陶のくにの人々

陶弘詮

弟君
鶴ちゃん
鶴ちゃん

祖父様の功績はこれだけじゃない。ほかにも文化史や、郷土史の本に大量にその記述がある。だけど、順番に処理しているので、最初はこれだけだよ。

基本情報

父・弘房、兄・弘護、子・隆康、興房室ほか
幼名:三郎
中務⇒兵庫頭(文明十一年八月十一日初見)、阿波守
筑後守護代

寛正六年十一月、父弘房から右田弘篤の遺領を授かる。

文明十年、兄・弘護に従い、九州で戦う。

七月廿九日、少弐の残党が所々に籠城していたのに自ら急ぎ向かい、即時に撃破したことを政弘に報告した。 政弘はその返信の中で、弘護兄弟はともに年が若く、自ら行動し慌ただしいことである。今後は各方面の国人に判断させるよう。万が一思いがけないことがあったら、その異変を、ことに当家の安否を以ておしはかることなかれ、と言った。弘詮兄弟は政弘にこのように頼りにされていたのである。

十一年冬、兄・弘護に代り筑前守護代となった。のちゆえあって本氏に戻り、陶某と称した。
※年紀不詳。系図に、弘護が殺され、その子・三郎は幼かった。大内政弘に名代として上洛すべしという将軍家の御教書があり、弘詮はしばらく陶氏を称し、兵庫頭と改めて、兵を率いて上洛した。勲功に励んだので、将軍家が推挙して従五位下を授かり、のちに筑前国で賊徒を討った、とあり、ほかには所見がないけれども、本氏に戻った理由はこのようなことからであろう。 さて「しばらく陶氏を称し、兵庫頭と改め」というのは正しくない。 弘詮がそれ以来、陶某といっただけでなく、 その子・隆康も陶右馬允といっているではないか。

吉敷郡朝倉の地を領有していたので、朝倉とも称した。しかし、本領は長門国豊田郡であり、殿敷村の諏訪山を居城とした。

殿敷の近村楢原村に妙栄寺がある。弘詮は亡母・仁保氏の菩提のために、都濃郡富田に保安寺という寺を既に建立していたが、また建立した寺である。初めは矢田村にあり、のちに今の地に移った。妙栄は仁保氏の法名である。もとこの本領地の牌所は普済寺といい、臨済宗であったが、明応年間に断絶してしまった。そのことは妙栄寺の歴住略伝に詳しい。大武山の号について、全当院は昔の山号ではない。昔大武山普済寺があり、今に至るまで旧跡が存在している。すなわち和田孫右衛門の宅地である。南畔の川は普済寺川と言い、普済寺はもともと臨済宗であった。朝倉家の最初の牌所は寺領が矢田村で寄附されたのである。明応五六頃、住持景播が信心を失った後、寺家は断絶し、寺領と山林は先に治めていたものとあわせて、当山に寄附されたことは、墨付きも明白である。寄附状二件、 妙栄に附して寄せた事情も書かれ、文字の磨滅はあるがこれによって明らかである、とあって、その寄附状も現存している。明徳七年戊□□月廿八日兵庫頭弘詮とある。

永正十四年、所帯を子・隆康に譲った。

十□年、 安房守となる。瑠璃光寺所蔵拈頌集奥書には、永正十五年戊寅四月十日兵庫頭弘詮とあって、十六年三月の文書では安房守るとある。それゆえ、この間のことである。

死去した年月日は不詳。系図には大永三年癸未十月廿四日、筑前筥崎で亡くなった、とある。ほかには所見がない。

法名:鳳梧真幻昌瑞。生存中から名乗っていた(瑠璃光寺所蔵教授文奥書)。

系図には真幻の二字がない。教授文は弘詮が納めたもの。奥書に、

右教授文勁岩和尚尊命奉調進畢、陶兵庫頭多々良弘詮、鳳梧真幻昌瑞欽誌之、永正十一年甲戌十月八日

とあり、また上に引用した拈頌集の跋に、鳳梧の壺形印、昌端の方印を捺し、題箋に真幻の円印を捺している。

男女二子があり、息子は隆康、娘は甥・興房の妻となった。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」より

三男

我が妻は叔父上の娘御、つまり、我らは従姉弟(もしくは従兄妹)どうしである。

鶴ちゃん
鶴ちゃん

だから父上と従兄弟どうし(父親どうしが兄弟)であると同時に、義兄弟(妻の兄弟)なのですね……。

三男

それゆえに……そなたと、我が息子とも従兄弟どうしということになるのだ。

鶴ちゃん
鶴ちゃん

……。

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