みやじま・えりゅしおん

包ヶ浦(廿日市市宮島町)

2023-07-09

包ヶ浦自然公園・厳島合戦案内版

広島県廿日市市宮島町の包ヶ浦とは?

宮島の東側にある海岸。桟橋から歩いて 40分ほどかかります。途中、長浜神社、杉之浦神社などに参詣することができます。最初は山道ですが、やがて海が見えるようになると、海風が心地良く、眺めも楽しめる散歩コースとなります。40分も歩きたくない、という方のためには、メイプルライナーという乗り合いバスを使う行き方もあります。

ビーチハウス、運動広場、キャンプ場、ケビン、テニスコートなどのレジャー施設が揃った包ヶ浦自然公園があり、家族や、友人、あるいは学校行事や会社の親睦旅行などでキャンプを楽しむことができます。

厳島合戦の際、毛利軍が上陸した地点としても有名で、「上陸地点」石碑や、合戦案内看板などが立っています。包ヶ浦から、毛利元就が奇襲作戦を決行した「博奕尾」までは包ヶ浦自然歩道という道が続いています。また、鷹巣浦神社や腰少浦神社に向かう舗装路も、眼下に白砂青松の海を眺めることができる最高のハイキングコースです。

包ヶ浦・基本情報

包ヶ浦(地図)

包ヶ浦の所在地は上の案内看板にある通りです。海は所在地住所がわかりにくいですので、包ヶ浦自然公園の住所を参考にします(赤枠で囲ったところです)。

所在地 〒739-0588 廿日市宮島町 1195

ご覧の通りかなりの距離を歩かねばなりません(黄色でなぞった道)。この日一日、包ヶ浦でまったり過ごすのであれば、歩いて行くのが楽しいですが、包ヶ浦を拠点としてなおも先へ進む場合(腰少浦神社、青海苔浦神社など)、博奕尾まで包ヶ浦から行きたい場合などは乗り合いバスを使ったほうがよいかも知れません。健脚な方は歩いてしまって問題ないのですが、行き先によっては明るいうちに戻って来れないようなたいへんなことになります。

包ヶ浦・歴史と概観

この先腰少浦神社までは、桟橋から車道が繋がっています。道がきちんと舗装されているため、転倒や迷子などの事故が起りにくいということになります。桟橋から距離があり、歩くのがたいへんなわりには整備が行き届いていて、安全かつ風光明媚な穴場スポットです。

とは言え、宮島の海が見たい、という理由だけで包ヶ浦まで来るのはあまりにも遠いため、特別な思い入れがない方にとっては、観光資源的価値はそう高くないという印象です。海ならば、宮島の周囲すべて海ですし、何もない道を40 分も歩くほどヒマではないのがイマドキの社会人 & 童ですので。

じゃあ、どんな人がココを目指すのか、といえば以下に該当する方々です。

一、毛利元就が好き
二、厳島合戦史跡を全部みたい
三、人混みが苦手なので、海辺でまったりするにも他の人はいないほうがいい
四、包ヶ浦自然公園でレジャーを楽しみたい
五、厳島神社の摂社・末社をコンプリートするために回っている

一と二に当てはまる人にとっては、40分歩こうがどうということはないでしょう。頑張ってください。四の方もここへ来ないことにはどうしようもないです。問題は三と五の方です。なぜなら……

一、参道や海岸通りほど人混みは多くないものの、ゼロではないです。同じことを考えておられる方はほかにもいらっしゃるので。また、常にシーズンオフしか訪問しないため、自然公園でレジャーを楽しんでおられる方を見かけた経験がじつはないのですが、シーズンオンともなれば、当たり前ですが、海岸は人で溢れているはずです……。

二、確かにこの道を行けば、杉之浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社という浦々の神社四社を参詣できます。けれども、肝心の包ヶ浦神社へは歩いては行けませんし、青海苔浦神社より先の神社も無理です。いずれ、宮島観光協会さまの浦々の神社巡りの観光船に応募することになるので、どこも一度だけ行けばかまわないと思われるのであれば、歩くのは疲れるだけです。

と言うような訳で、コチラでは、主に一と二の方のために記事を作成いたします。

上陸地点・包ヶ浦

細かく調べていくと、毛利元就厳島合戦史跡は数え切れないことになりますが、宮島と関係があるものに限定すれば、かなり絞られます。

厳島合戦要図(案内看板)

博奕尾にあった「厳島合戦要図」をお借りして、今回のご紹介箇所を強調してみた図です。簡単にご説明しますと、以下の通りです。

大内方関連史跡 塔の岡(本陣所在地)⇒ 大元浦(上陸地点、敗戦後の逃走経路)⇒ 大江浦(逃走経路)⇒ 青海苔浦(逃走経路、※この看板内には載っていません)⇒ 髙安ヶ原(伝・総大将自害の地、※同左)
弘中隆兼移動経路 博奕尾 ⇒ 本陣? ⇒ 御手洗川(滝小路)⇒ 出城  ⇒ 駒ヶ林
両軍戦闘箇所 博奕尾(毛利本隊、弘中隊)⇒ 塔の岡 ⇒ 滝小路(吉川元春隊、弘中隆兼隊)⇒ 柳小路(吉川元春隊、大内軍逃走中部隊)

厳島合戦準備と実行(毛利方)・まとめ

  1. 地御前神社に本陣置いて
  2. 火立岩から出陣して
  3. 包ヶ浦に上陸し
  4. 博奕尾というところを作戦決行地点として
  5. 敵本陣・塔の岡めがけて奇襲した
  6. これらのことを決行するにあたり、敵を厳島に呼び寄せるために宮尾城というどうでもいい仮の城を作って置いた

で、この包ヶ浦は毛利軍の上陸地点にあたるわけです。桟橋から遠いことが災いして、毛利元就人気のわりには、観光客が疎らです(『上陸地点』碑のことを言ってます)。

そもそもですが、宮島を訪れる観光客の皆さんには海外からのお客様もとても多いです。まれに、西洋のお客様で、セキガハラとか見に来る方がおられますが、極めてレアです。以前何かのテレビ番組で見たのですが、セキガハラで誰それの本陣はどこにあった、みたいなことを知りたがっていた(知っていたのかもしれませんが、忘れました。そもそも、日本人でも知ってるの?)ことに驚きました。けれども、このような方は本当に極めてレアです(しつこい)。

厳島神社の海に浮かぶ大鳥居が美しいことは世界中に知られていますが、厳島合戦で毛利元就がココに上陸したということが、世界的に有名だったとしたら、それこそビックリです。海外どころか、国内の方でもよほど興味がおありでない限り、ご存じないでしょう。たとえ、ご存じだったとしても、桟橋から歩いて40分もかけてまで見にくるはずがない。

そもそも「合戦跡地」なるものは、単なる野っ原(セキガハラとか、多分。興味ないからしらない)だったり、今はただの山となっている山城跡だったりするわけです。そんなものを見に来る人はよほどの思い入れがある人です。国内はともかく、海外にそこまで日本のとある誰か、もしくはとある合戦などに関心がある人が大量においでになるとは思えません。「毛利元就上陸碑」附近が閑散としていても無理からぬこと、というより自然なことです。ここが連日長蛇の列になっていたら、それこそ異常事態かと。

とは言え、毛利元就贔屓の方で、厳島合戦の上陸地点がどこなのかご存じない方がおられたとしたら潜りですね。あとはまあ、昨今流行りの軍事評論家なる方々だったり、戦史研究家なる方々もご存じかも。それ以外は地元の方のみぞ知るという感じですよ。

旅行会社の社員で知らないで恥をかくのって、セキガハラだったり、川中島だったりします。厳島も当然、知ってるけど、毛利軍の上陸地点まで知っている社員さんは「たまたま」ですよ。「跡地」が公園などになっていると途端に観光資源と化すかもですが、その意味では「包ヶ浦自然公園」となっているココが、あまり知られていないのは残念ですね、

奇襲作戦決行地点・博奕尾

博奕尾も、包ヶ浦上陸地点と似たり寄ったりです。そもそも、イマドキの人は何でもメンドーなんです。博奕尾まで行くのにどんだけ歩かねばならぬのかと考えた時点で、ハイキングの方たち以外は誰も行き先に選びません。れいの、毛利元就礼賛の方は別ですが。

博奕尾の尾根についた毛利元就が、この場所の地名を訪ねると「博奕尾」だと知り、「博奕は討つもの。この戦勝ったも同然」と言ったとか言わないとかいう逸話を聞いたとき、ア×らしい。源義経が勝浦上陸して勝利したとか、そのあと同じく奇襲して勝つとか、はったりやらせもいいところ。仮に事実だったとして、打つ = 討つとか、つまらん爺さんギャグじゃん、って最初は思いました。ですがこれ、違うんですよね。

毛利元就ほどの人ならば、地名が博奕尾でそれこそ「討つ」ものであったくらいで、= 勝てるなんて馬鹿らしいことを考えるはずがありません。合戦に勝利できるかどうかが、地名とは無関係であることくらい明白です。ですけど、そのた大勢の人にとっては違うんですよ。時はイマドキと違い中世。こういうどうでもいいことから勝てるはずもない戦に絶対勝てると信じてしまうような時代です。元就がこの発言をした意図はそこにあったんです。

将兵たちは皆、元就を信じて付き従っているわけです。それでも、敵は大軍味方は小勢とか考えれば、不安が過ぎらないでもなかったでしょう。『陰徳太平記』には、毛利軍の前に鹿が現われて一行を導いたという逸話があります。元就はこの鹿を「(厳島)明神の道案内」と言ったとか(巻二十七『毛利元就厳島渡海 附・同所合戦事』)。これだって、インチキだと思ったけど、宮島の山の中は鹿だらけなので、一頭くらい現われても何の不思議もありません。それを「神の使い」にしてしまう。信心深いお方だったとはお伺いしていますが、本当に神の使いが現われて導いてくれたとまで考えたかどうかは怪しいものです。でも、そのた大勢はやはり違います。感動のあまり勝利疑いなしと信じてしまったかも知れません。「勝てるかどうかわからず不安」な状態で戦うのと、「勝利疑いなし」状態で戦うのとで、どちらが実力を発揮できるかはいうまでもないでしょう。元就というお方は、通りすがりの鹿一頭まで、利用してしまうんですよ。

こうやって、周囲の人々を励まし、やる気を引き出すように仕向けるということができるのも元就さんならではなんじゃないでしょうか。最後の殿様とか陶入道ならばですよ、取り巻き A みたいなおべんちゃらが出てきて「おおお、これは神の使いの鹿でございます! お味方勝利疑いなしです」のような油嘴滑舌におだてられて上機嫌となり、殿様は褒美の品を下賜、入道はますます自信を深めるというような流れとなりそうです。でも付き従っている将兵たちからしたら、茶番に付き合わされただけです。この作戦、ダメなんじゃないだろうか、とか不信感が沸き上がるかも知れません。

毛利元就という人の観察眼の鋭さには本当に驚かされます。相手がどのような人物で、どう考え、どう動くか、先の先まで見通すことができるお人だったのだと思います。相手というのは、敵とは限らず、このような一般兵士たちに至るまで、常にじゅうぶんに観察していたんですね。だから、人心掌握術に長けていたんです。

「囮の城にまんまと入るなんて愚かだ」と言っている方々にわかっていただきたいのは、別に「騙されて」入ったんじゃないということです。大内から見たら毛利家など(ご無礼ながら)単なる一国人風情、一捻りだ、そんな驕りがあったはずです。時代は戦国乱世に移り、うちは大国なので、とのほほんとしておられない状態になっている。それに気付かず公家の宴会を繰り返していた殿様に、こんな主じゃダメだ、と叛旗を翻したはずなのに、やはりわかっていない。最高実力者になった途端、人が変ってしまったんでしょうか。

相手はとっくに、単なる一国人風情なんかではなくなっています。それに、過去にはあれこれの合戦をともにする機会があったのですから、元就の人となりについても知っていたはずです。加えて、日々膨大な情報を耳にしてもいたでしょう。相手があれこれの策を弄するタイプの人物だということくらいわかっていてしかるべきです。けど、わかっていない、というよりわかろうともしなかったんだろうな。まあ、そういう驕り、相手を格下に見ている状態ならば、大軍を引き連れて華々しく出陣し、我が力を見せつけないと気がすまないじゃないですか。しかも、敵軍は畏れ多くも大内氏歴代が大切に敬ってきた要衝の地・厳島に、ヘンテコな城を築こうとしている。すぐさま追い払うべきです。

仮に「囮の城」が怪しいと思ったとしても、厳島には絶対に渡航したと思います。負けるかも、なんて1ミリも思ってないもん。そういう「絶対来るだろう」って性格を、毛利元就には完全に読まれていましたね。そんなちっちゃなボロ城、本人自ら来なくても、家来 A に落とさせればじゅうぶんかと。小勢の敵を追い出すのに、大軍は不要です。目障りな小城なくなってスッキリした厳島に、総大将様専用大要塞造ってから渡海したっていいのに。だけど、自ら来ないと気がすまないわけ。要は国力の違いを見せつけてやりたいんですよ。むろん、この時点ではまだ、国力の違いは歴然としていたわけで、毛利元就的にもこの一戦は、それこそ大博打だったと思います。「博奕尾」って地名はまさに、これ以上相応しいものもなかろう、って感じです。しかも本当に、「討ち」勝ってしまったという。

包ヶ浦・みどころ

包ヶ浦じたいは海なので、きれいな海辺ではありますが、それじたいが観光資源というわけではありません。桟橋からここまで歩いて来るまでの道のりにある神社の参詣、包ヶ浦にある「毛利元就上陸碑」などがみどころです。あとは、道中の景色が美しいので、そこここでシャッターチャンスがあります。何度も言うように「歩いたら40分」ですので、歩きたくない方にオススメはできませんが。

包ヶ浦までの道

桟橋付近東端

桟橋のあるところを厳島神社とは反対方向に行ったら何があるんだろう、と常に考えていました。何度も行ってみたんですが、このようになって行き止まりになっています。船があれば当然、もっと先まで行けます。海上にどのような景色が広がっているかわかりませんが、徒歩で行けるのはここまでとなります。

で、これより先に行く道はないのか、ということですが、あります。桟橋からこの行き止まりに至る手前で右折です。どこに続くのか不安になる長い長い道がございます。かなり広い車道ですので、心細い山道ではありません。あまりに普通すぎる道路なので、写真撮影はしておらず、掲載できるものがありませんが。

同じ道をひたすら歩き続けると、やがて左手の方向が海岸となります。これが杉之浦です。

杉之浦と杉之浦神社

杉の浦付近

ここから十分ほど歩くと杉之浦神社がありました。浦々の神社ですでにご紹介済です。ここまでで、桟橋から20分以上歩いています。⇒ 関連記事:浦々の神社

杉之浦神社

包ヶ浦はなお遠い

包ヶ浦への道

ひたすらにきれいに舗装された車道が続きます。あまりに長いので、だんだん心配になってきますが、ところどころに、「包ヶ浦自然公園」まで ○○㎞ という看板があるので、見かけると安心します。

包ヶ浦・包ヶ浦へ続く道(海)

左手の方角にはずっと海岸線が続いています。歩くのに疲れたら、ちょっと休憩して海を眺めると心洗われます。でも、見えている島がなんなのか、やはりわからない……。

包ヶ浦到着

包ヶ浦

ようやく包ヶ浦に到着しました。包ヶ浦じたいは広いので、もう少し先から始まっているかも知れないのですが、ココより包ヶ浦、のような標識があるわけではないので、包ヶ浦自然公園が見えてきたこの辺りなら間違えないだろう、と判断しています。

包ヶ浦自然公園

キャンプ場をはじめとして、テニスコートや運動広場など文字通り自然の中で存分に楽しめる人気の公園です。キャンプ場なんて、全国各地に数え切れないほどありますが、宮島でキャンプできるなんて羨ましい限りです。

包ヶ浦自然公園・基本情報

住所 〒739-0588 広島県廿日市市宮島町1195
電話 0829-44-2903(管理センター9:00~17:00まで)
ホームページ https://tsutsumigaura.com/

包ヶ浦自然公園「シバナ生息ハート池」

Googlemap を見たら「シバナ生息ハート池」と書いてありました。包ヶ浦自然公園のホームページには書いていなかったので、公式アナウンスではありません。まあ、池であることは確かですね。

包ヶ浦自然公園・鹿の群れ

宮島の公園はどこも鹿たちの楽園です。包ヶ浦に至るまでの道でも、たくさんの鹿と行き会いましたが、それらはあまり人に慣れていないのか(道中ほとんど通行人がおられなかったので、すごくよくわかります)、逃げられてしまいましたが、公園内の群は人に慣れているようです。

包ヶ浦・包ヶ浦自然公園「ビーチ」

公園付近の海岸です。「ビーチ」もあるってことなんですが、ここらの海岸すべてそうなのか、定められた範囲内なのかちょっと不明。シーズンオフなので閑散としていますが、シーズン到来となったらたいへんなことになると思われます。キャンプ場にどなたもおいでにならない時ですと、桟橋からここまで歩いて来る人も稀なので(ゼロではないです)、海を眺めながらのんびりと過ごせます。

「毛利元就上陸碑」

包ヶ浦・毛利元就上陸記念碑

こちらが、毛利軍の包ヶ浦上陸記念碑。そう言えばさ、毛利軍の上陸記念碑はあるのに、大内軍のはないよね(当たり前か)。上陸碑のほかにも、合戦のあらましを伝える案内看板が多数あります。

包ヶ浦・案内看板類

博奕尾

博奕尾・案内看板

毛利元就が奇襲作戦を成功させた際の、出撃地点が博奕尾です。地図をご覧くださればお分かりの通り、博奕尾に行くには紅葉谷方面からのほうがずっと近いです。ですけど、毛利元就は、包ヶ浦から上陸し、博奕尾の尾根に登り、そこから奇襲を成功させたのです。ということは、毛利軍の奇襲作戦を追体験するためには、「包ヶ浦 ⇒ 博奕尾」というルートを使わなければなりません。⇒ 関連記事:「厳島合戦跡」全看板

えーーそんな、メンドー。という声が聞こえてきそうですが、そのような方は特に厳島合戦なんぞに関心はない方だと思われますので、無理して大変な道を行く必要はまったくないです。ちなみにですが、博奕尾の尾根から、塔の岡に下りていくことはできないようなので(それ用の道はないです)、結局のところ、完全に毛利元就になりきることは無理です。つまりは、「包ヶ浦 ⇒ 博奕尾」というたいへんなルートを使う意義はあまりないということです。ミルたちの場合は、大聖院からスタートしたので、紅葉谷を通ったのだと思います。ただし、帰りは包ヶ浦に下りてきました。博奕尾

博奕尾の光景はこんな感じです。この時は、大鳥居が修理中だったので、展望は今ひとつでした。とはいえ、二回も行くほどのところではないので、もはや仕方ないですね。重要なのは、奇襲作戦決行地点から、目的地の敵本陣がどのように見えていたか、ということになります。それについては、下の写真をごらんくださいませ。

博奕尾からの眺め

ちょっとわかりにくいのですが、黄色枠内に五重塔と千畳閣があります。厳島合戦時には千畳閣はありませんでしたので、その場所も含めて大内方本陣です。後から邪魔なモノを造りやがってと思いましたが、千畳閣がデカくて見付けやすいことから、博奕尾から敵本陣が手に取るように見えたことがわかった次第です。五重塔はかなり見付けづらいですので、千畳閣がなかったらはっきりしなかったかも知れません。

双眼鏡もない時代、そんなにわかりづらいんじゃ毛利軍からもよく見えなかったのでは? と思われるかも知れないですが、本陣では当然、明かりを点していたりしますから、よく見えたはずですよ。

包ヶ浦自然歩道

包ヶ浦自然歩道

包ヶ浦自然歩道は、紅葉谷付近から始まっており、そこからずっと包ヶ浦まで下りてくるというとても長い道です。自然歩道とあるので、ハイキングや自然観察に最適な山道だと思われます。この道を使い、博奕尾まで下りてきたはずなのですが、特段目を引く光景もなかったのか、写真がこれ一枚しかありません。

包ヶ浦から腰少浦神社までの道

包ヶ浦を過ぎた後も、舗装道路は腰少浦神社まで続いています。かなり歩くことになりますが、腰少神社までは歩ける、とお話しました。道は包ヶ浦までと比べて非常に細くなり、大きな車輌ですと、すれ違いできるのかな、という感じです。でも、実際には人はもちろん、車に出遭うことも稀です。この道にも名前がついているのではないかと思うのですが、現地の案内看板でも、桟橋で配布されている観光協会さまの地図でも、包ヶ浦より先は載っていないため、道の名前がわかりません(範囲が広くなりすぎて、掲載できないのですね)。

世の中に名前のない道路などあるとは思えないので、なんとか調べたいと思っていますが、現状不明ですので、見出しのようなことになりました。名前もわからない道を掲載する理由は、この道から見える光景が素晴らしい絶景だからです。眼下に見下ろす白砂青松の海、たまりません。
※追記:この道も「包ヶ浦自然歩道」であることを、現地案内版により確認しました。

包ヶ浦から腰少神社までの道

包ヶ浦から腰少神社までの道

包ヶ浦から腰少神社までの道

附・長浜神社

桟橋から包ヶ浦に向かうのならば、途中長浜神社に参詣できます。というよりも、長浜神社じたいは桟橋からさして遠くないですので、簡単に行けます。とはいえ、桟橋付近に載せるほど近いかな……と思いましたので、コチラでご紹介しておきます。

長浜神社・鳥居

砂浜近くに立つ鳥居は、厳島神社の鳥居にそっくりで、とても魅力的です。下は裏側から見たところ。背景に海が入りますので、裏から見た構図も好きです。

長浜神社・鳥居(裏側)

長浜神社・社殿

「長浜神社
厳島神社摂社
御祭神 興津彦命、興津姫命
相田 所翁
由緒 御鎮座の年月は不詳です
御本社管弦祭の時この
神社の前で雅楽が演奏
されます 漁業者の
信仰が篤い神様です
例祭 十一月二十日」
(由緒看板)

包ヶ浦(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒739-0588 廿日市宮島町 1195
※海なので所在地住所はわからないです。包ヶ浦自然公園管理事務所さまの住所です。

アクセス

桟橋から徒歩で40分かかります。これを遠いと思う方には徒歩での行き方はオススメできません。乗り合いバス・メイプルライナーを使ったほうがよいです。バスは本数が少ないため、あらかじめ時刻表を確認しておいてくださいませ。

徒歩で行く場合、長浜神社、杉之浦神社に参詣できます。特に、杉之浦神社は桟橋から遠いですので、どうしても行きたい方は覚悟を決めて歩きましょう。包ヶ浦よりは多少手前です。

道はわかりやすく、全行程舗装された車道ですので、道に関しては何の心配もありません。

毛利元就上陸地点の石碑と一緒に博奕尾も見たい方は、包ヶ浦自然歩道を行きます。こちらは山道ですので、それなりキツい上、距離がとても長いです。博奕尾まで行ったところで、何もない(看板があるだけです)が、それでも見ておきたい方は、紅葉谷からショートカットしたほうがよいと思います。むろん、毛利軍が行軍したままの道を行きたい方には素直に包ヶ浦から行くことをおすすめします。ただし、博奕尾から塔の岡への奇襲ごっこはできませんので、あらかじめご了承ください。

参考文献:『宮島本』、包ヶ浦自然公園さまホームページ、現地案内看板、『陰徳太平記』そのた

包ヶ浦(廿日市市宮島町)について:まとめ&感想

包ヶ浦(廿日市市宮島町)・まとめ

  1. 厳島合戦の時、毛利軍が上陸したところ。毛利元就上陸地点の記念石碑がある
  2. 海の向かい側は、包ヶ浦自然公園となっており、キャンプ場やそのたのスポーツ施設などが完備されている
  3. 桟橋から包ヶ浦までは、舗装された車道が通っているので、歩きやすいが、距離が遠く40分かかる
  4. 乗り合いバス・メイプルライナーが走っているので、体力を消耗せずに行くことが可能だが、本数があまり多くないため、時刻表を確認しておいたほうがいい
  5. 毛利軍が敵本陣を奇襲した博奕尾までは包ヶ浦からだとかなり遠い。紅葉谷からも行くことができるため、こだわりのない人は距離が短い道からの行き方推奨
  6. 包ヶ浦から先、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社などにも徒歩で行ける。ただし、時間は包ヶ浦までの40分にさらに加算されていくので、神社参詣というよりはハイキング、それもかなりの強行軍となる

時間はかかりますが、何もかも忘れてひたすら歩くのが好きです。包ヶ浦自然公園は明るく、清潔な印象ですが、宮島でキャンプをするのはやはり、地元の学校や家族連れの方などが多いのかなぁと想像します。観光客にとっては、宮島はキャンプ場ではなく、観光地でしょう。その意味ではここには何ら観光資源がないですから、シーズンオフに人が疎らとなるのも頷けます。本文中に書いたので繰り返しませんが、行く人を選ぶ場所だと思います。その意味で、は完全に「行く必要のない人」の部類に入ります。

ただし、包ヶ浦から腰少浦神社までの舗装路(車も通れます)からの眺めが本当に素晴らしいんです。ここだけは何度でも行きたいと思っている場所ですが、スタート地点までが徒歩40分というのはさすがにちょっとキツいですね。なお、青海苔浦神社にも歩いて行くことができるのですが、車道がなくなり山道となるため、腰少浦神社より先はひとりで歩いていかないほうがいいです。

毛利元就の上陸記念碑が訪れる人もなく、ひっそりとあるのを見ると内心笑壺にハマっているのですけど、そのくらいで敗戦の不愉快さは消えないので、ますますもって、わざわざ己が拝みにくる必要性を感じません。

厳島合戦で毛利元就が鮮やかな奇襲作戦を決めた、もうこのことは既成事実として黙認します。宮島は島全体が毛利元就礼賛看板で溢れておりますが、いちいち気にすることもやめました。そもそも、広島県中に溢れております。そして、これは単に認めたくないがゆえに聞こえないふりをしていただけなんですが、我らが陶入道と毛利元就を比較すれば、いずれが有能であるかは誰の目にも明らかです。

愛は盲目と言っても、これ以上庇い続けるのは、己が無知で愚かであることを宣伝して回っているみたいなので、もはや限界です。敗軍の将はけっして愚かではありませんでしたが、自信過剰で傍若無人であったことは事実です。とは言え、あまりに自分自身に自信がないと、向上心もゼロとなり、大成しません。謙虚なことは美徳とはいえ、「自分なんてどうせ無理なので」を連発している人は後ろ向きとなり、ホントにちっぽけな人になってしまいます。なので、本人はとにかく、応援してる人には多少は自信過剰くらいであって欲しいと考えていました。その思いは今も変りません。

厳島合戦も辛い出来事ですが、城主さまが吉×に騙し討ちされたことのほうが、もっと悔しいというか腹が立ちます。この躓きの石がなかったら、歴史は変り、厳島合戦なんてなかったかも。どうせ、厳島では勝てない運命なら、せめて祖父さま謀殺した吉×をぶっ叩いて討滅してくれてたらよかったのにと思います。間違っても先祖代々の仇敵なんぞと和睦するな。なんで途中でやめて戻っちゃうのよ? なんだかあれこれと裏目に出てしまい、ついてない人生だったね。

結局のところ、ヘンテコな殿様にご退場願ったのはいいとして、殿様自殺しちゃったことに皆びっくりしちゃったのか、味方(= 家中)の人たちからもあまりよく思われていなかった気がする。結局、いつの世にも、なんでもかんでも忠義の人だーって人物は存在し、それが弘中さんだったり、冷泉隆豊だったりするわけ。心の中ではとっくに見限っているのに、裏切りはできないんだよね。そのような方々が称賛されていた時代、主の首を挿げ替えた、なんて驚きのことをしでかしてしまったら、普通の人はビックリして関わり合い持ちたくないと思うはず。大寧寺まで付き従って亡くなった人は特別だけど、そうではなくともあんまりだと感じていた人は多かったかと。これも現代の思想では理解に苦しむところだけれど。

それゆえに、厳島合戦の時、軍記物で言われているような大軍は動員できなかった(嫌われてたから?)と仰る研究者の方もおられます。みんな我が身が大切なので、上辺は服従していても、心底付き従っている人はどのくらいいたかは未知数です。そういう事情も、毛利元就には完全に把握されていたでしょう。こんな能力値の高い相手と戦って勝てるはずはありませんよ。

ダメな子ほど可愛いという親心ってあるみたいですね。まだ子どもいないからわからないんですけど。日本全国の人を敵に回しても、「愚将」って主張している人はぶっ叩いて回ります。これほど四面楚歌になってしまっても、最後まで見捨てないつもりです。

こんな方におすすめ

  • 毛利元就好きな人
  • 自然公園でレジャーを楽しみたい人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(怒)
五郎

ん? なんで陶入道の話で俺の顔見るんだ?

ミルイメージ画像(涙)
ミル

いや、別に見てないよ。

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

五郎とミル(サイトのキャラクター)が広島県内を観光した旅日記総合案内所(要するに目次ページです)。「みやじまえりゅしおん」(宮島観光日誌)、「はつかいち町歩き」(廿日市とたまに広島市内の観光日誌)内それぞれの記事へのリンクが貼ってあります。

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-みやじま・えりゅしおん