みやじま・えりゅしおん

浦々の神社(広島県廿日市市宮島町)

2023-06-23

厳島神社・海から見た大鳥居(3)

浦々の神社(広島県廿日市市宮島町)とは?

宮島の周囲にぐるりと鎮座する九つの厳島神社末社の総称で、杉之浦神社、包ヶ浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社、養父崎神社、山白浜神社、須屋浦神社、御床神社の合計九社をいいます。このうち、包ヶ浦神社と養父崎神社の二社を除いた七を特に「七浦七恵比寿」と呼び、そのすべてを巡った人には幸運が訪れるといわれています。

浦々に点在する末社は、かつて佐伯鞍職が神烏に導かれて浦々を巡り、市杵島姫命さまのために社殿を建てるにふさわしい場所を探したという、厳島神社創設の伝説に基づいたものです。毎年二回、この故事を再現した「御鳥喰式」の神事が行われています。神職さんにご案内いただき、すべての末社を参拝して回ることを「御島巡り」と呼びます。大元神社の社殿には、近世以来、無事に「御島巡り」を終えて戻った人々が奉納した御礼の額が、所狭しと掲げられています。

浦々の神社には、海上からしか参拝できない場所があるため、一般の観光客が「御島巡り」を再現するには、現状ふたつの方法しかありません。
一、宮島観光協会さま主催の七浦巡り観光船(年四回開催)を予約する
二、個人的に船をチャーターし、自由な日程、順番で巡る。

浦々の神社・基本情報

七浦巡りマップ

以下に、それぞれの神社の社名と御祭神を箇条書きいたします(数字は上のマップ上の位置です)。すべて、厳島神社の末社となります。

杉之浦神社 ① 底津少童命
包ヶ浦神社 塩土老翁(海幸彦、山幸彦の神話に登場する海流を司る神、塩釜神)
鷹巣浦神社 ② 底筒男命
腰少浦神社 ③ 中津少童命
青海苔浦神社 ④ 中筒男命
養父崎神社 神鳥
山白浜神社 ⑤ 表津少童命
須屋浦神社 ⑥ 表筒男命
御床神社 ⑦ 市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命

ご鎮座地とそれぞれのマップについては、下にまとめて Googlemap を添付いたします。けれども、今回に限ってはマップさえあれば、どこまでも歩いていける……とはなりません。地図に載っている = 場所さえわかれば何とか辿り着ける、というルールが適用されない箇所がありますことに、ご注意くださいませ。

包ヶ浦神社と養父崎神社を除いた ① ~ ⑦ の神社を「七浦七恵比寿」と呼びます。

浦々の神社・歴史と概観

神烏の伝説と浦々の神社

推古天皇の頃、佐伯鞍職という地元の人が釣りをしていたところ、美しい女神が姿を現しました。女神は、自身はこの地に住む神であること、己にふさわしい社殿を建ててほしいことを鞍職に頼みました。いきなりそんなこと言われても!? と驚く鞍職に、女神はすべては神烏が導いてくれるとのお言葉を授けました。鞍職が半信半疑のまま、女神さまのお住まいを建てるべき場所を探そうとしていると、お言葉通り神烏が現れました。鞍職は神烏に導かれるまま厳島の浦々を巡り、現在の社殿の場所に厳島神社を建立することになるのです。詳しくは ⇒ 関連記事:宮島の歴史

神烏に導かれて社殿を建てた、というのはあくまで「伝説」ですが、この時、鞍職が巡ったとされる浦々にはそれぞれ由緒ある神社が建てられていて、浪漫をかきたてられます。宮島に魅せられたら、浦々の神社を巡らないことには、何かをやり残している、という思いがつきまといます。けれども、浦々の神社は、文字通り「浦々」に散らばっていますので、すべてを参拝するのはきわめて困難です。

のみらず、神社によっては海上からしか参拝できないところもあり、どうしても船に乗って海路向かう必要があります。Googlemap にはすべての神社がきちんと載っており、ナビゲーションも起動できますが、目的地付近まで来ているにもかかわらず、どこにもそれらしき神社が見つからない、となるのは「海からしかいけない(見えない)」場所にあるせいです。Googlemap のナビゲーションで確認すると、本当にすぐ近くまで来れていることがわかるので、なんとももどかしいのですが、泳いでいくことはできそうにありません。何とかして船を手配する必要があります。

「御島巡り」と「御鳥喰式」

女神さまから神社の造営を頼まれた佐伯鞍職は適所を求めて宮島の浦々を廻りました。鞍職を先導したのが神烏です。この伝説に基づき、彼らが廻った浦々に建てられている神社を廻る神事を「御島巡り」と言います。

「御島巡り」では、それぞれの神社を参拝する順番も決められており、ほかにも「御鳥喰式」という重要な儀式が併せて執り行われます。伝説ですと、神烏は養父崎の沖に現われ、粢団子を咥えて鞍職の舟を先導し、脇浦(有の浦の西部) 付近で姿を消したことになっています。ですので、これにちなんで、養父崎神社で行われるのが、この「御鳥喰式」となります。

「御鳥喰式」とは?

養父崎沖の海上に弊串と粢団子を供え、祝詞を奏上し笛を奏でると、つがいの神烏が飛来します。これらの烏が、粢団子を咥えて養父崎神社に運んで行くと儀式は無事終了。これが「御鳥喰式」 です。

「御鳥喰式」を含めて、「御島巡り」の儀式は回る順番もやることも厳格に決められています。一行には神職さんが同道するし、あくまで年中行事なので(三月と九月)、島巡りの人たちも年に二回の大切な儀式のために、じゅうぶんに準備し、敬虔な気持ちで参加しておられます。そのかわり、「御島巡り」をやり終えた時の達成感は半端なく、最終目標地点の大元神社には、参加者の達成記念の額が大量に奉納されております。⇒ 関連記事:大元公園

「御島巡り」の流れ

  1. 朝一番に神職の御師船で出発
  2. 杉之浦神社 (第一拝所)・上陸してお祓い
  3. 包ヶ浦神社・御師が海上で祝詞をあげ、朝御鐉の粢団子を投じる。参拝者は舟から拝む
  4. 鷹巣浦神社 (第二拝所)・海上からの参拝
  5. 腰少浦神社 (第三拝所)・海上からの参拝
  6. 青海苔浦神社 (第四拝所)・上陸してお祓い
  7. 養父崎神社、「御鳥喰式」
  8. 山白浜神社(第五拝所)・海上からの参拝
  9. 須屋浦神社(第六拝所)・上陸して参拝、「度会」の饗膳
  10. 御床神社(第七拝所) ⇒ 網之浦で上陸
  11. 大元神社に参拝 ⇒ 厳島神社本社戻り・報賽祈祷

「御島巡り」の儀式に参加すれば、「御鳥喰式」も体験できる上、浦々の神社を見ることは可能なのでは? と思います。けれども、古式ゆかしい儀式に通りすがりの観光客が参加させていただくことは無理です(多分)。不可能かどうか正式には調べておりませんが、普通に考えて難しいでしょう。毎年決められた日程で厳かに行われるものですので、参加できるのは地元のゆかりある方々です。信仰心も薄い、無関係な他県の通りすがりの観光客が、興味半分で参加できるような行事ではありません。

じゃあ、どうすりゃいいの!? ってなりますが、神社を見たいだけなら方法はいくつかあり、何ら問題はありません。もっとも安価で安全な行き方として、宮島観光協会さまが毎年四回、浦々の神社を巡るための観光客用の船を出してくださっています。詳細についてはアクセスのところで、ご説明します。

浦々の神社・みどころ

浦々の神社はすべて末社ですので、とても小規模です。ご無礼ながら「可愛らしい」という形容がぴったりな感じです。海に浮かぶ宮殿のような厳島神社を見慣れてしまった方ですと、「ん? ナニコレ、これも神社なの?」と、いわゆる、社とか祠に近い感想を持たれる方もあるかもしれません。ですが、これらのコンパクトな神社がすべて、厳島神社にゆかりある末社であること、そこに末社の数々があるのは、神烏の伝説ゆえにであること、などなどを考えたら絶対に外せない観光資源の宝庫です。

どういうわけか、包ヶ浦神社と養父崎神社は「七浦七恵比寿」に入っていませんが、宮島桟橋からスタートし、これら二社も含めた浦々の神社すべてを順番にお参りして行きましょう。

杉之浦神社

浦々の神社・杉之浦神社

トップバッターの「杉之浦神社」は普通に大きくて立派な神社です。また、桟橋から歩いて行くこともできます(45分かかりますが……。所要時間には個人差があります)。

厳島合戦関連史跡を回っている方々でしたら、包ヶ浦自然公園の「毛利元就上陸碑」を見ないことにはどうしようもありません。となると、包ヶ浦自然公園手前にあるこの神社に参拝することはフツーに簡単です。「嘘~ここで合戦とかあったんだ~」という方々は覚悟して歩くほかないですね。ちなみに「メイプルライナー」というバスが通っておりますので、じつは歩かなくてもよかったりします。どうやら一時間に一本くらいの運行間隔であるらしく、これまで何度か歩いていて、一度もお見かけしたことがありません。

バス待ってる間に歩けちゃうやんと思うゆえ、ひたすら歩行の人です。

包ヶ浦神社

浦々の神社・包ヶ浦神社

「歩いてすべて回ろう」という夢が無残にも打ち砕かれるのがこちらの神社です。浦々の神社二つ目にして、この事実がわかりますので、かなりショックが大きいです。あるいは、ここで諦めてしまう方もおられるかと思います。初回は単に見落としたと思い、二回目丁寧に周辺を探しましたが、見つけられず。ナビゲーションの現在地は「ほど近いところ」を指しているにもかかわらずです。

じつは、海から見るとわかるのですが、包ヶ浦自然公園から本当に近いんです。だけど、どうやら陸路では来られない仕様。加えて、杉之浦神社のように道路に鎮座しているのではなく、ご覧の通りの岩の上ですので、どうやって参拝するんだろう? と思いました。船は着けられるかと思いますが、岩をよじ登らないとならなりませんよね。裏側に上るための石段があるとか、そもそもここは海上から参拝する神社なのか、未調査です。

着岸はせず、海上からの参拝となりましたが、御島巡りでも海上からの参拝となっている場所ですので、強引に近づいて攀じ登るようなことはあきらめました。

鷹巣浦神社

浦々の神社・鷹巣浦神社

「御島巡り」では海上からの参拝となる神社ですが、普通に歩いて行かれます。もちろん、桟橋から。この付近に、鷹巣砲台跡なる近現代の遺跡がございます。鷹巣砲台を見たのに神社を見落としていたので、二回目にして叶った参拝でした。これは二回目参拝時の写真(去年、2022 撮影)です。

浦々の神社・鷹巣浦神社(遠景)

こっちは今回(202306)海から上陸して撮影したもの。陸路来ていると、桟橋からここまで相当歩いていますので、すでにヘトヘト。参拝終わったら即つぎへって感じで、慌てふためいています。神社は海に向かって鎮座しているので、海上から訪問するのがごく自然です。歩いて来ると最初に視界に入るのは社殿の裏側。参拝のために、ぐるっと回ってあとは大急ぎで立ち去るという、じつに奇妙かつ無礼なことになります。

今回は眼前にお姿を拝みながら少しずつ近付いて行き、地面に生える草(海藻?)を眺める心の余裕もありました。

腰少浦神社

浦々の神社・腰少浦神社こちらも桟橋から歩いて来ることが可能です。長らく目次ページのアイキャッチに使っていただけあって、ずいぶん前にすでに参拝しています。ただ、その時は、ほかの目的地を目指していたため、遠くから拝んだだけでした。けれども、この腰少浦神社と上の鷹巣浦神社、外観がまったく同じです……。

これは写真の撮り方が悪いのですが、もう少し離れた場所から眺めると、両社は周辺の石垣もかなり異なり、区別は容易です。でも、この写真からですと、「?」となりますね。間違い探しみたいになりますが、決定的な相違点がございます。

答えは、腰少浦神社には「賽銭箱がない」こと。鷹巣浦神社のほうはしっかりとございました。

浦々の神社・腰少浦神社

やや離れた位置から見れば、賽銭箱のあるなしとは関係なく、二つの神社の区別は容易です。鷹巣浦神社のほうが台座(?)の石垣が小ぶりですし、砂浜も緑が多く、まったく趣を異にしています。

青海苔浦神社

浦々の神社・青海苔浦神社

「御島巡り」で上陸して参拝する神社です。どうやら、「上陸して参拝」するところは社殿が大きいみたいですね。包ヶ浦、鷹巣浦、腰少浦ともにお社だけでしたが、こちらは立派です。ですけど、賽銭箱がちょい遠くて(手前に柵がありました)お金を投げ入れるような無礼なことになり、しかも届くかどうか不安となりました。

浦々の神社・青海苔浦神社

ご覧のように大きな賽銭箱がございますが、手前が柵で近付けません。お賽銭は投げ込むものではなく、お入れするもの。信心深い友人などは、硬貨をそのまま投げ込むなどもってのほかである、との考えから、毎回小さなポチ袋にお包みして、丁寧に入れています。しかし、この場合、それを見習って丁寧にお入れすることは無理です。若い方々がかなり遠くから、ものの見事に「投げ込み」、やったぜ! とポーズを決めている光景は、友人からしたら無礼極まりないってなりますが、ここは無礼でも投げ込む以外ないです。器用な若者と違い、手前に落ちたら……とか、ケチなことを考えていましたが、神さまにはきちんと思いが通じたようで、しっかりと賽銭箱の中に落ちていきました。

ちなみに、この青海苔浦神社までが、歩いてこられる限界と思われます。山道を登ったり下ったりしていると、かなりの時間がかかるため、桟橋までの帰り道を考慮すると、これ以上先は歩けません。そもそも、この先は、海からしか行くことができない神社ばかりになってきますので、徒歩の方はこちらであきらめましょう。お疲れさまでした。

軍記物等によれば、陶入道が亡くなった現場はこの付近の山中ということです(付近といってもかなり遠いです)。現在入山禁止ですので(道がありません。物好きの素人が安易に近付いて行って遭難する、という事態を避けるためにとってくださっている処置です)、勝手な行動はなさらないでください。危険です。

養父崎神社

浦々の神社・養父崎神社

神烏がお祀りされているという養父崎神社です。手前の岩がすごいですよね。なぜか、ここは「七浦七恵比寿」に入りませんが、「御鳥喰式」が行われるのはこの神社前の海上ですので、きわめて重要な神社となります。ご祭神が「神烏」であるというのも珍しい。

このどこまでも続く岩だらけの海岸線に、船を着けることができるのか不明ですが、「御島巡り」でも、「御鳥喰式」が執り行われる場所、となっており、上陸地点ではありません。上の写真は望遠(スマートフォンのですが……)機能を使っているので、間近に見えますが、こんなに近くまでは行きませんでした。

浦々の神社・養父崎神社(遠景)

この辺りから、船上での参拝となりました。ゆえに、上陸できるのかどうかについては未調査です。

山白浜神社

浦々の神社・山白浜神社

『宮島本』に、「ここだけ『浜』というのは小高い丘の上だからである」とあります。「御島巡り」では海上からの参拝となる神社ですし、「丘の上」にあるがゆえに、初夏の青葉に埋もれてお姿が全く見えませんでした。船長さんが、わずかに見える神社の屋根部分を見つけてくださり、こりや上がるのはむりだなぁ……と絶望的に思えたのですが、近づいてみると、上まで上がることが可能でした。

なお、遠目に見ると、養父崎神社同様の大量の岩が手前にあります。違いはそれこそ、ちょい高台というところです。なので、青葉に埋もれると、遠目で海上からは確認できなくなります。

浦々の神社・北白浜神社

こんな岩の上にあり、下のように、緑に埋もれています。

浦々の神社・北白浜神社

でも、道はついているので、遠目は絶望的と思いましたが、上陸後は普通に参拝できました。

須屋浦神社

浦々の神社・須屋浦神社

上陸して「度会」なさる場所、ということなので、ほかの「上陸地点」同様、大きな建物でした。これだと参拝している感じがしませんので、奥まで進みますと、ちゃんときれいな社殿が現れます。

浦々の神社・須屋浦神社

御床神社

浦々の神社・御床神社

神烏のお導きで、厳島神社を建てる場所を選定できた佐伯鞍職でしたが、豪勢な神社はすぐには完成しません。そこで、神社が完成するまでの間、女神さまはこちらの神社でお過ごしになられました。立派な灯篭があるのも頷けるのは、こちらの御祭神が、女神さま(市杵島姫命)はじめ、宗像三女神であること。

なお、厳島神社の神紋はこの神社が建っている場所の岩の割れ目から考え出した、とされていますが。残念ながら、潮の満ち引きの関係で、台座の岩は海の中になっていて、割れ目を見ることはできませんでした。

浦々の神社・御床神社(脇から見た図)

これは脇から見た構図となってしまうので、じっさいに「神紋」デザイン発案の元となった割れ目とは無関係ですが、表からもこのような岩の割れ目は見えるはずですので、潮が引けば一目瞭然かと思います。

「七浦巡り」体験記

202306、梅雨の合間の晴れ渡った青空の下、地元の方のご厚意で船をチャーターして宮島一周ツアーに参加しました。何箇所か例外はありましたが、貸し切りなので好きな場所で自由に降りることが可能。なんとも贅沢な旅となりました。プライバシーに配慮し、多くは語れませんが、関係者の皆さま、本当にありがとうございました。この日のことは、生涯忘れません。

さて、単なる「七浦巡り」を飛び越えて、宮島周遊のような旅となりましたので、生涯に一度しかないであろう航海の記録を、いくつか書き残しておきます。多分に個人的な覚書なので、浦々の神社とは無関係です。いつの日か独立した項目となったら、ここのページからは消えます。

大江浦

大江浦

「大江浦」というのは、軍旗物などにたまに出てくる「地名」です。しかし、いったいどこにあるのか、それらの物語が書かれて数百年経過している現在、地元の方でも「地名」そのものをご存じではありません。普通の地元の方はもちろん、郷土史に詳しい方でもご存じないくらいなので、存在そのものが「謎」です。

そもそも「大江浦」ってどういう場所なんでしょうか? 「浦」とあることからわかるように、どこぞの海岸線付近を指すと思われます。軍記物などにどのようにして登場するか、について以下に説明します。一言で言えば、「陶晴賢が船を求めて彷徨った逃走経路の中途にある地名」です。

青海苔浦から行ける陶入道最期の地。そこに至るまで、あちこちで逃走用の船を探して彷徨い……というような話が軍記物などに出てきます。結局のところ、逃走経路がどこであったのか、亡くなったのがどこであったのかなど、わからないわけです(本人にきかない限りはね)。それを証拠に、一昔前の書物(含歴史書)には、「大江浦」まで船を探して彷徨いという記述が、必ず出ておりました。最近はその「説」が否定されたのか、あまり見かけなくなりました(古い本は古書店で探してますので、『一昔前』はミルの年齢とは無関係に本の出版年を言ってます)。

普通は上陸地点に戻るはずなので、まずは大元浦まで逃れ、そこに船がなかったのでなおも西(つまり、周防国に少しでも近いほうですね……)に進んで探します。そこが「大江浦」というところでした。つまり大江浦 = 大元浦からさらに西に行ったところ、という説明です(昔の本など)。けれども、そこにも一艘の船もなかったので、山を越えて青海苔浦まで行き、そこでなおも探したけれどやはり「ない」。もうこれ以上は……ということで、そこから最期の場所となった石碑のある辺りの山中に入っていった、と。

三浦越中守さんが平教経よろしく鬼神のようにして、敵の追跡を止めていたのが青海苔浦です。ゆえに、主が亡くなったのがその付近というのは十分わかります。ですが、「大江浦」から「青海苔浦」まで来た理由がわからない。まあ、それこそ島中一周してでも船を求めた、ってことなんでしょうけど。

現在の我々が七浦巡りは船がないと無理、と騒いでいるのと同様、船がなかった逃亡者たちからしたら、島をぐるりと一周することも容易ではなかったはずです。まあ、現在と違って、道路が舗装されていない、道がついていないことを以て「通れません」とはならない時代。木々を切り払いつつ、山中を行くことはできたと思います。でもそれでも最後は海を渡らないことには島から出ることは不可能。つまりは船が見付からないというのはもはや「絶望」のどん底なわけです。大江浦から先へ向かわなかった理由は不明です。地形的な問題か、あるいは敵の船がうじゃうじゃ見えたりしたのでしょうか。とりあえず、これ以上の西進は諦めて、ここで山中へ入ったのです。

大江浦は青海苔浦と山を隔てた向こう側という位置関係です。追いすがってきた小早川隆景らと三浦越中守さんとの間で戦闘が行なわれたのが青海苔浦だという軍記物の記述が正確だとすれば、一行は大江浦から山一つ越えて青海苔浦まで行き、そこで最後の望みをかけて船を探したということになります。けれども、非情にもそこにも船はありませんでした。追いかけてくる側はいきなり青海苔来ているみたいに読めるんですが、大江浦には誰も追いかけていかなかったんでしょうか??? というのは、地元のガイドさんはじめ、権威ある方々が一言も「大江」なんておっしゃらないか、もしくはご存じないので。でもそうにしても、大元浦から青海苔浦までも「山越え」となることにかわりはなく、結局の所、その「山越え」に至る過程で、「大江浦」なる場所に「立ち寄ったか否か」ということが問題なわけです。

図式化すると以下のようになります。

大江浦(地図)

オレンジ枠の辺りが「大野瀬戸」といわれる付近です。こちらは現在でもきちんとそこらじゅうの地図に載っております。ご覧のように、本州までの距離がもっとも短いところです。「泳いで逃げた(逃げようとした)」人々は恐らく、ここからならば、って思うでしょうね。

赤い丸印はとりあえず、ここらが「大江浦」と仮定してってことです。④ が青海苔浦神社、つまりその付近が青海苔浦ですので、「大江浦 ⇒ 青海苔浦」ルートは、そもそも「船がなかった」逃亡者たちからすると、最短距離となります。で、島のど真ん中にあります「陶さまイラスト」の辺りどこかに「最期の地」石碑が立っております(素人立ち入り禁止ゆえ、敢えて正確な位置と名前はぼかしてあります)。

いっぽう、追いかける側からすると、大元からそのまま「大江浦」まで追いすがることも、上陸地点の「包ヶ浦」付近から青海苔浦に向かうことも自由自在です。追手はそこらじゅうにいたと考えて差し支えないでしょう。浦々の神社で見て来た通り、青海苔浦までは歩いて来ることができます。その意味で、敵側も「大江浦 ⇒ 青海苔浦」と進んだと考えるのは不自然ですし、そこまで行く前に捕まっちゃってると思います。むろん、敵側には船はいくらでも用意できるので、ぐるっと周遊して探すことも可能ですけどね。

『陰徳太平記』には草履取りの小僧が自らの命を助けてくれることを条件に、毛利軍に主の最期の場所を教えるくだりがあります。その子どもからの情報がなければ、「最期の場所」はわからなかった、ということになっています。毛利軍としては、戦に大勝利したことは明らかだけれども、敵の総大将がどこに行ったのかわからないと安心できません。生きているのか死んでいるのかも不明。恐らくは厳重な包囲網を敷いているので、逃げることはできないとわかっていたはずですが、万が一ということもあり得ますし、すでにこの世にいないのだとしても、「証拠の品」がないと何とも言えません。草履取りの子どもの逸話が真実かはわかりませんが、すぐにご遺体が見付けられなかったことは恐らく本当でしょう。

だとすれば、大元 ⇒ 大江 ⇒ 青海苔の逃避行は上手いこと敵に見付からずに無事に逃げおおせていたということになりますね。船さえあればなぁ……悔しいよ、マジで(涙)。

もう一つわからないのは、「大江浦」という地名が Googlemap に載っていないことです。つまり、検索不能、ということ。Google が貴重な情報を漏らすはずがないので、よほど誰にも知られていないか、存在しない地名なのか、そのどちらかです(注・インターネット上の情報は自治体、寺社仏閣  HP 以外信用してはならないというのが、所属業界の常識ゆえ、MAP 以外の情報は調べていません。個人的には、自治体等以外にも優良なサイトは多々あり、地元発信のものなど、お宝の山と思うのですがね……。この辺り、『史料がないものは事実ではないです』って、学者業界? と似てて頭固い。まあ、フリー百科事典をコピペして作成したレポートを受け取ってくれない先生方の対応は間違ってないと思いますが。んなわけなので、じつはネット上には新旧取り混ぜあれこれの情報があるかとは思います)。

以前、宮島の詳しいガイドさんにお伺いしたところ、大江浦の話はもちろんご存じでした。なぜかなら、これからアップしますが、現地の立て看板にも載っている名前なので、「存在しない地名」ではないのです。ただし、「大江浦」に船を探しに行った説は違うと思う、と仰っておられました。そもそも不明な逃走経路。あれこれの推測があり、軍記物の記述はいくらもあれど、「史料」はなし。そんな中で、あれこれとご研究を重ねた結果、偉い先生が「ここであろう」と結論付けたのが、現在そうだとみなされている「最期の地」です。でもこれ、「最期の地」であって、逃走経路ではないので。

石碑まで造られ、そのご説がいちおうの定説として定着してのちは、みなさんそうと思われている(というか、こんなん誰もが気に掛けることじゃないよね)ため、「大元 ⇒ 青海苔 ⇒ 最期の地」という流れが定説となって、「大江浦」なる地名は消えたようです。船を探しつつ少しでも故郷に近い西へ西へと向かい、これより先は無理と諦めて途中で山中に入り、島の反対側に出た。そこが青海苔浦でした。けれども、そこにも船はなかったため、今はこう、と思い切ったのがここだったのでしょう。

古来より、武家がもはやこれまでとなったとき、最後の瞬間はちょい落ち着いて迎えたいと考えます。場合によって、そう願っても叶わないこともありますが。一同は青海苔浦からもう一度元来た道を引返して山の中に戻り、そこが最期の地となった、ってことになりますね。

ところが、『棚守房顕覚書』には以下のような記述があります。

 然る間、廿八日には、興家の警固二三百艘下る間、明る二十九日の暮にかかり、元就乗船ありて、包の浦へ船を付けて、ばくち尾へ上り給ふ、興家その外の國衆などは、博奕尾に大将の陣 に鬨の声の上りし後、をし上る、陶、弘中は一矢も射ず、西山をさして引き退る、小早川隆景は追ひ懸け給ひて、西山の峠にて、陶の内の三浦に懸け合ひ戦ひ行く、隆景の内の南の某、山縣勘次郎その 外五六人討たる、小早川殿は安穏なり、三浦越中は一所の者二十人ばかり、隆景へ打ち取られ給ふ、陶全薑はそれより下り、「大江と云ふ処」にて腹を切らせ申す、宮川市充かいしゃくす、そのきはまでは五六人ありしなり、

やっぱし「大江」って書いてあるんですよ。しかもこれだと、「最期の地」=「大江」なんです。しかし、棚守さんも「大江と云ふ処」と書いておられ、ご存じの場所ならば「云ふ処」なんて書かない気がするので、伝聞したのか、もしくは読者に亡くなったのは「大江」ってところだからね、と強調しているのか。ご自身のための「覚書」である以上、後者ではないと思われるので、「伝聞」っぽいですよね。さもなくば、あれほど『覚書』の史料的価値を高くかっている先生方が、大江浦に石碑立てないはずないし。

だったらこの「大江と云ふ処」って一体全体どこなの? てか、本当に実在する関連箇所なの? とずーーっと悩んでおりました。島の周囲をぐるっと回ったらその「大江浦」とやらも存在するのならば当然通るはずで……。ということで、今回の船旅で唯一リクエストしたのが「大江浦」というところをご存じでしたらお連れください……という一言。ほかにも内侍岩とか色々あったんですが、一生に一度の好機と知りつつ捨てました。

郷土史の先生はじめ、やっぱりみなさんご存じなかったんですが……、地図にこの地名を書き込んでしまっている本や現地立て看板などをご覧いただき、どっかにあるはずなんです(涙)、と拝み倒しました。そこまでしなくとも、皆さまとてもご親切なので、信用していいのかわからない本と自治体さま公認ともいうべき立て看板を根拠に探してくださることになりました。この辺じゃないか、ってことくらいしかわからないとおもうけど、って条件つきでしたが。しかし、途中で船長さんのお知り合いの船とすれ違い、「大江ってどこ?」「この前、○○ を釣りに行ったとこがそうだよ~」と。まさに天の声。

浦々の神社・大江浦

あらら、watermark に埋もれてしまったけど、黄枠の中に「至大江浦」って書いてあるんですよ。それから厳島神社で販売されている通称「厳島本」にも(看板と同じ地図を載せているので当たり前なんですが)。でもって、船長さんのご友人がご存じのその釣り場(?)がそうならば……ってことで、以下がそれだと思うのですが。

大江浦

この見出し冒頭のものと、これとどちらもここら辺です、ってところです。当たり前だけど何もないし、多少砂浜があるので、船着けられるかな? と思うけど、上陸はしていません。五百年近く前と現在と地形に変化ないかどうかもわかりませんが。

とりあえず、積年の「見てみたい」はこれで見たってことで。ここを通ったのかどうか、結局はよくわからないけど。ただしですよ、この場所は、大野浦の向かい側みたいなところです。大元から西へ向かったというのが本当ならここらまで来てもおかしくないし、ここらから山を越えるとちょうど青海苔浦の辺りとなるので(直線距離的には)、まんざらでもない気は致します。ただし、あくまで「最期の地」というより逃走経路の問題なので(砂浜で死ねないよね。その意味では『覚書』にある『大江』は『大江浦』とは違うのかも知れない。『浦』って書いてないし。だって、そこで亡くなったって明記してあるわけだから、人目に付く砂浜や海岸を指すとは考えにくい)、「最期の地」的にはすでに偉い研究者の先生が「ここら辺」って石碑を造ってくださった辺りで、それはもうこの目で見たのでもういいかな、と。諦め悪いというか、じつはよくわからなくて、気持ち悪いんだけど、これは日が暮れてから山に入って本人に確かめるしかない類の話なので。

陶入道イメージ画像陶入道・全薑
日が暮れてから山に入ると会える
(かも知れない)

「大江浦」について・まとめ

厳島合戦で敗れた大内方は大元浦に逃れ逃走用の船を探したが、見付からなかったので、そのまま西進して「大江浦」に向かった、しかしそこにも船はなかった……という軍記物の記述で知られる「大江浦」なる海。けれども、大江浦という地名は Googlemap にも載っておらず、どこにあるのか MAP 検索からは不明。地元の方々でもご存じの方は少ない模様。

そもそも、大内軍の敗走経路、総大将が亡くなった場所について確たる史料はないため、この「大江浦」の問題も含めて真相は闇である。

「御島巡り」逆コース

ちなみに、ミルたちの船は対岸の大野から出港。向かい側はちょうど須屋浦神社辺りでしたが、それだと御床神社が抜けてしまう、ということで、御床神社からスタートしました。「御島巡り」の方々とは真逆の行き方で巡るという、これまた得難い体験となりました。

飛行機雲帰宅後発見した「飛行機雲」。最近はすっかりみかけなくなったけど、前回山口で遊んだ時も見かけたし、なんかいいことあるかな。

あっちは岩国

対岸は岩国。おお、なんとなく見慣れたコンビナート……。そうか、こんなにも、周防国は近いんだと思うと、陶入道の逃避行を想像し、感傷的にもなる。

潜水艦

こんなお客さんも。陸上に出ていることは稀だとか。最初はここまで浮上していなかったんですが、だんだんと姿をチラ見せ。この先どうなったか、完全に海上に出たのかなどは知りません。

鷹巣砲台跡

鷹巣砲台跡

ちょっとコレは別の写真かもしれないけど、鷹巣には近現代の砲台跡があり、以前まだ公開できてないけど、高砲台を見学したことがあり、これら海から見えるのは「低砲台」とやららしい。海上からそれらしき遺跡群が目視できるのですが、写真は撮れなかったようでして、この程度となりました。

聖崎灯台

聖崎灯台

ただの石灯籠にしか見えませんが、江戸時代に建てられた「灯台」です。『宮島本』によれば、この付近は浅瀬で危険なので、暗くなってからここを通る船に注意喚起するためのものだったようです。昔は地元の方々が毎晩火を点していましたが、現在は「太陽発電」だそうです。便利な世の中になりました。

なお、聖崎灯台付近に「蓬莱岩」と呼ばれる奇岩があります。『宮島本』に載っている写真と見比べてみましたが、何となく違うようなそうであるような気もしますので、「未確定」情報としてそれらしき岩を載せておきます。

蓬莱岩かもしれない岩

女神さまがおられる辺りの岩がそうではなかろうかと思うのですが、はっきりしません。もう少し大きな写真もあるのですが、不確かな情報を公開できないので。岩なので見る方角などによってかたちも違いますから、公式アナウンスの写真と微妙に違っていても地理的にそれらしければ正しい気はします。けれども、地元の方に確認することを忘れたので、次回の宿題とします。

海からくぐる大鳥居

厳島神社・海から見た大鳥居(3)

海から大鳥居をくぐるイベントはわりと頻繁に行なわれており、船も出ていますので、特に珍しくはないかも。ですが、貸切り船で行くとなるとその爽快感は格別なものがあります。

厳島神社・海から見た大鳥居(2)

厳島神社・海から見た大鳥居(1)

あまりの美しさにシャッターを切ることを忘れるまま、船はあっと言う間に鳥居をくぐり抜けていきました。本当に素晴らしい光景はスマートフォンの下手くそな写真ではなく、それぞれの胸の内に、しっかりと収めました。

浦々の神社(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

※ Googlemap 様では「所在地」はどれも廿日市市宮島町になってます。仮に住所が定まっていたとしても、なんのメリットもないので、ご鎮座地は「宮島」島内ということでご了承くださいませ。

MAP を分けて載せたところで、今回に限ってはほとんど意味はないのですが……。理由:船で行くのなら船長さまにお任せ。歩いて行けるところはなし。※青海苔浦神社までは徒歩で行くことも可能です(ただし『包ヶ浦神社』を除く)ので、そのお役には立つはずです。

アクセス

すべての神社を巡るには、現状三つの方法しかありません。

一、「御鳥喰式」神事に参加する
二、自らの船を操縦するか、もしくは個人で船をチャーターする
三、宮島観光協会さまが行なっている七浦巡りの企画に参加する

このうち、一と二については、条件に見合った方しか無理な話となります。一は諦めるとして、二と三についてご案内するとともに、歩いて行ける神社についても記しておきます。

個人で船を準備する

個人で船をチャーターした場合、すさまじい金額となります。島を一周すると言っても、時間的にはあっと言う間(一時間半から二時間程度)なので、そのために財産を傾けてもいいのか!? というお話です。ただし、感じ方には個人差があり、もしくは大金持ちの方でしたら、何ら問題はないでしょう。

それから、これは神頼みとなりますが、地元の心優しい方との運命的な出逢いがあった場合、船に乗せていただけることがあります。最初からそれを目的として、船着き場の人にサービスをしまくるような下心をもった人では絶対に成功しません。迷惑なのでやめましょう。

宮島観光協会さまの企画に応募する

202306 現在、宮島観光協会さまでは、年四回(四月、五月、九月、十月)七浦巡りのために船を出してくださっています。費用も 3000 円と格安です。問題は定員が毎回 40 名と少ないこと。これ以上多くてもたいへんなので、人数的にちょうどいいのですが、申し込みは「先着順」であるため、希望通りに行かないことがある、という点が大問題です。申し込み方法は「電話」となります。要は早い者勝ちなので、観光協会ホームページをマメにチェックしておき、申し込み受付日の朝一番で電話をかけることです。

早い者勝ちで申し込みが叶えば、何ら問題はなく、あとは楽しみに当日を待つだけです。しかし、いくつか問題点があるので、ご注意ください。四月、五月、九月、十月は九月以外旅行の繁忙期です。特に四月と五月はゴールデンウィークに照準をあわせていたりすると再繁忙期ですので、旅行代金が高騰します(九月も恐らくは連休にあわせて日程がくまれると思われるため、繁忙期となる可能性大です)。また、宿泊施設が望み通り予約できるかどうかも微妙となります。

先に宿泊施設を予約し、船の申し込みが叶ったら出発、ダメなときは次回に繰り越しということが可能かどうか、事前に宿泊施設の問題も考えておいてください。特に GW はたとえ一年前であっても、宿泊施設が埋まっていることがありますので、その場合旅行会社経由となり、申し込みがいっぱいでダメであった……となってからキャンセル料金なしで取り消せれるうちに予約しておく必要があります。でも、観光協会の船が何日に出るのかは、一年前にはわかりませんから、このあたり極めて微妙なところです。実際、申し込みしてから宿泊施設と思いましたら、とっくに満室となっていて、そもそも泊まるところがないので、観光協会の船は諦めざるを得ませんでした。

徒歩で回れるところだけみて満足する

船のチャーターなんてとんでもないし、観光協会の船も予約が面倒。見たところどれも似たような神社だし、半分くらい見れたらじゅうぶん。というのであれば、杉之浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社の四社は簡単です。いずれも桟橋から歩いて行くことができます。腰少浦神社までは車道もついていますので、なんならばタクシーで行くことも可能です。

腰少浦神社 ⇒ 青海苔浦神社は、車道がついておらず、山道となりますので、方向音痴の方にはおすすめできません。また、腰少浦神社までは車道がついているゆえ、万人にとって安全とは申せ、これもじつは、あまりおすすめできません。理由は歩いたら恐ろしく時間がかかるからです。杉之浦神社の時点ですでに相当の距離を歩いていることになります。つまり「歩くのが嫌い」な方にとっては単なる苦行にしかなりません。

行った先にあるものがなんであり、それがどれほど見たいものであるか、が重要です。これらの神社を見るためにかかる数時間があれば、桟橋から近いほかの観光資源を大量に見ることができます。浦々のすべての神社において共通ですが、行く人を選ぶ観光資源といえます。

参考文献:『宮島本』、『棚守房顕覚書』、『陰徳太平記』ほか「軍記物」「歴史書」多数(出典忘れ)、宮島観光協会さま HP
今回の夢のような航海は、いつもお世話になっている廿日市の郷土史の先生、ご親戚の船長さんのご厚意なくしては叶わなかった奇蹟です。この場を借りて心より御礼申し上げます。

浦々の神社(廿日市市宮島町)について:まとめ&感想

浦々の神社(宮島)・まとめ

  1. 佐伯鞍職が、市杵島姫命に頼まれて女神のために社殿を創設した際、どこに建てるのがよいかと宮島の浦々で、相応しい土地を探した。その際に立ち寄ったとされる場所には、厳島神社の末社が建てられている
  2. 浦々の末社は全部で九社あり、養父崎神社と包ヶ浦神社を除いた七社を「七浦七恵比須」と呼ぶ
  3. 鞍職が現在の地に社殿を建てたのは、女神から派遣された「神烏」の導きによるもの。現在浦々の神社が建っている場所も、烏に先導されて通った。この「神烏の伝説」に基づいて、現在も養父崎神社の沖にて、年二回の「御鳥喰式」神事が執り行われている
  4. 人々がご神職とともに、浦々の神社を順番に巡ることを「御島巡り」という。近世以来、「七浦七恵比須」をすべて巡った人々には幸運が訪れるとされ、多くの人々がこの行事に参加した。その証となる「御島巡り達成」のお礼の額は今も大元神社社殿に掲げられている
  5. 現在も七浦巡りはもちろん可能。ただし、現実問題として、宮島を一周しなくてはならないこと、陸地からは到達できない場所もあること、などからすべての神社を巡るのは船を使わないと不可能
  6. それでも絶対に七浦巡りを決行したい人は、自ら(もしくは友人知人にお願いをする)船を操るか、チャーターする必要があり、資格を取り船を所有することは現実的ではなく、チャーターはとてつもなくリッチな旅となるため、貧乏人には不可能
  7. なおも諦めきれない人たちのために、宮島観光協会が年四回、七浦巡りの観光船を企画しているが、人数に制限もあり、とても人気があるツアーなので、参加できるか否かは「狭き門」

浦々の神社すべてを回ることと、陶さまが立ち寄ったと書いてある「大江浦」なる海に行ってみることは、宮島で何としてでもやり遂げたいと思っていたことでした。今回これらすべての願いが叶い、感無量です。

初めて宮島に来た時、桟橋の観光案内所で髙安原(= 陶入道最期の地)に行きたいのですが……とお伺いしたところ、「あそこへは行けません」とのお言葉。現在と違い、手当たり次第ネット上の記事を信用していた頃でしたので、それらの「行ってきました~」の方々の記事が十年前だったりすることに気付かなかったのです。本来ならば、十年前の記事にはその旨明記し、現在は行けなくなっていることを記すなどのメンテナンスが必須ですが、個人の方々の旅日記にそこまでの強制はできません。「信用してはならない」と冷たく言い放たれるゆえんはそこにあります。現在は旅日記をつける趣味にも飽きてしまわれ、十年前の日付のまま放置となっている場合は何の罪もないのですが、中には広告収入目当てなどで、「最新の記事」に見せるため、日付だけは更新し中身はそのままという(それって検索エンジンに普通に見抜かれるのではないかと思いますが……)不届き者もいるかもしれません。匿名の空間ですから、「ネットでそう書いてあったから行ってみたのに違ってた」とか苦情言ったところで、「そんなものを信じるあなたがいけない」で終わりです。

まあ、そんなことで、「現在は行けなくなっている」場所が、ネット上だと普通に行けるように見えるわけです。愚かゆえ、何度もそのような事態に遭遇し「なんで?」となったら、「数年前の台風で流されました」とか、普通にありました(つまり、台風で流される前の記事を信じて出かけている)。偉そうにネット上の記事を馬鹿にしてお前はナニサマのつもりだ!? という皆さまのお怒りに対するお答えがこれらです。そもそも良識ある知的な大人はネット検索などしないもの。大金を払ってウエブ史料サイト(ナントカナレッジとか)を契約したり、有料新聞記事サイトなどを購読なさっているそうです。お金がないので、普通に無料検索をしていますし、仕事関係以外ならネット上の口コミだけですませても何ら問題ない、って思っていますが。

話を戻しますと、「あそこへは行けません」となったのち、仕方ないのでロープウエイで弥山の頂上に行き、ぼんやりとしていた時、偶然にも行き逢ったのが彼の地に行く道をご存じの方でした。お願いして特別にお連れいただいたのは言うまでもありません。そのごも、地元の親切な方々との交流は続き(おひとりではないのですよ)、「観光協会の船予約しようと思ったらホテルが満室で、そもそも行けなかった~」とか愚痴っていたら、なんと船の免許をお持ちの方がおられました。

これまで宝くじひとつ当たったことはないのに、やりたくない学級委員あみだくじなどには当たりまくり、何ともついていない人生だなぁと毎日が不幸でした。なのに、ここに来て、なにゆえにか陶さまがらみでは、天からの贈物としか思えないような幸運が続きます。どれも宮島関係なので、これって厳島関連で先祖が与えてくれたご縁だろう(『史料持ってない』ので、本当かどうか知らないけど平家の下っ端の子孫みたいです)って思います。

大江浦見て、浦々の神社見たら、この世に思い残すことはもうないみたいで。この先何に期待して生きていくかなぁ……とちょっぴり放心状態です。不眠症で通っている心療内科の先生曰く、煩悩は尽きることがないからね~。また新たにどこぞの山城跡行く~とか言い出すよ、きっと。そうだろうなぁとは思うんですけど、まずは国家試験に通らないことには来年はどこにも行かないと願かけしているので、恐らく来年はずっと県内で大人しくしてることになりそうだなぁ。同じ先生に、大学受験で偏差値的に十分過ぎるほど足りてたのになぜか落ちた大学が試験会場に割り当てられたら嫌だという話をしていたら、「会場ってそんなにあるんだねぇ」としみじみ。「東京とか広島とか大都市だけですが……」とお話ししたら「まさか、受験会場広島にしたりしてないだろうね?」と。あああ、広島にしておけばよかった……。

こんな方におすすめ

  • とにかく宮島、厳島神社が大好き。ほかは何も要らないです
  • もはや宮島で見ていないところはないほど見尽くしたリピーター。でも七浦巡りだけはできていない

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

ミルイメージ画像(涙)
ミル

もはや感動の余り涙しかありません……。船長さん、本当にありがとうございました。ミルたちはこの日を生涯忘れません。

五郎イメージ画像(笑顔)
五郎

俺も絶対に忘れないよ。宮島を一周できたことは生涯の宝物だね。カッコいい船長さんと、超ハイテクな高速艇みたいなお船。一生忘れないよ。郷土史の先生、船長さん、本当にありがとうございました。

鶴ちゃんイメージ画像
鶴ちゃん

(常のように、嫌味の一つでも言ってやりたいが羨ましすぎて言葉が見付からない)

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

五郎とミル(サイトのキャラクター)が広島県内を観光した旅日記総合案内所(要するに目次ページです)。「みやじまえりゅしおん」(宮島観光日誌)、「はつかいち町歩き」(廿日市とたまに広島市内の観光日誌)内それぞれの記事へのリンクが貼ってあります。

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-みやじま・えりゅしおん
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