みやじま・えりゅしおん

「厳島合戦跡」全看板

2022-04-17

巫女

世界遺産・宮島には、厳島神社の大鳥居に感激し、ロープ―ウェイで弥山に登っていく一般の観光客に無視されるようにして、かつての合戦跡看板がそこここに立っている。
見て分かる通り、看板には毛利家の家紋がべったり。ここで大内家を礼賛する場違いな人はなかなか見つけられないだろう……。
この看板、じつによく書けている。すべてを読めば合戦のあらましはバッチリわかるかと。ただし、それぞれがゆかりの地に置いてあるので、神社だけの人がコンプリートするのは難しい。
全部制覇したミルが、ひとつひとつ立て看板にそって説明する。

ミル
ミル

説明する……というより、看板を掲示してあるだけね……。

「厳島合戦跡」総合看板

撮影場所:桟橋付近。その他多くの世界遺産看板などとともに、到着した観光客が最初に目にする場所にある。
説明:トップバッターにして総合まとめ。誰もが知っていることを書いているだけじゃん、って言われたらそれまでだけど、「こんなことがあったとさ」でかまわない人は、とりあえずこれだけは読んでから帰ろうね。どなたがまとめておられるのか分からないけど、これ以上ないくらい簡潔明瞭な、完璧すぎる名文だ。
カシャリと撮影すれば終わりなので、現地に赴くことができた人は、タダでまるっと分かってしまう幸運に感謝すべきだよ。
※どデカい看板写真を一挙にアップしたら瞬時で完了することですが、画像だけの意味不明ページとして処理される傾向ですので、メンドーな文字起こし作業を実行。

ミル
ミル

マジメンドー。この苦労、伝わったら嬉しい……。

厳島合戦説明看板

「1551年(天文11年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は1553年(天文22年) 晴賢に対し拳兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。

平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)5月、宮島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。

同年9月30日、元就は3500の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲 した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、 厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。

この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた嚴島神社の再建、修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである」
(看板説明文。漢数字は横書き用英数字に変更)

龍ヶ馬場(駒ヶ林)

駒ヶ林看板

設置場所:駒ヶ林
説明:ロープ―ウェイの終点、弥山から行くことができる。看板は二種類で、駒ヶ林の説明と、ここで行われたとされる戦闘についての説明。ここにはもちろん、戦闘の説明を載せる。
世紀の大合戦はあっという間に終結してしまい、総崩れとなった大内軍はただ逃げるだけだった。なので、大規模な戦闘はあまりなかったのが現実。その多くが撤退と、総大将を逃がすためのものだった。
その中で、ここ、駒ヶ林での戦闘は最後まで頑強に抵抗したということで、今に語り継がれている。
毛利びいきの地元の方でも、「弘中は好きだ」という人が多い。

「弘治元年(1555)寅の刻(午前四時)に始まった、 厳島合戦は、毛海軍の奇襲攻撃が功を奏し 、忽ちにして大勢は決した。陶の勇将弘中三河守隆包は、主君晴賢を大元へ落とした後、僅か百騎騎ばかりの兵と共に弥山に登りここにたてこもった。

これを追ってきた吉川元春以下の毛利方は、数倍の軍勢でこれをとり囲んだが、隆包の必死の働きにどうしても、討ちとることができず、やがて柵を作り兵糧攻めの作戦をとった。

このため、さしも勇猛なる武将弘中三河守もついにカ尽き、 二日後の十月三日 嫡子、中務と共に井上源右衛門らによって討ちとられた。

こうして史上名高い「厳島の合戦」は終りを告げたのである」(説明看板)

塔の岡

塔の岡看板

設置場所:塔の岡(五重塔、千畳閣付近)

塔の岡看板
塔の岡

「塔の岡」は厳島合戦で、陶軍が本陣を置いたところ。五重塔があることから、塔のある岡 ⇒ 塔の岡、と単純に考えていたけれども、何も厳島合戦で無様に負けた陶軍のためにある名前ではない。古来より地理的に重要な場所だったのだ。

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「五重の塔があるのでこの丘を塔の岡という。 毛利元就が陶晴賢を襲撃した厳島合戦の古戦場である。弘治元年(1555)9月21日晴賢は大軍を率いて上陸 し、ここに本陣を構え、毛利方の宮尾城を攻撃した。元就は主力をもって、 同30日夜暴風雨をついて包が浦に上陸し、翌朝未明博奕尾を越えて襲いかかり 陶軍は不意を突かれて大敗した。 この合戦で内海地域の制海権は毛利の手に移った。」(説明看板)

ミル
ミル

陶の本陣については看板があるのですが、毛利方のほうにはないんでしょうか? 宮ノ尾城に登りましたが、入口と山頂(?)に「要害山」とあっただけです。

火立岩

「厳島合戦において、毛利軍は、天文二十四年(一五五五) 九月三十日夜半から、荒天をついて、この地から乗船、出船した。」(看板説明文)

包ヶ浦

1555年(弘治元年) 九月三十日の夜半 毛利元就は長男隆元、二男吉川元春以下三 千五百余の主力軍を率い、折からの暴風雨と 夜陰をついて対岸の地御前火立岩(廿日市市) から塔の岡に本陣を置く陶晴賢に奇襲を かけるためこの地に上陸し、直ちに舟を帰し 文字通り「背水の陣」を敷いた。また、この 浦の名を「包ヶ浦」と聞いて、「彼はうつべ きもの、もはや敵は討たれたも同然」と将兵 を励ましたという。

翌月1日未明、元就は目前の山を越え 陶軍の背後にある博奕尾に登り、早朝一気に 山を下り、陶軍の本陣を意した。」(看板説明文)

包ヶ浦(別バージョン)

包ヶ浦看板
「弘治元年(一五五五) 九月三十日、毛利元就はその子毛利隆元、吉川元春以下二千余の本軍を率い、対岸の地御前火立砦(廿日市 市)を折りからの暴風雨をついて船出し亥の刻(午後十時) この地に上陸した。

一兵も失うことなく上陸を終ると元就は、この浦の名を、「包ヶ浦」ときいて「皷はうつべ きもの もはや敵は打たれたも同然」 と将兵を励まし、直ちに水軍の将 児玉就方に命じ、兵船を全て廿日市 へ帰させた。

そして我今九死に一 生の、戦に臨む、幸に利あらば晴賢 を得ん、もし利なければ即ち、死あ るのみ!」と、文字どおり背水の陣をしき、陶の背後にあたる博奕尾をめざして、風雨ようやく治った夜半全に進撃命令を下した。

博奕尾

「風雨こそ治ったとはいえ、深い 暗闇の中を、二千余の毛利軍 は険しい山道をよじ登り包ヶ浦からやっとこの尾根にたどりついた。

元就は隣の兵にこの地の名を尋 ねて、博奕尾と聞くと、
「昔、源義経は勝浦に上陸して平家 に勝った。今、吾等はこの博奕尾 にのぼった。博奕もうつもの、こ の戦はもはや打ち勝った!」と将士を励ました。

一方、陶晴賢は、これを夢にも 知らず 本陣を、五重塔のそびえ る「塔の岡」 に置き、二万の精鋭を各所に配置し 右前方の宮尾城(要害)に相対すると共に、 毛利軍の上陸を待ちかまえていた。

こうして弘治元年十月一日未明、日本三大奇襲戦の一つ といわれる「厳島合戦」の幕が切 っと おとされた。」(看板説明文)

博奕尾

毛利元就は火立岩から船に乗って包ヶ浦に上陸し、ひそかに博奕尾の尾根を目指した。ここから、塔の岡の陶軍に対してあざやかな奇襲を成功させたのである。

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大元浦

「1554年(天文二十三年)、厳島合戦の前哨戦ともいえる「折敷畑の戦い』(廿日市市に敗れた陶晴賢は、毛利元就と厳島で雌雄を決するため、翌年(弘治元年)九月二日、岩国から二万余の大軍を率い、この大元浦に上陸した。

晴賢は、多宝塔付近から五重塔のある塔の岡に本陣を移し、宮尾城を攻撃するなどして元 就を迎え討とうとした。

しかし、十月一日早朝、元就の奇襲を受けた陶軍は壊滅状態に陥り、再び大元浦へ戻り敗走した。

晴賢も三浦房清らわずかな手勢とともに大元浦に逃れ、本拠地の山口で再起を図ろうと島からの脱出を試みるが、乗る船もなくさらに西方へ逃れ、もはやこれまでと山中で自刃した。」(看板説明文)

血佛(大元公園)

「毛利元就の巧みな謀略にかかり、 二万余の大軍をこの宮島に進めた陶晴賢は、弘治元年十月一日未明、わずか三千 あまりの毛利軍の奇襲作戦にあって忽ち総崩れとなった。

晴賢は三浦房清、伊香賀民部らと共に、この大元で陣を立て直そうとした。追って来た小早川隆景は横手の谷間より羽仁越前守に攻めたてられ一時危うくみえたが、そこに吉川元春の援軍が到着し、晴賢は、乗る舟もなく僅かの家来と共に西の大江浦へと落ちていった。

この石塔は墓ではなく明暦四年(一六五八) に建てられた供養塔で合戦の後永らく陶方の敗死者の血が流れたと伝えられるため、土地の人はこれを、 「血佛」と呼んでいる。」(看板説明文)

オマケ:「厳島合戦要図」

合戦要図

合戦要図

ミル
ミル

ミルが見付けることができたのはこれで全部です。みなさん、お付き合いありがとうございました。

-みやじま・えりゅしおん