陶のくにの人々

陶長房

曾孫
ミル
ミル

長房さまについては、地元郷土史のご本のなかに、もっといろいろなことが書かれています。混乱するので、現時点では『実録』の記述だけで勉強しています。以後の書き込みをお待ちください。

陶長房

メモ

五郎、鶴寿丸
右馬助、兵部少輔

父・晴賢が岩国に向けて出陣した時、長房をあとに残し、若山城を守らせた。

弘治元年十月七日、杉重輔兄弟が攻撃して来た。長房は父敗死の知らせに気力をなくし、また重輔の襲撃が意外な事であったから、防ぐことができず、城を棄てて長穂村龍文寺に逃れた。重輔に追撃され、長房は寺家に入って自殺した。
 ※系図には閏十月七日、杉隆重のために、富田城で討死したとあり、龍文寺の伝記は、矢地若山で没とするが、龍文寺のそばに千人塚という古い塚が五所もあるのでこれを採用しない。

法名:龐英洪□ 

陶某、鶴寿丸(長房・子)

陶某

系図に貞明、小次郎、雅楽助とあるが、ほかに所見がない。

龍文寺で自殺した。
系図は十七 歳、龍文寺伝記は十四歳であったとする。

法名:月光阿三

鶴寿丸

長房の子。晴賢の末子であるとする説もある。

弘治三年、且山に逃れた大内義長に従う。

四月三日、義長が長福寺で自殺した時に殉死。

鶴寿丸は六歳の幼児だった(五歳とするものもある)ため、且山には家人・野上房忠に背負われていき、義長自殺の際にも、房忠が鶴寿丸を殺した後に自らも殉死した。⇒ 野上房忠

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十八「叛逆」より

関連史跡・功山寺


陶のくに最後の当主は長房。彼の主君・義長がここに眠る。そして、彼の墓を守るように、左右にひっそりと並ぶ小さな墓のひとつが、陶鶴寿丸のものとされる。

彼については、長房の子とも、末弟ともいわれ、はっきりしない。鶴寿丸が代々嫡系の跡継につけられた名であることから、長房の子、と思う。幼子は、この寺院で主に殉じたから、たとえ、父親が誰であれ、ここが彼の死地。弔われたのも同じ場所というのが自然。

鶴寿丸の墓@長府・功山寺

長福寺は臨済宗寺院で、後醍醐天皇の建武年間、既に存在。足利尊氏や長門守護・厚東氏、ついで大内氏と信仰されたが、大内義長自刃の際に荒廃。その後、毛利秀元が長府に入って、これを修築し、曹洞宗に改めた。秀元の死後、功山寺と名がかわり、現在に至る。

功山寺についてのご案内はメインサイトに書きました。⇒ 功山寺

ミル
ミル

陶の嫡流は、鶴寿丸さまがお亡くなりになったことで途絶えたけど、ここで陶の家がなくなってしまったわけではないことは、もう分かりますね。

城主さま
城主さま

そうだな。弟の系統は今も続いているだろう。

弟君
弟君

系図には載っていない人々も多いこと、そもそも、系図に載っていない云々以前に、世に知られていない子孫は数え切れないはずですね。

※この記事はサイトの統廃合により、リライト&移転されました。
元ドメイン公開日:2022年3月23日 1:55 PM

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