陶のくにの人々

陶長房

2022-04-17

曾孫
ミルイメージ画像
ミル

長房さまについては、地元郷土史のご本のなかに、もっといろいろなことが書かれています。混乱するので、現時点では『実録』の記述だけで勉強しています。以後の書き込みをお待ちください。

陶長房

メモ

五郎、鶴寿丸
右馬助、兵部少輔

父・晴賢が岩国に向けて出陣した時、長房をあとに残し、若山城を守らせた。

弘治元年十月七日、杉重輔兄弟が攻撃して来た。長房は父敗死の知らせに気力をなくし、また重輔の襲撃が意外な事であったから、防ぐことができず、城を棄てて長穂村龍文寺に逃れた。重輔に追撃され、長房は寺家に入って自殺した。
 ※系図には閏十月七日、杉隆重のために、富田城で討死したとあり、龍文寺の伝記は、矢地若山で没とするが、龍文寺のそばに千人塚という古い塚が五所もあるのでこれを採用しない。

法名:龐英洪□ 

ところで、長房自刃の時と場所については、諸説ある。現状、弘治三年(1557)龍文寺で、ということに落ち着いているようである。龍文寺を攻めあぐねた敵方は、念仏踊りの民衆に紛れ込んで寺内に乱入したとの伝承がある。

弘治元年(1555)はつまり、厳島合戦の年。十月には陶晴賢が自刃しているので、弘治元年十月説だと、父の死から一月以内という早さで息子も亡くなったことになる。杉重輔の襲撃が厳島敗戦たちどころだったとして、あまりにあっけない。逆に言えば、なんの準備も整わぬ間にということにもなって(どんだけ杉重輔対応早、みたいになってあまり褒めたくないのに嫌だけど)すとんと落ちる。

弘治三年(1557)はつまり、大内氏滅亡、というか大内義長自害の年。そこまで長房健在だったんだろうか? 流れ的には、厳島敗戦⇒杉重輔襲来⇒長房自刃⇒内藤隆世が杉重輔と戦闘⇒山口市街&大内氏館火災で義長焼け出される⇒無人になっている若山城に毛利元就入る……と、そもそも、内藤隆世と杉重輔争っているのは、隆世が長房の叔父であり、主を失った陶家臣から涙の訴えがあったから。ということは、それ以前に長房は亡くなっていないといけないんだけど? 龍文寺に立て籠もって健在だったとしたら、杉重輔はそっちに張り付いているであろうし、内藤隆世もそっちに援軍じゃないの? 龍文寺がなかなか陥落しなかったから、念仏踊りのエピソードが出てきてというのはわかるけど、二年間も立て籠もれるのか? とか。謎です。

この二つの説があるのは、どうやら弘治三年のほうが最新の成果みたいなので、弘治元年説は古いようで、『都濃郡誌』と『徳山市史』のほうで採用されている。

何せ、厳島敗戦十月一日で、長房自刃十月七日と日付まで書かれているから、何を根拠にと思うのと、さすがに一週間後にもう亡くなるとか、いくらあっけなくとも、龍文寺に逃れる余裕なんかまったくない感じ。しかも、典拠に『隠徳太平記』その他とあるのを見ると、『都濃郡誌』はまったく信用できなくなる。正直なところ、ここはもう、伝承の域を出ないのであって、新しい弘治三年のほうも、なにか最新の根拠で確定しているわけではないだろう。

偉大な父を失った絶望の淵にいた幼い跡継ぎは、なすすべもなく短い生涯を終えたかに思える。菩提寺としての龍文寺はまた、陶氏の最期を看取った寺でもあったのだ。陶氏最後の鶴寿丸(長房の子、もしくは晴賢の子両説あり)が傀儡当主・大内義長とともに、忠臣・野上の手で殉死させられた際、直系としての陶氏は完全に終わる。それについては、逃亡を続けた大内義長が最後に辿り着いた場所での話なので、正確にいうとこの寺院内で家が消滅したのではない。なお、親戚筋の中には毛利家家臣となって続いた人もいる。

陶某、鶴寿丸(長房・子)

陶某

系図に貞明、小次郎、雅楽助とあるが、ほかに所見がない。

龍文寺で自殺した。
系図は十七 歳、龍文寺伝記は十四歳であったとする。

法名:月光阿三

鶴寿丸

長房の子。晴賢の末子であるとする説もある。

弘治三年、且山に逃れた大内義長に従う。

四月三日、義長が長福寺で自殺した時に殉死。

鶴寿丸は六歳の幼児だった(五歳とするものもある)ため、且山には家人・野上房忠に背負われていき、義長自殺の際にも、房忠が鶴寿丸を殺した後に自らも殉死した。⇒ 野上房忠

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十八「叛逆」より

関連史跡・功山寺

陶のくに最後の当主は長房。彼の主君・義長がここに眠る。そして、彼の墓を守るように、左右にひっそりと並ぶ小さな墓のひとつが、陶鶴寿丸のものとされる。

彼については、長房の子とも、末弟ともいわれ、はっきりしない。鶴寿丸が代々嫡系の跡継につけられた名であることから、長房の子、と思う。幼子は、この寺院で主に殉じたから、たとえ、父親が誰であれ、ここが彼の死地。弔われたのも同じ場所というのが自然。

鶴寿丸の墓@長府・功山寺

長福寺は臨済宗寺院で、後醍醐天皇の建武年間、既に存在。足利尊氏や長門守護・厚東氏、ついで大内氏と信仰されたが、大内義長自刃の際に荒廃。その後、毛利秀元が長府に入って、これを修築し、曹洞宗に改めた。秀元の死後、功山寺と名がかわり、現在に至る。

功山寺についてのご案内はメインサイトに書きました。⇒ 功山寺

ミルイメージ画像(涙)
ミル

陶の嫡流は、鶴寿丸さまがお亡くなりになったことで途絶えたけど、ここで陶の家がなくなってしまったわけではないことは、もう分かりますね。

城主さまイメージ画像
城主さま

そうだな。弟の系統は今も続いているだろう。

弟君イメージ画像
弟君

系図には載っていない人々も多いこと、そもそも、系図に載っていない云々以前に、世に知られていない子孫は数え切れないはずですね。

※この記事はサイトの統廃合により、リライト&移転されました。
元ドメイン公開日:2022年3月23日 1:55 PM

-陶のくにの人々