みやじま・えりゅしおん

地御前神社(広島県廿日市市地御前)

2022-10-31

地御前神社・記念撮影

広島県廿日市市地御前の地御前神社とは?

宮島の対岸、廿日市市地御前にある厳島神社の境外摂社です。厳島神社本社の創建と時期を同じくして建立された「外宮」とされています。御祭神は本社と同じく、市杵島姫命、 田心姫命、湍津姫命の三女神さまです。海上にある本社に対して、地の上にあることから、「地の方」にある神社、地御前神社と呼ばれるようになったそうです。

かつて島内には内侍さんと言われる女性ばかりが暮らしており、男性神職はこちらに住まいしていたといわれています。また、厳島合戦の時、毛利軍がこの神社内に集結したとも伝わります。

現在は、管弦祭の時に、御座船が渡御する神社として有名です。周辺には御座船が着岸する場所などのみどころもあります。

地御前神社・基本情報

鎮座地 〒738-0042 廿日市市地御前5丁目18−9
祭神 大宮本殿:市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命
客人宮本殿:天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命
主な祭典 御陵衣祭(旧暦5月5日)、管弦祭(旧暦6月17日)
最寄り駅 広島電鉄「地御前」駅
(参照:案内看板、厳島神社 HP)

地御前神社・歴史

市杵島姫命イメージ画像
市杵島姫命

推古天皇元年(593)創建の厳島神社の外宮です。

地御前神社社記

地御前神社・由緒看板

「厳島神社摂社 地御前神社社記
広島県佐伯郡廿日市町地御前鎮座

一、御祭神 御本宮は厳島神社の御本宮の御祭神と同じく、市杵島姫命を中心として、田心姫命、湍津姫命の所謂宗像の三女を奉斎せり。御客人宮の御祭神は厳島神社の御客人宮の御祭神に同じ。

二、御由緒 御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には厳島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、 即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。明治御維新までは、厳島神社御本宮内宮、地かたの御前の御本宮を厳島外宮と称えたり。御奉斎の厳島大明神は「道主貴」 と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。厳島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐伯鞍職に幽事を治め、百王を鎮護す」と示現ありしと云ふ。この御鎮座の所を合浦といふ。

三、祭日 陰暦五月五日御陵衣祭。 雅楽舞「後の舞」。 流鏑馬神事あり。 端午の節句
陰暦六月十五日管絃祭御洲堀神事。
陰暦六月十七日厳島御本宮管絃祭。

廿日市市観光協会
廿日市商工会」(ご由緒看板)

厳島神社の外宮

地御前神社は宮島の対岸に鎮座する外宮。祭神は市杵島姫命さま、創建は推古天皇元年(593)です。仁安三年(1168)、神主・佐伯景弘による、本宮三十七宇・外宮十九宇の社殿造営の申請書が、この神社について史書で確認できる最初の史料だとされています。そこには、六間檜皮葺きの宝殿、拝殿、神宮寺、法華三昧堂、舞殿、御読経所など十九宇の建物を建立する旨が記されていたようです。

地の方(地方)にある御社であることから、「地御前」と呼ばれるようになった、というのが通説です。今川了俊の『道ゆきぶり』にも「地の御前といふ社」 と記されています。

元々は厳島を遙拝するための本土側からの参拝地であったとする説もあるそうです。平安時代の頃、宮島には、内侍さんといわれる巫女さんたちしか住んでおらず、 それ以外の神主さん、お坊さん(昔は神仏習合してましたので)は対岸のこちら、地御前に住んでおられました。厳島神社が参詣の人々で賑わうようになるにつれ、十四世紀の頃あたりから、内侍さん以外の人々も島内に移り住むようになったのです。(参照:『広島県の歴史散歩』、『宮島本』)

厳島合戦ゆかりの地

付近に、毛利元就が厳島合戦の時にここから出発した、という「火立岩」があります。寺院や神社というのは、大勢の人が入れる場所ですから、合戦の際に陣を置かれてしまったりします(松崎天満宮なんて、何度も陣地にされてます)。地御前神社にも軍勢が集まったといいます。神聖な神社で何をやってるんだ!? と思いますが、厳島神社そのものまでもが合戦の舞台となってしまったわけなので、もはや致し方ないといえます。

ただし、ココは「敵軍」の拠点となってしまったわけでして、ミルたちにとっては複雑な心境でした。もちろん、現在はそんな由縁があった痕跡など一切なく、閑かに鎮座されている神社さまです。平和な世の中に感謝しつつ、管弦祭の時に立ち寄りたいものだな、と思いました。

なお、火立岩はホタテ岩と読み、管弦祭の時、この岩で船の飾りつけをし、そのために火をつけて明るくしたので、このような名前が付いたのだといいます(参照:『宮島本』)。

地御前神社・みどころ

いつ来ても参詣できる社殿にお参りするほか、有名な祭典がいくつもあるので、機会があればぜひとも見学してみたいものです。また、付近には「火立岩」の跡地が残っています。

厳島神社管弦祭:旧暦6月17日。鳳輦を乗せた管絃船(御座船) は厳島神社の大鳥居を出発して、地御前神社に渡ります。「管弦」祭ですから、船の上で奏でられる雅楽がメイン。その起源は、平清盛公が、かつて都で流行っていた管弦を宮島に移したことだといいます。平安京の調べが再現される雅な宴に酔いしれるひととき。堪能しましょう。

御陵衣祭:旧暦5月5日。江戸時代から続いているお祭りだそうです。拝殿の舞楽や「馬とばし」と呼ばれる流鏑馬神事があります。

地御前駅

広島電鉄・地御前駅

地御前神社の最寄り駅はその名も「地御前」。宮島口から三つめです。駅名は「地御前神社」ではなく、「地御前」という地名です。神社までは歩いて五分ほど。とても近いので参拝するのに便利です。駅から近いということで、神社のすぐ傍に線路があります。

地御前神社(遠景)

このように、道路や線路を挟んで、社殿のお姿を仰ぎ見ることができます。

鳥居

地御前神社・鳥居

拝殿前の鳥居には「厳島神社外宮」の文字があります。

地御前神社・鳥居

裏側の扁額には「地御前神社」と書かれておりました。

拝殿

地御前神社・拝殿

とても大きくて立派な社殿です。そう言えば、神社の建築様式などの知識がほとんどないことに気が付いたのですが、山口県内の神社でこのようなかたちの社殿って、見たことないですね(ひとつもないと断言はできません)。厳島神社の社殿だと、大元神社や杉之浦神社、青海苔浦神社などがこのような長方形で広い社殿でした。

地御前神社拝殿の絵馬

拝殿内部には絵馬がたくさん奉納されています。

大宮本殿

地御前神社・本殿

社殿は脇から見ると、本殿との接続がわかります。正面からみると、本殿のお姿は見えないのですが、脇にまわってみたら、鮮やかな朱色の御殿がチラ見えました。

客人宮

地御前神社・客人宮本殿(左奥の建物)

同じく、拝殿の後ろに客人宮本殿がチラ見えております。ちょっとチラ見えすぎで、わかりづらいですが、大宮本殿とは屋根の色などが違うことで別の建物であることは明白です。

胡子神社

地御前神社・境内神社

境内神社のようです。

管弦祭御座船の来る海

地御前神社付近・管弦祭御座船の来る海

管弦祭の時、御座船はこの海をやって来るそうです。地元のガイドさんにご教授いただきました。きちんと階段もついています。

地御前神社・管弦祭御座船の来る海(階段)

火立岩

地御前神社付近・「火立岩」跡地看板

毛利元就の出撃地点として有名になってしまった「火立岩」ですが、そもそもは、管弦祭の時に御座船の飾り付けをする場所でした。その意味では管弦祭関連の史跡かと。名前の由来は、飾り付け作業のため明るくするために火を点したからです。当然、「岩」があったはずですが、現在は跡形もなくなっており、かつてそこにあった、という記念碑看板が立っているだけです。⇒ 関連記事:火立岩「厳島合戦跡」全看板

附・釈迦堂

地御前神社付近・釈迦堂

地御前神社からほど近いところにございます。Googlemapで確認しましたところ、この建物は釈迦堂というらしいのですが、地御前神社との関連は不明です。

附・国道開鑿碑

国道開鑿碑

地御前神社と直接の関係はありませんが、神社の前にでーーんと立っております。道路を造るということは、地元の方々にとって、重要な事業です。その意味ではこの地に鎮座する地御前神社も無関係とは言えないですね。これらの記念碑全般に言えることですが、難しい漢文で書かれており、しかもかなりの長文です。年代モノになると、写真撮影して自宅で漢和辞典にしがみつこうとしても、文字が摩耗して読めなくなっていたりします。

イマドキの童に漢文は読めません。これらの記念碑の類は、かつてなにかの大事業が行なわれた、そのモニュメントである、という以外どうしようもありません。幸い、隣に説明看板が立っていたので、あわせて掲載しておきます。

国道開鑿碑・説明看板

附・陸軍伯爵寺内正毅書「皇威輝八紘碑」

陸軍伯爵寺内正毅書「皇威輝八紘碑」

これも、地御前神社付近にありましたが、何なのかわかりません。神社との関連性も不明です。Googlemapで調べたところ、見出しのような記念碑でした。ゆかりはわかりません。ごめんなさい。

附・大歳神社

地御前神社付近・大歳神社

地御前駅の近くにこのような鳥居があったため、最初ここが地御前神社かと思ってしまいました。大歳神社さまという、地元の皆さまに慕われるまったく別の神社でした。

滝宮神社(廿日市市地御前)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

御鎮座地 〒738-0042 広島県廿日市市地御前 5-18-9

アクセス

広島電鉄「地御前」駅から徒歩 5 分です。付近に大歳神社さまがあったりしますので、間違えないようにしてください。両方とも参拝してしまうのがいいと思います。地御前神社前には大きな「地御前神社々記」というご由緒看板が立っていますので、間違える方はおられないと思います。

駅から5分と言っても、真っ直ぐな一本道などではない限り、あっと言う間に到着することができない可能性はあります。少し前までですと、何本目の道を右にとか、最初の信号を左にとか大変でした。ですけど、現在はスマートフォンのナビゲーション一択です。まれに、マップのナビゲーションがとんでもないところにお連れくださったりするケースもゼロではないですが、地御前神社に関しては問題ないです。「どっちに行けば?」と悩んだら素直に起動しましょう。

※ただし、歩きながらナビゲーションを見るのは危険なのでやめましょう。

参照文献:『広島県の歴史散歩』、『宮島本』、厳島神社さま HP

地御前神社(廿日市市地御前)について:まとめ & 感想

地御前神社(廿日市市)・まとめ

  1. 厳島神社の「外宮」
  2. 「本宮」の厳島神社が、海にあるのに対して、陸地にあることから「地かた」にある神社 = 地御前という
  3. 御祭神は厳島神社とまったく同じ。客人宮の祭神も、厳島神社客人社と同様である
  4. 管弦祭の時に、御座船が渡御する場所として重要な役割を果たしている
  5. かつて、御座船を飾り付ける場所だったところに岩があり、火を点していたことから「火立岩」と呼ばれていた。この岩は、毛利元就が厳島合戦の時に、「ここから出撃したところ」としても有名だが、現在岩は失われ、「跡地」に記念の看板が立っている

内宮、外宮がある神社というのは、格式が高く、大規模な神社に限られます。地元の氏神さんなどに外宮があるというケースは稀かと(ないと断言はできないけど。日本中の神社調べたわけじゃないので)。厳島神社には外宮のほかに奥宮(御山神社)もあり、その規模の大きさと格式の高さは明らかです。

地御前神社のお話はさまざまなところで大量におうかがいしました。第一に、管弦祭の御座船の件。第二に、かつて宮島の島内に内侍さんしか住んでおられなかった時に、男性神職さんたちがこちらにおいでだったこと。男性神職さんたちは、厳島で神事があるたびに渡海しておられましたが、天候不順などで島に渡れない時には、地御前神社でかわりに神事を執り行ったりしたこともあったそうです。

女性だけ住まいする島だった、というのが今もってスゴいことだなと思います。けど、神事のために男性神職さんたちも渡海していたのなら、男性が島に入ってはならないというルールがあったってことではないわけなので、なんで島外に住んでいちいち通ってたのかなぁ、ととても悩む。しかも、いずれはみんな島内に引っ越したし。何のためだったんだろう?

いずれにしても、地御前神社の役割はとても大きく、大切な神社だったってことです。そう考えてご訪問したら、意外にも小規模だったので、ちょっと驚きました。線路や道路に挟まれて窮屈そうなことになっておられます。また、普通の住宅街の中にある、という雰囲気でもあるので、厳島神社とはかなり趣を異にしています。けど、よほどのことがない限り、かなり大規模な神社でも普通に町中にあり、境内も東京ドーム何個分なんてことはないのであって、むしろこれがイマドキの神社の姿一般なんですよね。

こんな方におすすめ

  • 厳島神社の摂社と末社をまわっています
  • 厳島合戦の関連史跡を回っています(火立岩)

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像
五郎

火立岩のところにものすごい牡蠣筏があったんだ

火立岩付近の牡蠣筏

ミルイメージ画像(涙)
ミル

やだーー海の物嫌い(涙)

鶴ちゃんイメージ画像(怒)
鶴ちゃん

お前たちって、本当に食い物の話題しかないのだな。

五郎イメージ画像
五郎

それは広島の牡蠣を食べたことがない奴の台詞だ。あれほどの牡蠣筏、生まれて初めて見た……。

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

五郎とミル(サイトのキャラクター)が広島県内を観光した旅日記総合案内所(要するに目次ページです)。「みやじまえりゅしおん」(宮島観光日誌)、「はつかいち町歩き」(廿日市とたまに広島市内の観光日誌)内それぞれの記事へのリンクが貼ってあります。

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