陶のくに風土記

建咲院 

2022-10-19

説明看板の写真

建咲院・基本情報

住所 〒746-0011  周南市土井1丁目5−1
電話 0834-62-2427
山号・寺号・本尊 富田山・建咲院・釈迦如来坐像・脇侍普賢菩薩騎象像・同文珠菩薩騎獅子像
宗派 曹洞宗

建咲院・歴史

建咲院は、大幻院さまがご両親のために建てた菩提寺です。やがて毛利元就からも篤く信仰されたため、陶一門と毛利家ともどもにゆかりある寺院となりました。

陶興房が両親のために建立した寺院

建立年代、歴代住職は不詳であるが、開基は陶尾張守興房である。興房の父は周防の守護代、尾張守陶弘護という。康正元乙亥年(1455)三月三日山口の屋敷に生まれ、幼名鶴寿丸、長じて五郎という。文明甲午六年(1474)尾張守に任じられる。文明十一已亥年(1479)洪鐘を筥崎宮に鋳造して軍功を刻んだ。筑前の任務を弟の弘詮に譲って帰国する。文明十四壬寅年(1482)五月二十七日、不慮の事故に遭い亡くなる。二十八歳だった。陶興房は父母の菩提を弔うため、この地にあった富田山宝成寺を再建して、建咲院を創建した。同郡大道理には龍豊寺を建立している(大道理村は富田から二里余離れている)。法名は父・昌龍院殿建忠孝勲、母・龍豊寺殿咲山明听大姉といったので、それぞれ一字ずつをとって建咲院と称したのである。

城主さまキャラクター画像

昌龍院さま:昌龍院殿建忠孝勲

奥方さまキャラクター画像

咲山明听さま:龍豊寺殿咲山明听大姉

時の住僧は大悦薫童といったが、永禄二年(1559)、龍文寺第八世・隆室知丘が当院に隠居して第一世を称し、龍文寺の末寺となった。隆室知丘は肥前国佐賀の生まれで、永録元戌午年(1558)年老いて建咲院に移ったのである。弟子たちがたびたび集まってきたから、仏教の教えを説くことを止めなかった。(以上、参照:『山口県寺院沿革史』)

毛利元就と建咲院

毛利元就

毛利元就公

毛利元就は弘治三年(1557)十一月に、大内氏の残党の一揆討伐のため、富田に在陣した(もしくは、三月に防長経略のために防府に進軍した)際、勝栄寺を本陣として、建咲院の隆室知丘と親交を結んだ。永禄三年(1560)四月二十五日、建咲院に寺宝および、寺領を寄進した(文化財説明看板、『徳山市史』)。

最新の研究成果では、元就が寺宝を寄進した時期、降室和尚と交際した時期などについて、正確な時期が特定されており、以上が正しい史実とされている。しかし、それ以前に流布していた逸話も興味深いので、紹介しておく。

「永禄二已未年(1559)、毛利元就公は豊後の大友宗麟を討つため、数万の軍勢を富田の津に集め、数百の軍船の出航準備をした。まさに纜を解こうとするとき、元就公はにわかに考えた。宗麟はその氏族といい、武功といい、菊池、松浦、秋月などの隣国の勇将が付き従い、加えて城郭もそなわっていることといい、彼の国に赴いて敵に当たることは容易くはない。そこで村落の長老を招いて尋ねた。「近くにすぐれた知恵者はいないか」「北に建咲院という禅寺があり、降室和尚という人がおられますが、その人は世に稀なる高僧です」と長老は答えた。元就公は大いに喜び、ただちに使者を遣わせて和尚に教えを乞おうとした。しかし、和尚は「国主、若国主のご命令で私をお召しになれば、馳せ参じて喜んで出迎えるべきですが、今はおいでになって学ぶべきであって、お訪ねしてお教えするのは作法ではありません」と使者に告げた。使者がその旨復命すると、元就公はその言葉に大いに感じ入り、即刻寺門に赴いて教えを乞うた。和尚は仏祖正伝の金剛実戒(血脈)を授け、日頼洞春大居士の雅号を与えた。元就公は信受して戦に臨み大勝した。帰途、また和尚を訪問して、供養を営んだ。七種の宝物(現存する)と、寺院再建のために大山安芸・五十五貫の土地を寄進した。」(『山口県寺院沿革史』)

この説が否定されている根拠は、元就の九州討伐による長府在陣は永禄十二年(1569)五月で、隆室はその前年の十一年(1568)二月に示寂しているためである。また、防長経略の弘治三年(1557)三月ではなく、一揆討伐の十一月と考えられているのは、後者のほうが、富田での滞在期間が一カ月間と長期に及んでいたことからきている。なお、『寺院沿革史』によると、寄進された宝物は七種類ですべて現存するとなっているが、実際には六種で、一種は伝わっていない(後述)。(以上、参照:『徳山市史』)

隆室和尚はのちに、佐賀に帰って龍泰寺を開き、その支葉二十五ヶ寺、建咲院末十一ヶ寺を創建して仏法を伝えること四十七ヶ所に及んだ。永禄十一戊辰年(1568)二月二十五日、龍泰寺で亡くなった。(『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』)

徳山毛利家と建咲院

三世・宗喜和尚は天正十五丁亥年(1587)七月二十六日、領主毛利公に初めて謁見した。慶長二丁酉年(1597)十一月、毛利輝元公が本堂を再建。元和五丁丑年(1619)八月、宗喜和尚は席を譲って退いた。

毛利就隆公は慶長七年(1602)九月二日、山城国伏見藤森で生れた。母は兒玉元良の娘。就隆公は慶長八年(1603)、伏見から母と共に周防国山口に帰り、慶長十八年(1613)頃より徳川家に参勤した。周防德山で本家から三万石を分配相続したが、幕府は五万石と思い、徳川家綱は分限を調査し、三万石と決定した。元和四年(1618)、就隆公は周防国下松に移り住んだ。奥方は毛利秀元公の娘だったが、のちに離縁した。元和五年(1621)から寛永十五年(1638)まで十八年の間、下松に滞在した。慶安二年(1649)、就隆公は居城を野上に移した。故杉小次郎の居所であり、地名を德山といった。(下松藩 ⇒ 徳山藩)

毛利就隆公は、富海の国津社に祈禱して一女を得たことから大いに喜び、また寛永二年(1625)十月、宝成寺の観音堂(富田茶木原)に祈禱して一男を得た。そこで堂宇を建咲院の境内地に移して再建した。このときの棟札が伝わっている。その後、天保九年(1838)に洪水のため向山が崩れて堂が流失したので、翌十年春、再建された。(『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』)。

藩の国内改革に及んで、建咲院は元就公寄附の寺領を没収され、改めて高八石を安堵されることとなった。衆徒は食にも困るほど困窮したから、時の住持・仁安等恕は度々寺領の回復を願い出たが許されなかった。寺を退去するよりほかない、と訴えたが、やはり許されなかった。等恕は奮然として寺を去り、福川村の奥観音堂に蟄居した。建咲院の檀徒であった尾崎・明野・福田氏などが、福川に一寺の建立を願い出て許されので、等恕を開山とする真福寺が創建され建咲院の末寺となった。

歴代住職:前住大悦薫童、一世・隆室知丘(永禄十一年1568寂)、二世・海安全珊、三世・悦嚴宗喜、前住仁山等恕、四世・自翁傅太、五世・太嶺祖椿、六世・自峯祖肖、七世・徳鎧祖光、八世・悦宗白禪、九世・高峯孤月、十世・擔山笑空、十一世・悟山了哲、十二世・洞玄獨中、十三世・大溟龍瑞龍、十四世・心静玄如、十五世・全量大真・十六世・玄海東超、前住本宥石産、一七世・祖林達宗、十八世・洞雲仙外、十九世・一法知常、二十・世大淵黙如、二十世・中興實應黙悟、二十二世・寂昭堅光、二十三世・白龍天外、二十四世・禅海浪雄、二十五世・隆昌太禅……。

歴代住職は各地に寺院を開き、その末寺は次の十二ヶ寺におよんだ。富田華嚴寺・夜市普春寺(海安開山)、戸田瑞龍寺・川崎(現徳山市須々万)萬福寺(『川崎観音堂』)(以上、悦嚴開山)、福川真福寺 (仁安開山)、湯野楞巖寺・下松松心寺・夜市(現和田) 洞心庵(以上、白翁開山)、平野祥雲庵・夜市争光院(以上太嶺開山)、小畑浄光寺(自峯開山)、右田興禅院(大淵開山)

境外仏堂:建咲院三世・悦岩宗喜が開創した万福寺の西傍にあり、同寺の抱えの堂宇であった。都濃郡富田町川崎にあり、もと霊峰山萬福寺といった。明治十七年に廃寺となって今は建咲院の飛地境内となって、川崎観音という。
大内弘世が制定した周防国観音霊場三十三ヶ所の十八番札所である。本尊は一寸八分の黄金仏。旧記によれば、平家の幕下・七兵衛景清の持仏であった。鳥羽院の御宇、元暦二丁巳年(1185)頃、梶原景清が黒神山 (黒髪島) に纜を繋いでいたとき、「我を某山某寺に安置せよ」との夢のお告げがあった。夢が覚めた後、その場所を尋ね探すと、果して夢の通りに寺院があって、護身大士が安置されていたという。それが、元の萬福寺、現在の川崎観音である。霊験新にして敬崇の老若男女が頗る多く、本尊は秘仏として十三年に一度の開扉をきまりとしたという。(宝永五年1708五月、竜文寺二十四世・通明堂和南記『萬福禅寺観音記』)。一説には今の椎木家の祖先が発見して現在の位置に安置したもので、昔は藩主が供養料として椎木家の田地の内一石余を免租地にしたともされる。

万福寺は明治五年に廃寺となり、その後須々万(徳山市・当時)に移転して再建された。観音堂はそのまま残され、建咲院の飛地境内地となった。(以上、参照:『徳山市史』)

建咲院・みどころ

山口県指定文化財「建咲院什物」
周南市指定文化財「木造聖観音菩薩立像」「建咲院板塀」「建咲院文書」「陶興房の墓」

寺宝:毛利元就、輝元、就隆公の判物等数十通、毛利元就公九州征伐祈願成就による七種の遺物:袈袋、香炉、香箱 、水晶製瓢箪、数珠、座具等、 毛利家抱南梁筆一十六羅漢

本堂:慶長二年(1597)、毛利輝元公再建、寛永六年(1629)三月、毛利就隆公再建、宝永六年(1709)徳山藩三代・毛利元次公再建、文政十二年(1829)七月、毛利広鎮公再建。元治元年(1864)、山崎隊の陣屋にあてられたため荒廃。

聖観世音菩薩立像

観音堂の写真

もとは、富田山浄宝寺の本尊であったもの。建咲院に伝わる観音堂再建(寛永二年、1625)の棟札から、それ以前のものと考えられている。移籍後も、浄宝寺の本尊として信仰され続けた。亥の年(十三年目ごと)に開帳される秘仏。

桧材の寄木造り。その後に修理されたヶ所はあるものの、鎌倉時代の特色を残した歴史的に貴重なもの。

建咲院什物

毛利元就が寄進しと伝えられる寺宝。つぎの六点が現存している。

一、蜀江錦の九条の袈裟
一、身毒金襴の尼師檀
一、大内菱錦の血脈袋
一、水精金剛珠の装束念珠
一、堆朱の香合
一、瓢様の水晶の玉

それぞれの文化財については、自治体HPなどに公開されているので、写真を見ることができる。字面だけで何なのかさっぱりわからないものだけ、簡単に。

身毒金襴の尼師檀:身毒は印度の古称、尼師檀は坐具。リストは金襴となっているが実物は銀欄。
大内菱錦の血脈袋:血脈とは、仏法が師匠から弟子へと受け継がれていくことの意味。その流れを系図のように書いたものみたいで、血脈袋はそれをいれるものだろう(多分ね)。それに大内菱の模様を織ったものを大内菱錦といって、貴重なものとされ、現存するものはたいへんに珍しい。
水精金剛珠の装束念珠:水精=水晶、金剛珠=ダイヤモンドの珠。装束念珠=盛大な儀式の法会で使うもの。
堆朱の香合:堆朱=朱漆を幾層にも塗り重ねて、文様を彫りあらわしたもの。異国の物、という記録があるが、のちには唐物に似たものを国内でも作るようになったから、今の時点では判別不能。
※なお、七つあった寄進された宝物のうち、「紅色唐絹の衣」は鼠害によって明治時代に処分されたため、現存しない。また、これらの宝物について記されたもので、研究者の先生方が貴重な史料として参照なさっている古記録として、『建咲記』という書物がある。
(参照:河済敏子先生の「毛利元就寄進の建咲院寺宝について」を参照にした『徳山市史』の記事)

建咲院の板碑

元は「富田から大神に通ずる道路の大神に向かって右側、建咲院墓地に登る小径の左側」にあったもの。昭和五十七年に現在地に移された。

「正安二年庚子二月日 沙弥真口」という銘文がある。

鎌倉時代後期の作で、山口県内の銘がある板碑のうち、六番目に古い石造物。

建咲院写真集

五郎
五郎

写真がまるでないね、ココ。父上のお墓はどこ?

ミル
ミル

ごめん……。タクシーを駐車場に待たせて、5分で戻ろうとか。何も見れなかったよ。

アクセス

徳山駅からタクシーを使いました。檀家の方以外は、絶対にタクシー利用はやめましょう。駐車場だけで帰ってしまうことになります。車を使った場合は、きちんと山門まで引返して、丁寧に参拝しましょう。

参照文献:『山口県寺院沿革史』『徳山市史』

陶氏菩提寺龍文寺山門前の記念写真
周南旅日記(陶氏ゆかりの地)

陶のくに関連史跡総合案内。要するに目次ページです。

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