陶のくに風土記

正護寺(山口市西陶)

2022-10-15

説明看板の写真

正護寺・基本情報

住所 〒754-0891 山口市陶郷上3907
電話 083-972-1701
最寄り駅 西陶バス停から徒歩15分
山号・寺号・本尊 万松山・正護寺・釈迦牟尼仏
宗派 臨済宗東格寺派

正護寺・歴史

開基は陶弘政、開山は傑山寂雄和尚。南北朝期・正平年間(1346~1370)の頃、弘政が館内に祈願所として建てたのが始まりといわれる。大内氏が滅亡すると廃寺同様となった。毛利氏によって再興されたものの、大内輝弘の乱で戦渦に遭い、本尊・脇士・開山像だけは寺僧が門前の池に投じたお陰で守られたが、伽藍は焼失した。

江戸時代、山口・常栄寺の大円恵満和尚(陶出身)によって再建され、現在に至る。明治維新で活躍した富永有隣や小郡宰判最後の代官・北川清助などの陶村出身の著名人ゆかりの寺である。明治時代、脱隊兵士の駐留所となったことでも知られている。

正護寺・みどころ

中世から近代まで、ゆかりある物が多く残されている希有な寺院である。

一、開基塔、開山塔はじめ、陶晴賢の分骨塔など多くの供養塔や石塔がある。
一、脱隊兵士駐留所となったゆかりがあり、本堂には銃弾跡が残る(未見)。
一、富永有隣の菩提寺である。
一、北川清助が小郡代官所から移築した門がある。
一、山口県有形文化財「木造薬師如来坐像」がある。

仏像以外は供養塔や建築物なので、いつでも見学可能。仏像も事前に連絡をすれば見ることができる(202003現在)。

開山塔 & 開基塔

開基開山塔の写真

境内には大量の墓碑があって驚かされる。入り口の説明看板によれば、これらは歴代ご住職のお墓だという。それらに混じって、「正護寺殿」「開山塔」という二つの供養塔がある。開山塔は開山の傑山寂雄和尚のもの、正護寺殿は開基・陶弘政のものとされる。

このうち、陶弘政の開基塔についてだが、弘政の代に陶氏は富田に移ってしまったので、亡くなったのも富田の地だと思われる。ただ、亡くなった場所がどこなのかは記録がなく、したがってこの開基塔についても、ゆかりの地であるがゆえに建てられた供養塔なのか、それともこの地に埋葬されていて墓であるのか、正確なことはわからないそうだ(参照:『陶村史』)。

まあ、はっきりしないと言ったら大内氏歴代当主の墓もすべてそうなので、少なくとも供養塔として伝承されていることは間違いなく、歴とした関連史跡である(気にし始めるとキリがなく、弘政の先代、始祖である弘賢の墓はどこにあるのか、弘政から龍文寺を建立した盛政までの間の当主はどこに? とか色々ある)。

陶晴賢分骨塔

陶晴賢分骨塔の写真

お墓は洞雲寺にあるはずだが、「分骨塔」っていうからには、ココにも分骨されている、ということになる。誰がいつ、ココに持って来たのか、誰も言及していない気がする。ただの供養塔なのか、本当に分骨塔なのか、何を根拠に証明されているのか、とやや気になる。

分骨塔を造るにしても、若山ではなく、ココにある、ということも気になる。陶一族が、陶の地にいたのは、始祖の弘賢と二代目の弘政だけで、その後はずっと富田の人である。だけど、富田と姓を変えることもなく、ずっと陶の名で通したことや、わずかに二代しか過ごしていなかった陶の地の方々が、なおも地元の英雄として分骨塔まで造ってくださっている有難さとか、あれこれ考えて、この陶の地は、陶一族にとって、本当に大切なルーツの地なのだ、と思うのである。

寂しいけど、やはりここも、「伝承」なので、本当の分骨塔ではない可能性は残る。

三界万霊

三界万霊碑の写真

ちょっとわかりにくい写真になっているけれど、向かって左端の石塔には「三界万霊」と書かれており、陶晴賢の「供養塚」である。台石に「晴賢二百五十年忌に際し陶村民挙って供養のためこれを建てた」と記され、上に地蔵が座っている。二百五十年忌といったら、今から二百年以上前ということになるから、これじたいが年代ものである。その当時から、陶村には供養してくれる方々がいたということであり、上の分骨塔も同じような人たちの手になるものとして、俄然信憑性がありそう(な気が……)。

ボウ虫墳

ボウ虫墳の写真

この石碑、説明看板にも載っているが、「多くの虫の死を悼み」建てられたもの、とある。普通に考えると、必要に迫られて害虫駆除を行い、結果大量の虫が死んだので、いちおう供養をした、というような感覚になる。まさかそんなはずはないので、駆除対象にはならないような虫たちが大量死したような事件があって、その供養のためなのか? ただし、詳細が書かれていないため、確認できない(非常に気になる)。また、ボウ虫のボウは、案内看板では虫偏に方角の「方」となっているが、普通のPCでは変換できない(石碑の字とは、微妙に違う気がする)。看板の文字も石碑の文字も、漢和辞典に載っていない……。ますますもって、謎だらけである。

小郡代官所正門

小郡代官所正門の写真

この門は、北川清助が小郡代官所の正門をこの場所に移築したものであるという。北川清助と富永有隣両氏は、陶村を代表するなような傑人で、お二人の墓所は寺院墓地内にあるらしい。『陶村史』にはその事蹟が詳細に記されているけれど、中身が深すぎて現時点では消化できていない。

陶の風景

陶の風景の写真

『陶村史』によれば、大内輝弘の乱で焼失した後、正護寺が再建されたのは、元々の寺院跡地ではなくして、陶氏館跡地だった。元の寺院跡地は現在地より少し離れたところにあって、土塁などが残っているという。

ということは、寺院の現在地 = 元陶氏館跡、である。『陶村史』よりずっと後に書かれた『山口市史 史料編 大内文化』には、陶の陶氏館跡地の調査が行なわれたことが書かれていた。やはりわずかに土塁跡のようなものが見付かったらしいけれど、大内氏館跡や勝栄寺土塁のようなわかりやすい遺物ではないようだ。

『山口市史』を読んでいないときに訪問したから、土塁云々はかなりわかりやすいものがあって、きっと目視できると思っていたのに、何も見付けられず、後ろ髪引かれる思いでその場を後にしたことを覚えている。専門家に案内を頼めば、それらを目にすることができると思ったけれど、地元のガイドさんたちのご認識では、ここにはそのようなものは特にないということで、二回目の訪問は見送った。おそらく、考古学的発掘調査を行なっている研究者の先生にお願いしなければ見付からないレベルなのだろう。

そもそもどうしても何かの痕跡を見付けなければならない、という必要性はないのであって、かつてここにあった、その事実だけで十分だろう(本音は何らかの残骸でもいいから見たいけど)。

五郎
五郎

ご先祖様の地はのどかでいいところだね。

ミル
ミル

そうだね。時間が経つのを忘れてしまう。

正護寺写真集

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。西陶バス停から徒歩15分とあるので、タクシー代金を節約できそうではあります。付近に鋳銭司跡、陶窯跡などもあるので、まとめて見ておきたいなら車がいい気もします。

参照文献:説明看板、『陶村史』、『山口市史 史料編』※本はまだ読み終えていない段階です。

陶氏菩提寺龍文寺山門前の記念写真
周南旅日記(陶氏ゆかりの地)

陶のくに関連史跡総合案内。要するに目次ページです。

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