陶のくに風土記

陶氏館跡(周南市下上)

2022-12-04

陶氏館跡の写真

山口県周南市下上の陶氏館跡とは?

大内氏一門の分家・右田氏のそのまた分家・陶氏の館跡があったとされる場所です。視覚的に確認できる遺構の類はありません。元々この辺りであったろうとされる付近の公園内に、地元の方々が造ってくださった「館跡」記念碑のようなものがあるだけです。

なぜここに館が建てられていたのか、付近の地形の防御性はどうなっていたのか、なども含めて考察できる研究者肌の人以外には、ただの公園にしか見えません。行く人を選ぶ史跡です。

なお、陶氏館跡は二箇所あり、山口市陶にもございます。そちらのほうが、わずかながら、土塁などの遺構がございます。

陶氏館跡(周南市下上)・基本情報

所在地 〒746-0082 周南市下上 1560
※現在は公園になっている。

陶氏館跡(周南市下上)・概観

陶氏が陶から富田に本拠地を移して以降、ここに居館をいとなんでいたとされている。かつての館跡地は現在、公園となっており、居館そのものを偲ぶ遺跡の類は残されていない。地元の方々の手で造られた居館跡地の石碑類を拝見し、確かにここがそうだったのだ、と確認できる。

シンボルとしての天守閣が聳える城郭の周辺に武家屋敷が建ち並び、その外側に庶民たちの居住区域があり、城下町のようなものが形作られるという、近世以降のすがた。日本全国を見渡すとそのような、かつての城下町時代の面影を残しているところはいくつかあり、貴重な文化遺産となっている。しかし、どこもかしこもかつての城下町を保存していたら、現代の我々の生活空間がなくなってしまう。古い町並みは時代とともに、近代的都市へと移り変わっていくのが普通である。けれども、武士の世であった時代の姿が、近現代の開発された町並みの下に埋もれてしまったとしても、地形そのものはかわらない(むろん、山まで崩して宅地化する例は皆無ではないけれど)。

当主の居館、家臣の屋敷、庶民の居住区という区割り(?)のようなかたちは、近世のそれも中世のそれも大差ない。ただし、戦国時代となって日々是合戦となると当主の居館はそのまま城郭と化してしまうのに比して、それ以前は日常生活を送る居館と、万が一合戦となった際に拠点とする城とはわかたれていた。居館じたいが砦のような堅固な防御施設を備えるものではなく、居館は居館で日常生活を送る場所、というようなイメージだろう。その意味で、この陶氏居館も城砦のようなものではなく、文字通りの「居館」だったのではないか、と想像する。

けれども、単なる丸裸の居館というわけではなく、地形的に居館を防御すべき天然の城山のようなものが存在したし、経済的にもこの地方において重要な場所であるなど、ここに居館が建てられたことにはそれ相応の理由があった。それらは主として地形的なことなので、居館そのものが失われてしまっていても、そうした由来を紐解き、辺りを見渡してなるほどと思うことは可能。そこで、現地文化財立て看板や石碑、郷土史のご本などに記された記事からおおよそのあらましについてまとめてみた。

参照とした書籍は『防長古城趾の研究』、『新南陽市史』、『徳山市史』、『中世周防国と陶氏』の四点である。この場を借りて御礼申し上げます。なお、同じ史跡についての記述なので、どの書籍もまったく同じ内容となることは当然のこととして、『新南陽市史』、『徳山市史』はいずれも御薗生翁甫先生の『防長古城趾の研究』からの引用、もしくは先生のご本を参照として書かれたと思われる部分が多い。よって、ここでも先生のご著作を中心とした。また、『中世周防国と陶氏』は新南陽郷土史会の先生方がお書きになった最新の郷土史(202103現在)であること、タイトル通り「陶氏」を中心に据えてまとめられた郷土史であること、などから最も信頼が置けるご本である。御薗生翁甫先生の時代と今とでは、町の容貌も少しく異なるであろうし、『新南陽市史』、『徳山市史』にしても市町村合併前のものであり、現在は周南市だから、記述内容が古くなってしまっている部分は否めない。

平城

「陶氏居館址碑」によると、陶氏の居館は大字下上字武井の岡の原に築かれ、「平城(ひらじょう)」といわれた。文化財説明看板に、この周辺を現在平城といい、それはこの陶氏の居館に由来するとあるから、現在も地名として残っているのだろう。

この城が築かれたのは当然、陶氏の先祖たちが名字の地・陶から富田保に移って来たあとのことになるから、それは文和元年(1352)の知行替え以降、二代弘政の代となる。時は南北朝の争乱の最中であり、大内本家の当主・弘世と鷲頭家との内紛が続いていた頃でもあった。弘世は鷲頭家との戦闘に備え、信頼の置ける配下である陶の一族をこの地に移したと考えられている。弘政はまずは勝栄寺に入り、それと同時に本拠地としての居館の造営も進めたらしい。何年何月に居館が建立されたという正確な史料は現在のところなく、それゆえに石碑や文化財説明板、郷土史の先生方のご本にも明確な日付は記されていない。

『新南陽市史』によると、この付近は「富田川に並行する鹿野街道と、徳地を経て山口に通じる街道が接続する枢要の地」であった。

居館の南北には支城と思しき山城があって、居館を防御する役割を担っていたと思われる。ただし、陶氏の本城は周知のごとく若山城で、これら居館周辺の支城は本城には比ぶべくもない。しかし、陶弘政が富田保に移った頃の状勢を考えた時、当面の敵は鷲頭家であったので、これらの支城もまずは鷲頭家との戦闘に備えてのものであったようだ。素人目線で山城の構造を見抜くことはきわめて困難なので、説明はできないが、鷲頭家とその配下・内藤家の城がある方角に向かって特に防御が完璧になるような山の地形を利用していた(つまり攻め込まれそうな側が急峻な崖であったり、ということ)。

ところで、『新南陽市史』や『徳山市史』が書かれた当時、「平城館址は数年前まで、富岡小学校敷地。現在は徳山市菊川公民館の富岡分館云々」のように書かれているけれど、現在は周南市となり、菊川市民センター富岡分館という建物となっており、その手前が富岡公園。館址碑などはすべて、公園内にある。

新殿

新殿は「にいどん」と読み、平城の南側に位置する。平城より一段低くなっている所を指していて、新殿、つまりは新しく建てられた殿(館)で、陶氏居館の「新館」にあたるような建物があったと考えられている。とはいえ、元平城じたいがどこからどこまでなのか素人目線では明確にわからないので、「にいどん」が具体的にどこであるのかは不明だった。一段低くなっている、というところに手がかりがありそうには思える。

七尾城

居館跡の南方にある。『新南陽市史』と『徳山市史』には南方に「城山」があると書かれており、七尾城という名前が出て来ないため、つぎに記す城山(居館跡の北側)と同じものかと勘違いし混乱する。最新の『中世周防国と陶氏』、石碑、文化財看板ともに七尾城と明記されているので自治体郷土史にある城山は固有名詞ではなく、山城といった意味かと思われる。『中世周防国と陶氏』によれば「山陽道・ 鹿野街道や瀬戸内海の古市港を管理する最も重要な出城」「若山城中第一の出城」ということなのでたいへんに重要な拠点であり、防御性にも優れていたものと思われる。

東麓は長穂・鹿野に通じ、富田川が貫流。東側はきわめて急峻、西側は「七浴・七尾あり」といわれる複雑な山容。北側に本丸跡があり、山頂は平地で、北と西の尾根に堀切、西の谷山頂付近に井戸。本丸の南方に二の丸がある。本丸と二の丸との間に堀切が残る。

横屋

平城の北に接する山。御薗生先生によれば、「横屋は社家を意味する」(『防長古城趾の研究』)。神職の方々は神社の横に住んでおられるからこのように呼ぶのだという。島根県と山口県では現在も社家を横屋とお呼びするということだが、初耳。御薗生先生の時代よりだいぶ年月が過ぎているゆえにか(この項目をお書きになったのは昭和十八年、現地調査に入られたのは十九年と書かれている。上掲書)、ボキャブラリーが貧困なゆえにか……。それはともかく、平城の近くに上野八幡宮があることから、この山を横屋というものかと。同じく、御薗生翁甫先生は「永禄六年、毛利元就再建棟札に、 初建立正平十年とあれば、陶弘政の建てたものとも見られる」と書いておられる。

上野の城山

横屋の北にあるのが「上野の城山」。これがさきほどの七尾城とともに、館を挟んで南北にあって防御拠点の役割をしていたわけ。自治体郷土史だと、山頂にもとりたてて遺構はないということで、解説も特にないので、途方に暮れていると、『中世周防国と陶氏』につぎのような一文が……。

県道脇にお椀を伏せたように独立した小山がある。特に北側、東側は、絶壁を思わせる峻険な地形であり、ジグザク道があるが狭く、たとえ兵達が進軍しようとしても、上部からの落下物や横からの突然の敵兵の出現があれば、後退せざるを得ない登り道である。
新南陽郷土史会『中世周防国と陶氏』

これを拝読すると、かなり防御に優れた城砦のように思える。これは地元の郷土史の先生方が実際に現地に赴いてお書きになったもの。専門家の先生だからこそ、地元のことを知り尽くし、郷土愛に溢れる先生方だからこそ、何もないところからこのように往時を偲ぶことが可能なのである。あるいは、山城研究の先生方でも当然、同様の名文をさらさらとお書きになるであろう。

だが、残念なことに、ただの素人だと「あ、山だ……」くらいにしかならないかもしれない。そもそも遺構などがないようなので、山城マニアたちの間でも有名ではなさそうで悲しく、Googlemapでも付近の別所城は出てくるが、この城は出ない……。目印として、「不動明王」と検索すると、「不動明王(上野の城山)」と出てくるから、場所ははっきりとわかる。

建咲院山と土井

「陶氏居館址碑」に、七尾城は「建咲院の裏山」に築いたとある。『新南陽市史』にも、七尾城(城山と書いてある)から南に下ると建咲院というようにある。ところが、建咲院がある山はとても小さく、堅固な城山とするには無理があるように思える。御薗生先生ご説明によると、「城山の西南に接して一孤丘がある。丘の南麓に曹洞宗龍文寺末建咲院あり」となっていて(『防長古城趾の研究』)、Googlemapの航空写真で見ても建咲院裏山とかつての「城山(七尾城)」と思しき山とは連続していない。

これは、近代化の波で一つの山の中央部分が開削されて二つになってしまったととれなくもないけれど、どうも御薗生先生が書いておられることが正確なのではないかと思える。この辺りはいずれ地元の方にお伺いしてみるほかない。『防長古城趾の研究』で先生がお描きになった図でも、この丘と城山とは別々のものとなっていて、丘のほうは「建咲院山」と明記されている。

建咲院がある辺り、地名を「土井」という。「土井は土居の転訛にて、武家の邸地の謂である」(『防長古城趾の研究』)。つまりは、先生も書いておられるように、陶氏の家臣たちの屋敷が建ち並んでいたところだったのであろう。

本城・若山城との連携

さて、中世の館は居住空間で、すわ合戦となった際には城に移動する、と書いた。そして、陶氏にはそういうときのための立派な本城・若山城がある。けれども、館跡からは若山城までは、相当に距離があるように感じる。何せ館跡に行くためには、JR西日本「新南陽駅」、若山城は同じく「福川駅」。最寄り駅からして違うのだ。

二つの駅の間はわずかに三分しかかからないけど、運行距離的には 2.9km もある(参照:JR西日本おでかけネット)。中世には電車なんてないわけだし。歩いたら(偉い人は馬、女性は輿。根拠なし)どんだけかかるのか、知識ないため計算できないですが。いざとなったら館は捨てて城に移ってしまうんだろうか。詳細は若山城(現在、リライト中です。すみません)のところで書くとして、館跡と若山の本城との連携というか、地理的位置関係について。これも御薗生先生がきちんと書いてくださっておられる。同じ内容は館址碑文にもある。

「四熊岳(五〇四メートル)の麓を通り花河原の西に陶氏の本城若山城(二一七メートル)がある」(館址碑文)。『防長古城趾の研究』だと四熊山(=四熊ヶ岳)はこの付近北方の高山であり、館址の場所から「其の山麓の小畑に通じ」とあって、以下は館址碑文同様、花河原を経て若山城に通じている旨記されている。

下のGooglemapには、「若山城跡」「陶氏の居館跡」が見えているので位置関係はわかると思うが、一つ画面で確認するときの目印として、四熊ヶ岳は徳山国際カントリー倶楽部がある山。縮尺を200メートルにすると「四熊ヶ岳山頂」と、「小畑地区棚田」とが確認できる。花河原については地図検索からは不明であった。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

自治体様の郷土史だけでこんなにもたくさんのことがわかると感激したと同時に、何も分らない己に絶望した……。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

そんなことより、俺の館が何でなくなってるの?

陶氏館跡(周南市下上)・みどころ

現地に行った時、あああ、ただの公園と化している……と思い、何もわからなかったが、自治体郷土史にはこんなにもたくさんのことが書かれているということを知り、感激した次第です。ただし、「本当に」ただの公園にしか見えないため、いったいどこにそんなものが? となります。

じっさい、現地にいない状態で何の調査もできないから、Googlemapの航空写真を見てみたけれど、上野の城山は「不動明王」や「上野八幡宮」などを頼りにかなりデカい山であることを確認可能。いっぽうの七尾城ですが、「陶興房の墓」がわかりやすいため、それを手がかりに手前が建咲院であろうことは簡単に見付けられます。

縮尺200メートルとして、「居館跡」右上、「菊川郵便局」と「JA山口県徳山支所」に挟まれた緑色の部分が城山。左下「mucumucu」のコーヒーカップと「陶興房の墓」の間にある緑色が建咲院山。その右手のほうが七尾城、だと思います。この辺り、宅地か商工業要地かわかりませんが二つの山の間、恐らくは開削されていますね。これだと七尾城のほうも、御薗生先生が『丘』と書いておられた建咲院山と面積大差ないですし、寺院裏山の北面と館址南のちっこい山とはかつて、繋がっていたのではないかという気がします(典拠なし)。距離的にですが、七尾城は200メートル、城山は倍の400メートル(おおよそ)「館址」のマークより離れています。

というようなことを Googlemap から確認可能ですので、館址周辺の城跡遺跡などに関心がおありの方は、足を伸ばしてみるのもよいかと思います。

上にだらだらと書いた城山、平城や新殿など、詳細を知るには地元の方のご案内必須の場所です。普通の観光客がぶらりと立ち寄った場合、現在見ることができるものは公園フェンスの看板(アイキャッチ)、公園内石碑、看板のみです。

館跡石碑

陶氏館址碑の写真

この石碑は、平成五年に「菊川の文化と歴史を語る会」の皆さまがお造りになったもの。富岡公園内にあります。(参照:『中世周防国と陶氏』)

「陶氏館址碑の文」石碑

「陶氏居館址碑の文
陶氏は大内氏の流れをくむ右田氏の祖・摂津守盛長五世の孫弘賢が吉敷群陶村の領主となり、よって陶を氏とし 二代弘政は世の中が南朝、北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い下松の鷲頭氏(大内家庶流)の北朝方と争戦。
居館を大字下上字武井の岡の原に築く。これを平城(ひらじょう)と云う。もと富岡小学校の敷地であった。
平城の南に続いて一段低い所を「にいどん」と云い、即ち新殿の意て陶氏が新館を建てた所と伝えている。
古社上野八幡宮は正平十年(南朝一三五五)、 陶弘政の建立したものと伝えている。
上野の城山は、また陶氏の一支城であり、建咲院の裏山にも七尾城を築く。
四熊岳(五〇四メートル)の麓を通り花河原の西に陶氏の本城若山城(二一七メートル)がある。
大手門に当たる東南方は福川に属し、搦手の北面と西南は夜市の地である。」

陶氏館跡史跡看板

陶氏の居館跡文化財説明看板

「この周辺は現在平城と呼ばれています。
これは室町時代、陶氏の居館がここにあったことに 由来するものです。
陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭氏を撃つために吉敷郡陶(現山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに居館を構えたとされています。
南方の国道二号線付近に七尾山城、北に上野の城山、 別所城などがありました。
一方、陶氏は海においても、優れた兵力を抱えており、 その本拠地が現在の防府市の富海、或いは、周南市の古市にあったとされています。
また、近くの海印寺には、陶弘護の次男の興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔があり、大切にされています。
平成十六年九月 周南市教育委員会」

写真からはやや見にくいですが、この案内版には陶氏の略系図と、付近の地図も載っていてとても助かります。

周辺の風景

陶氏館跡付近の風景写真

公園の外側はこんな感じで何もない。

五郎イメージ画像(怒)
五郎

ミルときたらさ、「きゃあ、お館の石垣跡かも~」とか言って、このどうでもいい近現代のコンクリートを撮影してるんだよ。宮島でもガイドさんから村上水軍の石垣について教わったのに、隣のコンクリート撮影してたし。こういう人間、史跡を旅する資格あんの?

ミルイメージ画像(涙)
ミル

だってさ、まさか、本当に公園があるだけとか思いたくなかったんだもん……。

陶氏館跡付近の風景写真

公園内部から外を見た感じ(手間にフェンスがあるのが、公園内部にいる証です)。

次回の訪問では遠目でもいいので、城山などを探して撮影したいと思います。

陶氏館跡(周南市下上)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒746-0082 周南市下上 1560 

アクセス

徳山駅からタクシーを使ってしまったので、歩いて行く行き方は次回調査します。最寄り駅は新南陽駅であり、駅近に勝栄寺もあることから、ぶらぶら歩きながら行くのが楽しいと想像します。なお、館跡背後には海印寺、手前には建咲院なので、陶氏にかかわる重要な史跡が一度に大量に見れます。

ちなみに、タクシーの運転手さんに探していただくのが一苦労でした。訪問したのが一昔前のこととなり、Googlemap などの精度も格段にアップしているため、現在は「館跡」として探すことができますが、導かれて行った先はごく普通の公園なので、嘘!? となってしまうわけです。

参照文献:『中世周防国と陶氏』、『防長古城趾の研究』、『新南陽市史』、『徳山市史』、文化財案内看板、館址碑文、JR西日本おでかけネット

詳しくはコチラ
五郎イメージ画像(涙)
五郎

いつも言ってることだけど、ミルの「歩けます」はアテにならない、というかほかの方からしたらキツいことがあるからね。

陶氏館跡(周南市下上)について:まとめ & 感想

陶氏館跡(周南市下上)・まとめ

はっきり言って、「何ひとつありません」。中世館跡の研究をしている方、もしくは愛好家などが訪れる価値はゼロです。近代化の波で歴史上著名な人物に関わる館跡などが埋もれてしまうのは、致し方ないことです。優先すべきは、現代に生きる我々の生活空間であるからです。山を切り崩して宅地化したり、海を埋め立てて工場用地にしたりとかした場所を除けば、全国津々浦々ほとんどの場所は、すべて古代から近世に至るなにがしかの歴史が刻まれた場所の上にあるといってかまわないと思っています。ですけど、それらすべてを、かつての豪族館、大名屋敷等々であったという理由で保存していたら、それこそそれらの歴史資源を守るために、我々の住居を建てるところはなくなってしまいます。

そもそも、近代に至る前に、古代の遺跡は中世の人々の生活空間の下に埋もれ、中世の史跡は近世のそれに埋もれてしまい、どこに何があったかなど分らなくなっているほうが多いでしょう。現代になって、研究者たちが歴史上著名な誰それの居住地はどこにあったのだろうか、のような調査を開始して初めて、だいたいここら辺だったんじゃなかろうか、と推測。ついで、研究費用などが確保できたら発掘調査、みたいな流れです。たまたま空き地の下にあったらしきことが分ればラッキーですが、そうでない以外、現代の人々の私有地になっていたりします。いずれにせよ、埋もれてしまっていますので、発掘調査が必要。その結果、○○ 館跡のような復元観光資源となって一般公開されるには、その場所が「空き地」であった以外不可能です。よほどの山奥や僻地でない限り難しいでしょう。ゆえに、いわゆる ○○ 館跡的な史跡はとても貴重なのです。

残念ながら、こちらは完全に現在の人々の生活空間に埋もれてしまっておりますし、それ以前にもそもそもの館跡的な痕跡はなくなっていたようでして、何ひとつわかりません。地名として、かつてこの辺りに当時の名残があったのではないか、と思われる程度です。何かを期待している方には、むしろ行かないことをオススメします。失望するだけですので。いや、かつてこの地にあったということがわかれば、それだけで歴史の浪漫を感じられる、という方にはオススメできます。地元の皆さまが造ってくださった立派な「館跡碑」などがございますので、「現地に行って見て来た」という感覚にはなれます。しかし、なにがしかの遺物があるのではないか、と期待する方は見事に裏切られますので、やめたほうがいいと思います。

地元に詳しいという方にご案内をお願いした際も、「何もない」と仰っておられました。あるいは、郷土史会の皆さんや、ガイドさん方ならばなにがしかの情報を得られる可能性もゼロではないですので、次回は観光協会にお伺いしてみるつもりです。せいぜい、地名の由来くらいのお話しか出ないのではないかな、と推測します。

こんな方におすすめ

  • 館跡的なものが好きな方(※遺構はまったくないですが)
  • 何もなくても、かつてここにあったというだけで感激できる方


オススメ度


二番目のおすすめにあてはまりますが、本当に何ひとつないですので、マイナスしたい気分です。何もなくなっているショックが大きすぎるゆえ、来なければよかったと感じたからです。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

この記事は20221204に加筆修正の上、メインサイトから引っ越してきました。リニューアル前公開日: 2020年4月18日 16:32

-陶のくに風土記