事本情報
父・盛政 兄・弘正 子・弘護、弘詮
幼名:五郎
中務少輔、越前守、周防守護代
※幼名を五郎とすることの根拠は系図だけだが、のちに「中務五郎」と名乗っていること、息子・弘護、曾孫・隆房、玄孫・長房、全員幼名を五郎と名乗っていたので、これを採用するのである(『実録』)。
俺も五郎だもんね!
うんうん、五郎がいっぱい
長禄元年、一族の右田弘篤が亡くなった。弘篤には実子がいなかったため、主君・教弘の命により、弘房がその跡を継ぐ。右田中務五郎と称した。
寛政六(1465)年八月廿六日、兄・弘正が戦死すると、一族は相談の上、弘房に陶の家を継がせたいと願い出た。十一月朔日、主君・政弘の許可を得、弘房が陶家の当主となり、右田家は(弘房の)次男・三郎(弘詮)に継がせることなった。こうして、弘房は本姓・陶に戻り、中務少輔となった。
応仁元(1466)年、政弘に従って応仁の乱に参戦。応仁二年十一月廿四日、その陣中で亡くなった。相国寺の戦いにおいて、戦死したとされている。
法名・文月通周。
延徳四(1492)年、妻仁保氏が、弘房の持仏薬師如来を本尊として、保寧山瑠璃光寺を建立した。
※瑠璃光寺は文明三年建立で、元の名を安養寺と云った、ということが寺伝に書かれている。明応元年に、境内が狭隘であったため隣山に移転し、名前も瑠璃光寺と改めたのだという。近藤清石先生は、これは誤りであり、瑠璃光寺と安養寺とは別々の寺院である、としている。
先生のご研究によれば、正しくは以下の通り。
最初、安養寺に位牌を安置していたが、延徳四年(=明応元年)、弘房の廿五回忌に当たる年に瑠璃光寺を建立し位牌を移したのである。後に、安養寺の自牧菴領等が瑠璃光寺に寄進され、その領地となったことなどで誤解が生じたのであろう(寄進の件は、弘詮の文書にも残されている)。
なお、瑠璃光寺が最初に建てられた土地は、寺伝にある通り狭隘だったゆえに隣山に移ったものと見え、最終的に元禄三年、現在の香積寺旧址に移転した。
つまり、仁保の地には、
一、最初の瑠璃光寺、
一、狭隘ゆえに隣山に移った瑠璃光寺
という二つの跡地があるのである。
安養寺と瑠璃光寺が別物だとすれば、このほかにも、瑠璃光寺に位牌を移す前の安養寺の跡地もあったのではないか、と思う。『実録』に奥方様はご自身の領地であった「吉城郡仁保荘小高野」に瑠璃光寺を建てた、とあるけれども、これが安養寺のことなのか、最初の瑠璃光寺のことなのか、本文だけでは読み取れなかった……。
近藤先生は明治時代の研究者であらせられるため、令和の御代であるイマドキとは「跡地」の類の見え方も違うはず。当然、仁保に赴いて確認すべきなんだけど、今のところまだ、間に合っていない。ごめんね……
弘房の妻
仁保氏。仁保右衛門大夫盛郷の娘。
弘護、弘詮の母。
法名:華谷妙栄
系図は法名泉福院云々、あるいは瑠璃光寺としている。泉福院はどこにあったのか分らない。思うに、泉福院は瑠璃光寺を建立するまでの法名であって、最初は菩提寺の寺号をそのように名付けようと考えていたのを、弘房の持仏・薬師を本尊としたため、瑠璃光寺と改めたのであろう。
『実録』記事中、其の他いくつかの特記事項
一、瑠璃光寺牌に「前筑前刺史」とある。
これは「筑前守」なのか「筑前守護」なのか「筑前守護代」なのか不明(『守護』はあり得ないと思うけど)。よって、近藤先生は「筑前の事を司る」とした。
城主さまや弟君も「筑前守護代」をやっているので、たぶん「守護代」では? と思う。しかし、確定できなかったのは、瑠璃光寺牌以外に史料が残っていないからだろう。歴史学の権威としては当然の対応です。
一、史料により、亡くなった日付について二説ある。
大内氏系図 ⇒11月14日、相国寺合戦で戦死
瑠璃光寺伝 ⇒戦死
弘護肖像賛 ⇒11月24日、京都軍営中で亡くなった(終)
保寧日記@風土記注進 ⇒11月24日、都にて亡くなる(卒)
「亡くなる」と書かれているのは戦「死」というストレートな言い方を避けたのであり、死因は系図と寺伝にある通り「戦死」と思われる。また、その日付については、24日説に統一。
参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻第十八 列伝第四「親族」より
香積寺跡地に引っ越したために、分かりづらいことになっているが、現在の瑠璃光寺・五重塔はかつて、義弘公の菩提寺(香積寺)に建てられたものだ。
色々ありましたが、今は父上の菩提寺が市民の憩いの場となっているのですね。
※この記事はサイトの統廃合により、リライト&移転されました。
初出: 2020年04月01日 周防山口館『陶家猛将伝』改編
リニューアル後初出:2020年9月29日 10:30 PM
別ドメイン公開日:2022年3月12日 11:25 AM