陶さま日記

私訳 陶弘護肖像賛

城主さま

陶弘護肖像賛とは?

周南市にある曹洞宗寺院・龍豊寺から発見された、陶弘護の肖像画に、以参周省が書いた画賛のことです。

肖像画は、弘護の三回忌(文明十六年)に画かれたものといわれ、室町時代に画かれた作品であること、当時の武家の装束などがわかることなどからたいへんに貴重なものとして、国指定の文化財となっています。雪舟が画いたと考えられています。

以参周省は石見の人で、南禅寺、相国寺、山口の保寿寺の住持などを務めた人です。弘護夫人は石見の益田兼堯の娘であり、以参周省や雪舟と縁があったのでしょう(雪舟は益田兼堯の肖像画も描いています)。

画賛の文章は大内氏の先祖や、陶氏の起りなどについて書いていて、研究者の先生方から、「史料的価値が高い」ものと見なされ、よく引用されています。

弘護は吉見信頼に謀殺されて、若くして不幸な亡くなり方をしました。このような場合、敢えて具体的な記述はしないものなのか、真実を記すことには何か障りがあったのかわかりませんが、「五月廿七日、設嘉宴之會於府第、座中有変終焉、世寿二十八」と、肝心な死因については曖昧です。

なお、奈良時代の天平美人などの画像を見ていて分る通り、画像はおそらくこの時代の武将としての「理想像」でしょう。鎌倉時代くらいから「似絵」といって、本人に「似せた」肖像画が画かれるようになってきてはいますけれど、いくら当時の二十八才が現代の同世代の人と単純に比較できないとは言え、これはひどすぎます。

陶弘護肖像賛・私訳

陶弘護肖像賛 龍豊寺文書
昌龍院殿前尾州太守建忠孝勲禅定門肖像

尾州刺史・陶弘護は周防の名門である。元は、百済国聖明王の第三太子・琳聖の末裔であり、本朝の三十四代推古天皇の御代、辛未十九年に来朝した。これは、隋の大業七年に相当する。百済の船は周防の佐波郡・多々良の岸に着いた。琳聖の王子・正恒は、初め多々良姓を賜って、周防・吉敷郡大内県に住み、今に至るまで八百年、綿々と絶えることがない。

正恒から七代の子孫・貞成は二子を生み、嫡男が周防介盛房で現在の太守(大内政弘)の祖先である。次男の盛長は陶家の祖先で、盛長より四代の子孫・弘賢が周防・吉敷郡陶を領地とした。弘賢は弘政を生み、周防・吉敷郡富田保に移った。越前権守に任じられた。

弘政は弘長を生み、弘長は盛長を生んだ。太守に代わって長門の事を司った。盛長は盛政を生み、また、太守に代わって周防の事を司った。盛政は弘房を生み、父を継いで周防の事を司った。弘房は弘護を生んだ。

康正年乙亥九月三日、山口の私邸にて生まれ、幼名を鶴寿といった。天性俊邁にして和歌をよくした。

応仁元年丁亥の夏、天下は大いに乱れ、太守は鎮西の軍を率いて上洛した。弘房は、太守に付き従い、家の事は鶴寿に任せた。鶴寿は年幼ながら、幹蠱の才があったから、幾つかの事を委託した。この時、わずかに十三歳であったが、八月二十二日、周防国都濃郡・龍文寺にて、器之為璠に受衣し、法名を孝勲、号を忠建と称した。

応仁二年戊子十一月二十四日、父・弘房は京師の軍営にて亡くなった。太守はなお、京師にて従軍していたから、豊前・筑後両国の賊徒らが、この隙に蜂起した。鶴寿はわずかに十五歳であったが、太守の命で加冠して弘護、通称・五郎と称した。

文明二年庚寅の春。今八幡宮の神職某は、国が将に傾かんとしている事態を憂い、毎日夜半に神殿に詣でて、密かに祈りを捧げていた。百日目の夜、寝ているのか起きているのか分からないでいると、宮殿の扉が勝手に開いて、中から一人の人物が出てきた。厳めしい冠を被り、手には何かを持っている。それを、指示して、神職に向うと「私は長いこと国を守ってきた。今太守は京にあって、国は危急存亡の秋(とき)である。この掛け軸を太守に届けて欲しい。私は太刀に姿を変えて弘護の身について国を守ろう」と言った。

神職は掛け軸を太守に、太刀を弘護に渡した。神職が、京で太守に掛け軸を渡した時、太守が中を見てみると、摩利支天の像であった。

その頃、太守の伯父・南宋道頓は太守の留守に国を掠め取ろうとし、長門国豊東軍赤間関で兵を挙げた。道頓は百計を巡らせて、弘護を招いたけれど、彼は頑としてそれに応じなかった。

冬十一月二十日、道頓は安芸へ向かおうと出発したが、弘護は十二月二十二日、義兵を率い、玖珂にて道頓を大いに破った。道頓は残党を連れて石見の吉見を頼った。弘護は二十八日、長門国阿武郡江良城にて道頓の残党を破った。

吉見は道頓に力を貸して兵を集め、長門国阿武郡を襲撃したが、弘護は太守の母君の命を奉じ、砦を築いてこれを防いだ。道頓軍は潰走し、翌年再び挑戦したが、遂には十七、八人となって豊前へと逃れた。吉見は長門国阿武郡得佐城を攻撃したが、弘護はこれを追い、逆に石見国吉賀郡吉賀、美濃郡長野の地を切り取った。

文明六年甲午、太守は弘護の功績をたたえ、尾張権守に任じた。

文明九年丁酉冬、天下はおさまり、太守は帰国なさった。弘護は周防国玖珂郡柳井津にお迎えし、富田保の私邸にてもてなした。太守は「国が平穏無事であったのはそなたのおかげである」と仰り、水魚の交わりを深めんと、金蘭の契りを交わし、兄弟の盟を結んだ。弘護は夜は太守の寝所に控え、昼は皆が集まる席で世話を焼き、終日倦むことがなかった。

文明十年戊戌の春、吉見は謝罪し和を請うたので、太守はこれを許した。太守は弘護に筑前の事を任せ、彼はそれに忠節を尽くした。

秋、太守は豊前・筑前に遠征し、弘護は先駆けとして戦い、九州は平定された。九月二十五日、大宰府にて少弐政資を破り、少弐一党は散り散りとなった。

文明十一年己亥、筥崎宮にて釣鐘を造り、その功績を刻んだ。冬、筑前守護代の地位を辞して、弟・弘詮に譲り、文明十三年辛丑、伊勢神宮に詣でて、秋に帰国した。

文明十四年壬寅の春、小笠原元長が太守に拝謁したが、弘護は、「武門にある以上、武芸をきわめるのは当然であり、武は弓矢をもって要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以て規範とするものである」と言って、これに師事して奥義を学んだ。

五月二十七日、殿中の宴の席にて亡くなった。二十八歳であった。なんと惜しいことであるか。その驕勇を惜しみ、忠義に感動しない者はなかった。

文明十六年十一月十七日
前相国寺・以賛周省書

※摩利支天の太刀のくだりについてはO様にお力添え頂きました。この場を借りて御礼申し上げます※

原文について

「陶弘護肖像賛」の原文は、あらゆるところに載っているといっても過言ではありません。知っているだけでも、『山口県寺院沿革史』、『大内氏遺文』、『山口市史 史料編』……などなどです。また、肖像画のレプリカも常設されているわけなので(文字はとても小さく判読するのは困難ですが)、そこでも公開されているわけです。

加えて、多くの研究者の先生が一級品の史料として引用しておられることから、部分的にはさらに流布しているものと思われます。上の翻訳文は、今から数年前に、たいへんな苦労をし、古文書がわかる方の教えを受けたりしながら、かなり怪しいもののなんとか完成させたものですが、その後しばらくして、『徳山市史』に訳文が載っていることを知りました。

なんてこったい、と思いました(訳文を読めば何の苦労もいらなかったし、それを望んでいたワケなので)。せっかく正確な訳文を見ることができたので、元々のヘンテコな訳文はそれを見て修正するべきですし、そもそも公開する意義なんてないわけなんですが、こういうこともやったんだよね、という記念として残しておくことにしました。

というわけなので、正確な訳文を読みたい方は、図書館に行き、『徳山市史』を探してください。

なお原文は、本によって微妙に違っております。判読不明な文字があるためでしょう。当時は『大内遺文』しか手に入れることができなかったので、それを読んでいました。本には判読不明部分について、編者の先生による補足がちゃんとあります。ご本によって異なる部分があるかもですが、考慮してません。

少なくとも、『山口県寺院沿革史』のものは、旧漢字使用の上、かなり誤植や不足部分がありました。

泉福院殿前尾州太守建忠勲功禅定門肖像

尾州刺史多々良弘護者、防之著族也、原其先、百済国聖明王第三王子琳聖太子苗裔、而我朝人皇三十四代帝推古天皇御宇十九年辛未歲来朝、逎相当隋大業七年也、百済船着于防之多々良岸、琳聖之王子正恒始賜多多良姓、居于周防大内県、至今八百餘載、綿々不絶矣、正恒七世孫貞盛生二子、其嫡男周防介盛房、今太守之祖也、二男盛長者陶之先也、盛長四世孫弘賢以陶之地爲采邑、弘賢生弘政、始徙家于富田保、任越前権守、弘政生弘長、弘長生盛長、代太守而司長門事、盛長生盛政亦代太守司周防事、盛政生弘房、継而司周防事、弘房生弘護、以康正元年乙亥九月三日、誕于防之山口私第、小名鶴寿、天性俊邁精神可掬、尤善倭歌也、応仁元年丁亥之夏、天下大乱、太守率鎮西之軍兵入洛、自任方面之寄、父弘房驂于右矣、弘房委于其家曰、咨汝鶴寿、雖幼年有幹蠱之才、遺嘱以数件事、人莫敢知者矣、時公歲十三也、八月廿二日拝龍文器之和尚受衣、法名孝勲、号建忠、戊子十一月廿四日、家父弘房終于京師之営中、己丑五月、以太守之従事於□、豊筑両国之賊徒、望隙而起矣、公年十五而冠矣、太守命以実名曰弘護、其字五郎、庚寅之春、今八幡社司某、□国務之将傾、每日丑尅潜詣 于神殿以祈矣、期以一百日、及日巳満之夜、寐寤不弁之頃、宮扉自啓、有一人條出、峩冠偉如、手中有持物、以示社司曰、我擁護国家之武運也年久焉、今太守軍于帝都、国危急存亡之秋也、請以□此一幀子、而達之于吾太守、天下稍□、太守帰国有日焉、請以此太刀与刀、潜可付之弘護、以鎮国難矣、社司即以所神賜物、投之弘護、社司亦窃入□洛、献之幀子於太守、太守開而覩之、摩利支天尊像也、其頃太守伯父道□、号南栄、察家危国弱、挾詐□姦、□釁動矣、篡太守威、助惇逆於赤間關、其禍起于蕭牆、招取太守士卒於帝都、□目既に露、豺声云発焉、百計□雖□弘護、々々不敢貳矣、屈强不撓、冬十一月八日、南栄以芸芸州、先徉行矣、十二月廿二日、弘護起義兵於周之玖珂、南栄従卒悉敗北、凌芸入石、憑陶險隘於吉見、廿八日弘護攻南栄残徒於江良城、奉太守母公之命、遂措枕于太山之□、吉見戮力於南栄、聚兵於賀年、西屠長門、弘護堅塁禦之、南栄従卒潰而逃焉、翌年亦屯軍挑戦、南栄從南栄従卒逃亡□十有八九焉、南栄遂逃豊之前州也、及吉見攻得佐城、割執吉賀・長野之地、甲午歲太守勒弘護之勲績、挙仕尾張権守、

丁酉之冬、天下狼烟靖、而 太守帰国矣、弘護迎于柳井津、且宴于富田私宅、 太守曰、吾国全而□者、寔弘護之力也、逐託魚水之深期、定金襴之密契、盟以兄弟、夜則侍寝、昼則稠人広座之間周旋、上下不避嶮□終日無勌矣、戊戌之春、吉見卑詞謝罪、請和于我ニ、太守仁而許焉、武夫烈士、勇於報德、太守命而司筑前之事、誠精忠許国者乎、秋之初、 太守征豊前・筑前、弘護在爲前駆一戦、以定九州焉、九月廿五日宰府敗而少弐一類悉退散焉、己亥、鋳洪鐘於筥崎宮、以勒其功、冬辞筑前事、譲以弟弘詮、辛丑歲、詣伊勢神宮而秋還、壬寅之春、小笠原元長謁、吾太守也、弘護謂曰、弓馬在武門、不可不務、武以弓箭爲要、弓箭之在武、豈無法乎、今天下以小笠原而爲則、弘護騎馬射習、貫罄厥蘊矣、五月廿七日、設嘉宴之會於府第、座中有変終焉、世寿二十八、吁可□惜之大者也、世無不以慕其驍勇、感其忠義、蓋賢者不心寿、自古亦然矣、何憾乎、娶石之益田藤氏、産三男一女、家奉□□□、
文明閼逢執徐十一月廿七日
前相国以參叟周□書長□□□
(朱印)(朱印)

原文:『戦国遺文 大内氏編 第3巻』575 182~183頁

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『戦国遺文 大内氏編 第3巻』、『徳山市史』

ミル
ミル

城主さまがこんなおっさん画像に似ているはずないと思うの。

五郎
五郎

絵画にしろ、軍記物にせよ、みんな嘘八百だ。雪舟の画像が優れていること、この絵に文化財的価値があることは認めるけど、祖父さまがきちんとイケメンになっていないことは大問題だぞ。これのどこが二十八才の青年武将なんだ?

ミル
ミル

龍福寺の大内当主歴代も大ウソだったよ。あり得ない……。乙女の夢を壊さないで欲しいの。

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