陶のくにの人々

陶持長 と子ら

鶴千代
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鶴ちゃん

伯父上や従兄弟たち。残念ながら、「系図」には載っていない。ただし、先生方のご研究によって導き出されたポジションなので、確実である。

メモ

陶持長:兵庫頭、従五位下(天文六年正月八日)
陶隆満:安房守
陶隆秋:九郎、安房守、従五位下(天文二十年四月一日、あるいは三日) 、兵庫頭

陶持長

陶持長、陶隆満はいわゆる「系図」には載っていないのだが、近藤清石先生の『大内氏実録』に「持長は弘詮の子なるべくおもはる」とあって、それ以後の研究書でも( )付きで弘詮の子孫として系図が作られていたりする。

要は決定的な根拠がない限り、どうしても( )付になってしまうのが歴史学の分野。近藤先生もあれこれの分析の後、「以上堅固の臆断なれど、たがはざらん歟、猶よく考ふべし」と結んでおられる。

さて、簡単にまとめれば、推測の根拠は、

一、これらの人々が「兵庫頭」、「安房守」を名乗っていること
一、これらの人々と豊田・妙栄寺とのかかわり

などである。

「兵庫頭」、「安房守」は弘詮のそれと同じ。また「風土注進所載保寧日記に、陶安房守妻卒、就豊田妙栄寺喪礼とある」(『大内氏実録』、ここでいう『阿波守』は隆満)が、豊田の地は、陶弘詮が寛正六年に父・引房より相続した右田弘篤の本領であり、妙栄寺は弘詮が母のために建立した菩提寺である。
所領、官職、菩提寺と祖父(弘詮) ⇒ 父(持長) ⇒ 子(隆満)と受け継がれているわけである。

弘詮の子として「系図」にも載っている人として、隆康があり、この隆康と持長との兄弟関係はどうなるのか、ということがまた問題だ。どうやら持長が兄、隆康が弟であるらしい。
現状、『実録』以外の史料を調査できるような状況にないし、さして大きな問題とも思われないので、それこそ( )にしておく。

なお、この「陶持長」という人物は文芸関係にも出てくる名前なので、いつになるか分からないが、時がきたらこちらに補充する。

陶隆満

安房守となる(陶晴賢の弟に安房守とあるが、その名は隆信である。兵庫頭持長の子であると思われる)。

義隆に仕え、小座敷衆であった。

天文二十年、陶隆房とともに山口を襲う。
(義隆記、同異本に官務伊治が湯田縄手で隆満の兵に殺されたことが書かれている)

翌年、杉隆相、飯田興秀等と豊後に赴き、大内義長を迎え、当主にたてる。
義長(晴英)政権下で、奉行となる。

のち毛利氏に帰順した。

陶隆秋

隆満の子。のち朝倉氏と改め、朝倉兵庫頭という。

子息、九郎元辰(元字は、毛利隆元の偏名を賜ったものと思われる)。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」、巻二十九「帰順」より

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ミル

宇野さんとか、朝倉さんとか……。
みんな「氏」を変えてしまって、寂しいなぁ……。

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鶴ちゃん

……。

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城主さま

子孫連綿。麗しきことなり。

※この記事は姉妹サイトで公開されていたものを移してきました。
元ドメイン公開日:2022年3月21日 2:37 PM

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