陶のくにの人々

陶興昌

2023-01-01

陶興昌イメージ画像

基本情報

陶興房の嫡男、隆房の兄。若くして合戦関連死。

興昌、もしくは興次 。仮名:次郎
享禄二年四月二十三日死去、二十五歲
法名:信衣院春翁透初大禅定門

陶隆房の兄

陶興房には嫡男・興昌がいた。そもそも、正室の生んだ長子を跡継にする、という明確なルールがあったわけではない。跡継を決めるのはその家の当主であり、必ずしも正室腹の長子である必要はなかった。にもかかわらず、普通にいくと、いわゆる嫡男(正室腹の長子)が跡を継いでいることが多い。となれば、跡継として期待され、大切に育てられたのはこの人だったはず。隆房ではなく。

しかし、興昌は安芸に出陣中に病にかかり、二十五才の若さで亡くなってしまった。系図からわかることはここまで。海印寺には興昌の供養塔があるから、恐らくはここに葬られたのであろうこともわかっている。

弘護一家系図(21世紀定説版)

陶弘房一家系図(現代の定説版)

弟の陶隆房が「謀叛人」として全国区で有名になり、学校の教科書にまで名前が載っているのに、その兄弟姉妹となると、とたんに知名度が低い。

しかし、「隆房の兄」なる人物については、『陰徳太平記』にとんでもないエピソードが書き込まれたことにより、恐らくは当時この書物を読んだ人たちなどによって認知されていた。というよりも、『陰徳太平記』の作者が、当時巷に流布していた「伝承」の類を採集して脚色した側かも知れないので、文学史の知識に乏しい人間があれこれいうことは控える。

この本が書かれた時には、大内家が滅びてからすでにだいぶの時間が経っており、かつての西国一の名門・大内家も、西の京・やまぐちもすでに、「伝承の中に生きている」という存在になっていた。とはいえ、イマドキよりはずっと1551年に近かったこの頃、かすかに何らかの言い伝えのようなものを知っている人物はいただろう。それは現代の研究者の先生方がお聞きになっても、十分に史料足りうる内容だったかもしれないけれど、そのいっぽうで、曖昧な記憶から掘り起こされたいい加減な「言い伝え」から、とんでもないデタラメが事実だと思われてしまっていた部分もあったろう。

現代に生きる我々が最新の「事実」だと思っていることすら、じつは間違っている可能性も否定はできない。ゆえに、『陰徳太平記』がデタラメの山だと腹を立てるのではなく、誤った伝承が流布していた時代があった、いうことも含めて「歴史」の一コマととらえるしかない(そうでないと、精神衛生上よろしくない)。

まずは、現在の歴史学(含国文学?)が『陰徳太平記』という書物に対してどのような評価を与えているかということを確認し、さらにこの書物が書かれていた当時の人々がホンモノと思っていたかも知れないと思われる、一昔前の陶氏系図とを確認し、それから、「隆房の兄」なる人物についてこの本ではどのように記されているかについて見ていきたい。

デタラメ本? 『陰徳太平記』

歴史学の先生にも色々おられる。『平家物語』だとか『太平記』のような「創作」でも、ある程度は史実に基づいているわけなので、史料とはいえないものの、当時の人々の考え方を知るためといった理由で、普通に引用されている場合もある。たいていは、「軍記物なので誇張が多い」といったような但し書きがあり、単なる「例」としての扱いとなるが。『平家物語』を歴史書だと考える人はまさかいないと思われるけれど、『太平記』なんぞはけっこうそこここに引用されていたりするから、「軍記物」なるジャンルって、いったいどこまで信用していいのか謎である。

『陰徳太平記』を「俗書」と分類する『大内氏実録』の近藤清石先生も、『太平記』や『陰徳記』は普通に引用していた気がする。素人にはどこまでが真実で、どこからがフィクションなのか見極めができない。単に、近藤先生みたいな方が使っているかどうかを見て、『陰徳太平記』はダメだが、『中国治乱記』、『大内義隆記』、『陰徳記』なら OK なんだ、とか思ってしまう。『陰徳太平記』というのは、『陰徳記』をより面白おかしく脚色したものなんだろう、というのが何となくのイメージだが、権威の意見を聞いてみよう。

いんとくたいへいき「陰徳太平記」
戦国期~織豊期の西日本を舞台にとする諸家の盛衰を、毛利氏の制覇を中心に記述した軍記。八一巻。香川正矩原作・宣阿(正矩次男)補訂。一六九五年(元禄八)頃成立。一七一二年(正徳二)刊。正矩は吉川家の老臣として、吉川氏歴代の武功と祖先の忠勇を後世に伝えるため原作「陰徳記」を書いた。また宣阿は本書の思想的原理ともいうべき、人知れずなした善行は必ず報われるという陰徳思想により、事実をまげながら毛利元就を陰徳の人として描いている。
出典:山川出版社『日本史広事典』190ページ ※マーカー引用者

恐らくはこれが、歴史学会の公式見解とみてよいだろう。「事実をまげながら」という部分が、先生方がこの書物を嫌う理由と思われる。『平家物語』レベルになれば、この章段はこれこれの史実をこのように脚色して物語的効果を狙ったと思われる云々という研究が山ほどあるけれど、残念なことに『陰徳太平記』についてはそこまで詳細な研究があるわけではないので、素人がいきなり飛びつくと、この「事実をまげながら」というのがどこを指しているか正確に理解することは到底無理である。

作者は吉川家家臣。つまりは吉川家、それに毛利家、加えて自らの先祖について「事実をまげ」てでも麗しく書いているに違いないことはわかる。敢えて無能な先祖だの、ダメな主君だのについて書き記すくらいならやめたほうがマシだし、下手をすれば命の危険すらある。つまりこれは、毛利家礼賛の書物である。……ということくらいまでは想像がつく(というか、上の引用文にもそう書いてある……)。だとすれば、厳島の合戦で鮮やかな奇襲作戦を成功させた毛利元就に「敗れた」陶晴賢およびその先祖について、好意的に書かれているはずがない。

確かに、現在の研究成果から見たら、これは違うのでは? と思われるところは多々あるので、近藤先生あたりが「俗書」と切って捨てたのは致し方ないことかもしれない。しかし、『陰徳太平記』とその作者の名誉のために言っておくと、これはあくまでも「創作」なのであるから、現代のエンタメ時代小説家がデタラメを書いても名誉毀損で訴えられないのと同じく、本にも作者にも、創作の自由は許されており、非難される筋合いはないといえる(だって書いている対象がすでに歴史上の人物なので)。

加えて、デタラメの山などと怒ったりできるのは、我々が歴史学の先生方が長い年月かけて明らかにしてくださったあれこれの事実を知っているという「ズルい」立場にあるからであって、この本が書かれた時代にはここに書かれていることが「事実と見なされていた」可能性もある。あるいは、数十年後には歴史学の研究がさらに進み、じつは現在我々が事実だと考えていた推測が間違っていて、この本に書いてあることのほうが正しかった、ということすらあり得る。タイムマシンが発明されない限りは、これ以上あれこれ言うのは全くの無駄。

しかし、日本史事典にわざわざ「事実をねじまげて」などと書いてあるくらいなので、作者は「史実」に「近い」ことを書いているふりをしつつ、そこここにこっそりと毛利家礼賛に繋がる仕掛けを隠していることは間違いない。そして、陶晴賢がワルモノであってくれないと困る作者は、「隆房の兄」や「父」についてもデタラメを書き付け、そのワルモノぶりを際立たせようとしたに違いない(じつは、そうではないところもあったりするのだが……)。晴賢自身については置いておくとして、ここでの主題はその「兄」についてである。

『陰徳太平記』いうところの隆房の兄は、興昌ではなく「義清」という。名前からしてデタラメではないか! と早くもここで腹を立ててはならない。この「義清」なる人物、系図には本当に載っているからだ。もしも、作者がそれを参考にした(もしくは当時はそれが正しい系図だと信じられていた)としたならば、デタラメの出元は『陰徳太平記』の作者ではなく、「系図」のほうなのである。しかも、しつこく言うが、あるいはそちらのほうの系図が正しいという可能性もゼロではないのだから、研究者の先生方のご本に「義清」という名前が出てきたとしても、それをもってその先生が『陰徳太平記』のような「俗書」を史料にしているダメな先生である、などとは絶対に口にしてはならない。先生が参考になさったのは、『陰徳太平記』ではなく、「系図」のほうである。

イマドキのとは違うヘンテコ「系図」

いちおう、現在のところ「正しい」と見なされているものは上にあるイラスト付き系図の通り。陶弘護の跡は、相継いで亡くなった兄二人にかわって、三男・興房が家督を継承した。興房の嫡男・興昌は早くに亡くなったため次男である隆房が家督継承者となった、というのが「定説」。

ところが、この「定説」とはやや異なる「系図」が何種類か存在する。いったいどれほどの「系図」が流布しているのか、研究者ではないためわからない。しかし、『山口市史 史料編 大内文化』に数種類の異なる「系図」を載せてくださっているので、それぞれを見比べて同じところ、違うところなどを比較検討したら興味深いだろう。

正直なところ、「定説」が完全に正しいのかすら実際には不明。先生方がこれまで積み上げてこられたご研究により、弘護 ⇒ 武護 ⇒ 興明 ⇒ 興房 ⇒ 隆房という順番に「当主として活動していた」ことは確認がとれている。当主として活動する機会も来ないうちに、文字通り早死にした「隆房の兄」が興昌なのか、義清なのか、それとも二人とも存在したけれど、ともに若くして亡くなったのか、など実のところは分らないと言ってもかまわないくらいだ。興昌については海印寺に供養塔も存在し、文字史料もわずかながらあるから、存在したことは確か。ただし、義清のほうは何もないようで、どうやら架空の人物っぽい。しつこく繰り返すが、『陰徳太平記』の作者が捏造した人物ではないと思われる。なぜなら、以下のような「系図」「も」存在するから。

陶弘房一家系図(近世流布版)

この系図、上記の山口市史に載っている「大内家系『毛利家文庫』(山口県文書館)」から弘護一家以下を抜き出したもの。これが「デタラメではない」と仮定して、隆房には二人の姉と二人の弟、そして「義清」という兄がいた、ということになる。

で、弘房 ⇒ 弘護 ⇒ 武護までの家督の流れは「定説」と同じである。弘房に、弘護、弘詮以外の息子がいたかどうかなど、確かめようがないので、ここは無視すると、武護以下の流れがどうなっているか、という問題に絞れる。「武護」の息子のところに、「興明」がいるのは、興明のところで書いた通り、播磨定男先生のご研究をあてはめれば(武護の弟であった興明だが、兄の出奔で家督が兄弟間で移動したのに、いずれの時代かに書き写す際に誤って兄弟ではなく、親子としてしまった)、ここまでの流れも正しいと言えなくはない。

問題はそれ以降。弘護の跡は、武護 ⇒ 興明 ⇒ 興房と兄弟間で家督が移動したというのが確認が取れている定説だけれど、この系図を書いた人にも、興房が興明を継いで「家督になった」という認識はどこかにあったのか、「興明」を「興房」ともいう、と但し書きし、一人二役にしてしまった。理由はどうあれ、弘房 ⇒ 弘護 ⇒興明(=興房)⇒ 隆房と、一見すると正しい流れになっている。ただし、興明は興房と同一人物ではないし、武護の息子ではなく弟である。さらに武護の息子として、「隆康」「興昌」とあるので、あるいは興昌という人物が存在した、というところまでは認識されていたのかも知れない。しかし、定説だと「興昌」は興房の兄弟ではなく息子である。また、「隆康」というのが、法泉寺で主君・義隆を守って忠死した「隆康」を指しているのだとしたら、叔父・弘詮の息子「隆康」のことであり、武護の息子ではなく、従兄弟というのが定説だ。というようなことで、いわゆる現在の「定説」とはかなり異なった趣の系図になっている。

しかし、注目すべきはこの、デタラメなのか、こっちが正解なのかわからない系図には、「興昌」は隆房の叔父、「義清」は兄として「その存在が明記」されている点である。

謎の忠臣・陶持長

『山口市史』は定説となっている系図のほかにも、こんな変わり種もありますよ、ということを紹介してくださっていてとても貴重である。しかし、ここの主題は系図の比較検討ではないので、「義清」という人物名が確認できる系図がかつてあった、ということがわかればよい。

そして、もう一つ、『陰徳太平記』関連で非常に重要なことがある。この本には「陶興房」が登場しない。いくら陶氏の系図が大内本家のそれにもまして不完全であると言っても(どっちがより不完全かなんて知らないけど)、まさか、陶興房すらまともに載っていないとしたら、本当にショックである。受験生は陶晴賢だけ知っていればかまわないけど、単なるオンラインゲームの人ですら、興房くらいは知っているはず。しかし、上の「ヘンテコ系図」で興房は「興明」のまたの名である、となっているくらいだから、系図上には存在しない人なのかも……。と思うかも知れないが、さすがにそれはない(むろん、『山口市史』だけを拝見して書いているのでほかにも変わり種があったとしたら申し訳ありません)。

上の「毛利家文庫」の例は、「義清」が載っているから選んだだけで、それ以外の系図ではさすがに興房の名はきちんとある。たまたま「義清」がいる系図で興房と興明がドッキングしてしまっているだけだ。しかし、この同じ系図にはほかにももう一つ、とても興味深い(?)ことが書かれている。武護の息子なる「隆康」。そこには、もとは「持長」といった、という但し書きがあるのだ。この「陶持長」なる人物は、ときおりその名前をチラ見せしてくる謎多き人であり、右田弘詮の息子ではなかろうかとされるが定説はないみたいだ。

ところが、『陰徳太平記』ではこの陶持長が大活躍する。というよりも、この本の中では、どうやら陶興房であろうと思われる人物が、「陶持長」という名前になっているのである。陶興房が父・弘護に勝るとも劣らぬ忠義の臣であることは周知の如くだが、『陰徳太平記』中の「陶持長」も「そのような人物」として描いているつもりのようだ。

前置きはこのくらいにして、「陶持長」の「忠臣」ぶりと、「隆房の兄」「義清」の物語を読んでみよう。

『陰徳太平記』曰く「陶持長、嫡子・義清を殺める」

神童

左氏が言うことには「子を知るは父にしくは無し(子を理解するについては父に勝るものはない)」。また「明父子を知る(賢い父は子を理解している)」とは史記に記されていることである。この言葉がいかにも本当であるということを、私(『陰徳太平記』の作者)は陶持長入道の事例で知った。

持長には息子がひとりあり、次郎義清といった。生まれつきかしこく、優れた才能の持ち主で、しっかりした考えと寛大な心をもっていた。非常に優れた知恵がある子どもだったから、李泌も前を歩くことを遠慮し、謝朏も露払いをしようとするくらい(李泌も謝朏もいわゆる『神童』の例)。そういうわけで、武芸の達人であり、乱舞(能、もしくは能の速度の速い舞)にすぐれており、詩歌管弦、そのほか世間の人が興じ楽しむ芸術小伎(ちょっとした技術)に至るまですべて、その向上に努めていた。

しかしながら、義清は義隆卿のふるまいを見て、周の穆王が遊宴(酒盛りをして遊ぶこと)を好み、隋の煬帝が詩文ばかり巧みで、武芸や戦闘について関心がなかったのに似ており、まるで破戒僧や流刑にあった公家というべきであり、全くもって武士が主君と仰ぐべき大将の器ではないと、朝夕の口ぐせでばかにしていた。

入道はこれを聞いて、「息子の才能は他にぬきんでてすぐれており、今の世の中には稀なる将来性のある若者だ。だが、己の心が勇ましく、思慮も深いことを誇り、主君の御品行について、万事気に食わぬ顔を見せるとは嘆かわしいことだ。忠臣というのは、内にあっては主君の悪い所を正しくなおし、外にあっては主君の立派なところを褒めるよう勤めるものである。次郎のふるまいは、この入道の心とは非常に大きな隔たりがある。将来義隆卿にいささかなりとも政道に公正さを欠くところがあれば、きっと大いに恨み、ついにはあだと成るだろうと思われる。どうすればよいだろうか」

烏帽子折

入道が心配し悩んでいた時、越前から幸若大夫が下向してきた。義隆卿は甚だ楽しみなさり、すぐにも烏帽子折(能の曲目)を望まれた。大夫は廂の間で、手拍子を丁々と打って舞ったから、聞いていた者は身分の上下をとわず皆、感慨に堪えかねて袖を濡らした。

陶入道は屋敷に帰り、嫡子次郎を近付け、「お前は幸若の音曲を真似できるか」と言うと、 「幸若を似せますことは、誠に鵜の真似をする烏(能力や身の程をわきまえずに人まねをする者、また、その結果、惨めな失敗をする者のたとえ)でございますが、お父上のご命令とあらば」と、扇を手に取り、手拍子を打って舞うと、その声は林木を震わせ流泉を湧き出させるようにはっきりとひびき、幸若の舞よりもいっそう趣があった。父の入道も、ああ才能第一の我が子かな、と思ったけれども、主君を軽蔑しているということが、ひとしお身に深くしみるように感じられた。

陶興昌イメージ画像(雅な舞姿)

美しく舞う「隆房の兄」(幸若舞じゃないです)

ミルイメージ画像
ミル

きゃあーーまるで三位の中将さま……。なんと麗しい兄上さま……(今気が付いたが、「美少年」とはどこにも書いていない……。どこで仕入れた偽情報なのか……)。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

待てよ、このヘンテコな本が父上と兄上のお名前を間違えているだけで、書いていることが本当だとしたら、大変じゃないか……。

五郎の兄イメージ画像
五郎の兄

案ずるな弟よ。私は維盛のような美男でもないし(イラスト)、とつくにの誰それのような神童でもない(要するにフツーです)。その意味では、父上には申し訳ないが、主に対しても身の程はわきまえている。

またその頃、明国から義隆卿へ書状が届けられた。義隆卿は香積寺、国清寺等の長老、西堂などを呼び集め、書状をひらいて念入りにご覧になった。義清も末席に並んでいた。父・入道は家に帰ると、「どうだ次郎、今日の書状を覚えているか」と尋ねた。「どうして一遍見ただけで覚えられるでしょうか。しかしながらあてずっぽうに書いてみましょう」と、長篇の文章を一文字の違いもなく書いて、流れるように音読した。入道も次郎は人間ではない、神仏の化身なのだ、または漢の張安世、魏の祖瑩の再来なのだろうと思い、あっけにとられた。

それからますます注意して見ていると、次郎のかしこさ利発さはいちだんと深まっただけでなく、義隆卿を見下す様子もまた、止まなかった。父・入道は、「いずれにしても、次郎は将来、義隆卿を侮って君臣の礼を乱し、当家に害を加えようとする者となる。いかに我が子が可愛くとも、主君の御為には代えられない」と、義清が十五歲の春の頃、ひそかに毒を盛って殺した。

大義滅親

昔、衛の州吁は兄・桓公から当主の座を簒奪した。桓公の家臣・石碏は州吁を誅殺し、州吁に従った我が子・石厚を殺した。当時の徳の高い人々は、「大義、親を滅す」(国家・君主の大事のためには親子兄弟のような個人的関係は無視する)とはこのようなことをいうのだ、と石碏を褒めたたえた。これは主君を弑逆した罪が明らかだから殺したのである。しかし、持長はまだ事が起らないうちに、この例と重ね合わせて深く考え、愛する我が子を殺したのである。忠義の志は石碏に勝る。近くにいた人はこれを見、遠くにいた人は話を聞いて、忠義の志を感じ、その悲しみを察し、涙を流さぬ者はいなかった。

その後、入道の妹婿・問田紀伊守の嫡子が養子となり、陶五郎隆房と称したのである。この持長入道道麒という人は、十六歳から主君の傍近くにお仕えし、ついに友人の家を訪ねるということがなかったという。礼記に、「人の臣と為る者は外の交り無し、敢て君に貳(ふたごころ)あらざる也」と説いているのも、この入道のことをいうのだろう。これも皆、忠の一字を深く心の奥そこに挟んだゆえに、慈しみ育てた我が子すら殺めたというのに。

今の隆房は、讒言する者のいうことが事実かどうかをも調べずに、先祖代々の主君を弑逆し、 おまけに摂政関白殿を初めとして、多くの公卿のお命を奪うとは。その残忍極まること、人は怨み神は怒って、忽ちに天の喪びを受けるばかりか、亡父入道の怒りも深く、不忠不孝の罪も免れないだろう。行く末恐ろしいことだと思わぬ者はなかった。 いにしえ、鄧伯道に子はなく、今、隆房に忠義なく非道あり。ああ、天はこのことを知っているのだろうか。

※このエピソードは政変後、大友晴英が当主になる前の部分に挿入されている。

創作と史実の乖離

じつは単なる脚色だった?

さて、我らが『陰徳太平記』のために言っておくと、あの本は面白い。だからこそ、「タチが悪い」のである。もしも、そこに書いてあることをすべて本当だと思う人がいたらどうするのだ? 隆房には立派な興房という父親がいながら、それは訳のわからない別の人になってしまい、さらには、実子なのに養子にされてしまう。加えて、実の兄が実の父に殺されるとか、いい加減にしてください。ということを、たまたま最新の系図で確認し、違うだろーーとかわかる人はいいですが、そのたの一般庶民にはわからないのです。

上巻の途中(つまり大友晴英自害)までで力尽きましたが、この本はさらに続いているので、恐らくは四分の一くらいで止めた、ということになります。そこまででもすでに、登場人物は数えきれません。それらすべてについて、兄や父の名前が違うだとか、事実無根なことが書かれているとか、わかる人などいるはずがありません。この本が『平家物語』並みに研究され尽くされる日を待つよりほかないですね。

しかし、この作者の創作力ときたらすさまじいと思っていたら、そうともいえないことがわかりました。つまり、「種本」といいますか、作者はその時代に出回っていたほかの書物、言い伝え、そのた諸々に取材して物語を構築しているのです。要は、すべてが作者オリジナルのフィクションというわけではなく、この本が書かれた当時には「事実とみなされ」「流布していた」内容を脚色したにすぎない、という面がある、ということです。その脚色が絶妙であるからこそ、読者は面白いと思い、そこが作者の筆の巧みさということになります。

陶義清のエピソードで一番恐ろしいところは当然、陶持長が実の息子を手にかけた、という部分でしょう。ここが、作者が「事実をねじ曲げて」書いたところなんだろう、と考える人は多いかもしれません。しかし、しかし、じつはこの逸話は、やはり別バージョンの「系図」に但し書きとして、しっかりと書かれています。

陶晴賢のところに、つぎのような一文があります。「或曰実問田紀伊守嫡子而興房姉所生之子也興房実子五郎義清于時十五歲無道而不忘父意故鴆殺之而以晴賢為養子」しかもこれ、いわゆる、現状最も流布している「定説」版である、『新編大内氏系図』のコメントですよ。信じられませんね。つまり、もっとも信頼されていると見なされているハズで、系図の上には「義清」なんて出ても来ないこの『新編大内氏系図』すら、この義清伝説を捨てきれなかったのか、代々伝えられてきたあらゆる系図を整理して正しいものを作ってくださる過程で、削除せずにこの一文を残したわけです。

こうなると義清伝説は伝説ではなく、本当にそういう人物がいたのではないか? と考えていた人が多数いたであろうことは間違いなさそうです。だから『或曰』以下のコメントを敢えて残したのでしょう。ただし、御薗生翁甫先生が隆房が「養子」だったと考えておられたとは到底思えないので、ここは文字通り未確認の「怪しい」コメントとしての扱いでしょう。

しかし、『新編大内氏系図』にまで名前が出てしまっている義清なる人物、実在したかどうかは未確定ながら、『陰徳太平記』によって捏造された人ではないことはほぼ確実で、また、陶持長(興房のつもりらしい)が実子を殺害したことも、『陰徳太平記』の創作ではなさそうです。おそらくはこれについても当時フツーに流布していた噂話として存在したか、あるいは博学の作者がどこかでこのコメントがついた「系図」を見たのでしょう。

では、日本史広事典にある「事実をねじ曲げ」てというのは、「隆房の兄」についてはあてはまらないのか? といえば、そこは判断が難しいところです。あるいは、聡明すぎる作者は陶「持長」が息子を殺したというのはいくらなんでもインチキだろう、と系図のデタラメを知っていたのに敢えて採用した。でもって、ああそこまでしたというのに、かわりに跡継とした息子(養子)はもっととんでもない人物であったじゃないか、悲惨。ということが書きたかった。こうやって貶めておけば、毛利三兄弟輝くよね……。

もう一つの考え方としては、イマドキならぬ近世の人々は「大義滅親」とやらを麗しい物語としてとらえていた可能性がある、ということ。そうであるならばこれは、主のためには息子すら手にかける陶持長という人物の「忠義」を称賛しているともとれます。現代人にはおよそ信じられない話ではありますが……。こうやって父親を称賛することにより、息子(作中では養子だけど)の「不忠」が際立つわけで。やはり毛利三兄弟輝くよね……。

「歴史小説」を嫌う歴史学の先生たち

そもそも、歴史学を志す人間は司馬遼太郎先生の小説ですら、「信じてはいけない」。それどころか、それらを観賞することを「罪である」と嘆いていた先生もおられた(歴史学科卒業です)。現在でも、尊敬する作家先生のおひとり、佐藤優先生がどこかで司馬先生のどれかの作品について、誤りを指摘しておられたのを覚えている。

個人的に、森村誠一先生がお書きになる歴史小説が好きなので、『太平記』なんかも原作無理だからそっちで読んだ。だけど、森村先生の作品は歴史小説なのに地の文にはカタカナ表現が踊っていて、完全にエンタメ的要素を含んでいる。その点は最近のそういう作家のものと似ているけれど、森村先生は現代の我々にも理解できる次元にするための装置として、そのような用語を使っておられるだけで、例えば、会話文など、当時の人物たちに語らせる時には、昔の人が使うはずがないような用語は絶対に用いない。のみならず、古文書も含め数百冊にも及ぶ史料を丹念に研究し尽された上で書いておられる。

地の文にカタカナが踊り、多分にエンタメ的要素を含むが上に、「これはフィクションなのである」ということを常に読者にわからせてくれる。ところが、地の文まで含めてまるで歴史書みたいに書かれているけれどじつはフィクションである、というようなものほど「罪が深い」のである。小説はあくまでも小説であり、読んで楽しければそれでいいけれど、それを真実だと思い込んではならない。そう言う意味で司馬遼太郎先生の小説を鵜呑みにしてあれをすべて史実だと誤解する学生が多数生み出されることを、歴史学者の先生は危惧するわけである。

『陰徳太平記』が近藤先生に嫌われているのも、おそらくは、そんな理由からだろう。『近世説美少年録』のような読本のデタラメの山を史実と思うほどぶっ飛んだ人はいないと信じるが、『陰徳太平記』は歴史書っぽく見えなくもない。司馬遼太郎先生のご本をまるっと信じてしまうような人にとってはきわめて危険な書物だ。『平家物語』のように研究が進んでいない現状では、いちいちここまでが本当で、この先は脚色です、とか、一般庶民にわかろうはずがない。その線引きがきちんとできない人は読まないほうがいい本だといえる。

それでも楽しい「作り話」

史実なのか、創作(含脚色)なのか、自ら見分けがつかないうちは、「真面目な」歴史小説や「軍記物」を読むな、と先生方に注意されたら、もはや生涯に渡りそれらは読めそうにない。楽しみが減ったとがっかりするというよりは、騙されなくてすんだ、と思えば少しは気が楽に。でも、普通に『陰徳太平記』を引用したりしている「歴史書」や種本にしてしまっていると思われる歴史小説「なるもの」が溢れているのですが……。たぶん、歴史学の先生に叱られた経験がないのだろう(司馬遼太郎先生など読んだことがなかったがゆえに、叱られたことはないけど)。

ぶっちゃけ、史実なんてどうでもいいと思えば気が楽。郷土史家の先生方と史跡巡りをしたり、地元の名物ガイドさんたちの心躍る解説を聞いたりする時、その内容が『陰徳太平記』と大同小異であってもそれはとても楽しい。

博奕尾の尾根で毛利元就の鮮やかな奇襲について説明を聞いているとき、たとえそこに、神の使いである鹿が現われて元就を導いてくれたという神がかりな話が出てきても、それに感激する人はいても、怒り出す人はいないはず。だって、そもそも、毛利元就が大嫌いな人が博奕尾の尾根に登るとは思えない。ただでさえ、鮮やかな奇襲作戦に魅了されてわざわざ首都圏から宮島まで「その現場をこの目で見るために」来た人が、「鹿が道案内するとか、科学的に証明できません」なんて言うはずがない。

そう、つまりは、フィールドワークの最中に出てくるそれらの貴重な「言い伝え」や「伝説」はすべて、地元愛に溢れるものであるから、それを心地良く感じても怒りを覚える人などいないのである。『陰徳太平記』は先祖と主の家について記した書物だ。作者が先祖や主の家を麗しく書いたとて、なんの罪があろうか。この本が罪作りな本と化してしまうのは、その「脚色」によって「事実をねじ曲げられた」被害者に連なる人たちが、偶然にもその個所を見つけてしまった時、というきわめて限定的な場合に限られると思う。

興昌の真実

陶隆房の兄は義清という名前で、とんでもなく優秀な類い希なる人物、父「持長」自慢の息子だった。にもかかわらず、あまりにできすぎたがゆえに、将来主に叛くかも知れないと心配した父によって殺されてしまった。そんな恐ろしい話がかつて存在し、『陰徳太平記』はそれを面白おかしく脚色して世に広めた。

興昌は近藤先生の『実録』やその系図にきちんと載っているばかりか、海印寺には供養塔も存在する。くわえて、そこに供養された、という記録もあるので、とてもわかりやすい人である。近藤先生の『実録』時点ですでに、れっきとした「合戦関連死」であることが明記されているではないか。にもかかわらず、「隆房の兄・義清」っていったいどこから? と思ったら、近世の系図はもとより、最新の『新編大内氏系図』にまで未だ義清の名がコメントとして生き残っていた。いい加減にしてほしいと思う一方で、ひょっとしたら、本当にいたんだろうか? という錯覚にも陥る。

じつは、海印寺にはこの供養塔と並んで、興昌の伯父・陶興明の供養塔もある。こちらのほうは、すでに一昔前のことになってしまいはしたが、数百年の時を経て、現代の研究者の先生方によってその存在が証明されたという一大ニュースとなった経緯がある。それに比べて、興昌のほうは、数百年間、ずっと同じ場所にあり、だれもが「あれがそうだよ」と知っており、お参りされたりしていたのだろうか? 謎の義清伝説のせいで、近世の人たちの認識では、「隆房の兄」は義清であり、興昌という人物は何者かわからなかったんじゃないかと考えてしまう。

山とある陶氏のものらしき供養塔の中で、被供養者がはっきりしているものはとても少ない。興昌の供養塔はその中の貴重な一つ、ということになるわけだが。いつの時代に、どなたがそれを明らかにしたのか、隣にある伯父の供養塔と違って、そのことに言及された文章を見たことがない気がする。

父・興房の人となりから推察するに、息子たちには厳しく接したに違いない。内面は深い愛情に充ち満ちていたはずだけど。将来を期待された長男が、合戦で命を落とすことも珍しくはない時代。幸いにも彼は一人っ子ではなかったから、隆房という立派な弟がかわりをつとめた。

陶義清なる人物は、じつは歴史の「真実」を見抜いていた『陰徳太平記』の作者が、最大級の嫌味を込めて創り出したインチキな人物。いってみれば、作者のイタズラのように思える。興昌については、若くして亡くなったということ以外、ほとんど何の言い伝えもない(と思う)。あるいは、義清のような優等生だった可能性ももちろんある。ただし、父親に殺されてはいないので。念のため。

近藤清石先生のご研究以来系図から消えたものの、それ以前の系図の中には「義清」なる人物が確かにいた。もしくは実際に、第三の兄弟がいた可能性とて否定はできない。なぜなら、「存在したこと」の証明よりも、「存在しなかったこと」の証明のほうがはるかに難しいからだ。だからこそ、『新編大内氏系図』にもいちおうコメントが残っているのかもしれない。

いたのかいないのかはっきりしない義清については保留しておくと、いちおうその存在が明らかなところでは、興房の子は兄と弟二人。あとは姉妹である。兄弟の関係はどうだったのだろう、と考えた。特に記述がないからといって、絶対にそうとは言い切れないけれど、恐らく二人は同じ母から生まれた兄弟だろう。大好きな兄を亡くした将来の隆房が、深く嘆き悲しんだであろうシーンが浮かぶ。果たして、このまま興昌が元気に年を重ねていって、兄弟協力して家を盛り立てていこう、となったとき、出来の悪い殿様との関係をどんなふうに対処したのだろうか。

女の子の場合、長女はおっとりなんてよくいうけど、男の子の場合もそうだったら、心優しい兄はダメな主にも最後まで寄り添ってしまっただろうか。惣領としての兄がそのような考え方だった場合、のちの隆房はどうなっただろうか。そもそも、兄を支える弟という立場に徹したとしたならば、主の家の中での発言権も小さいものとなったであろうし、その後の歴史はまったく違ったものになった可能性すらある。

歴史に「もしも」はないとか、また怒られそうなので、興昌の不幸な早死には素直に受け入れよう。同じ合戦関連死でも、兄は弟よりずっと恵まれている。少なくとも故郷の地で、肉親に見守られながら世を去って、そのご、身内の手で大切に供養されたのだから。ちょっとだけ、焼き餅を焼いたのだった。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

あにうえー、紅葉をお題に一種詠めって「宿題」、メンドー。また代作してよ。

五郎の兄イメージ画像
五郎の兄

たまには自分で考えなさい。いつも手伝っているとかえってためにならないから、今回はダメだ。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

歌の授業でまた居眠りしていたことがバレたら、今度こそ父上に怒られてしまうのに……。

五郎の兄イメージ画像
五郎の兄

……。今度だけだからな。

五郎イメージ画像(笑顔)
五郎

兄上は俺の言うことを絶対に聞いてくれるって分ってた。いつも一緒にいれば、殿様の歌会でも問題ないよね。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

(兄弟仲良く、永遠に助け合って欲しかった……)

-陶のくにの人々