陶のくにの人々

陶隆康 と子ら

鶴千代

基本情報

隆康:右馬允(父・弘詮、妻・宇野氏、子・隆弘、鶴千代)
隆弘:中務少輔(父・隆康、弟・鶴千代)

「隆康、節に死す」―― 近藤清石『大内氏実録』

陶隆康は陶弘詮の子である。

永正十四年七月十八日、父の所領を受けつぐ。

天文二年二月、目付となって従弟・陶興房の軍に赴く。
三月三日、肥前国三根郡千栗村で戦い、手柄をたてた。
十三日、義隆は書状を与え「早速の大手柄、任務のたびに殊勝である」と言った。
※「毎事」とあるので、ほかにも軍功があったと思われるが、感状などは伝わっていない。

天文二十年八月廿八日、大寧寺の政変により、法泉寺に逃れた大内義隆に付き従う。
二十九日夜、義隆が長門国へと落ち延びていった際、隆康は法泉寺に残って戦い、追撃する敵兵をくいとめた。

隆康は法泉寺で亡くなり、法名を蘭渓道忠という。
妻は宇野家の女性で、息子が二人いた。長男が隆弘、次男が鶴千代である。

隆弘は父に従い、法泉寺で戦死した。法名:鳳格道外。

鶴千代は弘治二年、毛利家が都濃郡須々万の沼城を攻撃した際、この軍に加わり、城将・江良主水正を斬った。この時、僅かに十四歳であった。のち、母方の姓を継いで、宇野八郎元弘と名乗った。⇒ 江良主水正

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻第二十二 列伝第八「死事」より

 

大寧寺@長門深川
鶴ちゃんイメージ画像
鶴ちゃん

お屋形様が亡くなられた大寧寺には、忠義の家臣たちの名前を記した石碑がずらっと並んでいる。ちちうえとあにうえの供養碑もここにあるんだ……。

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元ドメイン公開日:2022年3月11日 11:52 PM

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