が行なわれており、春正月には藩邸内、秋八月には八幡宮へ奉納するのが恒例でした。かつての『連歌集』は、周南市指定文化財となっており、延宝九年(1681)から明治五年(1872)までの、四十九年分の「連歌懐紙」が保管されています。

平安時代の大同元年(806)と、 江戸時代の宝暦七年(1757)の二度の火災により、社殿・宝物・古文書等が焼失してしまい、現在の社殿は、明治九年(1876)に再建されたものです。(以上、参照:『山口県神社誌』、山崎八幡宮HP)

干支大絵馬

干支大絵馬の写真

このような大きな絵馬は、色々な神社さまで見られるものですが、神社さまホームページの境内案内図で確認したところ、「干支大絵馬」と書かれていました。ほかの神社さまでも、このように呼ばれているものなのか、山崎神社さま独自の呼び方なのかはわかりませんでした。コチラ、右下に顔出し看板がございます。毎年初詣の際に、記念撮影をするのもいいですね。

鳥居

鳥居の写真

鳥居は三の鳥居まであり、すべて石造りだそうです。

楼門

楼門の写真

神社の門については、神社さまによって呼び名がちがいますけれど、ホームページには「籠門」と書いてありました。『山口県神社誌』には「楼門」とありますが。

拝殿

拝殿の写真

神楽殿

神楽殿の写真

亀趺碑

趺亀の写真

「趺亀」て何だろう? と思って調べたところ、石碑の台石が亀のかたちをしているもののことのようです。残念ながら、何が書いてあるのか、見てもさっぱりわかりませんが、神社さまのホームページに、詳細な説明文を書いてくださったありました。

『古くは社の前は海辺であった。虎の形をした洲があり、これを虎の洲といった。その西には文水(あやのみず)という霊水が湧き、宝亀年間天使が来てその水を汲み、祭りを行ったという歌がある。「酌みて知る江宮浜の文水清き流れの千代の行末」とあり、鎌倉時代寛元年間、再び天使が来て祭りを行った。そのときの歌は、「周防なる江宮浜の虎の洲に藻を刈る海女の袖やほすらむ」と詠んでいる。
近世では大内義隆の家臣で周防の守護代・陶弘護、戦国武将の陶隆房(晴賢)は神前に扁額を寄進し、戦勝を祈願している。
山崎八幡宮・ホームページ

文芸の素養がないので、拝読しても和歌を理解するのは難しいです。しかし、当時この付近が海辺であったというのは驚きでした。陶氏の当主たちが山崎八幡宮さまに戦勝祈願をした、というのは、彼らにとって地元の大切な神社であったからですね。

日本庭園(築山枯山水)

日本庭園の写真

境内には奥ゆかしい池がございました。ホームページの境内案内図によれば、「築山枯山水」の日本庭園であるということです。そこで、つぎに載せる石碑は、この池のことを指しているのではないかな、と思いました(誤っておりましたら、申し訳ございません)。

築山之碑詞

築山之碑詞の写真

石碑の文字を読むことはイマドキの観光客には難しいのですが、脇に内容を記した看板がたっているので、内容を理解することができます。展望優れたこの神社の境内に、ゆかりある皆さんが池を掘り、石を運んで庭園をお造りになったのですね。春の頃、秋の頃は素晴らしい光景のようですが、どうやら花の季節も紅葉の季節も逸してしまったようでして、そこが心残りではありました。

「山崎に鎮まります 廣の八幡大神の宮前は四方をみはるかすに心あらむ人にもいまはほしき気しきなむ南には黒髪島竹島などしまじまならび 塩所にはもしほのけぶり朝になびきてえもいはずおかししかあるに明治の廿あまり二季といふ 年より心ざある人たち思ひおして御社の東に池を堀り島を造れり 南の海辺なる島々より ここらの石を運びてそのはざまにはさまざまの草木を植えたり巌のたたずまひ坏 いとめづらかになむ されば春は花のころ 秋は紅葉の時など 人の心をゆかしむべし掛巻もかしこけれど をりをりは神のみ心を慰め給ふらん
かかれば菊川の久しくしくまがだけ(四熊ヶ岳) の動きなく みやしろのさかえむ ことをことほぎつつ かしこみかしこみもしるす
長門国住吉神社宮司
明治二三年八月 正八位 城邨五百樹 楢崎遂敬 書」(『築山之碑詞』内容説明看板)

御神馬像

御神馬の写真

恵比須社

恵比須社の写真

神社の境内にはいくつもの境内社がございましたが、帰宅後に境内案内図を見ながら、これかな、あれかなとなってしまいまして、どれがどの境内社なのか、確認がとれませんでした。こちらの「恵比須社」はわかりやすい場所にございましたので、はっきりそれとわかりました。御祭守は事代主神です。

ほかの境内社については写真だけのページに載せております。

山崎八幡宮の本山神事

本山神事山車の写真

「 この神事は、元禄十五 (1700に) 年に、徳山藩主・毛利元次が、五穀豊穣を祈願して馬場を新設するとともに、 その年の秋祭りから祈願神事山として、 本山 (ほんやま)及び二つの鉾山(爺山・婆山)を奉納したことにはじまる。山車は、毎年組み立てられ、釘を使 用せずカズラで結うなど古式を伝えている。(周南市指定文化財)
神事は、藁縄をとりつけた山車が裸坊によって中央鳥居前まで引き上げら れた後に落とされるもので、藩政期の 記録にもその様子が記されており貴重である。また、豊作を祈願するための予祝神事とされる。」(文化財説明看板)

連歌懐紙・重硯

「山崎八幡宮(庄寺八幡宮)への連歌奉納は、毎年八月の祭礼にあわせて徳山藩寺社奉行・筆者役等の役人が社頭に参向して行われた。起源については明らかではないが、少なくとも近世初期・万治頃まで遡ることができる。
現存する連歌懐紙は、元禄~文化間が失われているものの、延宝九年(1681)から明治五年までの六二帳である。また重硯は、宝暦八年 (1758) 年に徳山藩家臣の飯田正雨が寄進した ものである。
連歌興行の用具が懐紙とともに伝存されている貴重な例であり、近世防長文芸資料として重要である。」(文化財説明看板)

山崎八幡宮写真集

アクセス

徳山駅からタクシーを使いました。富田中学校前バス停から徒歩3分とありますので、タクシーを使う必要はないと思います。なお、その場合、徳山ではなく、新南陽駅をお使いください。

参照文献:山崎八幡宮さまHP、『山口県神社誌』、各種説明看板

陶氏菩提寺龍文寺山門前の記念写真
周南旅日記(陶氏ゆかりの地)

陶のくに関連史跡総合案内。要するに目次ページです。

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