陶のくに風土記

龍豊寺(周南市大道理)

2022-10-28

龍豊寺・入口案内看板

山口県周南市大字大道理門前の龍豊寺とは?

応仁の乱に際して、当主不在の留守分国を守った救国の英雄・陶弘護の菩提寺とされる寺院です。弘護が不幸な事件によって横死したのち、その菩提を弔うために夫人(益田氏)によって建立されました。弘護の法名は昌龍院であるため、元々は昌龍院と呼ばれていたのではないか、という説もあります。

のちに、夫人が亡くなると、夫の菩提寺に葬られました。夫人の法名が龍豊院咲山妙听であっため、寺院の名前も龍豊寺となった模様です(あくまで推測の域を出ません)。

毛利氏の時代になって、現在の場所に移転されました。雪舟が描いたのではないかとされる弘護の肖像画が見付かり、国指定文化財に指定されたことで有名です。

龍豊寺・基本情報

住所 周南市大字大道理門前1291
山号・寺号・本尊 万年山・龍豊寺・釈迦如来(華厳釈迦牟尼仏)
宗派 曹洞宗
龍文寺末寺(四門主・後見三ヶ寺)

龍豊寺・歴史

創建は文亀元年(1501)三月、開山は龍文寺六世・春明師透。陶弘護夫人・益田氏 (法名:龍豊院咲山妙听、益田兼堯の娘)が、夫の菩提を弔うために建立しました。弘護の法名は、昌龍院ですが、昌龍院という寺院がどこにあったのかは不明です。近藤清石先生は『大内氏実録』の中で、この寺が元・昌龍院ではないかと推測しておられます。夫人が大永五年(1525)九月二十六日に亡くなったあと、夫の菩提寺に葬られ、夫人の法名が龍豊寺咲山妙听といったことから「一寺二名の菩提所なりしが、遠きものは日々疎しの習にて、昌龍院の名自ら隠滅せしにはあらじ歟、猶よく考ふべし」と書いてあります。

夫人の墓は寺外の畠の中にあるとのことですが、現在のところ確認できておりません。

永禄二年(1559)以降、毛利元就・輝元はじめ、毛利家も寺領と住持職を安堵し、正徳四年(1714)に現在の場所に移築・再建されました。

寺宝として、以参周省が画賛を書いている弘護の肖像画があります。なお、『周防国と陶氏』によれば、弘護肖像画は、元々陶氏の菩提寺・龍文寺にあったものが、龍豊寺に移されたのではないか、と書かれていました。龍文寺にあったら、焼失してた可能性もありますので、移されていたという推測が正しければ、そのお陰で貴重な文化財が後世に残された、ということになります。(以上、参照:『徳山市史』、『周防国と陶氏』)

龍豊寺・みどころ

この寺院さまのみどころは、建築物というよりも、所蔵されていた陶弘護の肖像画となります。それについては、現在周南市美術博物館でレプリカが常設展示されています(202003現在)ので、寺院内で見ることはできません。

『山口県寺院沿革史』によれば、ほかにもつぎのような貴重な品々があるようですが。いずれにしても、普通に参詣して、一般観光客が目にできるものではありません。
本尊:華巖釋迦佛一尺二寸 慶雲の作、御開山木像、毛利就隆、輝元花印

城主さま(弘護公)を崇拝して参詣する方々には、寺院近くの長閑な風景を満喫することと、墓所にある供養塔へのお参りをオススメします。

寺号碑

龍豊寺・寺号碑

立派な寺号碑です。当然のことながら、室町時代から続くものではありません。寺院の付近はこのような奥ゆかしい山里の中、といった光景が広がっておりましす。とても長閑で心地良く、時間が経つのを忘れます。周南市に来たら、忘れずに立ち寄ってくださいね。

石段

龍豊寺・石段

とてつもなく長い石段がございます。ちょっと頭がくらくらいたしますが、石段にはきちんと手摺りがついていますので、安心です。今も昔も民のことを思いやる、心優しい城主さま(弘護公)のお人柄が偲ばれるバリアフリー寺院さまです。

山門

龍豊寺・山門

雪がちらついているのがご覧いただけるでしょうか? 訪問時は三月でしたが、寒い一日でした。

本堂

龍豊寺・本堂

山門も本堂も手入れが行き届いて、とても新しい印象です。そもそも、毛利家の時代に寺地も改められたので、当時を偲ぶものは何も残っていないかも知れません。

もっとも貴重かつ、たいせつな文化財が弘護画像となりますが、現在寺院内で見ることはできませんので、周南市美術博物館にも立ち寄りましょう(※じつは、山口県の郷土史にはたいてい画像が口絵としてカラーで載っていたりしますので、図書館でも見ることが可能です)。

陶弘護供養塔

龍豊寺・陶弘護供養塔

二回目の訪問にてきちんとお参りできました(20221224追記)。これは完全にピカピカのイマドキ製であり、中世から残るものではありません。昌龍院さまのお墓もどこかに必ずある(あった)はずですが、今は行方不明です……。そのかわり、地元の方々がその功績を追悼して造ってくださった、こんなに立派な供養塔があります。

元々のお墓がどこにあるかわからないのは悲しいですが、数百年後の人たちからもこのように慕われて、ご供養されておられることは素晴らしいことですね。

なお、御父上の供養塔と並んで、ご子息・興明さんの供養塔があります。こちらは、お亡くなりになった時代から伝えられてきた宝篋印塔です。別のところであらためてご紹介いたします。

供養塔のある場所

駐車場の上です。墓地の中に普通にあるので、けっこう見つけづらいため、見落とさないように注意深く探してください。新しくて立派すぎるので、地元の方々のお墓だと思って通り過ぎてしまいます。見つけることができれば、手前に「陶弘護・興明供養塔云々」の石碑がきちんとあります。しかし、これはあくまでも「確認用」でして、順路矢印や大きな看板などは一切ないです(興明供養塔のほうは年代物なので、それを手掛かりに気付いてもよさげなんですが、こちらにも看板など一切なく、小さめなので気付きにくい)。

絹本著色陶弘護像

何と言ってもこれが、もっとも貴重なものとなります。しかし、現在は周南市美術博物館に移されておりまして、寺院さまで画像を拝見することはできません。仮に、寺院さまに保管されていたとしても、このような貴重な絵画を簡単に見せていただけるはずがありません。

陶弘護の三回忌にあたる文明十六年(1484)に描かれた肖像画で、雪舟の作品といわれています。雪舟と親交のあった禅僧・以参周省による画賛も史料的価値があるとされ、絵画ともども貴重なものです。縦80・5センチ、横38・2センチというサイズで、「直垂を着して端坐する彼の剛毅な容貌を良く表している。」(『山口市史 史料編 大内文化』)とのことです。

幸いなことに、美術博物館にはレプリカが常設展示されているほか、各種郷土史などの類にもたいてい写真が載っております。図書館に行くことさえ面倒な方には、インターネット検索で出てくる可能性もあります。要するに、有名すぎて、けっこう目にする機会がある文化財となっております。

絹本著色陶弘護像
ふりがな : けんぽんちゃくしょくすえひろもりぞう
員数 : 1幅
種別 : 絵画
国 : 日本
時代 : 室町
年代 : 1484
西暦 : 1484
ト書 : 文明十六年十一月牧松周省の賛がある
指定番号(登録番号) : 01714
枝番 : 00
国宝・重文区分 : 重要文化財
重文指定年月日 : 1974.06.08(昭和49.06.08)
所在都道府県 : 山口県

解説文:
 折烏帽子【おりえぼし】に直垂を着し、向かってやや右方を向き端坐する陶弘護(一四五五~一四八二)を描く。弘護は南北朝以来大内氏の一族として周防の守護代をつとめるなど活躍したが、文明十四年石見の吉見信頼に謀殺され二十八歳で世を去った。本図は以参周省【いさんしゆうしよう】の文明十六年の著賛があり、おそらくは三回忌にあたって供養のため描かれたものと思われ、天性俊邁といわれた像主生前の剛気な人柄を巧みにとらえている。室町時代武将肖像画のすぐれた一例といえる。

出典:国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/2439

残念ながら、国指定文化財等データベースには写真が載っておりません。こちらになくても、文化遺産オンラインに掲載されているケースがあるのですが、リンクフリーではない上、そもそも登録されておりませんでした。画像を確認したい方は、周南市役所さまの HP に写真が載っております。そちらでご確認くださるよう、お願い申し上げます。⇒ 関連記事:陶弘護肖像賛・拙訳

ミルイメージ画像
ミル

城主さまの肖像画は、美術館のHPなどで見ることができます。正直、こんなおっさん画像は本人とは似ても似つかないと思いますけどね。まあ、昔の絵というものは、現在のように写実的じゃないので、イケメン画像を期待する人はご覧にならないでください(歴女の戯言、ご無礼いたします)。

五郎イメージ画像
五郎

ミルってさ、イケメンとやらに夢中なんだよ。その最たるものが、平維盛と足利義尚ね。だけど、ホントは外祖父さま(右田弘詮)に萌え萌えなんだ。平維盛はともかくとして、緑髪将軍はミルとは血縁関係にないからねぇ。陶氏の人は全員愛してくれてるから、外祖父さまに黄色い声をあげてるよ。その兄上にあたる祖父さまが、重要文化財みたいなおっさんじゃ、乙女心は1ミリも萌えないんだって。

次郎次郎
次郎

そそそ。そーなのよ。女って「イケメン」っていうだけで萌えるわけ。文化財の説明文にまで、その人となりを上手く表現してるとか書いてあるんだから、実際この顔だったんじゃね?

ミルイメージ画像(怒)
ミル

うるさーーい!! いい加減なこと言うと、摘まみ出すからね。

龍豊寺(周南市大字大道理門前)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒745-0242 山口県周南市大道理門前 1291
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

徳山駅からタクシーを使いました。歩くのは絶望的です。公式アナウンスとして、「大道理」バス停と書いてあるので、バスも使えると思いますが、なんとそのバス停まで、徳山駅から 40 分かかるといいます。いっぽうで、車を使うと駅から 25 分とも書かれていますので、バス停から相当歩くのかもしれません。あきらめてタクシーが最も安全と思います。

参照文献:『山口市史 史料編 大内文化』、『大内氏実録』、『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』、『周防国と陶氏』、文化財説明看板、国指定文化財等データベース

龍豊寺(周南市大道理)について:まとめ & 感想

龍豊寺(周南市大道理)・まとめ

  1. 陶弘護が吉見某によって謀殺された痛ましい事件の後、夫人・益田氏が夫のために建立した菩提寺であるとされる
  2. 弘護の法名は「昌龍院」であるため、かつては同名の寺院があったのではないかと考えられているが、現在そのような寺はなく、跡地のような場所も伝わっていない
  3. 『大内氏実録』で著名な大内氏研究の大家・近藤清石は、龍豊寺こそが、元「昌龍院」だったのではないかと推測している
  4. 弘護夫人・益田氏は、亡くなったあと、夫の菩提寺にともに葬られた。夫人の法名は「龍豊寺咲山妙听」であるため、夫人の埋葬後、二人の菩提寺が一つとなっている寺院の名称も、夫人の法名「龍豊寺」にかわったのではないか、というのが推測の中身
  5. 陶氏の滅亡後、毛利氏によって寺院は移転された。それが現在地である
  6. 夫人の墓は寺院付近の畑の中に残されているという。弘護の墓は残っていないが、最近になって、地元の方々によって、その功績を称えるために「供養塔」が建てられ、裏山の墓地内にある
  7. 弘護の次男・興明のものとされる供養塔も存在し、これは中世から続く宝篋印塔で、現在は父・弘護の供養塔と並んで安置されている
  8. 寺院の伽藍等は、往時から続くものはないと思われ、特に文化財指定などもされていない。しかし、寺院内に所蔵されていた弘護の肖像画は、室町時代の作品であり、大変に貴重なものとされる。雪舟によって画かれたと考えられており、以参周省による画賛も史料的価値が高いとされる。国の重要文化財指定を受けており、現在は周南市美術博物館内に保管されている。
  9. 美術博物館には、弘護肖像画のレプリカが常設されており、実物も各種郷土史などで写真を見ることができる

正直なところ、つい最近造られた供養塔があるだけで、ほかには何もありません。弘護肖像画が発見された寺院として有名であるため、知る人ぞ知るといった感じです。なにぶんにも、辿り着くのが非常に困難な場所にあるため、よほどの思い入れがない以外は、行く意義を感じません。地元の方々のために存在する普通の寺院さまであり、観光客が集結するような観光資源ではありません。

本堂そのたも諸々新しく、ますます以て、観光資源ではなく、地元の方々のお墓参りなどの便宜をはかってくださっていることがわかります。周南市の観光資源はかなり奥まった所に点在しているため、そもそもすべてを見るためには、最低でも三、四日は必要です。陶氏時代のもの以外に関心はないですが、それでも一日ではとてもキツいのが現状です。

市町村合併で巨大化している周南市は、観光モデルコースも大量にあり、ガイドさん方も、地域ごとに担当範囲が分れています。なので、同じ周南市だから、お一人にお願いすればすべて回れるという考え方はあてはまりません。観光協会さまに問い合せて確認をとっておりますので、正しい情報です。しかも、ガイドさんとは現地集合となるそうでして、徳山駅から 45 分もかかるというバス停まで、一人寂しく行かねばならないのです。経済的にはとても苦しいですが、観光タクシー貸切りにするよりほかありません。しかし、ガイドさんはタクシーに同乗することができないため、運転手さんが行き先不明に陥ることもあり得ます。ナビゲーションに載っていないような目的地も多いためです。

さらに、ガイドさんの可能案内範囲が異なっていると、隣同士(といっても相当の距離があるのが普通)の寺院でも、別々の方がご案内くださることになる可能性が高く、何にせよ非常に効率が悪く、旅費が膨大となります。それでも行かねばならないのですから、一度ですべてを見尽くすためにはガイドさんのご案内は必須です。今のところ、観光タクシーの運転手さん(周南市ではなく山口市のタクシー会社さま)と、地元の方のお車で二回参詣しておりますが、詳細な謂れなどはお二人ともまったくご存じではありませんでした。詳しい方にご案内いただきたいと思いましたが、観光協会の方からは、新幹線を使って徳山に宿泊し(山口宇部空港から徳山は遠いのです)、何人ものガイドさんとリレー形式でご案内いただくしかない状況であることがわかりました。

いくら城主さま(弘護公)に入れ上げていても、経済的な理由からそのような贅沢はとても無理。そうおもいながら、すでに無駄に二回ご参詣してしまったことが非常に悔やまれます。一回目に観光協会のご紹介に従って回れば、散財は一度で済んだのです。さらに、偉そうに聞こえたら申し訳ないのですが、地元の方も誰しもが地元の観光資源に詳しいとは限りません。二回目ご一緒した地元の方は、「何もない」と本堂だけ見て帰ろうとなさり、どうしても供養塔を見たかったため、少しだけ時間を割いていただいて、寺院のインターホンを押し続ける無礼なことをしてしまいました。

ちょうど、何かの集まりで、寺院内からお話しする声が聞こえたゆえにですが、出てきてくださった女性は供養塔の場所をご存じではありませんでした。分る方を呼んでくださり(集まりの中にいらしたのです)、ようやく場所がわかりました。単なる墓マイラーと誤解して立腹なさったのか、お車に乗せてくださった地元の方は人が変ったように無愛想になってしまわれ、何とも後味の悪い思いをしました。しかし、ANAやスターフライヤーを使って山口を訪れている身としては、見るために来た供養塔を見ずに帰るのはあまりにも悲しいのです。

当方、墓マイラーではありませんが当然、そのような趣味の方を軽蔑する思いは欠片もございません。何を目的に旅をなさろうとも、ご本人の自由です。それゆえに、尊敬する城主さまの供養塔、それも地元の方々がわざわざ造ってくださったものを見てみたいという思いはとても強いのです(一回目見落としておりましたから)。そんなささやかな気持ちを理解していただけず、理由はわかりませんが、ご案内くださった親切な方を不愉快な思いにさせてしまったらしきことは、たいへんに残念な出来事でした。

こんな方におすすめ

  • 寺社巡りを好む人(どんなに遠くても厭わないほど好む人)
  • 陶弘護こそ陶氏歴代の中でもっとも優れた武将であると考えている人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(笑顔)
五郎

祖父さまのために、地元の方々が立派な供養塔を造ってくださっていた。さすが祖父さま。皆さんに慕われているんだね。

ミルイメージ画像
ミル

そうだねぇ。陶氏最強の人だからね。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

でも、やっぱり本来のお墓が見たいよね。なかったはずはないもの。龍文寺の誰のものかわからないものがそうなんだろうか。そういえば……。周南市内には、俺の供養塔ってないみたいだね……。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

いや、大内氏歴代の墓所が元菩提寺跡地にあることを考えたら、恐らくはここにもお墓はあったと思うよ。生前に宝篋印塔を造るケースもあったわけだし、奥方さまが菩提寺をお造りになったのだし(それに、君のお墓はあるんだよ……五百年近く経ってもきちんと……)

五郎イメージ画像(涙)
五郎

なんだか残っているのは二番目の伯父上のものだらけだね……。ココにもあるし、海印寺にもあるなんてさ。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

本家と比べて、陶のくにでお墓がはっきりしている人って、本当に少ない……。そう考えると洞雲寺のあれも、そうだとわかるだけマシなんだろうか……。

宗景イメージ画像
宗景

どうせ、俺は「謀叛人」として歴史から抹消されている。供養塔なんぞあってもなくても同じだ。甥の供養塔とて……いや、黙っておこう。

龍文寺山門(常楽門)前記念撮影
周南旅日記(陶氏ゆかりの地)

陶のくに関連史跡総合案内。要するに目次ページです。

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