陶のくにの人々

陶晴賢家人

2022-04-17

陶様
鶴ちゃん
鶴ちゃん

我らほどの名門ならば、配下のものすら世に名高いはずだ。軍記物でも、しばしば「陶内××」「陶兵××」というのが活躍している。『実録』では、タイトル通り「叛逆に伝がある人物」の配下についてだけ、項目を立てて説明している。とりあえず今は、『実録』に伝が載っている人だけ。

伊香賀房明

幼名:市次郎、民部少輔

晴賢が叛こうとしたとき、義隆を幽閉するべきか、殺害するべきかを家臣らと相談した。

お家にとってこれに過ぎる大事はない。叛くならば義隆一人だけではなく、その子・義尊も殺害するべきである、と提案したのがこの房明だとされる。

親子二人を殺害するのでなければ、お家の憂いを消すことはできない。大友晴英は義隆の猶子だから、これを豊後から迎えて当主とすればいい。そうすれば、九州も分国とすることができると意見したところ、これに決定した。
 ※同じ役回りを野上房忠(後述)としている書物もあり、どちらが正しいのかは不明。

厳島の戦いで殉死した。

柿並佐渡守

名前不明。剃髪し、佐渡入道と名乗る。
 ※系譜では隆正。房顕記に陶内柿並佐渡入道、言延覚書に陶殿内柿並とあり、晴賢家人であることは疑いがない。「隆」字は義隆の偏名なので、隆正と名乗るはずがない。晴賢家人ならば、晴賢初名隆房の 「房」字を名前として、伊香賀房明、江良房栄、野上房忠等……のようになっているはずである。

義隆が長門に逃れた時、佐渡守は足軽を率いてこれを追い、大寧寺で義隆父子を殺害した。

厳島合戦で殉死。

死に臨み、新里の脇弥左衛門尉に、己の首を斬って晴賢の首として敵を欺くように、と託した。
弥左衛門尉は言われた通り、佐渡入道の首を氈(けむしろ、かも)に包み、晴賢の首である、と毛利兵・児玉就方に差し出した。就方はそれを受け取って、弥左衛門尉を斬った。

宮川甲斐守

名前不明。

十六歳で晴賢の父・興房に従って船岡山の戦いで功績をあげ、将軍・足利義稙から感状と太刀をを賜った。その後、所々の戦いで広くその名を知られた。

晴賢が山口を襲撃した時、甲斐守、江良房栄とともに、将として防府口より入った。

天文廿三年 五月、高津大炊助とともに、山代十三郷の監軍となって毛利氏に備える。
六月五日、山代兵を率いて安芸・佐西郡で毛利兵と戦い、平良宮内まで進撃したが、馬が勇み立って懸崖(高くそり立った崖)から落ちて亡くなった。五十九歳だった(船岡山の戦いで十六歳だったことから推測)。
 ※「房顕記に、 陶内宮川甲斐守、馬がはやり、かけほらへ落、死にけり。 彼仁在京舟岡の合戦以来、 度々の高名せし人なり。両弓がけの、右の弓かけをはづしたるばかりなり。 此を見る人、力たまりに如此と沙汰してほむる成とあり。 両弓がけ言々、己は解し得ず」。⇒ 先生ですらお分かりにならないことが、我々にわかるはずもございません……。

江良房栄

丹後守となった。

晴賢謀叛の際、伊香賀房明、野上房忠と密議に参加した。

山口襲撃の時、宮川甲斐守とともに、防府口より入った。

天文廿一年六月、大内義長は備後国境の事を毛利氏に依頼したので、房栄を安芸諸城に派遣した。

廿三年、晴賢に従って玖珂郡岩国に行き、神領兵の監軍(軍隊を監督する役目)となった。

弘治元年三月十五日、警固船五十隻を率いて佐東に入る。塩船二三隻を奪い、厳島を襲おうとしたが、家来の兵一人が海に堕ち、厳島に行き着かずに岩国に帰った。

十六日、弘中隆兼に呼ばれて、その陣営・琥珀院に行く。
隆兼の子・中務が晴賢の依頼によって誅を加える、と大声で言い、伏兵が出て来て房栄を攻撃した。終日戦って、三人に傷を負わせ、房栄も重傷を負って門柱によりかかったまま、倒れずに死んだ。三十九歳だった。上下こぞってその死を惜んだという。

 ※晴賢が房栄を殺害したのは、房栄が勇敢な上に賢く、晴賢家人の中で右に出る者がなかったので、まずこれを殺害し、晴賢を補佐する者を除こうとする毛利元就の策であった。
房栄は書を善くするから、人をやって書を求めさせると、房栄は辞退せずに応じた。よって、その筆跡を模し、房栄が元就に通じ、晴賢が厳島を取ることは毛利氏にとって不利なので、厳島を攻撃させないようにすると書いた密書を作らせ、 軍議の席にて武官に示した。
これに先立ち、晴賢も 天野慶安に(命じて)元就を騙し、偽りの内通をさせていたが、元就は(そうと知りつつ)故意に慶安を厚遇していた。この日、慶安も軍議の席に加わっており、これを見て晴賢に報告した。そこで、晴賢は大挙して厳島を取ることを房栄に相談した。房栄は不可である、として一心に諫めた。晴賢は慶安が知らせたことと合致していたことから、弘中に依頼して房栄を殺 したのだった。

三浦越中守

名前不明。
※諸軍記では弘中隆兼などと同列に記すが、房顕記に陶内とあるので晴賢家人である。

晴賢は厳島に渡ろうとし、まず越中守に海上を巡視させた。越中守は厳島、草津、仁保島等を巡って戻り、報告をした。そこで晴賢は厳島に渡り、塔岡に陣を置いた。

毛利兵が襲撃すると、将兵は皆、塔岡に群集し、重なり合って戦う隙間もなく、全軍が散り散りとなって逃れた。晴賢が自殺しようとすると、越中守がこれをとどめ、己れが殿戦(しんがり)し死を以て防ぐ、と晴賢を逃し、青海苔の嶮(険しい所)にたてこもり、毛利兵の追撃を待った。小早川隆景が皆に先立って晴賢を追い、越中守はこれを防ぎ、赤川左京亮元保と槍を合せた。

越中守の所には十六人の兵がいたが、皆、強く勇ましく「十六騎武者」と称えられていた。隆景に集中して力戦し、隆景の近臣・南勘兵衛、山県勘二郎、草井藤市、内海十郎及び同朋井上一忠等がこのために死んだ。隆景自らも槍を取って戦い、三か所に傷を負った。元保はこれを見て越中守にかまわず、隆景を救った。

吉川元春が隆景の急を聞いて駆けつけ、越中守の兵二十余人は皆死んだ。越中守は石に腰をかけていた。内藤内蔵允、高弥三郎がその背を射る。二箭皆命中した。越中守が槍を取って立つと、二宮木工助が向かっていき、越中守は木工助と戦って刺され、槍刃が脇から肩に出た。越中守は倒れ、井尻又右衛門がその首を取ろうと駆け寄ったが、越中守は転んで谷に堕ち、内藤内蔵允に首を取られた。

ミル
ミル

「その他」ってか、元のご本で、見出しが小っちゃい人たちです……。このページは、内容が増えたならば、見出しを格上げしたり、独立してタイトルになったりする人が出てくるかもね。

その他

山崎伊豆守

名前不明(系譜は名を興守とし、子・右京進、名を隆次とするが、興字、隆字を名とするはずがない。 内藤隆世にすすめて杉重輔兄弟を撃たせた山崎右馬允はこの伊豆守の初名ではないかと思われる) 。⇒ 内藤隆世

都濃郡須々万奥村の熊毛山 (船岡山、茶臼山ともいう)城主。
子・右京進、名前不明、同真光院山城主。

勝屋右馬允

(系譜は興久、相良遠江守武任の弟とする。武任には兄弟親族はないと思われ、それはともかく、右馬允が遠江守の弟であったなら、晴賢が殺さないでおくだろうか)
同殿浴山城主(系譜に勝屋淡路守、同若狭守の名が見える)。

江良弾正忠、江良主水正、伊香賀左衛門大夫、宮川伊豆守

江良弾正忠は、名は賢宣(系譜は興綱とするが、古文書には賢宣とある。これで晴賢が家人であり、興字、隆字 を名とすることば誤りであると知るべきである)。
同本郷村遠徳山城主。

弘治二年、毛利兵が進入するのを防ぐために、江良主水正、伊香賀左衛門大夫と、本郷沼城はそばに大沢(沼)があって地の利を得ていたから、おのおの居城 をすててここにたてこもった(沼城もと誰が守る所だったのか分らない)。

義長は須子下総守、三輪兵部丞等を援軍として派遣した。

四月(四日より前)毛利兵が攻撃してきた。江良主水正は出撃し、陶鶴千代丸(右馬允隆康の遺児)に斬られた。⇒ 陶鶴千代
二十日、また攻撃され、迎え撃ってこれを打ち負かした。伊香賀左衛門大夫は追撃し、鴈田で渡辺小三郎長と戦って死んだ。
翌日、毛利氏撤退。勝屋右馬允は追撃し、白砂川で松原将監進氏信に射られ、坂新五左衛門尉元祐に斬られた(右馬允の刀が松原氏に伝えられている。空穂は須々万の城某所蔵。その蓋に登藤の徽章がある。もとは空穂中に上差の矢と、大麻の玉串とが収めてあったという。また登藤の差物があり、福川村の福田某所蔵。徽章の登藤は竪三尺四寸三分、横三尺三寸八分、花は銀 泥、葉は青漆である)。

七月十日、また攻撃される。
九月廿二日、また攻撃。この日、須子下総守、三輪兵部丞等二十余人及び城兵十三人が戦死した。(古文書に城兵は町野口で戦死、と見える。須子等は場所が分らない)。

三年三月二日、沼城陥落。山崎父子、自殺。
江良弾正忠、宮川伊豆守は毛利氏に降った。
四日、毛利氏は江良、宮川を仮の城督とした。この二人について、その最期は分らない。

空穂(うつぼ):矢をまとめて入れて、腰に付けておくための筒形の道具(『漢字源』)

野上房忠

幼名:道祖童(享禄二年九月三日文書、当時既に小守護代であった)、はじめ平兵衛尉、のち隠岐守となる。周防小守護代(寛正二年に野上隠岐守、文明八年に野上平太郎と古文書にあり、大永四年に野上右馬助と房顕記にある。房忠の祖先で皆周防小守護代であった)

晴賢が叛した時、伊香賀房明、江良房栄と謀議に加わった。

大内義長が且山に逃れ、房忠は晴賢の遺児・鶴寿丸を背に負ってこれに従った。
義長が長福寺で自殺すると、房忠は鶴寿丸を殺してこれに殉じさせ、己は鶴寿丸に殉死した。⇒ 鶴寿丸

ミル
ミル

正確には以下の人たちは家来というべき人たちではないけど、分類の便宜上ここに入っています。

オマケ:重見通種

因幡守。伊予の河野のみうちである。わけあって出奔し周防に来た。義隆は安芸国西条の木原に領地を与え、陶晴賢に身柄を預けた。晴賢は厚く待遇した。厳島の合戦に従う。
毛利兵に捕らえられ、自殺させてほしいと願い出た。 元就は通種の人となりを愛し、 また名士であることからその死を惜み、近臣に命じ、 通種は晴賢とのあいだに主従の恩義はなく、既にその分(よしみ)は尽くしている。今は考えを変えて毛利氏に従うようにおしえさとしたが、通種はききいれなかった。
元就は強引に、もし命に従わないなら西条に残している二子を捕へて来て、目の前で殺すであろう、伝えた。通種は言った。某は陶氏の恩をうけたので、入道と生死を共にしようと望んでいたのに、隔てられて捕虜の身となってしまうなど、どうして予期したろうか。元就の誠意はかたじけないけれども、いっそのこと死を賜らんことを願う。子等のことは西条を出る時既に覚悟していた。天の定めのままであるだけだ、と答えた。
そこで元就はやむを得ずその願い出をゆるし、二子には扶持を与えるだろうと告げた。通種はこれに感謝して有浦で切腹した。 二子は毛利氏に扶持を与えられ、子孫は今に続いている。

オマケ2:渡辺可性&宗阿弥

渡辺可性は狂歌に優れていた。 宗阿弥は和歌を好んだ。 陶氏の同朋だった。。厳島合戦で 二人は捕虜となった。元就が命じて、各々に一首を作らせた。

可性:懸てしも頼むやもりのしめだすき命ひとつに二つまきして

その日、毛利氏の兵が注連縄(しめなわ)を二重襁(せおいおび)として相印としたことを詠んだのである。

宗阿弥:名を惜む人としいへと身を惜むをしさにかへて名をば惜まじ

元就は彼らの歌に感心して放免したという。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十四「文苑」、巻二十八「叛逆」、巻第三十「陶晴賢家人」より

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元ドメイン公開日:2022年3月22日 7:20 PM

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