陶のくにの人々

外戚

2022-04-17

五郎

ここでは婚姻関係で身内になった人たちを扱っているよ。少しずつ追加していくので、そのつもりでね。

内藤隆世

まとめ

陶晴賢の妻の弟、長房の叔父という関係。
晴賢に味方し、その死後は大内義長政権ナンバーワンとなった。

幼名彦太郎、のち弾正忠となる(系譜に修理進の名があるがほかに所見なし)。内藤興盛の長男・左京大進隆時の子である。大内義隆に仕え、侍大将ならびに先手衆であった。隆房が義隆に叛いたとき、隆世は隆房の妻の弟だったので、隆房に加担した。このことから、祖父・興盛や叔父・隆通と仲違いした。

弘治元年十月、全薑(晴賢が出家したのちの名)が厳島に敗死すると、隆世が専ら大内義長を輔佐した。

十月七日、杉重輔が隆世の甥・陶長房を殺害する。長房の家人等は、その仇を討つことを隆世に相談し、隆世はこれをききいれた。⇒ 陶長房杉重輔

二年三月二日、隆世は重輔の後河原の屋敷を襲撃し、隣屋に火を放った。おりから、風が激しく、山口の町は炎に包まれたので、大内義長は火災を避けて、今八幡宮に移った。重輔兄弟は囲みを衝て逃れ、今八幡宮に行き着いて義長にせまった。そこで飯田興秀、仁保隆慰が義長の命で隆世の陣営・古熊の西方寺に来て、重輔と和睦するよう言い聞かせた。隆世は聞き入れなかったが、興秀等は強引にまず人質を交換させた。隆世は弟・彦二郎(系譜には名前がない)及び楊井某を質とした。

三月三日、興秀等が来て和睦の相談をしたが、隆世はついに従わなかった。翌朝、杉方の人質・正重及び与力大野某を斬り、重輔が宿泊していた宝寿院を火攻にし、重輔兄弟主従七十余人を殺した。

三年三月、毛利氏の兵が都濃郡に進入し、若山城等が陥落したので、隆世は己が居城問田の姫山をすて、義長を奉じて高嶺城に入った。高嶺要害の工事はいまだに完了しておらず、既に兵糧も乏しくなっていたので長門国豊浦郡に逃れ、且山城にたてこもった。毛利兵が来て、城を囲んだ。

三月廿八日、且山城外墩が落ちる。

三月廿九日、二墩の兵二十余人が塀をこえて逃亡した。毛利兵はこれを見て城中の勢力が既につきたことを知ると、使者を寄こした。元就父子が義長について罪を問うことはないが、隆世には恨みがある。隆世が自殺するならば、義長を赦すだろう、と使者は言った。隆世はこの申し入れを承諾した。

四月三日、毛利兵から検使(取り調べの使い)として兼重弥三郎元宣が城内に来た。隆世は、義長にすすめて長福寺に入らせ、家人警固屋某を介錯とし切腹して死んだ(系譜には、二十二歳であったとするが、ほかに所見がない)。

関連記事:大内義長内藤興盛

大内家臣 長門守護代・内藤氏
大内家臣 長門守護代・内藤氏

人物解説家臣編。長門守護代・内藤家。初稿。

suoyamaguchi-palace.com

ミル
ミル

内藤さんの一族には、最初から毛利家と親しくしていた人たちもいて、身内の中でも意見が対立していたの。毛利家に仕えた人たちについては別のページに書くよ。

益田氏

メモ

益田氏:始祖は関白藤原忠平九代孫・国兼。国兼の曽孫・兼高が鎌倉御家人となって石見押領使として土着。南北朝期以降から活躍。七尾城本拠に益田周辺を支配した。

永久年間、石見国一宮に下向し御神本(みかもと)と称した。益田兼恒が初めて美濃郡益田に移り、御神本を改めて益田氏となる。八代越中守兼見(兼恒七世孫)から大内氏に従った。

藤原忠平‥‥国兼‥‥兼恒‥‥兼見 ⇒ 兼理(兼見曽孫)⇒ 兼堯 ⇒ 宗兼 ⇒ 尹兼 ⇒ 藤兼 ⇒ 元祥

陶家との関係:兼堯の娘 ⇒ 弘護室、陶家の娘 ⇒ 宗兼室

ミル
ミル

益田さんたちとの婚姻関係は、これだけではないと思うの。現在、調査中。『実録』に載っていたのはココまでです。

益田兼理

兼見曽孫、左近将監。
永享三年六月二十九日、大内盛見の少弐討伐に従い、筑前・志摩郡深江で戦った。戦死。

益田兼堯

兼理の子。父の戦死により家督を継ぐ。その娘は 陶弘護の妻となった。

益田宗兼

兼堯の孫。陶氏の女性を妻とした。

益田尹兼

宗兼の子。越中守。
弘治元年、子息・藤兼とともに毛利氏に降伏。永禄八年九月三日に亡くなった。

 益田藤兼

尹兼の子。幼名:次郎。十二歳で足利義藤(義輝の初名) が加冠し、偏名を与え、藤兼と名付けた。

天文十五年十二月二十六日、父の譲りを受ける。のち治部少輔となる。

天文十九年四月、吉見氏を撃つ。
天文二十年十月、また吉見氏を撃つ。

天文二十一年四月二十一日、大内晴英により右衛門佐に推挙された。
天文七月十一日、晴英は長門国に二百九十五貫の地を与え(厚東郡の内百貫、阿武郡三原村八十貫、多萬郷の内四十貫、 小川郷の内三十貫、紫福郷の内四十五貫)、境界に出張させた。

天文二十三年四月十八日に出陣し、大内氏とともに吉見正頼を撃つ。
天文二十三八月二日、坪尾で戦う。

弘治元年、父・尹兼とともに毛利氏に降伏した。)のち越中守に任ぜられた。晩年、剃髪して大薀全鼎と号した。

慶長元年十二月一日死去。享年六十八歲。(系譜に従四位下、侍従とあるがほかに所見なし)。

妻は杉三河守興重入道宗長の娘。男女二子を生む。息子:少輔若丸。夭折。側室、家人・石津氏の娘が一男三女を生む。息子を次郎と名づけた。吉川元春の女婿となり、後元祥といった。子孫は数家に分れ今につづく。

参照箇所:近藤清石先生『大内家実録』巻二十八「叛逆」、巻二十「附庸」より、『日本史広辞典』益田氏

※この記事はサイトの統廃合により、別ドメインから移されました。
元ドメイン公開日:2022年3月26日 1:39 PM

城主さま
城主さま

我らの外戚として、もっとも親密だったのは石見の益田氏だが、今はまだその辺りがまとめられていないようだな。

-陶のくにの人々