みやじま・えりゅしおん

宮尾城

2022-05-01

要害山山頂看板

広島県廿日市市宮島町の宮尾城とは?

宮尾城とは、世界遺産宮島にある「厳島合戦史跡」です。厳島合戦の時、毛利元就が大内軍を狭い宮島におびき寄せるために造った「囮の城」だといわれています。「囮の城」云々については後世に脚色された部分もあり、様々な意見がありますが、かつてここに城があって、それが厳島合戦にかかわるものであったことは紛れもない事実です。

城の周囲はかつて海であったとされ、地形も当時と大きく変わってしまいました。わずかながら遺構も残されていますが、元の姿を偲ぶことはかなり難しいと思われます。

宮尾城・基本情報

名称 宮尾城 
別名 宮之城、宮要害
形態 山城(水軍砦?)
標高(比高) 30メートル(30メートル)
築城・着工開始 ①不明、②天文二十三年頃
完了年 ①不明、②天文二十三年
廃城年 不明
築城者 ①不明、②毛利氏
廃城主 不明
改修者 毛利氏
遺構 廓、堀切
文化財指定 なし

「宮尾城」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降(『安芸国の城館』)
瀬戸内の水陸交通の要衝として、厳島には水軍施設のようなものが置かれたいたと考えられ、宮尾城もそのような水軍施設の一つが起源と考えられている(①)。しかし、それがいったい誰によって造られたものなのかは不明。毛利氏はそれを再利用したと考えられる(②)。(参照:『宮島本』、『安芸国の城館』ほか)

宮尾城・概観

現在ある城を見ても、ほとんど当時の面影はない。しかも、高さがせいぜい数十メートルなので、いわゆる「山城」というのとも雰囲気がやや異なる。しかし、高さはなくとも、堀切だの廓だのがあるところは、いちおう城であることは間違いない。

現在の城(城跡)は桟橋前広場から見える小山だけれども、これは観光用に遺されているとしか思えないもので、名物ガイドさま方の講談よろしい楽しい物語を拝聴するのにもってこいのなんとなく城跡という以外の何ものでもない。素人からみると、そういえばなんとなく山城かも? と感じてしまうけれど、元々が小さな城であったものが、さらに縮小されている状態だ。

みずから地図を画く技術がないので、いかんともしがたいが、専門家の先生が書いてくださった城の縄張り図によれば、クロワッサンだか、双子山のような形の城だった模様で、その名残は現在の地形からもわずかにそうとわかる。おなじみの案内図から、今回ご紹介する箇所を抜き出すと以下の通り。

宮島案内図「要害山」部分

地図上緑色に塗った部分が二つある。真ん中が現在の「みなと隧道」で、ここだけが細い一本線で、その東西に二つの廓があった。つまり現在「要害山」として看板がたっていて皆がここがそうだ! と考えている「山」部分(今伊勢神社があり、道路を挟んで背後に存光寺がある側)だけでなく、みなと隧道を挟んで向こう側の「山」部分とをあわせてひとつの城だったのである。

説明がわかりづらくなるので、下の Googlemap を拡大し、「みなと隧道」が表示されるサイズになったところで、航空写真に切替えてご覧ください。みなと隧道を挟むようにして、左右両側が山となっていることがわかると思います。これら、すべてが「要害山」であり、けっして右側だけではないのです。

とは申せ、両者は普通に繋がっていますので、何となく歩いていると、結局元宮尾城を全部歩いて帰ってくることになっていますが。しつこくお話しているように、現在の厳島神社参道は昔は海でした。ゆえに、要害山の辺りも当然海です。つまり、この城の姿は海に浮かぶ浮島の如くで、二つの山を繋ぐ現在の「みなと隧道」の辺りがちょい細くなっていたのは、そこら中央部分は入江となっていて、船を繋いでいたからだと考えられています。

目茶苦茶恥ずかしいけど、下図のような位置関係です。この緑色、全部が城跡です。もちろん、当時のままではなくなり、削られたりしていますし、この図のようにきちんとした円形のはずがないですが、イメージ的にこうなので、航空写真をご覧ください。

要害山・概観図(デフォルメ)

宮尾城・歴史

厳島合戦の舞台となったところ、としてあまりにも有名だが、「囮城」などのエピソードは多分に脚色されたものであり、完全に信用することはできない。

要害山という名前の由来だが、『宮島本』にはつぎのようにあった。

要害山という呼び名は弘治元(1555)年厳島合戦時に毛利方の陣宮ノ尾城が置かれたところから名づけられた。
『宮島本』24ページ 宮ノ尾城跡(要害山)

宮尾城なの? 要害山なの? と常に悩んでしまうが、どっちでもいい。

前身は「海賊砦」?

瀬戸内海は穏やかな海に見えるけれど、じつは海の旅はそう快適なものではない。いくつもの難所があり、海賊が出たりするから、航海は命がけだった。それゆえに、無事に海を渡っていくためには、水先案内人として、瀬戸内海の隅々までを知り尽くした人々を雇う必要があった。彼らは「案内料」および「通行料金」を取るかわりに、人々を安全に目的地まで運んでくれた。

途中海賊の襲撃でもあれば、そのような連中からも守ってくれる。ところが、案内も請わず、通行料金も払わずに勝手に通過しようという命知らずは、水先案内人をつとめてくれるような人たちから逆に襲われた。要するに、水先案内人 = 海賊(水軍)なのであり、料金を払って丁重にお願いすれば助けてくれ、守ってすらくれるのに、無視して通過すると途端に牙を向いて海賊としての本性を現すのだった。

というようなお話を地元の方からお伺いした。この宮尾城は、そうした海賊勢力の物見櫓だか海賊砦だか知らない施設が元になっていると考えられており、冗談どころか、『宮島本』や『安芸国の城館』にも、同様の解説が書かれている。

海賊の物見櫓が、一族の将来を懸けた大戦の舞台に相応しいはずがなく、どれほど手直ししたとしても、たいした役には立ちそうにない。つまり何がいいたいかと言えば、毛利元就がここを「囮城」としてつかうだけの「装置」として、いちおう城のかたちを整えた、という話が俄然真実みを帯びてくる、ということ。

こんな風に考えている時点ですでに、後世の脚色にまんまと乗せられているみたいだが、じっさいにこの「城」はあまりにもちゃちで、とうてい数万の軍勢を相手に持ち堪えられるようなシロモノではないのである。

陥落寸前から一転大逆転

海賊砦相手に大軍で総攻撃とか、適当に侍大将 A くらいを派遣すりゃいいのに、と思うけれども、そのあたりは本当に何が正解なのかはまったくわからない。あまりにできすぎた部分は多分に後世の付け足しだと思うけれども。

ただ、大国の主(というか最高実力者)から見たら、腹が立つ裏切り者でどうでもいい国人風情に目に物見せてくれると考えたら、国力の違いを見せつけて一撃でぶっ壊さねば腹の虫がおさまらない。そのような思考回路を細かく分析して「多分このように動くだろうな」と想定したら、まったくその通りになった。敵の大軍は囮城の破壊に躍起になり、事実、城は堀も埋め立てられて風前の灯火だった。

ここで、本当にちゃちな城が陥落してしまえば、一巻の終わりでその後のこともなかったわけで、後から考えれば奇蹟みたいな話。鮮やかな奇襲云々が成功するかどうかなんて、神のみぞ知るだ。しかし、城内の将兵も頑張って耐え抜いたし、すべてが思惑通りに動き、大内軍が囮城に釘付けとなっている間に、毛利元就の奇襲作戦は大成功に終わったのだった。

というようなことで、奇襲作戦が成功した後、役目を終えたこの城がどうなったのか、あまり言及している研究もないみたいで、いつ誰によって廃されたのか、などは不明。とくに破却するでもなく、普通に消滅していったものと考えられる。

宮尾城・みどころ

厳島合戦の舞台となった城跡「要害山」がとにかく有名であり、そのものがみどころ。ほかに、この城跡内に、今伊勢神社、仁王門跡、行者堂などがある。

要害山・城のすがた(遠景)

要害山(登り口)

「日本の城○○」とか、「厳島合戦○○」にこれが要害山である、として紹介されているのは、たいがいこの写真です。一番メジャーな登り口がこことなります。しかし、上述のように、ここは要害山のほんの一部分が見えているにすぎません。手前は桟橋前広場で離れた所から見ようとすると海に落ちてしまうため、ほかの山城のように、全体像を一枚の写真に納めることは困難です。

そこで、大内軍が本陣を置いていた「塔の岡」から見てみます。

塔の岡から望む要害山

これは五重塔脇から撮影したものですが……。樹木が邪魔になり、結局いくら頑張ってもこれ以上のものは撮れませんでした。桟橋付近から見た図とほとんど変らないですね……。ただし、何となく、山が連続していることがおわかりになるでしょうか。そうならば、多少はお役にたてたことになりますが。

敵陣からこちらを見ることができるのと同時に、要害山からも塔の岡が見えます。合戦で対陣しているのですから当たり前なんですが、なかなかそこら辺、意識せず通過してしまいます。下のように、要害山から塔の岡がよく見えます(黄色で囲んだところに五重塔があります)。とはいえ、毛利元就は博奕尾から出撃しているわけですので、その意味では博奕尾から見た塔の岡のほうが重要とはなります。

要害山から望む「塔の岡」

要害山が元は城であったことの名残を示す遺構はそこここにありますが、当時そのままなのか、後世に町づくりのために姿を変えてしまっているのかは、素人目にはほぼ判別がつかないです。以下は、書籍や地元の方のご案内などで記憶に残っているもの、本の写真と似ているもの、などを拾ってみました。

こちらは、要害山にある橋ですが、橋が架かっている下はかつての中央の「堀切」です。見てもわからないですが、ご本に同じような写真がありました。

要害山・堀切

要害山・堀切

ここが、かつて海賊(水軍)砦だった時の名残の石垣、つまりその当時から使われていた石垣というものが、所々残っておりまして、地元のガイドさまから「これは村上の石垣だ」というお話をお伺いしたことがございます。おおっと思い、そこら辺りを撮影したのですが、帰宅したらどれがそうだったのか不明となりました。恐らくは以下のようなものがそうであると思われます。

要害山・岩

ほかの山城跡などでもそうですが、当時からの石組、石垣に使われていたと思われる岩などの年代モノはそこら中に転がっています。これが間違いなくそうであるとは自信がありませんが、専門家がそのような石、石垣が存在しているとご案内くださったので、どこかにあることは確かです。

要害山・山頂部

要害山・山頂部

山頂部分には現在四阿があり、「要害山」の看板が立っています。

要害山・山頂部(2)

ところで、『安芸国の城館』に載っていた「登城口」は皆さまが普通に登っていく有名な登り口とは別の写真でした。ひょっとしたら、当時はそっちがメインだったのかも知れません。下の写真は存光寺に続く道へ降りていく階段ですが、この写真が多分、本にあった登城口なのではないかな、と思います。

要害山・登山口

しかし、ここらはかつて海だったとお伺いしたような気もしていて、いったい何が正解なのか、なかなかに難しいですね……。

今伊勢神社

今伊勢神社

今伊勢神社は、名前の通り天照大神をお祀りする神社となります。要害山の中にこの神社があったことから、毛利元就の城は「宮之城」「宮要害」などと呼ばれたそうです(参照:『安芸国の城館』)。現在は「宮尾城」の呼称で定着しておりますが、これは「宮のある尾根」に建てられた城であるということから来ています。

要害山を見に来たら、たまたまそこに今伊勢神社があった、というような無礼なことを言ってはいけません。地元の方々に崇敬される神社さまであり、要害山とは無関係に参拝する方々は絶えません。

基本情報

ご鎮座地 〒739-0511 廿日市市宮島町伊勢町
御祭神 天照大神・ 八幡大神・春日大神・素盞鳴尊・猿田彦神・ 興津彦命・興津姫命
厳島神社末社

今伊勢神社・鳥居と石段

今伊勢神社・鳥居と石段

今伊勢神社に参拝するためには、このような長い石段を上って行かなくてはなりません。要害山の城跡見に行ったら、たまたま社があった、ではないので、きちんと下から行かなくては、ですよ。

仁王門跡

要害山・仁王門跡

「山辺の古径」でご紹介した写真の使い回しです。宮尾城の二つの廓を繋ぐ中央の堀切(上述)手前にあります。

「跡」ですので、現在はなにもありません。ここに仁王門があったのは、江戸時代のことで、明治維新の時に壊されてしまい、仁王像は大巌寺に引き取られたそうです。なんで、ここに仁王門があったのか、ってことですが、『宮島本』に「要害山は嚴島神社の鬼門 (艮・東北の方角) にあたる」と書いてあります。つまりは、鬼門鎮護のためだったのでしょう。

行者堂

行者堂

修験道の開祖といわれる 「役の小角」が 祀られているお堂です。

要害山・行者堂由緒看板

由緒看板に、丁寧な説明がございます。ちょっと見えにくいので文字起こしをしました。
「行者堂
祭日 旧四月七日
由緒 役の行者(修験道を修行する人)
諸国を遊歴して苦業をした人
俗に役の行者と称している 大和国葛城上郡の人 舒明天皇の六年に生まれる
三十二才のとき葛城山に入り孔雀明王の呪を誦して悉地(さとり)を得神験を現す、文武天皇の二年讒言により伊豆に流され大宝元年(七〇六年前)赦されて還える
終わる知らず故にここには修験道の祖をお祭りしてあるお宮である
昭和四十五年五月十日」(説明看板)

西行戻し

要害山・「西行戻し」

要害山「西行戻し」付近?

願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃……という歌で有名な西行法師(この歌が一番有名なのかどうかわからんけど)にまつわる伝説が残されている場所です。西行さんって、ファンが多いお人ですが、ここではちょっとやり込められちゃってます。

西行さんがこの付近を通りかかった時、一人のおばあさんと行き合いました。そのおばあさんに道をたずねましたが、おばあさんは無反応でした。そこで、ここは著名な歌人・西行法師なので、人が道聞いてるのに無視するのかよ~という思いを歌で詠んで聴かせました。

 うつせみのもぬけのからにこととえば山路をさへもおしえざりけり

なおも無視するか、慌てて謝るか取るべき対応は二種類ありそうに思えます。そこらの田舎者なので、歌などわからない、ということであれば、そのままほったらかして通り過ぎてしまえばいいわけです。ところが、このおばあさん、じつはすごい人だったんです。西行さんが「もぬけのから」と揶揄したことに対して、どうせあたしゃもぬけのからなんだから、何も教えてなんてあげられませんよ、と。

これには西行さんもびっくりで、ぐうの音も出ない。そそくさと立ち去ったそうです。

でもなんで、道を教えてあげなかったんでしょうかね。俺ってすごい歌人なんだぜ、みたいなオーラ放っていて、ナニサマかと思われたのかな? そこら、歌心ないし、西行さんという方の人となりもよく分らないので今ひとつわからなかった。

さて、この「西行戻し」ですが、西行さんとおばあさんとのやりとりは、行者堂付近だったということしか伝わっていないので、写真の道が絶対にそれです、と確信はないです。この辺り、程度です。ガイドさまがとっても面白おかしくご案内くださって、その場所で撮影したはずなので、全くの見当外れではないとは思います(でも、ガイドさまのお話は半分以上飛んでしまいました。記憶力のなさが悲しすぎる……涙)。

存光寺

要害山・存光寺

基本情報

住所 廿日市市宮島町801
山号・寺号・本尊 伊屋山・存光寺
宗派 曹洞宗

開基は存光坊真空寂如阿闍利、天文九年(1540)の創建といいます。こちらの寺院さまは洞雲寺の末寺となります。『宮島本』には江戸時代に再興された、とあったので、一時期廃れていたのかもしれません。

宮尾城(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

所在地&MAP

所在地 〒739-0550 廿日市市宮島町浜之町
※Googlemap にあった住所です

アクセス

宮島フェリーの桟橋を出て右手の方角に登り口の階段があります。

参照文献:『安芸国の城館』、『宮島本』、現地説明看板

宮尾城(廿日市市宮島町)について:まとめ&感想

宮尾城(宮島)・まとめ

  1. 厳島合戦史跡のひとつ。毛利元就が大内軍を欺くために造った「囮城」であるとされている
  2. 「囮城」云々は後世の軍記物などの脚色もあり、真実は不明ながら、大内軍がこの城を陥落させようとしていたこと、その隙に毛利元就の奇襲が行なわれたことは史実である
  3. 城は毛利家が築城したというよりも、瀬戸内海を縄張りとする水軍(海賊)施設のようなものを使ったと考えられている
  4. 城の姿は当時のままに保管されているわけではなく、周辺の地形も大きく変っているが、わずかに遺構もあり、城跡として見学することは十分に可能
  5. 城跡内に今伊勢神社や仁王門跡などがある

「大内氏ゆかりの地」を巡っているミルたちがこの場所を見学するとなんとも微妙な感覚に陥る。そりゃ、負けた側から見たら心中複雑ですよね……。にもかかわらず、ここまで宮島を気に入って何度も来島してるって何のため? って思うことしきり。あれですよ、厳島合戦は無視して、勝山城跡だの、厳島神社だのに来てるわけですよ(言い訳)。

宮尾城(要害山)は実に不思議な城跡でして、横に長いかつての城跡だった山を歩いていると、今伊勢神社、仁王門跡、行者堂などがいつの間にか全部見れてしまっています。ですが、専門家の先生がお書きになった縄張り図を拝見すると、中央の堀切を挟んで二つの廓が並ぶ構造となっており、かつてはその中央部分に船を着けていたというのですから、びっくりです。海は埋め立てられ、船など着けられる状態ではなくなっているのに、それでも城跡はきちんと残っているわけですよね。それだけ大切なものだったからでしょうか?

宮尾城と塔の岡に行き、それぞれからかつての敵陣跡地を眺めたりすると、歴史好きにはたまらないでしょうが、負けた側からすると心中複雑で(しつこい)。ところで、厳島合戦ゆかりの地には、たいてい詳しい説明看板があるのですが、珍しく要害山には「要害山」と書いた看板しかないのですよね。あと、およそほとんどの城跡には地形図や縄張り図、由来の類の看板があるのですが、それもここにはないです(202303現在)。これからすごいものが設置されるのか、あるいは、包ヶ浦や博奕尾などと比べて、単なる「囮城」でしかないこの場所は重要視されていないのか、もしくはかつての姿がわからなすぎて解説看板を作りにくいのか、ここら辺も謎です。

所在地もわかりやすいですし、基本危険な道などもないのですが、やはり「城跡」ですので、歩きにくい道はあります。足元には十分にお気を付けくださいませ。

こんな方におすすめ

  • 毛利元就ゆかりの地、厳島合戦ゆかりの地を回ってます
  • 城跡マニアです。遺構があまりなくても、跡地看板だけでも行きます

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(怒)
五郎

毛利元就って、安芸国人毛利家の人だろ? 陶入道はなんでこんな小領主にやられちゃったんだ? どんだけ弱いんだよ?

ミルイメージ画像(涙)
ミル

とりあえず、君は厳島合戦のことは知らなくていいから。

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

五郎とミル(サイトのキャラクター)が広島県内を観光した旅日記総合案内所(要するに目次ページです)。「みやじまえりゅしおん」(宮島観光日誌)、「はつかいち町歩き」(廿日市とたまに広島市内の観光日誌)内それぞれの記事へのリンクが貼ってあります。

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-みやじま・えりゅしおん