
広島県廿日市市天神の廿日市天満宮とは?
広島県廿日市市にある、菅原道真を祀る天満宮です。厳島神主家の当主となった藤原親実が、天福元年(1233)に鎌倉の荏柄天神社を勧請したことが起源です。藤原氏は鎌倉御家人でした。承久の乱で元の厳島神主家が上皇方についたことから、幕府によって神主家当主の地位を交替させられたのです。
戦国時代の荒波に飲み込まれ、藤原姓厳島神主家は滅んでしまい、神社も荒廃してしまいました。江戸時代に氏子の方々によって再建されましたが、明治時代に火災に遭い、現在の社殿はその後再建されたものとなります。
廿日市の氏神として地元の方々に大切にされているほか、学問の神様を祀る神社として、全国各地の天満宮同様、受験生たちから厚く信仰されています。
廿日市天満宮・基本情報
主祭神 菅原道真公
相殿 八幡宮:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、新宮:伊邪那岐命、伊邪那美命、少彦名命、大国主神、新八幡宮 :藤原親実公以後十五代神主の霊
主な祭典 春祭り(三月)、大祓い(夏越の祭り、六月三十日) 、夏祭り(七月)、例大祭・神幸式(十月第二 土・日曜日)、新嘗祭(十一月)、大祓い(十二月三十一日)、天神講大祭(釜鳴りの神事、一月、五月、九月の二十五日)
境内社 胡子神社、豊受神社、稲荷神社、淡島神社、琴比羅神社
HP http://www.hatsukaichitenmangu.or.jp/
(参照:現地ご由緒看板)
廿日市天満宮・歴史
「廿日市天満宮由緒
鎌倉時代の承久二年(西暦一二二〇年)に、藤原親実公が厳島神社の神主として幕府より任命され、廿日市の桜尾城に着任の後、天福元年(一二三三年)に守護神として鎌倉の荏柄天神を勧請してこの篠尾山に社殿を造り鎮座された。
一、主祭神菅原道真公
(学問・詩歌・書道・芸能・慈悲誠心の神様)
相殿 八幡宮・仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
新宮 伊邪那岐命、伊邪那美命、少彦名命、大国主神
新八幡宮 藤原親実公以後十五代神主の霊
一、 主な年間行事
春祭り 三月
大祓い(夏越の祭り) 六月三十日
例大祭・神幸式 七月 第二 土 日曜日
新嘗祭 十一月
大払い 十二月三十一日
天神講大祭 (釜鳴りの神事) 一月、五月、九月の二十五日
一、境内社
胡子神社(商売繁盛、海上・漁業の神様)
豊受神社(食物・五穀豊穣の神様)
稲荷神社(五穀豊穣、商売繁盛の神様)
淡島神社 (安産の神様)
琴比羅神社(海上交通の神様)」
(由緒看板案内文)
御家人出身・戦う神主家
廿日市の中央篠尾山に鎮座する天神さまです。平家滅亡後、厳島神主家は鎌倉幕府の任命によって藤原姓の方が務めるようになりました。承久二年(1220)のことです(単に平清盛が崇拝する厳島神社の神主だったというだけで、幕府に睨まれることもありませんでしたが、西国では承久の乱に際して、上皇方についた人々が多く、前神主家もそうでした。それゆえにの神主交代劇です)。桜尾城主となった藤原親実が、天福元年(1233)に鎌倉の荏柄天神を勧請して守護神とし、この地に社殿を造ったといわれています。
厳島神社ではその祭祀は代々、佐伯氏の人が守り伝えて行かなければならないという規則があったようですが、承久の乱で上皇方について無事でおられるはずもなく……。そうでなくとも、平清盛や平氏一門と結びつきの深かった佐伯景弘がよくぞなんのお咎めもなかったなぁと思っていました。にもかかわらず、とんだことで揺らいでしまったわけです。とはいえ、藤原氏の方々は鎌倉御家人なわけで、祭祀のことなどさっぱりわかりません。結局は、神社行事あれこれは元の神主家の人々が引き続きこなしていたといいます。
それよりも、藤原親実さんが、「桜尾城に入城し」というのがビックリで、神主は神社に入る(その周辺の屋敷?)のではないの? と疑問符が大量に湧きました。そりゃ、元々は鎌倉御家人(しつこい)、つまり歴とした武家なわけですし、その当時はほかの神主さんたちもみんな城に入るものだったのかどうかなんて知りませんが(でも、厳島神主、たとえば、佐伯景弘とか城に入っていたわけ? まさかでしょ)。
厳島神社神領を掠め取ろうとした安芸武田や、家督争いで揉めているところに介入し、半ば直轄領化してしまった大内氏などの横暴にさらされ、神主家も戦わざるを得ませんでした。となると、祭祀のことはこれまでどおり、佐伯姓の人がやってくれて、自らは「神主家」という一領主となって神社や領地を守ったことも頷けます。であるならば当然、拠点としての「城」も必要です。
ちょい古い郷土史のご本など(古本屋さんでしか手に入らないもの。自治体史などではなく、個人の郷土史愛好家の方々の手になるもの)には、「七尾城」の話がよく出てきます。桜尾城を中心に、七つの城が連携して防御を固めていた、と。そのうちの一つが「篠尾城」といい、ちょうど現在の天満宮のあるところだ、と書いてあったのですが。ただこのお話、最近の地元の方にお伺いしても、あそこは神社だよーとのお言葉で、実際のところどうだったのか、まだ調べがついておりません。郷土史の先生にお伺いしてご教授願おうと思っていますので、少々お待ちくださいませ。
厳島神主家が天神社を勧請!?
厳島神社の神主家といえば当然、厳島神社にお仕えする方々です。だとすれば、厳島神社を崇敬していることは言うまでもありません。なので、ほかの神社を勧請するとか、とても奇妙に思えるのです。鎌倉御家人(マジしつこい)だったゆえに、鎌倉の神社を勧請したものと思われますが、よほど荏柄天神社を信仰しておられたのでしょうか。他郷に移住せねばならなくなった時、地元の崇拝していた神社が懐かしく思われるのは当然の心情ですが、「厳島」神主になる方が、ほかの神社を勧請しているのが謎でしかたありません。
そもそも、神さまというのはとっても寛大で、何種類もの神さまを合祀したり、逆に勧請してほかの場所にもパワーを分け与えたり、ということが自由自在です。神社どうしが境界線で揉めてて仲悪かったりしたら知りませんけど、お祀りされている神様の種類が違うということで、揉めることなんてないでしょう。神主さまが勧請した神社ゆえ、厳島神社の方々からも大切にされた模様です。というのは、神社さま HP に、藤原姓神主家滅亡後も、厳島神社の人によって祭祀が続けられたようなことが書いてあったからです(後述)。
思うに、神社さまご由緒看板にある「守護神として」というところがキーワードなのではないか、と感じます。桜尾城は宮島ではなく、対岸の廿日市にありますし、そこを拠点とするにあたっての鎮守の神さまみたいな扱いだったのではないかと。それゆえに、現在も廿日市市の氏神となっているのではないでしょうか。
最後に、友田興藤さん(この方がこちらの藤原姓厳島神社神主代々に入っているのかどうか不明ですが)が洞雲寺にお墓あるのを見た時も、えーー神主さんのお墓が寺にあんの? って思いました。その後、あの寺院そのものが厳島神主家が建立したもの(しかも菩提寺)と知りましたけど。神仏習合とかわからなかった時代の恥ずかしい話です。にしても、現在でも、ご神職の方々も、やはりお墓は寺院にあるのですかね(調べりゃいいのにメンドー)。宮島は聖なる島なので、お葬式も出せず、墓地もないですが。神社式の葬儀なんてきいたこともなくて。けど、ずっと、神様にお仕えしてきてて、いきなり亡くなったら寺院に埋葬とかない気がする。神仏分離した現在なので。いやもう、あれこれと、本当に謎だらけです。
現在の廿日市天満宮
大内氏との争いで、藤原氏の厳島神主家は滅ぼされてしまいました。けれども、その後も、厳島神社のご神職らによって従来通りの祭祀が執り行われ、大内氏からは神領の寄進もあったそうです。けれども、大内氏も滅んでしまうと、神社は荒廃してしまいました。慶安五年(1652)になって、氏子の方々によって社殿が再建されました。大内氏の滅亡を教科書通りの 1551 年と考えると、じつに百年近くの間荒廃していたことになりますね。
藤原神主家の桜尾城は跡形もなくなり、今は公園となっています。けれども、こちらの廿日市天満宮は、現在に至るまで、廿日市の氏神として 、 勉学の神として、地元の方々から厚く信仰されています。十月に行なわれる礼祭は廿日市の氏神祭となっているそうです。初詣などの人出もものすごいのだろうなぁ、と想像しました。
廿日市天満宮・みどころ
江戸時代に建立された社殿は明治十七年(1884)に火災に遭い、現在の社殿は明治二十二年の再建。階段がとても長いことが特徴で、ややキツいです。無理せず、ゆっくり上がっていきましょう。上まで上れば展望も開け、立派な拝殿にお参りできます。
長い階段が続いていることには理由があります。昔、コチラは「七尾城」の一つ、篠尾城があったところ。つまり城跡でもあるわけです。かなり離れた場所から神社のお姿が見えますし、反対に、ご鎮座地から市街を見下ろす展望も素晴らしく、かつての城跡だったということも頷けます。
遠景
もう少し近付くと、よりはっきりします。
石段
下からお姿を仰ぎ見ることができる、ということは、かなりの石段を登らねばならない、ということでもあります。ちょいキツいですが、ゆっくり行けば問題ありません。手すりもついていますし、そんなに急な階段でもありません。
撫で牛
天神さまと言えば牛。何でかな? と思っていたら、天神さまは丑年のお生まれなのだそうです。だから天満宮に行くとどこでも牛が「神様のお使い」となっているのですね。
「撫で牛の頭を撫でると頭脳明晰になり」と説明文に書いてあります。撫でまくりたい気分ですが、ご参拝時は感染防止のため、「心の中で撫でてください」となっていました。
随神門
拝殿
拝殿には合格祈願のお守がたくさんありました。受験の時期に来たら大混雑となっていると思われます。
胡子神社
境内社です。ご由緒看板に「商売繁盛、海上・漁業の神様」とありました。
豊受神社
同上。「食物・五穀豊穣の神様」
稲荷神社
同上。「五穀豊穣、商売繁盛の神様」
淡島神社
同上。「安産の神様」
琴比羅神社
同上。「海上交通の神様」
境内からの眺望
高台にあるため、眺望が素晴らしいです。手前に町並みが入りはしますが、遠く海を望むことができます。この心地良い光景を満喫したい人に配慮して、ちょっとした東屋風のベンチを設置してくださってあります。長い石段を登ってきた後なので、参拝後は少しほっこりしてもいいかもしれません。
廿日市天満宮・観光写真付記:荏柄天神社(神奈川県鎌倉市)

@SITEOWNER の受験合格祈願のために、相模国荏柄天神社に来ています。

合格祈願なら、廿日市天満宮でも古熊神社でもいいじゃないか。太宰府天満宮すらココより近い。なんだって鎌倉府くんだりまで……(メンドー)。

お仕事だって。いいじゃん、ちょうど廿日市天満宮さまの勧請元神社を拝めるよ。
藤原親実は天満宮を京都でも大宰府でもなく、鎌倉から勧請しました。ならば、本家本元の鎌倉の天神様はどんな感じなんだろう? ってことで、遙々鎌倉まで参拝に行きました。
「荏柄天神社
祭神 菅原道真
創建 長治元年(1104)
古くは荏柄山天満宮とも称し、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び、日本三天神の一つに数えられて来ました。
平安時代中心、雷雨と共に天神の絵姿が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされています。
源頼朝が大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に幕府を開くと、その鬼門を守護する神社として崇められました。
境内は国の史跡、本殿は国の重要文化財に指定されています」
(御由緒看板説明文)
「天神の絵姿が降りてきた」というご由緒がすごいですね。つまりはいわゆるどこそこから勧請された、って神社さまではないのです。天神さまをお祀りする神社としては、大宰府、北野と並び「三古天神社」(荏柄天神社さま HP)と呼ばれ、あちらこちらに勧請されたといいます。
看板のほうを見ると、「日本三天神」となっていますが、この辺り、庭園の民に見られたら「防府天満宮」がそこに入るはずだ! とか怒られそうですね……。こういう、「日本三大○○」って、けっこう色々なバージョンがあり、中には本当に喧嘩になっているところもあるとかないとか。「○○国一宮」を巡る争いもしかりです。
神社さまの入り口に、お守やお札の種類や値段のご説明がありました。合格祈願用に絵馬は定番ですが、各種お守のほかに鉛筆までありました。受験勉強で使いまくった上、最後は試験会場でも使えば、受かること間違いなしです。ドジでなんでも落としまくる @SITEOWNER (スマートフォンすでに三機ダメにした)は、お守は「落としてしまう」可能性があるとかで、大枚はたいてお札を購入しておりました。
しかし、この神社さまのすごいところは、お守のラインナップが豊富ってだけじゃありません。なんとですよ、試験当日に合格祈願のご祈禱までしてくださるのです。しかもたった1000円です!(20230420 現在)要するに、事前予約をしておけば、試験のその日に神主さまが合格祈願のお祈りを捧げてくださるのです。これならば、いかにご祈禱が効果抜群とはいえ、さすがに試験当日にお願いすることは時間的に難しい……という受験生でも問題なし。本人の同席は不要です。さらには、遠方の人のために郵送での申し込みも可能という至れり尽くせりです。

ほかの天神さま系神社では同じサービスやってないのかな?

なんともありがたい。次回の月次連歌会で一等賞を取れるように、今のうちに予約をしておこう。

嘘だろ? 連歌会って順位とか競うの? どんだけ祈禱してくれても俺には無理……。

なんでも一等をとるくらいの心づもりで取り組みなさい、という意味です。

何ひとつせずにご祈禱だけに頼るのはさすがに難しいね。まずは鉛筆を頂戴して、努力することから始めましょう。

欲しくない……。
ミルたちも @SITEOWNER のためにお参りしました。普通の神社へお参りする時の十倍はお賽銭をお納めしました。だって、 @SITEOWNER が儲からずサーバーレンタル代金が払えなくなったらミルたちこの世から消えないといけないので。無事に合格できたら、また相模国までお礼参りに来なくてはならなくなっちゃったよ。
ところで……。荏柄天神社さまへの行き方ですが、鶴岡八幡宮からだいたい10分くらい歩きます。八幡宮は駅からすぐなので、迷う人もいないと思います(常に大行列しているので、人混みについていけばナビも不要)。で、八幡宮前で念のためナビゲーションを起動すると、八幡宮に入れ、との指示。なにゆえ源氏の氏神に入らにゃならんの? と思いつつ多分最短距離なんだろうと指示に従う。入ってすぐくらいに右折なので、八幡宮に対してはきわめて無礼な通りすがりとなりますが、面倒なのでそのまま行くと、途中に「畠山重忠邸跡」なる史跡が。
ご覧のとおり看板があるだけですが……。於児丸の先祖が畠山姓を名乗っているのは、それなりにゆかりがあります。けれども、彼らは歴とした源姓なので、血縁的にはこの方とは無関係です。けど、根強い人気があるお方なので、いきなりの館跡にびっくりでした。ちなみに、ここはもう、八幡宮の外です。

将軍さま、この近くに頼朝公のお墓があるみたいです!

おおお、なんとな! すぐにも向かおう。

愚かな。源氏は三代で滅び、やがて摂家将軍、ついで親王将軍となったのだ。

あんたも源氏でしょうが?

へええ、俺らってこの「畠山」から名字もらったのね。記念撮影しといてよかったぜ。

その人、桓武平氏なのでは?

畠山の妻女が足利一門のぱっとしない男に再嫁した。名門の『名』を残すため、妻女を通じてその足利姓の男が『畠山』と名乗ったのだ。

……(源氏とか平氏とかメンドー。陶の家に生まれてよかった)。

将軍さま、鎌倉幕府の問注所跡を見付けました!

ふうむ。いっそ、鎌倉に幕府を移そうではないか。京都など放って置いて、彼の地で再起をはかるのだ! むろん……そなたが一人前となるのを待って、管領は畠山家の独占とするぞ。
「問注所旧跡」前記念撮影

(いつの間にか『流れ公方』旅日記になってるじゃないか……。何なんだ、ココ?)
ご報告
荏柄天神社の絵馬、合格祈願の御札、お守り、鉛筆、熊手、試験当日祈祷のおかげで無事に合格できました! by : @ SITEOWNER 20231020

ずいぶんと買い占めたのね……。

まあまあ、本人の努力も必要なのだから、多少は認めてあげなさい。何もしない人には神様のご利益も得られません。

兄上が言ってるのは俺のことだよね? まずは鉛筆ください……。
廿日市天満宮(広島県廿日市市天神)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒738-0012 廿日市市天神3−2
アクセス
廿日市駅から徒歩圏。五分あればじゅうぶんです。ただし、町中なので、それなり道に迷いやすく、素直にナビ起動で行くことをオススメします。※ただし、歩きながらのスマートフォンは危険ですので、画面の確認は歩道の隅で停止した状態で行なってください。
廿日市天満宮(広島県廿日市市天神)について:まとめ&感想
廿日市天満宮・まとめ
- 廿日市市にある天満宮
- 鎌倉幕府によって任命された藤原姓厳島神主家が、鎌倉の荏柄天神社を勧請した
- 大内氏によって藤原姓神主家が滅亡した後も、大内氏の支援などがあったが、彼らも滅亡すると神社は荒廃した
- 江戸時代、氏子の方々によって再興されたが、明治時代に火災に遭い、現在の社殿はその後再建されたもの
- 廿日市市の氏神として、地元の人々に広く信仰されている
- 天神さまゆえ、地元の受験生も訪れる。入口の「撫で牛」の頭を撫でると「頭脳明晰」となれるので、遠隔地からも来る価値がある
高台にある社殿を見上げると何やら清々しい気分になります。その分、ものすごい石段を上がらなければならないのですが、神社から見る廿日市の眺望も最高です。
廿日市駅からほど近いところにあるため、町歩き初心者にもお勧めの場所です。特に受験勉強中でなくとも、「頭脳明晰」になりたくない人はいないと思うので、「撫で牛」は絶対に撫でておきたいところ。感染症対策で心の中で撫でることになっていましたが、今はどうなっているでしょうか。確認でき次第お知らせします。
この神社さま『宮島本』に載っているのです。それゆえに、関連箇所としてご参拝したのですが、なんでだろう? って思ったら、そう言えば厳島神主家の人が勧請した神社さまではないか、ということで。そのくらい、こんなにも重要なことを忘れがちなのですが、どうも厳島神社と天神様が結びつかなくて困っています。
しかも、遙々と、鎌倉から勧請された天神様である、という点もすごいですよね。神主家の人は文字通り、鎌倉とゆかりある人たちだったってことで。そんなこと言ったら、付近のほかの有名な武家たちも東国出身者がゾロゾロおられるわけなんですが、どうも厳島神社は佐伯鞍職がー平清盛がーってなってしまい、結びつきません。
大内氏とあれだけ揉めてたわけなので、「厳島神主家」ってきくと、あああって思うんですが、どうも神社の社殿とか大鳥居とかとは無縁な方々に思えて。同じ洞雲寺に墓地があるせいで、毎年友田興藤さんの墓参りもついでにやっているみたいになってるんだけどね(特にお参りはしてないけどね)。
こんな方におすすめ
- 受験準備中です。どこかの天満宮に行かなくては
- 厳島神主家の歴史の関心があります

境内社がたくさんありすぎて、小銭がなくなってしまった……。

何気にお賽銭はキャッシュレスではないので、参拝前には必ず準備しておかないとね。
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廿日市・宮島旅日記(含広島市内)
「五郎とミルの安芸国旅日記(主に宮島)」の表紙 & 目次。要するにリンクページ。内容説明、登場人物紹介もコチラです。
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