みやじま・えりゅしおん

塔の岡

2022-04-30

塔の岡看板
塔の岡看板

塔の岡という名前の由来

「塔の岡」といえば、厳島合戦で陶軍が本陣を置いたところだ。毛利元就が神がかり的な奇襲を成功させ、陶方は総崩れとなった……。というような誰でも知っていることは放っておこう。

この場所がなぜ、塔の岡と呼ばれているか、という理由。それが、五重塔がある岡だから、だということを知らない人はいないかも。ただし、この場所の歴史は意外にも古く、何も厳島の合戦で陶軍が崩れたところが五重塔があった岡だったからだ! というわけではないのである。

『宮島本』によれば、平安時代には「宮崎」と呼ばれていた。その後、五重塔が建てられたのち、塔の岡と呼ばれるようになったのである。とすれば、五重塔がいつ頃建てられたのか、によって命名時期もだいたい確定できる。

応永14(1407)年の創建で、その後天文2(1533)年に修理された。本尊は釈迦如来で、脇士は普賢・文殊菩薩を祀っていたが、これらの仏像は明治初期に撤去され、大願寺に遷された。
『宮島本』第三版 104ページ 厳島神社五重塔

応永十四年といえば、本家の当主は義弘公。ちょうど朝鮮に一切経を求めた年だ。そして、天文二年は義隆公が家督を継いで間もない頃で、九州の兇徒退治で忙しかった時期にあたる。

五重塔

五重塔

『宮島本』には具体的に何年から、とは書いていないけれども、応永年間から天文年間までは長いから、「塔の岡」という呼び名にもかなりの歴史があると考えていいだろう。

古来より重要な場所だった?

眼下に厳島神社を望むこの地は、社殿を風波から防御する重要な役割を果たし、頂には納経堂や五重塔などが建てられた。
『同上』24ページ

というようなわけで、単に五重塔云々だけではなく、地理的にもとても大切な場所だったのである。五重塔があるから塔の岡として有名になったわけではなく、そのような土地だったから五重塔が建てられたのであって、まったく逆である。

さて、五重塔と紛らわしいのが勝山城があった付近の多宝塔。いずれも塔だし、混乱する。厳島合戦時、陶軍は最初、多宝塔のほうに陣を配置していたが、その後、こちらに移ったという。移ったって言っても、距離的にちょいだけどね。 ⇒ いや、歩いたらそうでもなかったんだけど、地図を見るとけっこうありますね。てか、全体的にみんな近いんだね、きっと。

千畳閣現る

陶入道
陶入道

なにやら目障りな建物がたっておるな。当時はなかったはずだが。

ミル
ミル

千畳閣とかいいまして、 「天下を統一した人物」が建てたようです……。

陶入道
陶入道

邪魔だ! 我が軍勢が入りきれんわ。

千畳閣についてはここでは触れませんが、確かに現状、あの建物があることから、当時を偲ぶのは無理と思われます。彼の人物がこの場所に千畳閣を建てたのも、塔の岡が前述引用文のような地理的重要拠点だったからかもしれませんね。

千畳閣

千畳閣

宮尾城のところで詳しくお話しますが、宮島の町はかなり埋め立てられておりまして、現在みなさんが住んでおられるところが、昔は海だったりしました。つまりは、現在塔の岡に行ってもピンときませんが、当時はなにもない神聖な神社の島が海に浮かんでいる感覚が今よりもっと強烈だったことでしょう(しかも、千畳閣はなかった)。

美しい五重塔を見ても心癒されないのは、ここがかつて、敗軍の将となったみなさまの本陣跡だったためです。行ってみたところで、現状からは昔を思い浮かべることはまったくできず、そもそも「陣」があっただけなので、何一つ遺跡めいたものがあるわけでもありません。

アイキャッチの立て看板が唯一のものです。

それでも、ここに来ると、何とも言えない胸を締め付けられるような感覚に襲われるのでした。何度も何度も来ているにも拘わらず。来るたびに。

ミル
ミル

おいしいな、ソフトクリーム♪

鶴ちゃん
鶴ちゃん

(感慨に耽っているようにはまるで見えん)

運を味方につけてしまった毛利元就

マップを見れば一目瞭然ですが、塔の岡から宮尾城は目と鼻の先です。あんなボロ城、一撃と思っただろうなぁ。人生何が起こるかわからないけれど、毛利元就は単に運が良かっただけだよ。奇襲ってのは、成功したから歴史に名を残せるのであって、タッチの差で宮尾城がぶっ壊れ、小早川隆景が村上水軍連れて来るの間に合わず、決行の日に暴風雨吹かなければ、上手くいかなかったかも?

しかし、運を味方につける、ということもまた、彼が人格者であったゆえにです。われらの陶入道さまには何がたりなかったのでしょうか……。

謀神・毛利元就

毛利元就

参考文献:『宮島本』

-みやじま・えりゅしおん