陶のくにの人々

陶弘護

城主さま

基本情報

幼名:鶴寿丸
五郎
越前守

康正元年九月三日、山口の私邸で生まれた。うまれつき才知がすぐれており、生気がみなぎっていた。とりわけ和歌にたくみであった。

応仁元年、父・弘房が政弘に従って京師に出陣した時、弘護はわずかに十三歳。幼いながら、才能がある子どもで、父がした仕事を受け継いでよく果たすであろうから、弘房は死後のことを頼み、任せた。
その年の八月二十二日、龍文寺器之から僧衣を受け、法名を孝勲、号を建忠と授かった。器之の弟子となり、法を伝授されたしるしである。

文明元年、元服。 政弘は偏名を与えて弘護と名づけ、五郎と称した。ついで越前守となる。

『弘護肖像賛』には、「庚寅の春、今八幡宮の神職某は、国が将に傾かんとしている事態を憂い、毎日夜半に神殿に詣でて、密かに祈りを捧げていた。百日目の夜、寝ているのか起きているのか分からない頃、宮殿の扉が勝手に開いて、中から一人の人物が出てきた。厳めしい冠を被り、手には何かを持っている。それを、指示して、神職に向うと『私は長いこと国を守ってきた。今太守は京にあって、国は危急存亡の秋(とき)である。この掛け軸を太守に届けて欲しい。私は太刀に姿を変えて弘護の身について国を守ろう』と言った。神職は掛け軸を太守に、太刀を弘護に渡した。神職が、京で太守に掛け軸を渡した時、太守が中を見てみると、摩利支天の像であった。その頃、太守の伯父・南宋道頓は云々」とある。これは、弘護が国内の民心を鎮めるために、神職を仲間に引き入れて行った計略であって、弘房が託したのはこれらのことであろうと思われる。

文明二年春、政弘の伯父・南宋道頓は細川勝元に与して、赤間関で兵を挙げた。道頓は百計を巡らせて、弘護を招いたけれど、彼は頑としてそれに応じなかった。

十一月、勝元が備後に合力するよう命じたので、道頓は兵を安芸国廿日市に出し、十二月自らも安芸に赴いた。

廿二日、弘護は玖珂郡鞍掛山で道頓を待ち受けて攻撃し、大いに道頓の軍をうちまかした。道頓は辛うじて安芸に逃れ、石見に入って吉見信頼を頼った。

廿八日、弘護は江良城で道頓の残党を攻撃し、政弘の母氏の命を奉じて国内を鎮めた。吉見信頼が道頓に合力して、阿武郡賀年に兵を集め西長門を攻めていたが、弘護は砦を堅めてこれを防いだ。道頓の軍は自ら敗れて散り散りになった。

翌年正月、道頓はまた兵を集めて戦いを挑んだが、弘護は攻撃してこれをうちまかした。道頓は終に馬嶽で死んだ。

六年、勲績(手柄、功績)により尾張権守となる。

七年冬、吉見信頼が阿武郡得佐城を攻撃した。弘護は軍を進めて、信頼をうちまかし、その所領吉賀長野の地を割き取った。

九年、政弘が帰国した。弘護は玖珂郡楊井津で出迎え、また富田の私宅でもてなした。 政弘は弘護に「国が平穏無事であったのは汝のおかげである」言った。君臣は兄弟のように親しく交わることを誓った。それ以後、弘護は、夜は政弘の寝所に控え、昼は皆が集まる席で世話を焼き、一日中倦むことがなかった。

十年、筑前守護代となった。
※周防守護代になった年紀は所見がないけれども、弘房死後遠くないことと思う。さてここに至り肖像賛に、筑前の事を司る、とある。恐らくは周防守護代から筑前守護代に転じたのではなく、兼務したものだろう。秋穂八幡宮奉加帳に「筑前守」と附箋するものがあり、筑前守に推挙せられたようだ。しかしほかには所見がなく、肖像賛に前尾州太守とあることから考えれば、附箋は筑前守護代だから筑前守と書いたものなのか、あるいは本当に筑前守に推挙されたが、 十一年に辞職し、帰国した後に前受領名に戻ったのか、なおよく考えるべきである。

七月、政弘は豊筑を攻撃した。弘護は先駆けとなって少弐と戦い、九月廿五日、大宰府で大いに勝利した。そこで少弐の兵はちらばり乱れて、豊筑が平定された。

十一年、筥崎宮の洪鐘を鋳て功を勒し(きざむ)、職を辞して帰国した。

十三年、伊勢神宮に参詣した。

十四年春、石見の小笠原民部少輔元長が来て政弘に拝謁した。弘護は「武門にある以上、武芸をきわめるのは当然であり、武は弓矢をもって要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以て規範とするものである」と言って、元長に師事して奥義をきわめた。

五月、吉見信頼も来て政弘に拝謁した。

廿八日、政弘は宴を設け諸将をもてなした。弘護はその席上で信頼を刺した。自らもまた信頼に刺れて亡くなった。二十八歳だった。

翌日、政弘は右田弘詮に、弘護が吉見とともに亡くなった件は、当家に対する忠義はいうまでもないことだから、思いもよらないことが起きてしまい、残念で無念であるというほかない(下略)という書状を与えた。世間の人はその驍雄(傑出した英雄)を慕い、その忠義に感動しないものはなかったという。

法名:昌龍院。
※昌龍院については分からない。弘護の肖像は都濃郡大道理村龍豊寺におさめられていたので、龍豊寺がもと昌龍院ではないだろうか。妻益田氏は大永五年九月廿六日に亡くなって夫の菩提寺に葬られ、龍豊寺咲山妙听と法名した。一つの寺に二つの名前がある菩提所だったのが、古いものは忘れられていく習いで、昌龍院の名が自然に隠滅したのではないだろうか。なおよく考えるべきである。

妻は益田越中守兼堯の娘である。三男一女を生んだ。長男・武護が家督を継ぎ、中務少輔となった(系図に鶴寿丸、三郎の名があるがほかに所見はない)。次男は早死(わかじに)した。三男は興房で、娘は宗像大宮司氏定の妻となった。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」より

次男
次男

名前すらないのか……。

ミル
ミル

武護さま、興明さまについては、『実録』の時代には、残念ながら何も分かっていなかったんです。ただし、最近の研究では多くのことが判明していますから、陶の城ではきちんとページを改めてご紹介します。

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「陶の城」ドメインでの公開日:2022年4月7日 9:48 AM

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