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功山寺(長府)

2020年9月20日

功山寺案内図の写真

功山寺・基本情報

住所 下関市長府川端1-2-3
電話 083-245-0258
山号・寺号・本尊 金山・功山寺
宗派 曹洞宗
最寄り駅 下関駅、城下町長府バス停下車徒歩10分
書院見学料金 大学生以上300円、中・高生100円、小学生以下無料
書院見学可能時間 9:00~17:00
公式サイト http://kouzanji.org/

功山寺・歴史

後醍醐天皇時代の創建・長福寺

後醍醐天皇の嘉暦二年(1327)創建。山号を金山、寺号は長福寺といった。開山は東福寺聖一国師の法孫虚庵玄寂禅師で、臨済宗だった。正慶二年(1333)、天皇より綸旨を賜り、建武八年には、足利尊氏が、観應二年には足利直冬が土地を寄進するなど、大規模にして荘厳な寺院であった。

毛利家の防長経略の際、大内義長が逃れて来たため、この寺院は戦場となる。義長は、赤間関から海路豊前国に逃れようとしたらしい。しかし、豊前小倉城主・高橋三河守と三国城主・長野修理亮とが心替りして、三千余騎で待ち構えているときき、もはや命運が尽きたことを悟った(高橋三河守は義長の身内だった)。長福寺に入り、最後の経文を唱えているときに、早くも毛利方の宍戸・福原勢が押し寄せてきた。大内方はせめて、義長が心静かに旅立てるようにと、必死に防いで時間を稼いだが、抵抗空しく殆どが討死した。

義長はその間に院主を呼び、辞世の歌を詠んだ。

 玉の緒よ幾夜経るとも繰り返せ 猶をたたまに掛て恨みん
 さそふとも何か恨みん時来ては 嵐の外に花もこそ散れ

辞世の句は二首伝わるが、果たしていつ詠まれたものなのか、二首ともに辞世の句であるのか明らかではない。

時は弘治三年(1557)四月四日。かくして、長福寺は大内氏二十九代滅亡の古跡となった。

この後しばらく、寺院は衰えてしまう。(以上、参照『山口県寺院沿革史』)

五郎

嘘だろ。滅亡したのは1551年と習った。二十八代までしかいなかったはずだ。

次郎

数が合わない。座敷童じゃん?

毛利家菩提寺・功山寺

慶長七年(1602)、長府藩主・毛利秀元はこの地を訪れ、寺院が荒廃している様を見て心を痛めた。修築事業を執り行った後、父・元清を祀り笑山寺と改名した。また、洞雲寺の開山・金岡禅師を追崇して開山第一祖とし、曹洞宗に改宗する。秀元は大雲和尚の求めに応じ、慶長十八(1613)にも、増改築を行なっている。慶安三年(1650)十月三日、秀元が亡くなり、智門寺殿功山玄誉大居士と法名したので、功山寺と寺号を改めた(寺号の改称は承応元年、1652)。以降も長府・毛利藩主の菩提寺として、久しく手厚い保護を受けた。

文久二年(1862)~明治維新を迎える激動の時代には、隊士の陣営となり、また、山口に下向した五卿の仮舘ともなった。(以上、参照:『山口県寺院沿革史』ほか)

まとめ

功山寺は由緒ある名刹だが、名称や所在地、宗派は変遷した。
嘉歴2年(1327)創建。長福寺と号し、臨済宗だった。
弘治3年(1557)、大内義長がこの地で自害。
慶長7年(1602) 長府藩主・毛利秀元は長福寺を修復し、父・元清を祀り笑山寺と改名。曹洞宗寺院となる。
慶安3年(1650) 毛利秀元が亡くなる。功山寺と名を改め、長府・毛利藩主の菩提寺となる。

※参考にした本などが多すぎて目茶苦茶になったため、どの本でみたのか確認する術がないけれど、いったん「笑山寺」と改名されたとある「笑山寺」は現在も同じ寺号の寺院があるようで、功山寺入り口案内図に矢印がついていた。寺号、寺地の変遷の問題は、ほかの場所でも嫌と言うほど遭遇したので、こちらもそのケースかもしれない。

功山寺・みどころ

大内義長がここで亡くなった際に、戦闘に巻き込まれたような感覚があるし、説明看板にも「この戦乱によって一時期堂宇の荒廃をみた」と書かれているくらいなので、由緒ある建築物のその後が心配である。結論から言うと、功山寺は重要文化財の宝庫で、仏殿は国宝にまでなっている。付き従う者とてない傀儡当主を倒すための戦闘が、文化財が焼失するような大規模なものになるはずがない。荒廃したといっても、焼失したわけではなく、その後は長府毛利家菩提寺として大切にされてきたという経緯もある。ゆえに、国宝となっていない建造物でも長い歴史を持っているので、注意深く観察しましょう。

正直、見るものは山ほどあって、隅々巡るのはたいへん。どこにフォーカスするかは個人の好みにより変るので、いくつかに絞れるのなら問題はない。

仏殿――唐様建築、国宝
山門、旧境内――下関市指定文化財
大内義長の墓、五卿潜居、高杉晋作挙兵(騎馬像あり)。
延命地蔵菩薩――山口県指定文化財
長福寺文書、功山寺文書として、大内氏、毛利氏の安堵状や寄進状などが伝わる。
「城下町・長府」として保護された、周囲の景色も美しい。

総門

惣門の写真

室町時代の建築物。この写真からは見づらいが、功山寺様HPによれば、正面扁額の文字は「海右第一峯」。

山門

山門の写真

下関市重要文化財。説明看板によれば、長享元年(1487)に大風で倒壊した山門を、安永二年(1773)に十代藩主・毛利匡芳の命で再建した、とある。平成時代に解体修理済み。

仏殿

仏殿の写真

仏殿は美しい唐様建築で鎌倉時代の創建(元応二年、1320)。我が国最古の禅寺様式を今に伝えるもの。「国宝」に指定されている。大正時代に解体修理が行なわれ、その際に、創建時の姿により近いものに修築された。

回天義拳碑

回天義挙碑の写真

功山寺は古式ゆかしいと同時に、維新の気質にも溢れたところだ。
高杉晋作氏ゆかりのものは、下関市内各所にあるが、ここにも。
じつは、颯爽たるお姿の銅像もあるのだが、見落とした……。

法堂

法堂の写真

名水

名水看板の写真

功山寺には名水の由来がある。同じ水を、大内義長も高杉晋作も飲んだのだろうか……。
立場も時代も、主義思想もまったく違う彼らに共通するもの、それはいずれも、長寿をまっとうできなかった、という点である。
皆に愛されている高杉さんと違って、大内義長のほうは日陰の存在だが、生きている以上、人は水を飲まなくてはならない。あるいは、ここに二人の接点があるのかもしれない。

延命地蔵堂

延命地蔵堂の写真

惣門を入り、山門の手前にある。木造地蔵菩薩半跏像は山口県指定文化財。

大内義長の墓

大内義長墓の写真

大内義長の墓と伝えられる石塔。
石塔は三つあるが、中央が彼のものとすれば、両脇を守るように建つ小さな石塔は誰のものなのだろうか。その答えは、古川薫先生のご本の中にあった。

義長が自決した場所は、現在遺されている仏殿であろうといわれ、功山寺墓地には、義長と、陶晴賢の末子鶴寿丸、義長の小姓杉民部の墓といわれる三基の宝篋印塔がある。
『城下町長府』古川薫 新日本教育図書 50ページ

陶鶴寿丸

ミル

ミルがお参りした「大内家当主の墓」トップバッターがこの人のものだった。意図したわけではないけれど。つぎが大寧寺だったので、何となく逆回りになっている……。

長福寺文書と功山寺文書

歴史ある寺社には数々の貴重な古文書が伝えられているけれども、功山寺ももちろん、その例外ではない。寺院の名前が変っていること、統治者が変遷していること、から二種類の重要文書にわけられる。長府毛利家菩提寺となったのちの文書は毛利家の名で出されたもので、『功山寺文書』として遺っている。

於児丸

文明八(1476)年には法泉寺さま、明応五(1496)年には、新介さまが安堵状を出しておられ、こうした古文書類が『長福寺文書』として遺されています。新介さまご子息の安堵状は寺院様HPで見ることができますよ。

功山寺写真集

アクセス

長府駅からタクシーを使いました(時間がなかった)。「城下町長府」バス停からほとんどの観光資源が徒歩圏にまとまっているため、町並みを見ながら歩くのがいいと思います。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『城下町長府』古川薫先生 新日本教育図書、功山寺様HP、説明看板、下関市様HP(公式観光サイト 楽しも:https://shimonoseki.travel/spot/detail.php?uid=97)

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