みやじま・えりゅしおん

駒ヶ林(廿日市市宮島町)

2021-06-22

駒ヶ林・案内看板(竜ヶ馬場)

広島県廿日市市宮島町の駒ヶ林とは?

駒ヶ林は、弥山とともに宮島を代表する山です。決して弥山の一部分でも、途中にある巨石でもありません。標高 509 メートル。宮島では弥山につぐ高さを誇る有名な山です。本州側フェリー乗り場から厳島神社大鳥居を望むと、駒ヶ林が弥山の手前に聳えています。遠景は普通の山に見えますが、登ってみると山頂は花崗岩の大岩で、断崖絶壁で構成された岩山のように感じます。

弥山の頂上展望台から、駒ヶ林の山頂を見下ろすことができます。この時点で頂上が岩であることがわかります。登山が嫌いで弥山にもロープウエーで行った方でも、駒ヶ林までは歩いて行くほかありませんが、弥山からわかりやすい順路表示看板が出ています。山頂まではかなり長い石段が続くなど、それなりたいへんですが、山頂からの眺めは絶景です。

なお、この山は厳島合戦の際、大内方の武将・弘中隆兼が敗戦後に楯籠もって亡くなった場所でもあります。それゆえに、歴史好きな人を惹き付けて止まない史跡の一つともなっています。

駒ヶ林・基本情報

駒ヶ林の所在地は以下のような場所となります。

駒ヶ林(地図)

※弥山山頂付近、仁王門に近い分岐点のところにあった案内看板をお借りしています。

「弥山登山・大元コース」の途中にありますので、歩いて登る方はこのコースを使うことになります。もちろん、弥山観光の後で、下山ルートに大元コースを選択して立ち寄ることもできます。つまりは、歩くのは極力避けたい。でも、駒ヶ林には行きたい! という方ならば、弥山山頂から駒ヶ林に行き、もう一度弥山山頂まで戻ってあとはロープウエーでおりる、ということも可能です。

けれども、弥山 ⇔ 駒ヶ林と往復する時間と労力もそれなりたいへんです。せっかく来た道をまた引返すのはちょっと……と感じる場合、弥山山頂に戻るのは面倒に思われるかも知れません。

弥山山頂地図

弥山頂上、不消霊火堂(図中 ② )のところから大元公園に向かうルートが始まります。後は要所要所に順路矢印看板がありますので、それに従って進みます。途中ほかの観光資源を見に行くための脇道があったりしますので、看板の見落としにはご注意くださいませ。

なお、駒ヶ林は「大元コース」の途中でちょっと寄り道するかたちとなりますので、駒ヶ林の見学を終えた後、もう一度大元コースのメインルートに戻る必要があります。
※弥山登山のコースについては、弥山のご案内記事もご参照くださいませ。⇒ 関連記事:弥山

駒ヶ林・歴史と概観

断崖絶壁・ロッククライミングの山

中国山地には花崗岩質の山が多いと岩石に詳しい山登りの先生にお伺いした記憶があります(うろ覚えです)。駒ヶ林は典型的な花崗岩の山です。そう言われても、そもそもどれが「○○岩」とか、岩を見ても区別できなかったりしますが……。

「駒ヶ林(509m) の山頂部は南北で 35m 東西で 10m の岩石床で表土はない。 駒ヶ林の西面は高さ約 50m、長さ約 450mにも及ぶ断崖が北から東へ 20° の方向にのび、断崖の傾斜は西に約 85° の一枚岩で岩登りのトレーニングの場となっている。 この壁面は弥山本道の幕岩の壁面や駒ヶ林西方約 300m に見られる断崖と平行に並んでいて厳島の地形を特徴づけるものとなっている」(説明看板)

山頂は、案内看板に書かれている通りでして、むき出しの大岩です。おかげで鬱陶しい虫だらけの草むらなどがなく、ごろんと横になって疲れを取ることもできてしまいます。けれどもこの岩、傾斜もありますし、文字通りの断崖絶壁です。ゆえに、絶景だからといって大喜びで先端まで写真撮影に走る、などという行為は危険です。現地に行ってみればわかりますが、高所恐怖症の方でなくとも頭がクラクラしますので、絶景の撮影も命がけ(大袈裟な表現ですが、注意することは大切です)となります。

別名「絵馬ヶ岳」

駒ヶ林の山頂は前述のように基本は「岩」です。そのため、遠くから眺めると、岩の中にわずかに草木が生えている様子が絵馬のように見えるのだそうです(参照:『宮島本』)。でもこれ、あまりにも遠くからですとよくわからないので、弥山の山頂などよく見えるところに行って確認するも、「絵馬」には見えず。禿げ山にしか見えないんです。絵馬ヶ岳などという麗しいお名前がついているところから当然、きれいに見えるという意味だと思われるのですが。

恐らくは生えている草木によると思われますので、時期を選ぶべきなのでしょう。草木だけではなく、花も絵馬を構成するパーツとなっておりますので、花々が咲き誇る季節などに見ることが推奨されているのかも知れません。この点、とても気になりますので、地元の方にお伺いして情報を正確なものにしておきたいと思います。

現状は「絵馬ヶ岳という別名もある」という認識です。

厳島合戦史跡としての駒ヶ林

厳島合戦の時、宮島(厳島)が舞台となったことを知らない人はいないと思われますが(最近はどうやら、ご存じない方も相当数おられるようですが。むろん、ご存じなくとも宮島観光にあたり何の支障もありません)、世間一般には大内方が「塔の岡」に陣を置いて、毛利方の「宮尾城」を攻めていた。そこへいきなり、博奕尾から毛利元就が奇襲をかけてきた云々という物語となっています。なので、大内方は全員塔の岡に詰まっていたんだろう、と思っていました。

ところが、これは合戦史が理解できないど素人の考え方であって、塔の岡にあったのは総大将の本陣であり、軍勢はもっと広範囲に布陣していたのですよね(← じつは知らなかったど素人のひとり。そもそも『陣形』だの意味不明。こういうの軍事評論家じゃないとわからない世界なので、特に知る必要もないと思っていますが)。なので、本陣を守るために第二、第三の防衛線を張り(つまりそういう陣地は本陣、つまり塔の岡にはないわけです)、守りは隙がなく完璧なものであったといいます。よくわかってないひとが『陶は愚将』とか偉そうに言っていますが、それは己の無知をさらけ出しているのと同じことなのでやめましょう(恐らくは厳島に渡海したことを以てア×と仰りたいのだと思いますが、その問題はテキトーに素人が判断すべき事柄ではなく、『愚か』な人物には完璧な防御線を敷く能力すらないはずです)。

厳島神社発行の『伊都岐島』本には次のように書かれています。

 天文二十四年(一五五五)九月二十一日、陶の大軍は大元浦に上陸、第一線を塔の岡から大御堂前に敷いた。塔の岡付近は民家を撤却し、前面に柵を構え逆茂木を置いた。
 鐘撞堂の丘、平松、大聖院、多宝ヶ岡、十王堂に亘る第二線を構え、更に御山、駒ヶ林を第三線とした。天晴れな敷陣振りである。
 有の浦から大元浦に亘っては海軍の主力を置き、その外縁は須屋浦に及ぶ広大な海域を守らせた。
 この渡海を快しとしなかった弘中も、二日遅れて渡島したが、右翼の弱点を見て、博奕尾の険を固めたので完璧となった。
出典:厳島神社発行『伊都岐島』
※マーカー引用者

厳島神社も安芸国の神社ですので、結局は毛利元就の素晴らしさを称賛していますが、事実本当に元就がスゴかったのであって、それは万人が認めるところであります。そこから、自軍に都合のいいところだけを引用してきているのはかなりズルいことかもしれません。

でもね、何が言いたいのかといえば、負けたらあれこれ馬鹿にされるのが世の常ですが、勝ちがあれば負けもあるのであって、常に愚かだから負けた、という単純なことではないのですよ(むろん、本当にそういうケースもあると思いますが)。愚かな人物が率いる軍勢を倒したところで、それは倒した方が優秀だったことにはならず、それこそ相手が馬×だったからだ、となって、あまり自慢できる要素はありません。敵も然る者であったがゆえに、元就の勝利はさらに輝くのです。

さて、ここで重要なのは厳島合戦のあらましではなく「駒ヶ林」なので、こんなところにまで部隊配置していたんだ……ということに驚かされます。

弘中父子最期の場

同じ『伊都岐島』本によると、毛利元就が奇襲をかけた博奕尾の尾根って、じつは弘中隆兼がいたんですね。これには驚いてしまった……。博奕尾まで到達した毛利軍は弘中の部隊と戦闘になり、これを追い払っています。だとすれば、奇襲のことは事前に知られてしまったことになり、上手くするとここで阻止できたかも知れないのですが。弘中の部隊は支えきれずに撤退し、「本隊に合流しようとした」とあります。無事に合流できたのかどうかについては記述がないですが。

『平家物語』の「逆落とし」でも、崖下にいた平家の将兵は「上から源氏が攻めてくるかも」などと言い、崖から落ちてきた鹿を射殺したりするシーンがありますから、まあ「創作」だし、後から書かれたものなので、何とも言えませんけど、せっかく「あるいは?」と思い至りつつも、「まさかね」と気にしなかったのでしょうか。

博奕尾で弘中が毛利軍と遭遇したのなら、「ここから来るつもりだ」という作戦は事前に察知されたことになりますから、「奇襲」としては成功しなくなります。こうなるとすべての努力は水の泡なんですが、毛利軍がそれによって慌てたり焦ったりしたような形跡はまったくありません(というか、聞いたことありません)。弘中さんたちは、本陣まで知らせる余裕がなかったのか、情報は伝えられても時すでに遅しだったのかわからないけど。まあ、踏ん張って止めることが無理だった時点で、もう何をしても間に合いませんよね。

その後、弘中隆兼と吉川元春が厳島神社付近で激突してますから、弘中が山を下りたことは確かです。われわれ観光客でも普通に数時間で登ったり下りたりできる範囲ではあるので、当然すぐに下りて来れますよね。「奇襲」の方々などもっと加速していたかと。

その後、総大将一行が脱出用の船を求めて彷徨った話は有名ですが、弘中さんはなんで駒ヶ林で亡くなっているんでしょうか? 吉川元春が滝小路・柳小路の辺で大内方と交戦したのは、敗走する連中を追撃する最中、ちょうどそこら辺で逃げる側と追いかける側とが遭遇したってことです。けれども、敗走する側とて名もなき兵士はともかくとして、ひとかどの将といわれる人たちにはきちんとしたビジョンがありました。

本国にはまだ多くの軍勢が残っているのですから、総大将が無事に逃れることができたなら(この家、この総大将 = 国家元首みたいになってたもんね。殿様より以上に亡くなられたら困る存在)、まだまだ毛利家なんぞにやられて終わりとはならないんですよ(彼らの気持ち的には。むろん、後世に生きる我々は、たとえ帰国できても、結局は持ち堪えられなかったんじゃなかろうかと考えてしまいますが)。でも、国を導いていける人が亡くなったらすべて終わりです。なので、とにかくは陶だけでも逃そうとした。そのために皆、踏ん張っていたわけです。無駄な抵抗に終わったけれども。

弘中さんは御手洗川を「楯」にして毛利軍の追撃を止めていたらしい。けれども持ち堪えられなくなったために撤退を余儀なくされたそうです。このような「抵抗」は至る所で行なわれていたので、弘中さんも味方の活躍に期待し、一縷の望みを抱きつつ、退却し場所を変えつつ抵抗を続けました。味方の皆さんも必死に頑張ったけれども、どこもかしこも結局は持ち堪えられなかった。弘中さんはそれらの情報をどこまで把握し、どの時点で、もはやこれまでと悟ったのでしょうかね。慌てふためき、大混乱に陥っていた大内方には、きちんとした情報共有などもはや難しかったろうと想像しますが。

いずれにしても、駒ヶ林に楯籠もっていた時には、生きて戻ることはもはやないと考えていたと思いますね。だって、こんなに狭くて何もないところ、長期に渡り踏ん張ることなんて無理です。もはや総大将を逃がす時間稼ぎにもなりやしませんよ。軍事評論家じゃないので何もわかっていないのかもだけど、正直、死に場所を求めていたとしか思えません。

『陰徳太平記』は陶入道 = 「他人の意見に耳を貸さない」人物として描いています。細かく見ていくと、多少は好意的に見ていた部分もあったのですが(大内義隆の死後は完全なるワルモノと化すので、過去形となります)、「他人の意見に耳を貸さない」という点については終始一貫してこうなので、弘中さんが「厳島渡海はやめたほうが……」と意見したけど無視され云々となっています。軍記物なだけに、100% 信じてよいものかどうか気になるところではありますが。

俺の意見に耳を貸さぬとはとムッとして、もうお前なんか知らないからな、となればそこまでなんですが、ちゃんと出陣しました。でも「二日遅れて」っていうのが、せめてものアピールなんですかね? 『大内氏実録』だと、置いてかれちゃったみたいに書いてあった気がしたけど。気のせいかな? 陶らはこの戦に「渡海」すれば生きて帰ることができないことがわかっていない。彼らは「知らずに死にに行く」。けれども、生きて戻ることができないとわかっているから行かない、というのも不義理だ。自分の場合は「帰れないことを知っていて(それでも)行くのだ」みたいな悲壮感漂う、かつこの人は本当に良い人だなぁ……と読者が感動せずにはおられない、という具合に、各種軍記物があれこれ脚色し、絶賛して書き込んでおられるシーンです(ここに書いているのは『大内氏実録』に書かれていた脚色。近藤先生が『陰徳太平記』を参照にするはずはないけど、『吉田物語』そのほかからこの項目をまとめられたと書いておられました。いずれにしても軍記物なので、表現の差こそあれどれも大筋は変らないと思われます)。

このお方についてはほかにもあれこれ思うトコロがありますが、とりあえずここは観光資源の話をするところなので。狭い山頂しかない駒ヶ林を敵軍に囲まれ、それでもすぐには倒れなかった弘中父子も、最終的には兵糧も尽きて自ら命を絶ったということです。

駒ヶ林・みどころ

正直なところ、岩しかない山頂です。ただし、山頂からの景色は絶景ですので、弥山まで来ているのなら立ち寄らない理由はないでしょう。けれどもこの「絶景」、見るのにはちょっと(かなり)勇気が要ります。山頂の岩最先端まで行くことができれば、眺望は最高となりますが、断崖絶壁ですので、万が一と考えると心配です。

ことに、絶景を見たら撮影したくなりスマートフォンをガサゴソというのが最近の流れですが、それはとても危険かも知れません。運動神経に自信があり、かつ、履いている靴がしっかりしたものではない場合、適当に手前の安全な場所で諦める思い切りも必要かと思います(参考までに。最高の眺望を楽しんでおられた地元のガイドさんは、スパイクみたいな靴を履いておられました)。

山の姿(遠景)

駒ヶ林(遠景)

山の姿というより「頂上の姿」となります(緑枠内)。弥山山頂から見ると、駒ヶ林の頂上がよくわかります。登ってみると、見えている通りの岩です(当たり前だけど)。

フェリー乗り場だったり、もっと遠い所だったりから、あれが駒ヶ林だよ、と何度も教えてもらいました。けれども、じつはよくわからなかったりします……。岩みたいに見えるところがそうであろうと思うのですが、岩肌を見せている部分も一箇所ではないので。そもそも弥山の山頂も岩だらけですし。

ここはもう、写真をお目にかけて指さしで確認しかないので、現在のところは絶対確実な部分だけで終わりとします。

大元ルートからの分岐点

大元公園「弥山登山大元ルート」順路分岐看板

とりあえず、弥山山頂から無事に大元公園に向かう下山ルートに入れたものと仮定します。道なりにおりてくると、ほどなくこのような「分岐点」の順路矢印看板が現われます(どういうわけか、『駒ヶ林』の部分だけ真新しいけど、なんで?)。看板が指し示している方向に進んでください。ここはとくに迷い込んでしまうような場所もなく、安心な道となります。

※ただし、いつなんどき自然災害などで荒れる可能性も否定できないので、事前に観光案内所のお姉さん(お兄さん)に現状についてお伺いしておけば安心です。

駒ヶ林への道

広めの道がだんだんと細くなっていき、こんな感じになってくると頂上は近いです。岩だらけ系の山って、だいたいこんな感じの草が生えています。植物わかんないからどうしようもないけど。

駒ヶ林「この先行き止まり」看板

この看板が見えたらもう安心です。でも、駒ヶ林に行くつもりではないのに道に迷ってしまった人の場合はドッキリだよね。この看板、じつはとても親切です。行くつもりではない人は、早めに引返したほうがいいので。

超長い石段

駒ヶ林に続く長い石段

とんでもなく長い石段が現われるのでぎょっとなりますが、岩だらけ系の山は滑り落ちる可能性も高く、ロープや鎖ってトコも少なくないですから、こうやって整備してくださってあると、非常に楽です。むしろお得と考えてマイペースで登ります。

駒ヶ林に続く石段の終点

看板が見えてきたら、頂上はすぐそこです。でも、ここで気を抜かないように。意外にも滑り落ちたり転んだりするのは、どうでもいい平らな道だったり、無事に頂上に到着した直後だったりします。気の緩みってホント怖いんです。

駒ヶ林案内看板と石段の最後のほう

右手に案内看板、正面に大岩が見えています。

頂上入口

駒ヶ林頂上入口

いよいよ頂上入口です。この先は岩だらけで道はないので、岩をよじ登る感じになりますが、特にたいへんではありません(※感じ方には個人差があります)。

山頂

駒ヶ林頂上

えー!? 山頂って、マジただの岩じゃん! って、最初から何度もそのように申し上げておりますよね。ただひたすらに岩です。

無事に頂上に辿り着いたならば、あとは存分に絶景を楽しんでくださいませ。あいにくと、天気が悪かったり、スパイクシューズがないので怖かったりで、最高の絶景が堪能できる場所までは未だに辿り着けておりません。

頂上からの展望

駒ヶ林頂上・2020

駒ヶ林頂上・202003

登山超初心者だった頃。弥山の頂上でとっても優しい地元のガイドさんと出遭い、陶の城(?)縁者なら駒ヶ林を見たらいいよ、と教えていただいた。弘中さんが「渡海するな」って言ったという話も、最後まで戦ってたことも知ってたけど、こんな場所で壮絶に亡くなっていたなんて知らなかった。なにごとも、実際に現地に足を運ぶということの大切さを実感しました。

駒ヶ林頂上・202003

頂上の余りの「狭さ」に絶句。こんなところに「部隊」なんて配置できっこないじゃないかと。悲しすぎる場所なのに、見える景色は絶景で、なんとも言えない複雑な心境になった。負けないで欲しかった、死なないで欲しかった、皆無事で帰ってきて欲しかった、ずっとずっと考えていたら夕方に近くなっていた。

大元公園に戻る前に日が暮れたらどうなってしまうんだろうか、と、転がり落ちるようにして下山した恥ずかしい思い出。

駒ヶ林頂上・2021

駒ヶ林頂上・202105

短い人生、同じ観光資源を何度も見に来るのって効率が悪い、って考える人がいる。でも、生涯かけても全国すべてを回れるわけじゃなし。募集型企画旅行で効率良く回りまくっている知人の行き方も、同じ場所にしつこく通い続け、何の進歩もないけど、でも満足な自分の行き方も、人生どっちもありだ。

そんなことはどうでもいいけど、いい加減、見えている島が何島なのか、わかるようになりたい……。

駒ヶ林頂上・202105

写真の中に岩が写っている、ということは最先端まで行けていない、ということになります。でも、写真からはわかりにくいですが、本当に怖いんですよ(高所恐怖症ではないです)。実際に現地に行ってみないとわかりませんが、本当に断崖絶壁なので、下を覗いたら頭がクラクラします。落ちたら最後、って感じ。

駒ヶ林頂上・202003

駒ヶ林頂上・202003

撮影時間的に、これも駒ヶ林頂上らしいのですが、まったく記憶にありません。少なくとも山頂には東西南北四方向の展望があるはずですので、最低でも四種類は趣の違う景色があってしかるべき。なのに、どうやら、すべて見れてはいないみたいです。だから、二回目三回目となるんですが、何度来ても同じところばかり見ている。何でだろ?

駒ヶ林頂上・2023

あいにくの雨で、靄っていました。せっかく早朝登山で清々しい空気を吸いに来たのに、絶景のほうは残念なことに。でも山頂には誰もおらず貸切り状態。気分はサイコーでした。

駒ヶ林頂上・2023

今回は満を期して履き物にも気を配ってきたんですが(初回は普通に通勤用革靴だったとか、あまりにも知らなすぎた……)、靄っていることもあり、なんとなく先端まで行く気がしませんでした。この写真だとわからないけど、ほとんど周囲が見えないくらいの霧に覆われた瞬間もありました。よくぞ辿り着けたような気もします。

岩の最先端まで行くこと、どの場所からどのような景色が見えるのか、など、まだまだ調査が不完全ですが、また来ればいいかな、と思っているので気にしていません。

駒ヶ林(廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒739-0588 広島県廿日市市宮島町
※Googlemap に書いてある住所です。山なので正確な住所表記は難しいですね。

アクセス

一、弥山山頂(本堂、不消霊火堂などがある場所)から仁王門に向かいます。
二、仁王門の先に、大元公園に下りる道、大聖院に下りる道、奥の院に向かう道の分岐点があります。三本の道の中から、大元公園へのルートを選びます。
三、大元公園に下りていく途中に、駒ヶ林への分岐点があります。

弥山への三つの登山ルートは、基本は地元のみなさんがきちんと整備してくださっており、分岐する箇所には順路案内の看板がついています。悪路ゆえ滑落したり、分かれ道で迷うことはほぼないです。けれども、前日に大雨が降り、道が滑りやすくなっている、大風が吹いて看板が飛ばされてしまった、などのイレギュラーなことは予測不能です。

整備されているから何も気にすることはない、と過信せず、少しでも不安があれば、必ず事前にお問い合わせをしてください。

基本はご高齢の方でもハイキング気分で到達できる場所ですが、日ごろ山など入ったことはない、という方の場合、年齢に関係なく相当キツいです。その場合、ひとりでテキトーに行くことは絶対にオススメしません。同じ宮島観光でも、厳島神社周辺の寺社仏閣巡りやお土産物買いまくり旅と、弥山登山はまったく次元が異なることには常に注意を払ってくださいませ。

参考文献:『伊都岐島』(厳島神社発行)、『宮島本』、『陰徳太平記』そのた

駒ヶ林(廿日市市宮島町)について:まとめ&感想

駒ヶ林(廿日市市宮島町)・まとめ

  1. 世界遺産厳島神社と弥山原始林のある宮島の、弥山につぐ標高を誇る山( 509 メートル)
  2. 花崗岩からなる断崖絶壁の山で、山頂は「岩」
  3. 岩で構成された山頂に、周辺の樹木や草花が映えることから「絵馬ヶ岳」の別名もある
  4. 厳島合戦関連史跡の一つで、弘中隆兼父子が戦死した場所とつたえられている
  5. 弥山山頂から大元公園に向かう下山ルートを行くと、中途に駒ヶ林へ分岐する道がある
  6. 分岐点には案内看板が設置されており、道も整備されていて危険箇所や道に迷う可能性は低いものの、事前問い合せや、きちんとした登山装備の準備は絶対に必要
  7. 頂上からの眺めはとても素晴らしいが、眺望を満喫するために岩の先端まで行く際には足元に注意する必要がある。周囲は断崖絶壁で、足を滑らせたらとても危険

ここへ来ると否が応でも合戦の話題となるので、できればあまり来たくない場所です。すでに二回も来ているので、三回目はないと思っていました。なのになんだって三回目も来てしまったのか。自らの行動ながら、その思考回路が理解できません。あるのは断崖絶壁の岩だけ。せいぜい山頂からの眺めが絶景である、というくらいのものなのですが。強いて言えば、弘中父子の「言い伝え」が強烈な印象を残したゆえにでしょうか。宮島の厳島合戦関連史跡は、ほとんどが、毛利家礼賛系のものですので、何だかなぁ……と思うのですが、ココだけはその意味でやや趣を異にしているので。

何回目かに登った時、ご一緒した地元の方から、この崖から落ちたら100%アウトだからね、とご教授いただきぞっとしました。なにゆえにこんな物騒な話になったかといえば、大元公園に向かう途中に「岩屋大師」という観光資源があるのですが、地元の方曰く、弘中父子はあの洞窟で亡くなったという意見があるけれども、違うと思う。ここから飛び降りるほうが亡くなり方としては自然、という歴史的考察から話題がそうなりました。確かにすさまじい断崖絶壁なので、身投げもありそうな話ではあります。軍記物だと毛利軍にやられちゃったみたいに書いてたりもするし、何が本当なのかなどわかりません。

ただいつも思うのは、てか、これここで書いちゃったらダメなんですけど(ほかで書きたいから)、今回も郷土史の先生とずっとお話してて、そもそも弘中って陶と同列なのに、なんで家来みたいになっているんだろう? って話題となり、まったく同感なのです。強引に差別化するとすれば、殿様の一門かどうか、ってことくらいです(遙か昔に分出した一族なので、完全に家臣化していますが)。そんなことが重要視されるのならば、無理矢理「異姓」の大友晴英なんか連れてこないで、陶自身がそのまま下克上して当主名乗れよ、と思ってしまいます。それをしていないことが、この人を悪く言わない派の「典拠」だったりするわけなので、完全ワルモノ化してしまうみたいでアレなんですけど。

まあ、イマドキでも、同じ会社の中で社員間にあれこれの序列があり、傍若無人で人の意見に耳も貸さず、嫌な奴だが仕方ない、って人物の下につかされるケースはままあると思いますが。でもですよ、陶入道は毛利元就のような人格者とはほど遠いわけで、意見の不一致でこれ以上ついていけない、と思ったらここまで義理立てするのは良い人を通り越してちょっと問題ありなのではないかと。現代のようなドライな感覚で中世の出来事を見てはなりませんが、「渡海したら助からない」ってわかっているのなら、仮病使ってでもなんでもいいので留守部隊に入れてもらい、毛利家防長経略来たら投降すればいいだけじゃん。わがままな指導者に付き合って命まで捧げる価値はまったくないと思うのですよね。

いわゆる陶の家からさらに分家した家来だとか、先祖代々お仕えしていますという人ならわかりますよ。ですけど、弘中さんはあくまで「同僚」じゃないですか。なんで、風下に立たなきゃならないのか、そこが永遠の謎なんです。だからこそ、ここで亡くなったことが気の毒でならないのです。

愛は盲目というから、恋人同士や家族のためなら何もかも犠牲にするのはわかります。ですけど、単なる同僚(せいぜい上司ではあったの?)のために、命まで捨てるな! 弘中さんが陶入道ごときを崇敬していたなどあり得ぬ話です。『陰徳太平記』にある珍しくも「良い人」的に書かれている月山富田から逃れる際、「自らの食い物を兵士に与えた」とか「義を見てせざるは勇なきなり」(うろ覚え)云々(この『義を見て』云々って、いったいどこに出てるの? 吉田郡山援軍来てくれたことを言っているのでしょうかね? そんなん、特にヒロイックなことでも何でもないよ。殿様に命令されたらメンドーでも援軍行かなきゃならないし、そもそも援軍出したのだって、放置して毛利やられちゃったら、尼子さらに増長してマズいかも、くらいな思いからだよ)、こんなどーでもいいことで陶に好感を抱くとか、いかに中世とイマドキとは感性が違うとはいえ、あんまりじゃん。それこそ、弘中さんってア×じゃないの? みたいなことになって納得がいかない。ココは『陰徳太平記』だったか何かが書いていた「愚将」(皆さんが大喜びのワードですね)のために「渡海」して命を落とすなどなんたることか、と憤ってる独白の通りですよ。けど、だったら「行かなきゃ良いじゃん」って思うんだよ。

ただし、弘中さんが「渡海するなと意見したのに無視された」ということじたい、軍記物の脚色の可能性があり、真実なんでどこにもありません。好きに空想して楽しんでください、ア×な同僚のため、崩壊しかけた家のために尽力するのは麗しい物語です、と感動できる方もご自由にどうぞ。ただ、一言言えることは、ここは何度も来るほどの場所ではないので、完全装備(崖の先端まで行ける靴を履いて、デジカメやスマホを取り落とさないように工夫する)の上、一度ですべての絶景を目に焼き付けたら、後は弥山の本堂信仰している方や自然観察、山登り好きな方以外、二回目三回目は要らないです。その分、厳島神社をリピートしたほうがいいような気がします。

こんな方におすすめ

  • 登山、ハイキングが大好きです。弥山山頂はすでに制覇しました
  • 厳島合戦史跡を回っています

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像(涙)
五郎

もしかして、陶入道のこと嫌いになったの?

ミルイメージ画像(怒)
ミル

はぁ? 何で君が悲しむのかな? 別に嫌いになってないし。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

だって、いちおう俺の身内みたいだからさ、ちょっとくらい我儘でも我慢して欲しいなと。それに、ミルは毎年、入道の墓参りに行ってるだろ? 嫌いになったらもう二度と廿日市にも宮島にも連れて来てもらえなくなるかと思ってさ。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

(なんだ、単に宮島に来れなくなるかも知れないから心配になっただけか。『愛は盲目』って書いたじゃん? どんなに我儘でも勝手でも、愚か者扱いされても、ミルだけは君のことを何よりも大事に思ってるよ。弘中さんなんかより千倍も万倍も……いや、比較することなどできないんだよ。そもそも、陶入道云々ではなく、弘中さんに喧嘩売ってる文章のつもりなんだけど……)駒ヶ林に上がる階段がキツかったからちょっと嫌味を書いただけだよ。それに、いつまでも、岩(崖?)の先端まで行けない己の臆病さも嫌なの……。

附・改訂前本文一部要約

※この記事は 20230707 に全面改訂されましたが、改訂版に組み込み切れていない部分を一時的に残して置きます。

駒ヶ林の頂上に立ってみると、そこが切り立った崖の上で、あまりにも狭いことに驚かされる。ここにたとえ一部隊でも軍勢を置いていたのだとしたら、はみ出して谷底深く落ちていきそうだ……。思わず絶句する。実際に、ここから足を滑らせたらたいへんである。高所恐怖症ではなく、山登りのベテランならば、切り出した岩の先まで踏み出すことは可能。それ以外の人にはかなりの勇気がいる。そのかわり、先端まで行ったなら、素晴らしい絶景を拝める。

厳島合戦についてまともに知ろうと思ったら、『陰徳太平記』だの『吉田物語』だの、あるいはそれらを元にしてまとめてくれた一般書や、それをお読みになった作家先生が書かれた小説やネット民などが発信している情報を鵜呑みにしてはダメだ。少し前までの古本類だと、恐ろしいまでにこれらの書物の受け売りとなっているものがある。しかし、最近では、この合戦に限らず、軍記物は信頼に値しないから参考にできないとする説が普通となっている。

とはいえ、軍記物の類は多少の誇張や、書き手に都合の良い脚色があったにせよ、当時の関係者が記したという点で、じゅうぶんに価値があるものだと思う。イマドキの研究者の先生方は、それらを参考にしつつも、どこが信用ならない点なのかを明らかとしながら自論を展開しておられる、そんな傾向のような気がする。また、小説類は最初から「創作」なのであって、アートみたいなものであるから、好みの人物がイメージと異なる描かれ方をしていようとも、あるいは、憎たらしい人物が善人と化していたとしてもそれは作者オリジナルの世界観なので、他人がどうこう言えない。気に入らなければ、読まねばいいだけ。ネット民の意見も同様で、様々な考え方があって当然だし、何人もそれを自由に発信できるのも平和な世の中ゆえになので、意見が異なれば見なかったことにすればいい。人間が出来上がっている方だと、反対意見の人とまで仲良くなれてしまうが、別にそこまで無理をしなくてもいいだろう。

その上でだが、この弘中という人が悪く書かれているのを見たことはないような気がする。そのた諸々は当主はじめどこかしらで、何かしら気にくわない発言(というか単に己とは異なる意見)を見かけたことがあるのだけど。毛利元就が人柄的にもよくできた人物でファンも多いので、その敵役が嫌われるのはある意味しかたないことではある。ただし、こと弘中隆兼(兼、包どっちなの?)さんが忠義の家臣であり、大内家でも五本の指に入る猛将であったことは誰の目にも疑いようのない事実であるらしい。この点については、勝者の側から歪曲され、多少都合よくアレンジされた「かも」しれない史実の中にも、彼を悪く書く人がいないことからも分かる(勿論すべての史書を調べたりなんてしてないから断言はできないけど)。

弘中家は元々岩国のあたりにいた豪族。義興期、弘中武長の頃から特に重く用いられるようになった。武長は大内水軍の総大将をつとめたり、山城の守護代となったり、さらには、伊勢神宮の山口勧請に際して奉行として現場監督をしたり……と八面六臂の活躍だった。弘中隆兼も安芸東西条の群分守護を務めるなどした重臣だが、普通に大内義長政権でも居場所を得ているところ、近藤清石先生が『大内氏実録』で反逆者の中に入れてしまっておられるところなどから見て、大内義隆が弑逆された件について、とかく意見したり叛旗を翻したりはしなかった、つまり、いちおうは叛乱者側の人物と見なしてよいものかと。であるならば当然、義長政権下でも、重きをなしたに違いないといえる。その彼が、毛利家との全面対決に際して、海路厳島を主たる戦場とする作戦に最後まで反対したとされる(これについても、通説だから事実は知らない)。

ただし、彼のような有能な家臣の意見をきちんと取り入れられなかった点に、大内義長傀儡政権の限界を指摘する研究者の先生方もおられる。弘中さんのすごいところは、たとえ自分の意見が聞き入れなかったとしても、それによって作戦に非協力的となる、という態度はとらなかったことだ。出陣にあたり奥方に、もはや生きては帰れないかもしれないとの手紙を残していたというから、事実そうなったことは本当に気の毒でならない。

なお、『宮島本』では、駒ヶ林を宮島の「伝説」の項目で紹介している。だから、山の高さなどについては正確だけど、弘中さんたちの戦闘が実際にこの地で行われたかどうかなどは、今のところ、「史料」に基づいた「史実」ではなく「言い伝え」に分類されているようである。

腰少浦神社付近での記念写真
廿日市・宮島旅日記(含広島市内)

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