みやじま・えりゅしおん

清盛神社(廿日市市宮島町)

2023-04-26

清盛神社・鳥居と拝殿
清盛神社前にて

広島県廿日市市宮島町の清盛神社とは?

清盛神社は、厳島神社の末社です。名前の通り、平清盛公をお祀りしています。もともと、清盛公は安徳天皇、二位の尼とご一緒に、三翁神社にお祀りされていました。けれども、没後七百七十年の節目にあたる、昭和二十七年 (1952)にその功績を称えようということになり、二年後に創建されました。つまり、建物的には比較的新しい神社となります。

平清盛公は厳島神社とゆかりの深い人物であり、このお方がおられなければ現在のような厳島神社は存在していなかったかも知れません。その意味で、地元の方々に崇敬されており、神格化されたものと思われます。

清盛神社・基本情報

ご鎮座地 〒739-0588 廿日市市宮島町 28−1
御祭神 平清盛公
例祭 三月二十日
社殿 一間社流造り、桧皮葺き、丹塗
主な建物 鳥居、灯籠

今回ご紹介する清盛神社の所在地を地図で示すと、以下の通りです。緑の枠で囲みました。緑の直線は「西の松原」のおよその位置です。

清盛神社(所在地地図)

清盛神社・歴史

昭和二十七年 (1952)、もともと三翁神社に祀られていた平清盛の御霊を現在地に遷し、建立しました。詳細については、現地のご由緒看板に明記されています。

「清盛神社
御祭神 平清盛公
例祭日 三月二十日
御由緒 平清盛公の没後七百七十年を期に御遺徳を顕彰しようとの気運が高まり昭和二十九年に創建された」
(由緒看板)

つまりは、創建は昭和二十九年なので、没後七百七十年 = 昭和二十七年ではありません。節目の年に、神社を造ろう! って話が持ち上がり、いつ着手したかは書いていませんが、完成したのは二年後だった、ということになろうかと思います。由緒看板を拝見すると、没後七百七十年に造ろうってことになって、その年のうちにできたんだろうか? それが昭和二十九年ってこと? となりますが、「気運が高ま」ったのが、七百七十年であり、完成するまでにはちょい時間がかかった、というのが正解となります(年代については『宮島本』にて確認済み)。

平清盛と厳島神社

朱の大鳥居と海に浮かぶ麗しい社殿。まるで目の前に現われた天上世界の宮殿のよう(つーか、海に浮かんでいるがゆえに、天上世界というよりも、海の中にも都はあるって感じだけど)。この世のものとも思われぬ厳島神社の美しいお姿は、今なお現在進行中で修繕を繰り返しつつも、基本的には平安時代に、平清盛が建立した当時の姿といわれています。

つまりは、平清盛なくして、厳島神社もなかったわけで。その意味で宮島のお父さんみたいなお方です。清盛は自らが創り出したこの麗しい社殿を愛してやまず、清盛のみならず、平家一門ゆかりの神社として多くの関係者が厳島神社を訪れました。

中には清盛に気に入られたいがために、わざわざ厳島神社に参詣する人などもいたりしましたが、いかなる理由であれ、ひたすら喜ばれ、重く取り立てられてしまったりしたのでした(例:巻三『徳大寺之沙汰』)。

平清盛が一天四海を掌におさめるまでのスピードがあまりにも早過ぎたため、尋常ならざるものを感じた人々は、清盛は平忠盛(清盛の父)の子ではなく、白河上皇の落とし胤だ、などという逸話までも生まれたくらいです(巻六『祇園女御』)。けれども、平家一門があれよあれよと言う間に天下の実権を握ったのも束の間、転落するまでの時間も超高速。その栄華もすべては夢の中の出来事みたいでした。

清盛亡き後、平家一門の没落後も、宮島も厳島神社も繁栄を続け、長い長い歴史の中では、清盛一族と関わっていた時間などほんのわずかな期間にすぎないとも言えます。けれども、この人が、現在ある厳島神社を造った、という事実は消えません。それゆえにか、宮島に上陸してすぐの桟橋前広場には平清盛の銅像があり、人々は神社まで造って清盛の功績を称えているのです。

清盛の妻・平時子

弥山・本堂「顔出し看板」

弥山の本堂前に顔出し看板があるのをご存じでしょうか? コレ、あるってことはわかってましたが、よく見るとなんと、平清盛と二位の尼(平時子)なんですよね。お二人がご夫婦だということを知らない方はおられないと思います。確かに夫婦仲が悪かったなんて話はきいたことがないですけど、ラブラブカップルの聖地にある顔出し看板イラストに清盛夫妻が描かれていたなんて気が付かなかった……。これって、このお二人みたいに生涯愛し合ってね♡ って意味だと思うのですけど。そんな理想の夫婦像だったんでしょうかね。

五郎イメージ画像
五郎

清盛夫妻は知らないけどさ、お祖父さまとお祖母さま、父上と母上みたいに、一緒に火を灯せば、俺とミルもこんな感じに……。

弥山本堂「顔出し看板」

鶴ちゃんイメージ画像(怒)
鶴ちゃん

何度も同じ事を言わせるな。お前、趣味が悪いぞ。

五郎イメージ画像(怒)
五郎

ちっ、世話係もいない身分の流れ者に、世話係の大切さがわかってたまるか。

平時子は清盛と結婚したから平姓になったのではなく、元々平時子でした。つまり、同じ平氏で、二人は親戚関係にあったのです。誰もが知っている「平家一門でない人は人じゃない」なんて豪語した平時忠という人は時子の兄です(巻一『禿髪』)。さらには、妹は建春門院、つまり後白河上皇の奥方さま。しかもお二人はそれこそ相思相愛の夫婦で、高倉天皇は建春門院からお生まれになった皇子でした。つまりは、清盛が娘・建礼門院(平徳子)を中宮にした高倉天皇は娘婿であると同時に、妻・時子の甥であるともいうことに。徳子と高倉天皇とも母方の従姉弟どうしとなりますね。

こうしてみてくると、後白河上皇と平清盛は妻、息子、嫁を通じて何重にも深い縁で結ばれていたということになります。そもそもは上皇と清盛の関係も最初はさほど険悪ではなかったはず。それがなにゆえにのちの悲劇を呼び寄せたのか、政治の世界、権力の世界ってのは、本当に複雑怪奇で理解に苦しみますね。

平時子は、清盛の死後、二位の尼として安徳天皇を抱いて壇ノ浦で入水しました。その毅然とした態度は神々しいほど(巻十一『先帝身投』)。安徳天皇の亡骸は下関の赤間神宮があるところに流れ着いたのに、二位の尼は遙かに宮島にまで流されてきました。ここが、平家一門ゆかりの厳島神社がある島だと考えたとき、とても偶然とは思えないものを感じました。

清盛と小松大臣

清盛には大勢の息子や娘がいました。それぞれに個性的で、それぞれにあれこれの逸話がありますが、中でも嫡男・重盛は『平家物語』の中で絶賛されています。嫡男というポジションにあったゆえにか、この人は常に一門の将来を考え、冷静沈着に行動します。ことに、清盛と後白河上皇とが不仲になっていく状況を好ましくないと考え、何度も父を諫めて軌道修正を試みました。

最終的に、清盛は後白河上皇を鳥羽殿に押し込めて政治の実権を握りますが(参考書にも書いてあるレベルの話です)、そこに至るまで、何度も一触即発の事態になったのを重盛が押し留めてきたのです。重盛にとっては、上皇は「君」、清盛は「父」です。どちらも何よりも大切な存在ですが、「君」への忠義を貫くことで、「父」をも守ろうとしたんだと思います。人々の平家に対する怨嗟の声が高まるにつれ、もはや一門の将来は保てないのではないかと感じた重盛は熊野詣に出かけます。このまま一門が滅んでしまうようなことになるのなら、いっそ自らの命を縮めて欲しい(滅び行くさまを見たくはないので)との願かけののち、病にかかり亡くなってしまいます。

上皇との仲を取り持とうと必死になっていた重盛が亡くなると、重しのなくなった清盛はついに上皇を幽閉するという大それた行動を実行に移してしまいました。その後の流れは教科書通りです。重盛の死後、弟の宗盛が跡継みたいな雰囲気となりますが、凡庸で今ひとつの人物として描かれており、ますますもって重盛の人となりが絶賛されるのでした(あくまで『平家物語』)。

重盛の息子たちが花も霞むようなイケメンだらけで、源氏の荒武者どもが活躍する場面を見ても何も感動できない乙女心を虜にしてやまないのですが、ことに嫡孫にあたる平維盛は美男の代名詞みたいなお方です。のみならず、一ノ谷をも生き抜いたにもかかわらず、一門から離れて密かに高野山へ向かい出家したのち、世をはかなんで熊野で入水してしまいます。まあ、どっち道、皆さん壇ノ浦で入水しちゃうわけですけど、そこまで付き合いきれなくなっちゃったんですね。見目かたち麗しいだけでなく、御心もなんとも繊細なお方です。

陶興昌イメージ画像(平安貴族風)

五郎イメージ画像(怒)
五郎

コレ、平維盛とやらではなく、「平安貴族風コスプレ」の俺の兄上イラストだから……。

ちなみに、重盛は時子が生んだ息子ではありません。「嫡男」となっていることから、その生母が正妻なのかな、とも考えましたが、お母上についての記述は『平家物語』にはなく、どのようなお方なのかよくわかりません。単に「長男」ってことなのかな、と。なお、重盛を「小松大臣」と呼びますが、それはお屋敷が「小松」というところにあったゆえにです。じつは大臣というのはひとりではありません。大臣ともなればそう大勢はいないでしょうが、単に「大臣」だけだと誰だかわからなくなります。ゆえに、姓をつけて「平大臣」と言ったり、住んでいる地名から「小松大臣」とか呼んで区別してたみたいです。

宮島には平重盛と後白河上皇のお手植えの松があります(後述)。

清盛神社・みどころ

昭和時代の創建なので、建物そのものにはあまり歴史がなく、重要文化財指定を受けたりはしていません。現代の高度な技術を駆使して造られた立派な社殿です。

御祭神は平清盛だけで、二位の尼と安徳天皇は三翁神社におられます。心優しい地元の方が、なんで相殿にしないのかな、と仰っておられました。清盛はそれだけ突出している、ってことで一柱なんですかね。

なお、清盛神社が鎮座している「西松原」は、厳島神社のお姿を仰ぎ見るのに絶好の展望良好スポットの一つとして有名なところです。

清盛神社だけだと寂しいですので(つーか文字数足りませんので)、ほかにも清盛や『平家物語』ゆかりの人々にかかわる史跡をいくつか、あわせてご紹介します。

清盛神社拝殿

清盛神社・社殿

清盛神社・社殿(脇から見た図)

尊敬するベテランガイドさんが、神社建築のいろはを色々とご教授くださったのに、光の早さで頭から抜け落ちてしまいました。帰宅するまでも記憶が持続しないという悲しさ。確か横から見ると、あれこれ細かい建築様式がわかるような……。県内の楼拝殿造りだと、常に脇から見て、拝殿と本殿の接続を確認しますが、宮島にある神社の社殿、ことに摂社・末社の場合は、とくに接続してないしなぁ……。『宮島本』にも取り立てて建築様式の特徴については記述がありませんでした。

附・西松原

西の松原には名前のとおり大量の松の木が植えられています。松の木と一緒にずらっと並んだ大量の石灯籠は、日が暮れると明かりが点され、じつに美しい光景となります。それだけでも、風情がある道ですが、この通りの自慢はここからみた厳島神社の社殿がたいへん美しいことです。こんな具合に、遮るものがない通り沿いに、水に浮かぶ神社のお姿を見ることができます。

清盛神社・西の松原

もう少し近付いて見ると……。五重塔と千畳閣もよく見えます。社殿のお姿もよりわかりやすくなりますが、これ以上近付くと参詣者の方々が写り込んでしまいます。厳島神社はどこも、写真を撮るために行列ができるほどで、皆さんスマートフォン片手に歓声を上げておられます。けれどもほかの方々のお姿を入れずに記念撮影という余裕はどなたにもなく、皆さま妥協しておられます。でも、このくらい離れていると、仮に写り込んでしまっても判別不能なので安心です(それでも念のため一部隠しておりますが)。

清盛神社・西の松原2

長い道なので、少しずつ場所を変えて、色々なところから撮影してみるのがいいと思います。ただし、当然のことながら、絶好の撮影スポットであるこの場所も、人々で溢れております……。

もちろん、向きを変えれば、大鳥居のお姿を見ることもできますよ。

清盛神社・西の松原からみた大鳥居

いまでこそ厳島神社を見るための展望スポットとなっている西松原ですが、中世には存在しませんでした。現在の大願寺がある付近は「熊毛の洲」(『宮島本』)という砂が堆積した地形だったそうです。天文十年(1541)、紅葉谷川からの土石流で厳島神社が大損害を被った話はどこかでしましたけど、今後はそのようは被害が起らないように、と人々はあれこれ知恵を絞って「堤防」を造りました。

紅葉谷川って、ホント恐ろしい川なんですね……。綺麗な流れからはとうてい想像できません。現代になってからも、台風でまたしても土石流ってことになり、庭園砂防が築かれたことは、天文十年に比べたら、記憶に新しい出来事です。

さて、天文年間の社殿修繕工事にあたり、流れてきた土砂を使って堤防を造りました。でもって、もうこっちに来るなよって、紅葉谷川の流れを変えてしまったんです。現在、神社の近くを流れている御手洗川はそうやって出来上がったいわば人口の川です。けれども、なおも「御手洗川の土石流」とやらも起ったようでして、江戸時代にはその際に蓄積した土砂でさらに堤防が造られました。このようにして、埋め立てが進み、次第に長くなった堤防の両端には松の木が植えられたり、灯籠が置かれたりして、だんだんと現在の「西松原」の姿が形成されていったのです。

西の松原

清盛神社はこの、西の松原をずっと進んで行った先に位置しています。

附・清盛塚「経の尾」

清盛塚「経の尾」

平清盛が法華経を刻んで埋めたといわれる石塔です。詳しくはコチラをご覧ください。

清盛塚(広島県廿日市市宮島町) 平清盛が一字一句法華経を石に刻んで埋めたとされる経塚
清盛塚(広島県廿日市市宮島町) 平清盛が一字一句法華経を石に刻んで埋めたとされる経塚

宮島にある平清盛の「経塚」です。「法華経」の一字一句を石に刻んだといわれています。見ることができるのは、塚だけです。民俗資料館から水族館に至る道の途中にありますが、案内標識などがないため、場所はややわ ...

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附・後白河法皇御手植えの松

後白河法皇御手植えの松

平家一門と因縁深い後白河上皇(出家して法王)が厳島神社を訪れた際に自ら植えたとされる「お手植えの松」と伝えられる松の木です。『宮島本』では「地名と伝説」の項目で紹介されており、史料による典拠はない模様です。ホンモノかどうかなど分らないと言えばわからないのですが、きっとホンモノだと思います。

少なくともとんでもなく太い松の木であったことは間違いなく、後白河上皇の時代からあったというのは事実でしょう。残念なことに明治時代に切り倒されてしまったそうで(理由は不明です)、現在その一部分が厳島神社傍らにあります。

「後白河法王御行幸松
承安四年(一一七四)後白河法皇が参詣された折、お手植えされた松の遺木である
明治初期に切り倒された」(説明看板)

附・小松内府平重盛御手植えの松

小松内府平重盛御手植えの松

後白河法皇のものと同様、明治時代に切り倒されてしまった松の古木の一部分です。こちらは清盛の嫡男・重盛が大願寺の境内に植えたものだといわれています。現在も大願寺境内に保存されております。現地の説明看板には、重盛がこの松を植えた理由まできちんと書かれています。

「小松内大臣平重盛公御手植え松
重盛公(清盛公長男)厳島弁財天の神徳霊験に感服し国家安泰家門隆盛祈願の為参籠の際に境内にお手植になられた老松」(説明看板)

附・二位殿灯籠

有之浦「二位殿灯籠」

「有の浦」のところでご案内済みです。そちらをご覧くださいませ。⇒ 関連記事:有の浦

附・平宗盛寄進の梵鐘

かつて、平宗盛が弥山の本堂に鐘を寄進し、鐘楼があったとかで、現在もその「跡地」が残っているそうです。残念ながら、跡地の確認はできておりませんが、その時に寄進された鐘は、国指定重要文化財として保管されています。弥山の本堂に置かれているので、誰でも見ることができます。

鐘の写真をご覧いただきたく、国指定重要文化財データベースを調べたのですが、残念ながら写真は載っていませんでした。所有者が非公開にしているケースと、単純にデータ整理が間に合っていないケースとが考えられます。後者であれば、いずれ写真が添付されることと思われますので、URL は貼っておきます。

これが清盛や小松大臣(のご子息方)が寄進したものであるならば、途端に興味津々ですが、あーー、壇ノ浦で飛び込めなかった人だ……と思うと文化財の価値も半減。しかし、ほかの様々な文芸作品同様、『平家物語』の平宗盛像も造られたものであるかもしれませんので、単純に判断するのは危険ですね。

名称 : 梵鐘
種別 : 工芸品
国 : 日本
時代 : 平安
指定番号(登録番号) : 02419
枝番 : 00
国宝・重文区分 : 重要文化財
重文指定年月日 : 1977.06.11(昭和52.06.11)
所在都道府県 : 広島県
所有者名 : 大聖院
解説文:
 広島県宮島弥山【みせん】の頂上にある梵鐘である。撞座およびその位置、龍頭【りゆうず】の製作・形式は平安時代の特色を示している。治承元年右大将平宗盛の後刻銘がある。
出典:国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/7168

清盛神社(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

ご鎮座地 〒739-0588 廿日市市宮島町 28−1

アクセス

桟橋からはかなり奥まっており、厳島神社入り口からもちょいあります。神社の参詣を終えて、出口から右手の方角にあります。「西松原」を真っ直ぐ行くだけなんですが、地図がわかりづらくて説明しにくいです(どれが道なのかわからない)。宮島ではもはや、ほとんど感覚で動いているので、説明してくださいというのが至難の業。

急いでいる人にとっては迷惑な指摘になってしまうかもしれませんが、大元公園を見終わってから行くのがいいと考えています。大元公園向かいにある宮島水族館前の道から、清盛神社のある道へ渡る橋が架かっています。絶対に迷いません。ほかにも行き方はいくらでもあるのですが、今現地を離れている状態で地図を見ていても思いつかないので、次回確認します。

清盛神社(廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想

清盛神社(宮島)・まとめ

  1. 平清盛を顕彰するために、没後七百七十年に神社を建設することを決めた
  2. それから二年後、昭和二十九年に創建された
  3. 平清盛は元々、妻・時子、孫・安徳天皇とともに、三翁神社に祀られていたが、現在は清盛神社に遷っている
  4. 宮島には平清盛はじめ、平家一門にかかわる言い伝えが多く、小松大臣お手植えの松、後白河法皇お手植えの松、平宗盛寄進の梵鐘などなどゆかりの品であるとされている観光資源も大量にある
  5. 好むと好まざるとにかかわらず、宮島に来るのならば、平家一門について思いを馳せることをしなくてはならない(むろん、まったく無視したとしても、何ということもないが、世の中、知らないより知っていたほうが楽しめるという例は数え切れない)

宮島に取り憑かれたみたいになって数年。通うこと五回となりました。すでに六回目の予約も入っています。

平清盛とその一門に憧れる人が、その偉大な業績と華やかなりし時を偲ぶために厳島神社を訪れたり、その他の関連箇所を巡るか、あるいは、終焉の地である壇ノ浦で涙に咽ぶか、いずれを重視するかはおひとりおひとり違うと思います(たぶん、両方やるんだろうと想像するけど)。己の場合はどうやら後者でした。死んだ場所何度も訪れて何が楽しいん? って不審に思われる方多数と推測しますが、その理由は自分でもわかりません。けど、地元には悲しいくらい何もないのです。最期を看取ってくれた島と供養してくれている寺院、何もかもがココ、安芸国にあるんです。

よく、大内義隆が公家化して自滅したことについて、『平家物語』の世界観と比較してとらえるのは誤り(盛者必衰の思想? に傾きすぎているとか仰りたいのでしょうか? それとも、平家一門は公家化して自滅した、一緒にしないで欲しいという意味ですか?)。武家が文芸に傾倒していったのは自然の流れであり、高い官職に憧れていったことも含めて、そこらじゅうの武家皆がそうだったのであり云々とか、武士の地位が相対的に高くなり、文化水準も上がったので雅な文化に憧れるのは当然の流れ云々とかあれこれ怒っている研究者の先生がおられるのですが……。武士が文芸に目覚め、貪欲にそれを吸収していったことは、参考書レベルの知識なのでいくらなんでも知ってます。大内本家は他家に先んじてそれを始めたゆえに、最先端を行ってたってことも。ですけど、そういう歴史の流れと、凡庸な人物の生き死にの問題はまるで別物です。むしろ、勝手に自滅したような人間を『平家物語』の世界観と一緒にして欲しくないです。

平家一門は京にあって、天皇の外戚となることによって一天四海をたなごころのうちにおさめたわけですが、これはもう、かつての摂関家のやり方と同じです。けれども、それをもって武士であることをやめたわけではなく、源平合戦では華々しく活躍した方もおられたわけですけど、どっかのその人は、「完全に武士であることをやめて」おり、家臣の叛乱に遭って、ただひたすら「逃げ」「逃げ切れずに自滅した」だけですから、その意味では『平家物語』とは次元が違います。

また、スケールの小ささも平清盛やその一門にはまるでかないません。当人はどう思っていたか知りませんが、「文でもなく武でもなく」と『陰徳太平記』でも馬鹿にされ、著名な文芸関係研究者の先生も例の人の「文」はイマイチのようなことを仰っておられました。財力に任せて最高水準の文化人を招いたってだけで、自身のレベルはいたって「並」だったわけです。

平家の公達は、まさに王朝人さながらで、『平家物語』の中にも歌人としての才能、歌舞音曲の才能などについて言及されている方が多数おられます。これらについては、『建礼門院右京大夫集』を読むとよりリアルでして、あああ、光源氏や頭中将の世界だわ……と思います。武人である以上、そこまでいかなくてもいいんじゃないか、とは思いますが、源平合戦が何年も続いたことと比較しても、あっけなく自滅したお方には、「文」は置いておくとしても(本人は自らを『右京大夫集』レベルと勘違いしていたように思われますが)、「武」のほうも1ミリもなかったことは明々白々ですよね。

平清盛というお方についての評価も、あれこれとわかれるところではあると思うのですが、すくなくともこうやって立派な神社を造ってお祀りしてくださっていることからは、地元の方の崇敬の念を感じます。後白河法皇とか、つぎの後鳥羽上皇(承久の乱の人)にいたってはますますもって、あれこれ意見がわかれるところだと思われますので、『平家物語』だけで、平清盛像を造ってしまったら絶対にダメですし、少なくとも厳島神社を造ってくれた人だ! と感動したら素直にお参りすればいいと思います。感謝して余りある偉大な功績です。

こんな方におすすめ

  • 平清盛が好きな人(参詣しない理由が見当たりません)
  • 厳島神社の摂社・末社をすべて極めたい人(末社です)

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(怒)
五郎

なんだかここ、陶の城じゃなくて、平家の社みたいになってるぞ。@SITEOWNER が、平家の末裔という嘘は本当なのか?

ミルイメージ画像(涙)
ミル

そんな古い話、確かめようがないよ。そもそも、名のある人物の末であるはずがないし。ただ、とてつもない山奥に隠れ潜んでいたことは事実だよ。

五郎イメージ画像(怒)
五郎

やけに詳しいんだな。そういや周南に、やたらスピリチュアルな郷土史家みたいな先生がいたっけ。人は誰しも縁もゆかりもなく何かに惹かれるはずはない、って。取り憑かれたみたいに入れ上げるのは、前世に何らかの縁があったからだとか何とか。@SITEOWNER の先祖は厳島神社の建設現場に駆り出されていた下っ端の家来かなんかだったのかもな。けど、俺が宮島に惹かれる理由はなんだろう?

ミルイメージ画像(涙)
ミル

そ、それは多分……あるいは何かのゆかりがあるのかもだけど、別に知らなくていいんじゃない? 前世云々とか言う話に科学的根拠は一切ないからね。生まれ変わりとかもありえないよ。想像するのは自由だし、楽しいことだけどね。

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

五郎とミル(サイトのキャラクター)が広島県内を観光した旅日記総合案内所(要するに目次ページです)。「みやじまえりゅしおん」(宮島観光日誌)、「はつかいち町歩き」(廿日市とたまに広島市内の観光日誌)内それぞれの記事へのリンクが貼ってあります。

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