陶のくにの人々

陶興房

2022-05-01

三男

お詫び

この記事はリライト中です。しばらくお待ちください。

基本情報

幼名:三郎

中務少輔

歴史に名高いどこの家門にも必ず、これ以上ないほどの忠義の臣、というものが存在する。陶の家からは二代続けてそんな名臣が現われた。その一人がこのお方である。

忠義の臣という意味にも色々あろう。主のために命を捨てることは究極の姿だ。でもそれだけではない。コツコツと軍功を積み上げ、全生涯をかけて主君のために尽した、そんな真面目で一途な忠臣がここにいる。

陶家最強の将と言ったら、間違いなく、興房の父・弘護だ。ただし、彼の才能が煌めいたのは、主・政弘の留守中、分国の危機を救った英雄としての活躍である。政弘帰国後も当然、その右腕としてなくてはならない存在ではあった。ただし、彼自身の個性が強すぎて、どうも政弘とのカップリングが今ひとつ輝かないのだ。

空に太陽は一つしかないように、主の存在感を消してしまうほどのヒロイックな人物は、もしかすると、主従関係という意味ではあまり上手くいっているといえないのかも。その点、この人は、自ら主張しない。どこまでも寡黙で律儀で、真面目である。決して、父よりも劣っているわけではない。そのような人柄なのである。

恐らくは、政弘と義興の個性の違いにも左右されている。本人たちにあったことがないので、確かめようがないわけで、そのへん多分に想像の世界であるけれども。応仁の乱の若き英雄だった政弘と、分国の英雄弘護と、どうも並び立たない……。

日本史上最強の主従

西国最強の人は間違いなく大内義興である。これについてはあれこれと意見がある人がいると思うけれども(書いている本人すらほかにあれこれと名前が浮かんでいる……)、少なくともここではそう断言する。その最強の人に生涯付き添っていた忠義の人がこの人、陶興房。最強の主に、最高の家臣。これ以上ない組み合わせ。

生涯年譜 ――『大内氏実録』より

例によって、『実録』記事からまとめてみる。ただし、『実録』記事の興房項目は悲しいほど少ない。同じ内容が、主の義興、義隆と重複しているためである。

人となり

人となり寡言にして仁義、文武兼ね備わる。ひごろ、こころざしを禅侶に従うことにそそぎ、公務の合間には静かに座禅だけをしていた。

永正五年、義興が前将軍を奉じて東上すると、興房はこれに従った。つねに主のかたわらをはなれず、道空を阿波でゆるし、赤松を播磨につれだしたように、大となく小となく、その謀をたすけなかったことはない。

永正八年、船岡の戦いでは、先駆けをつとめた。翌年の秋、勲功により尾張守となる。
船岡山合戦については、それこそ大活躍しているのだけれども、義興項目(リライト中)と内容が重複すること、義興に関しては当主自らも活躍していることから、そちらにまとめます。

永正十年春、めでたい夢をみて、法名を道麟と改めた (これ以前の法名は不明)。先祖代々の菩提寺・都濃郡長穂の龍文寺春明師秀(本寺第六世)に別号を選ばせると、師秀は祥岩(めでたい岩)になぞらえた。このとき寿像を描いて、賛を書いてもらった。龍文寺の侍衣寮を信衣院と改め、そこに寿像を掲げて、香花田を附して冥福(死後の幸福)をいとなませた。

厳島神主家&尼子との戦い

大永二年三月、義興の命で将として防長豊筑芸石の兵を率いて、安芸に入り佐東郡藤丸に陣を構えてあちらこちらで戦った。新荘の小幡の要害を奪い、八月になって帰国した。

大永三年四月、安芸国衆・友田上野介興藤が叛いた。興藤は佐東の武田光和に助けを求め、神領の城番を追い出して桜尾城を占拠した。義興は興房および弘中下野守等に命じて興藤を攻撃させた。興房は佐西郡に進んで大野の門山に陣を張り、神領兵と戦った。

大永三年十二月二十八日、厳島に太刀、御供物および定燈を奉納した。
大永四年正月四日、厳島社人棚守左近太夫と師檀の契約をする。
大永四年五月、大野城を攻撃。
大永四年五月十二日、興藤と光和は軍を合わせて、大野城を後援するために女瀧に進んだ。城主・弾正少弼は興房に内通して城を焼いた。逃走した興藤と光和を追撃して七、八十人を倒した。
大永四年六月、義興は大野で勝利した報告をきいて子息・義隆を伴って、 厳島に出陣した。
大永四年七月、岩戸山に陣を移し、吉見、杉、内藤等と桜尾城を囲む。
大永四年七月二十四日、桜尾城の二墩に切り込んで戦った。家人・勝屋甚兵衛尉、渡辺掃部助等十余人が戦死した。
大永四年十月十日、吉見頼興の調停により、興藤は降伏した
大永四年十二月二十八日、周防小守護代・野上右馬助および深野文祝、河内山富六、力竹等を厳島に渡らせ、元日の料理を準備させた。
大永五年正月元日、厳島に渡り義興父子に拝謁する。
大永五年二月十日、また厳島に渡り、棚守の屋敷を宿所とし、義興父子をもてなす。
大永五年四月五日、岩戸から矢野に渡る
大永五年六月、賀茂郡志芳荘に進み、天野民部大輔興定の米山城を攻める。興定は毛利氏の調停で味方となった。
大永五年八月、興定軍とともに、志芳荘のあちらこちらで戦った。ついで備後に入り、黒山で尼子兵と戦い、牛尾備後守および米原兵数十人を斬った。家人・深野木工助、同平太郎、江良三郎、三島彦九郎等十余人がこの合戦で戦死した。
大永七年、阿南郡で戦い、諸城を落とす。
大永七年八月、毛利氏と軍を合せ、備後の三谷郡に入り、和智郷でまた尼子兵と戦った。
大永七年八月十一月、三次郡三次で合戦。

主との別れ

享禄元年七月十四日、義興が病にかかったので厳島に戻っていたが、この日西廊で野田興方、内藤興盛等と撤退の策を相談した。友田興藤を諭して二十日に子息・掃部頭広就を義興と面会させた。義興を守って山口に帰還した。

合戦の途中で病にかかり亡くなるという、主・義興を襲った悲劇。正直、あれほど親密な主従関係だったのだから、主とともに殉死しないまでも、あとは主の菩提を弔いつつ余生を送ってもいい。しかし、志半ばで亡くなった主がやり残したことは大量にあったのに、残された息子は凡庸だ。残された二代目を助けていくこともまた、忠臣としての興房の勤めであった。

主死してなお

『実録』からのまとめを続ける。こちらは、「義隆」項目の中に興房の活躍が書き込まれてしまっているため、適宜参照して補充する。

生涯年譜② ――『大内氏実録』より

享禄元年十二月二十日、義興が薨去し、義隆が当主となった。

享禄三年、義隆は佐波郡松崎天満宮を造営した。興房はその奉行となった(享禄二年十月十八日までの文書に尾張守とあり、天満宮の棟札十月十四日の物には前尾張守とある。また布施本大内家壁書には、享禄二年十月十日の連署で前尾張守としている)剃髪して尾張入道道麟、また道麒とも称した。

九州での活躍

天文元年十一月、義隆は少弐冬尚を撃った。道麟は先鋒となって、十五日、九州に渡り、少弐と戦った。天文三年冬、少弐は降伏し肥筑が平定された。天文四年二月、凱旋した。

そもそも……少弐との戦いのきっかけは?

故少弐政資の次男・資元が旧領回復をはかると肥前の者たちはこれに応じ、大友氏は資元に娘をめあわせていた。義隆は立腹したが、機会がなく攻撃できないでいるうちに、資元は宗対馬守義盛に頼んで、将軍に家名再興を嘆願してゆるされ、肥前守となった。筑紫尚門と朝日頼実の申し出により、享禄三年秋になってようやく、筑前守護代・杉豊後守興運に少弐攻撃を命じたのである。興運は尚門、頼実を召集して東肥前に進み、資元を攻めた。
資元は既に隠居し、新たに少弐冬尚が綾部城にいたが、兵を率いて東肥前に進んで防戦した。大内方はこれを撃破し、冬尚が神崎に退いたのを追撃した。龍造寺和泉守等が田伝村で戦った。味方は奮闘し、敵の陣脚は既に乱れたのに、その部将・鍋島平右衛門尉清久父子が逞しい兵百人ばかりを率いて尚門、頼実の陣を不意をついて(横から)攻撃したので、味方陣はこのために敗れ、尚門と頼実は戦死した。義隆はこのしらせを聞いておおいに怒り、将軍家に少弐追討の命を求めたが、聞き入れられなかった。

思いがけず、九州での戦に苦戦した義隆は、興房の出張を願った。そこで、天文元年十一月十五日、興房九州渡海となったのである。

天文二年三月三日、肥前国三根郡千栗村で戦う。
天文二年三月二十二日、立花城を攻める。少弐資元(冬尚の父)は高祖に逃れ、道麟はこれを追撃した。
天文二年四月 六日、神崎郡石動村、大曲村で戦う。
□□日、筑紫村で戦う。月日、資元は高祖から出て、多々良、筥崎、博多、鳥飼、小田の間で迎え撃って戦ったが、道麟はこれを撃破した。資元は高祖に戻り城に入ろうとしたが、城主・原山興種は心がわりし、城門を閉ざして資元を中に入れなかった。資元は狼狽し、多久城に逃れた。 
天文二年十二月、道麟は軍を筑前にもどし、武蔵城を攻め取った。この他の城砦は攻めずして自ら落ちた。さて、少弐冬尚は勢福寺にたてこもり、馬場、横岳、犬塚等、綾部、中津、朝日山、中野、西島等の城をよりどころとして服従しなかったから、道麟はまた東肥前に進軍した。

天文三年正月、朝日山城を落とした。
天文三年閏正月十六日、筑後国生葉郡大生寺城を攻める。
天文三年閏正月十七日、合戦。
天文三年二月十四日、豊後国具浦で合戦
天文三年三月二十六日、玖珠郡で戦い、小半田明塚に放火する。
天文三年四月六日、山香郷で戦い、大牟礼山の敵軍を破る。また薄野浦で戦う。
天文三年五月十八日、高田で戦う。 勝利を得られず、薄野浦でまた戦う。
天文三年七月十五日、上春田、香原で戦い、上春田に放火する。
天文三年七月二十日、 惣福山の敵を破る。

□□□満山に進んでいた道麟は勢福寺城を包囲し、兵を分けて佐賀を攻撃した。勝利を得られず、更に兵を出そうとすると、連日の大暴風雨で陸地に水があふれた。味方の兵は山上からこれを見て、「これは天が我をたすけ敵を滅す所なり」と思って警戒を怠った。
佐賀兵は夜襲して味方の陣屋を焼いたので、味方兵は不意打ちされて狼狽し、防ぐことができず、道麟はかろうじてのがれ園部に退いた (この逸話は日時不明。肥陽軍記によると満山から園部まで四里という)。

天文三年九月十八日、大生寺城を落とし、城将・星野常陸介親忠兄弟を斬った。
天文三年十月、再び勢福寺城を囲んで攻撃すると、冬尚は力尽き、小田入道覚派の蓮池城に逃れた。犬塚尚家、同尚義、本吉増景等が、ともに蓮池にはいって防衛した。
蓮池城は堅固な要害であり、急いで攻め取るのは得策ではない。龍造寺家兼を諫めて少弐に降伏をもとめさせるのがよいだろう。唐津の波多隠岐守を佐賀に派遣し、降伏したら、少弐には湯沐の領地を与えると約束すると、家兼もそれがいいと思って、蓮池城に行き冬尚を諭した。 冬尚は既に勢がくじけ力も尽きていたので、家兼の意見に従い降伏を求めてきた。ここに於いて肥筑が平定された。

少弐の降伏は、天文三年冬。長府まで出陣していた義隆は本国に凱旋。
天文四年二月、道麒も九州から凱旋した。

文武の臣

さて、文武の家、大内家の重臣として、興房も文芸に傾倒していた。軍事面での活躍が目立つ人ではあるが、文字通り典型的な文武の人であり、その完成度は「有識故実」中心の主・義興よりも優れていたかも知れない。

以下は、またしても例によって米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』からまとめてみる。興房が、文事の才能に磨きをかけたのは何と言っても、義興に従って上洛し、十余年もの長い期間を京都の文人たちと交流できたことによるところが大きいだろう。

飛鳥井雅俊に歌鞠両道を師事

「亜槐集」(雅俊父雅親家集)の書写を、 大僧都忠堯(九条政忠の末子)に依頼。「是此道執心異手他者歟」雅俊奥書評。

蹴鞠

『蹴鞠条』「右蹴鞠之条々当流之秘說也、依執心授陶中務少輔興房訖 永正五年七月 日(雅俊自筆)」権中納言雅俊(花押)

歌道

歌書蒐集熱

以下のような書籍を蒐集。いずれも超一流の有名人からの贈呈。
永正十年八月『後拾遺集』庭田重親、永正十一年九月『詞花集』冷泉永宜、永正十月『金葉集 』飛鳥井雅俊、『後撰和歌集』姉小路済継、年未詳『拾遺集』前大僧正

興房の詠歌はかなりの数が伝えられているが、それについては米原先生のご著作を見れば十分と思う。田舎武士(地方武士のことです)の歌が後世にまで伝えられることはきわめて稀であるらしく、道理で「歌を善くした」という先代の御歌も弟君の御歌も素人には探すことができないわけです。

 

連歌

永正十五年三月十八日、牡丹花肖柏や宗碩らを招いて何船百韻を張行した

なお、地方の人が在京中に連歌会を行い、その記録が今に伝わるものもまたたいへんに少ないそうであり、ここもまた、興房が特別だったことがわかるのである。興房は有名な連歌師との交流も盛んであり、たとえば肖柏が「多々良興房旅宿にて六月比」のように書いていたりすると、興房の句が伝えられておらずとも、彼もまた肖柏らと交流して楽しんだであろうことが知れるのである。むろん、興房の句はかなりの数伝えられている。

帰国後
大永五年正月五日、岩戸陣中、連歌会張行
享禄五年(天文元年)二月、知行地富田(都濃郡)南湘院、何木百韻張行

メモ

飛鳥井雅親:あすかいまさちか、1417~90、室町中期の歌人。法名:栄雅、号:柏木。勅撰集選進の院宣を受けたが応仁の乱で中絶。柏木に隠遁。文明末期以降は在京して歌壇に大きな影響を与えた。歌集『亜槐集』。雅俊はその子。
飛鳥井家:あすかいけ、藤原氏北家師実流難波家庶流、羽林家。和歌、鞠の師範家。
肖柏:しょうはく、室町中期~戦国期の歌人、連歌師。連歌句集『春夢草』
宗碩:そうせき、1474~1533、戦国期の連歌師、

※以上は、米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』より該当箇所の上っ面を拾い読みしてじぶんなりに理解した言葉で書いており、引用とは違います。そのために、誤解などがあるかも知れません。なお、書籍名、人名などについては、本文のままです。

忠臣の子ら

天文八年四月十八日、死去。法名:大幻院透麟道麒。

妻は叔父・右田弘詮の娘。二男一女があった。長男は興昌、二男は隆房、娘は宗像大宮司興氏の妻となった。

嫡男・興昌は早世した。合戦関連死である。彼が無事に成長し、この家を継いでいたらその後の歴史はどうなっていたのだろうか、そんなことを考えるのである。
兄の死によって、家督となった次男の隆房が主君の弑逆を行ったからである。歴史には必然というものがあるので、たとえ興昌が健在であっても、結果は同じことだったのかもしれない。

二代にわたる忠義の臣だった、父・興房が、隆房がしたことを知ったら何と言うだろうか、そのことが気になった。

陶興昌

次郎と称した。
※『棚守房顕記』では興次としている。

大永三年、父に従い、安芸で戦う。
大永五年三月、病にかかり、一八日、岩戸陣から周防に帰国。
亨禄二年、四月二十三日、死去。享年二十三歳。

法名:信衣院春翁初□。

五郎の兄イメージ画像
五郎の兄

これだけか……。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

いいえ。兄上様のページもきちんとありますから。間に合っていないだけです。

陶興房寿像贊并序写(仮)

多々良氏陶尾州太守興房公寿像賛井序
源深者流遠、根大者枝茂、无斯言矣、居士諱興房、其父弘 護公鎮遏姦邪於国、大有偉績、弘護有三男、其二者夭 傷、居士当其三、幸而継家、天与也、非人謀矣、其為 人寡言而仁義忠孝為焉、義尹相公当軸之初、雖壮南征北伐之威、嬖臣姦驕而不応其命、明応庚申春轡回 善於 西周 而決策於大内府君、々々謀列国之諸将有年于茲矣、永正丁卯冬欲護相公入洛、艤兵船於防之府 而召数州之将卒、戊辰夏解数百艘之纜 順風加 櫓棹、速達泉州之堺、諸侯出迎、不幾而入洛、居士海則把楫於前後、陸則並轡於左右、再令相公為霸者、府君汗馬之功居士幹蠱之衷也、且夫宥道空於阿州、誘赤松於播陽、 無大小無一不同謀也、可謂有忠于天下内未稳、鲛鳄流涎、当此時、相公暫狩 于丹丘、於是強寇競起而陣 于洛之西北之隅船岡、事出不慮、府君掉、 臀呼于諸侯 曰、欲勇者賈 予余勇、遂単騎而馳戦、人馬辟易、居士迺為其先駈戦、而紅羽注面白刃交胸而不顧焉、滅数万之敵斬首捕虜、都下騷擾一時定、主勢益固国勢益安、是偏居士勇決処致也、相公寵命無不一許与、惟多一時之光栄也、加之一霄恍惚之間、雅称并永楽神亦賜洪休、希世之事也、平居住意仏乗従事禅侶、誓怕子孫之帰別乗、而公務之暇、安禅静慮之外別無他事、未掌斯須忘 茲、故改遞代墳寺龍文之侍衣寮、号信衣院、割艘田充香火不朽之供養、俾工自絵肖像安之堂、而 晨香夕火預資厳冥福、命予以贊詞、其命不可拒矣、
系之以長篇、曰
有其父而有 其子 英雄志気其桂石臣
蚤諳弓矢之有道 窃為国家而許身
視富貴如雲無帯 励節義似石不可憐
是以為府君所賞 是以為家眷所親
諸系明々有伝記 花胃遙々雖具藻
三韓王子曰琳聖 其船着多々良浜
当我朝推古御宇 至于今八百余春
八世之孫生二子 類彼歌公子振々
其兄盛房周防介 世握権柄朱両輪
其弟盛長司国事 登庸良善退頑囂
鑿井而飲耕田食 化育之功被黎民
弘賢以陶為 采邑 似 伊尹耕于有莘
家葉従此勃興大 日新々々日々新
近来移居 富田保 慇懃為使 風俗淳
龍文墳寺輪奐美 創業初 于大造釣
勉 旃無 怠金湯志 結而未了香花因
傾誠雪?入籌室 別称祥岩法名麟
不啻文武禅亦熟 鼻孔依然搭 上唇
応 是真乗密讃力 直得一機撥転辰
船岡一戦甲天下 其威如 烈火焚薪
敵捋虎頭又燕頷 陣勢鶴?魚鱗 
義興馳馬決勝負 三尺劍霜飛 秋旻
公為先鋒増威気 諸将指麾属 一人
追亡逐北尸百万 孰与沛公滅暴秦
叔孫礼楽蕭何律  不回時日静風塵
見義勇為入所羨 不謬府君入幕賓
相公封以尾州爵 玉勒氈毛台命頻
雅称永楽夢中賜 精誠心使感霊神
徳不孤必有其憐 門葉繁栄貽厥后
溜雨四十囲孔拍 飽霜八千歳莊樁
永正十癸酉春摠持蕉夢老衲幼中瑞秀暮齡七十一書
龍文第六世春明師秀之号
(防長寺社証文建咲院)

永正十年(1513)龍文寺六世・春明透師 

ミルイメージ画像(涙)
ミル

これ、ナマの史料なんですが、訳が間に合わないのでそのままですが、手写ししているので、出典書けない。というか、著作権ない古いもので、あるのは校正した先生方……。それをきちんと反映させてないから。移し間違えだらけだろうと思うし(涙)。とにかくちょっと待ってて。これじたいは至る所に載ってるよ。

参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」より
参考文献:米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』、山川出版社『日本史広辞典』

-陶のくにの人々