陶のくに風土記

海印寺(山口県周南市)

2022-10-19

入り口の写真

海印寺・基本情報

住所 周南市下上横矢 1754
電話 0834-62-0642
山号・寺号・本尊 密厳山・海印寺・釈迦如来
宗派 曹洞宗

海印寺・歴史

『都濃郡誌』では元亀年間(1570~1573)、『徳山市史』では天正年間(15731592)の創建とする。『山口県寺院沿革史』には古くは真言宗だった、とある。いずれにしても、陶氏滅亡後、大内輝弘が侵攻して来た際に焼失したため、由来を伝える文献がないという。文禄年間(1592~1596)までに、その跡地に曹洞宗寺院として再興され、開山が龍文寺第十世・海翁玄巨大和尚(慶長五年、1600、六月十五日寂)である点は同じ。中興開山・湛海了春大和尚以来、現代まで続いている。(参照:『都濃郡誌』、『徳山市史』、『山口県寺院沿革史』)

『周防国と陶氏』には「文和元年(1352)、陶弘政が父の菩提所として創建した」とある。寺号は弘賢の法名「海印寺道意」に由来する。同じく、「寛正四年(1463)の防府普明寺本尊の体内修理銘や、元亀三年(1572)の毛利輝元書状などに海印寺の名が見える」とあり、最新の研究によれば、資料が皆無ではないことがわかる。

海印寺・みどころ

十三年ごとに開帳される「五智如来」(鎌倉時代、文化財指定)と陶興昌、興明の供養塔がある。
※供養塔について、詳しくは陶興明の項目で。

山門

山門の写真

本堂

本堂の写真

陶興明&陶興昌の供養塔

供養塔の写真

境内には、陶興昌と陶興明の供養塔がある。
陶興昌は、興房の子、晴賢の兄で、亨禄二年(1529)に亡くなり、海印寺に葬られた。

五智如来(普賢、文殊、弥勒、迦葉、阿難)

海印寺の懸仏。厨子の中に納められた五躯の小さな金銅仏で、鎌倉時代の作と考えられている。

『五智如来縁起』:(宝暦十年(1760)、海印寺住職・全了記)

上村に時高利右衛門という正直者が住んでいた。神仏を信じ、上野八幡宮への日参を怠らなかった。宝永八年(1711辛卯正月二十五日に霊夢を見た。西方に紫雲がたなびき、音楽の中、五体の如来が来迎した。「吾は五智如来である。八幡大菩薩の本地で、昔は社坊の本尊であった。伽藍焼失ののち、社殿の後ろの岩間に納められていたが、長い年月を経て土中に埋もれ、今は知る人もいない。衆生済度の因縁も絶えそうである。汝の信心の力を感じて出現したのである」と告げて雲井遙かに登っていかれた。

夢から覚めると、利右衛門の信仰心はいよいよ深くなった。春の夜が明けるのを待ちかねて八幡宮に参詣し、教えられたように社殿の後ろに行って岩間を見ると、ほのかな光がぼんやりと見えた。人を集めて掘ってみると、光り輝く金色の尊像を得た。弘法大師が自ら鋳させなさったとも、行基菩薩の念仏とも言い伝える。利右衛門は歓喜のあまり恭敬して当山に移して安置した。その霊験あらたかたにして遠近の男女が崇敬したので、藩によって秘仏の沙汰があった。以来十三年に一度、藩の許可を得て開帳し、現在に至る。(参照:『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』)

※現在も、十三年に一度、巳年に開帳される。
海印寺写真集

アクセス

徳山駅からタクシーを使いました。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』、『都濃郡誌』、『周防国と陶氏』

陶氏菩提寺龍文寺山門前の記念写真
周南旅日記(陶氏ゆかりの地)

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