陶のくにの人々

義長政権家臣たち

2022-05-02

陶様
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ミル

今回は職場の同僚って感じで一緒に政変した人、厳島で戦った人たちをまとめます。弘中さんなんて調べが進めば独立しそうだし、本家に入れるべき人もいる感じがするけど、サブディレクトリになったので、わりとお気楽に移せるから気にしないの。

弘中隆兼

幼名:小太郎。初め中務亟、のち三河守となる。中務亟興兼の子である。

義興に仕え大永五年安芸に従軍し、大永六年七月五日、草津で戦った。

義興が薨じて義隆に仕え、天文五年十一 月、義隆の命で安芸国加茂郡に出、平賀弘保を援けて平賀興貞の高屋頭崎城を攻めた。
天文十年、義隆が安芸を攻撃すると、これに従った。三月十九日、内藤左京大進隆時等と佐東郡藤懸七尾山の地形を調べた。敵兵がふいに攻撃して隆時の弟・彦二郎正朝および南野藤右衛門尉等が戦死した、一隊はほとんど敵にとらえられそうになったが、隆兼が奮闘してこれ をしりぞけた。

天文十二年五月、義隆は尼子家との戦に敗北して出雲より還った。敵が備後を侵すことを慮り、隆兼を安芸の西条に派遣し、槌山城で備後外郡の事を裁判させた。
天文十三年、備後に出軍する。尼子の属城は皆降ったが神辺の村尾城だけが落ちなかった。
天文十八年四月、平賀太郎左衛門尉隆宗が一城を攻めるために大軍を他郷におくことの不利を論じ、 隆宗の兵を以てその任に当たることを望んだ。そこで攻城の諸族は皆撤兵し、隆兼も帰国した。
天文十八年九月四日、平賀兵が村尾城を落とした。ところが城主・山名理興が逃れてしまったので、青景隆著とまた備後に派遣された(帰国は天文二十二年の十一月十二月の間と思われる)。

義隆が薨じて義長に仕えた。

天文二十三年九月、全薑に従って玖珂郡岩国に出、琥珀院に陣をはった。

弘治元年三月十六日、全薑は毛利氏の反間策にかかり、隆兼に江良丹後守房栄を殺害させた。隆兼はこれを諫めたが、全薑はききいれず、隆兼もまた房栄に与したいと望むのか、といった。そこで隆兼はやむを得ず房栄を己の陣営に招いて斬殺した。

弘治元年三月三十日、海田、 仁保島で戦い敵の首を三つを獲る。

弘治元年九月二十二日、全薑は兵を派遣して厳島の宮尾城を攻めたが落ちないのを憤り、大挙して厳島に渡ることを相談した。隆兼はこれをとどめて、元就は防芸での弓箭が長いことを慮り、わざと弱いと示して、厳島に新城を築き、これを香餌(かんばしいえさ)として、大軍を入れるべきではない小島に味方を釣り出して勝敗を一時に決しようという策である、といった。全薑は聞き入れず、三河守の例は遠慮しているように見せて臆病なのだ。異見は聞く耳なしと誹り笑って、その夜厳島に渡った。
隆兼は聞き入れぬのなら聞かなけばよいだけの事である。我をすてて渡海するとは何事か、と怒った。しかし、最初から同意した弓矢であり、殊に此度の合戦は必ず負けるのだから、別々になろうとするのは丈夫の道ではない、陶は人の異見を用いず、知らずに死にに渡る。我は知っていて同じく死にに渡るのである。後日の為に言い置くといって、一 日後れて厳島に渡り、古城山の麓に陣をはった。

弘治元年九月一日、全薑は毛利元就父子襲撃にされて敗死した。隆兼は配下の兵を率い龍馬場の嶮にたてこもった。毛利兵が来て囲んだ。隆兼は防戦すること三日にして、子・中務とともに自殺した。

中務

旧時記、 長屋覚書、 吉田物語は中務大輔とするが、父祖皆中務丞なので、それを継いで中務丞であろうと思われる。系譜に隆守と名前があるがほかに所見がない。
幼名:源太郎(言延覚書は彦三郎とする)。

隆兼は江良房栄を己の陣営に招いて殺害することを中務に命じ、中務は房栄の不意を撃たず、房栄に対して誅を加うることを言ってから事に及んだ。人々は中務の行いに感動したという。

系譜につぎにような話が載る。
隆兼の弟に又右衛門、忠左衛門、三河守方明がいた。方明は幼少の時、防州岩国琥珀院で出家して、三蔵主といった。十六歳の時、 兄三河守が陶尾張守が、江良丹後守を討果すべしと命じられたので、密談の結果、明朝琥珀院で相対することになった。討手は三河守弟・又右衛門、 忠左衛門と決まった。翌早朝琥珀院、又右衛門、忠左衛門ともに皮袴を着、早朝に琥珀院にやって来た。
丹後は何も知らずに、小人数で琥珀院へ参上した。三河守は密談があるので、御供衆は中に入れないように、というから丹後守は不審に思い、中門まで来たが、相談があるならご出馬願おうと中へは入らなかった。三河守は悟られたと思い、決めておいた通りに、又右衛門、忠左衛門に丹後を襲わせた。又右衛門が障子を開けて、丹後参ると言って打ち掛かると、丹後は江良の一討という、三尺二寸の刀を一間ばかり飛退て抜合せ打合った。又右衛門の裾を払うと皮袴を切られて、足にもつれ危うく見えた。忠左衛門が兄上助るといって、打ちかかると、又右衛門は引退いた。
弟の三蔵主は渋手拭いで鉢巻をし、脇指を差して、障子を破り、透間より見ていた。忠左衛門もまた皮袴を兄と同じく切放され、難儀となったので、三蔵主は障子を開けて、これも兄上助ると言って打ちかかった。忠左衛門が引退いた時、丹後は三蔵主を見て、小坊主推参と言って、はたとにらんだけれども、透間なく打ってかかった。丹後もこらえず打合せ、三蔵主は左の肩に三箇所の疵を負い、これは敵わぬと思い踏み込んで打ち、丹後の刀の鍔を切り削り、右の大指を打落したから、丹後は刀を取落した。三蔵主を見て小坊主めと言って笑い、左手で刀を取ったところを、飛懸って首を打った。
この一件は河内守方明の孫・与衛門元□が幼少の時、昔語に聞かされたのを与右衛門尉就治に物語の伝を書き出すようにと言ったとある。又右衛門、忠左衛門、三蔵主が負傷したことは、言延覚書に「終日切合い、手負三人候、打手の歴々に候へば、不叶被果候」とあることに符合する。しかしながら、この伝記は、与右衛門が幼少の時に聞いたものを、子・就治に話し、就治が話したものを記したのだから、言延覚書よりもはるかに後のものである。三蔵主が飛懸り首を打ったという、覚書の上のつづきには、「一段気なげなる人に而、門柱に寄かゝり、立死被申候を上下惜申て候」という部分に合致しない。 又右衛門、忠左衛門は兄と同じ場所で討死とあるが、ほかに所見がない。方明はのち、毛利氏に仕えて子孫は今も続いている。

僧了善

摂津国住吉の僧である。隆兼に目をかけられて付き従う。隆兼が竜馬場にたてこもった時、毛利氏はその地が険しくて兵が勇敢なので、力攻めすべきではないとして、降る者は一命を助ける、といった。これに誘われて、弘中備中守、同忠兵衛、糸永加賀守等十二、三人が降伏を望んで山を下った。ほかのものは備中守等が敵に降ったのを見ていつとなく逃亡し、了善ただ一人となって隆兼父子に殉じた。

江田安芸新五郎

厳島で戦死した。

『房順記』に、陶、弘中を討ったら、山中を下がるはずなのに、江田安芸新五郎が討たれていないので彼者を討とう、と、三日の夜も元就は一夜陣をすえていたとある。「□処天野紀州隆重へ江田新五討取、首到来すれば弥山下向ある」、とあるだけで、ほかにはまったく所見がないけれども、房顕の記す所を以て見るに陶、弘中につぐ兵であると思われるので、記しておく。

仁保隆慰

右衛門大夫と称した。先祖は三浦為道九代孫、石川弥三郎経宗の子・平子重経から出ている。重経は建久年間にはじめて周防国吉敷郡仁保荘に下向した。その十四代の子孫仁保左近将監護郷の 第二子左衛門尉興重(三浦系譜は興貞とする) の孫である。義隆に仕えた(有名衆に親属家頼中に見える。理由は分からない)。 義隆が薨じて義長に仕え、奉行となった。のち毛利氏に従った。子孫はいまに続いている。

青景隆著

初め右京進(天文十四年九月廿一日初見)のち越後守となる (天文十八年三月九日より前) 。
長門国衆。天文十七年三月十六日、従五位下を授かる。

天文十八年九月、備後国外郡神辺・村尾の城督となる。

隆著は杉重矩と仲が悪く、重矩はまた長年陶隆房を嫌っていたので、二人を義隆に讒言した。

天文十八年正月、麻生余次郎が家人・小田村備前守を殺した事に関して、 義隆は相良武任に命じて重矩に問うところがあった。重矩は武任に隆房、隆著のことを話した。武任が己が言ったことを隆房、隆著に漏すことを畏れた重矩は、意を曲げて隆房、隆著と交り、己が嘗て讒言したことを武任の讒言にすりかえて、隆著に告げた。隆著は信じず、八月、家人・早河藤左衛門尉を遣わせて、武任に意見をきいた。武任は慮るところがあって、知らないと答えた。そこで隆著は武任を恨み、遂に重矩に心を合せて武任を隆房に讒言し、隆房を反逆させるに至った。

弘治二年、戦死 (死んだ場所不明)。

飯田興秀

初め大炊助(明応九年の御成雑掌注文に飯田小五郎の名がある。興秀の幼名だろう) 、のち石見守となる。大炊助弘秀の子である。興秀は義隆に仕え、義隆の時小座敷衆であった。

天文十九年七月十七日、従五位下を授かる。隆房に与して義長に仕えた。

飯田長秀

興秀の子。初名不明(長字は義長の偏名である)、大炊助となる。義隆に仕え、侍大将ならびに先手 衆であった。父と同じく晴賢に与みした。

天文二十年一月(二月とも)七日、従五位下を授かる。

家中覚書にはその名が見えない。二十四年より前に死んだのだろう。さて、小座敷衆に飯田小五郎があり、有名衆 には侍大将ならびに先手衆の中に見える。長秀の弟と思われる。

阿川隆康

太郎と称す。義隆に仕え、侍大将ならびに先手衆であった。義隆が法泉寺に入ると、隆康はこれに従い 本営を守った。隆康は普段から、自らを十人力があるとほこっていた。人々は皆、その最後の戦闘を想像した。二十九日、義隆は隆康に命じ 嶽山を守る冷泉隆豊等を召還した。隆康はその命を伝えてのち、山中にて甲冑を脱ぎ棄てて逃亡した。人々はこれを見てますます気がくじけてしまったという。義長に仕えて小座敷衆につらなった。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十四「叛逆」より

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