目茶苦茶簡単に、みやじまの歴史を眺めていこうと思います。検定試験のためなので、典拠とするのは、『宮島本』です。それをミルたちの言葉で斟酌しておつたえしていきます。どうしても難しくて分らないときは、そのまま引用させていただくけれど、基本は自家薬籠中のものになっていて欲しいと願っています。
なお、あらためてですが、『宮島本』という貴重なご本をお書きくださった先生方、企画してくださった皆さま方、出版してくださった廿日市商工会議所様に、心より御礼申し上げます。
古代の厳島
厳島神社の鎮座年代も推古朝
歴史の始まりも、本来ならば宇宙の起源から始めるべきである、というのはミルたちが崇拝する、宮島のベテランガイドさんのお言葉。人類誕生なんかよりも、ずっと古いところから、ご研究を始めておいでです。となれば、宮島という島はどうやってできあがっていったのかについても知っておく必要があるでしょうし、そこに住まう人々についても、少なくとも、旧石器時代の頃くらいから調査を始める(せいぜい本を読むだけですが)べきでしょう。
検定試験のためにもおそらく必要な、島の起源と最初の島民についての物語を端折って、いきなり厳島神社草創から始めます。宮島の形成については、地形、自然分野で、古代人類については考古学で取り上げるべき課題かと思うからです。
というわけで、宮島という島がすでに形あるものとしてそこに存在していた古代史から紐解いていきましょう。
小見出しに「も」と入れたのは、こと大内氏関係で、推古女帝はとっても身近な存在の天皇様だからです。何しろ、始祖・琳聖太子さまがやってこられたのも推古朝であったことを知らない人はいないくらい。なんと、厳島神社もそうなんですね!
厳島神社が建立された年代は、推古天皇元 (593) 年と伝えられています。神社の由緒看板そのたあらゆるところにそう書いてあります。のちに佐伯景弘という神官が記した文書が、その典拠史料となっているようです。しかしながら、その本家本元の古文書を見せてもらうなんてことは、簡単にはできるはずないですので、ここはもう、由緒看板だの、信頼置ける本(『宮島本』とか)に素直に従っていいと思います。
とはいえ、神社や寺院のご由緒というのは、多分に伝承的色彩が強く、創建年代が古ければ古いほど、その起源は神話の世界だったりします。それゆえに、伝承的な要素が強く、現代の科学技術では証明できない部分が多くあります。つまり、寺社のご由緒の類はあまりアテにならない、ということを心の片隅に入れておく必要があります。
でもそれは、悪い意味ではありません。『古事記』や『日本書紀』に書かれていることをそのまま鵜呑みにしてかまいません、と仰る歴史学の先生はおられませんが、さりとて、『古事記』や『日本書紀』に書かれている物語に心躍らない人はいないでしょう(歴史学の先生方も含めて)。ついでに、伝承の背後には何らかの事実が隠されていることもあり、歴史学の先生方にとっても、古文の先生方にとっても神話、伝承の類は興味が尽きない世界なのです。
佐伯鞍職と神烏
ここ、厳島神社にも、同様に、神社創建にかかわる伝説が残されています。
かつて、神社のあったあたりは佐伯姓の人がおさめていました。あるとき、その佐伯の一族、佐伯鞍職という人が釣りをしていたところ、何やら綺麗な舟が近付いてきました。のみならず、舟にはこの世の者とも思われないほどの美女が……。いったいどこのどなたなのでしょうか? 鞍職の家来がお伺いしたところ、美女曰く「わたくしはこの島に住む神なのです。それに相応しい住処が欲しい」
鞍職は困りました。神社を建てるには朝廷の許可が必要です。とはいえ、女神様からのお願いを聞き届けないわけにもいかない。鞍職が朝廷に神社建立について上奏したところ、「神烏が榊の枝を持って現われる」という吉兆があったので、造営はすぐに認められました(これはもちろん、あらかじめ女神様が用意してくれた『吉兆』。つまりは『やらせ』です)。
つぎは、どこに社を建てれば……の問題を解決しなくてはなりません。許可はもらえましたが、このような美しい女神様のためのお社を建てるにふさわしい場所はいったいどこにあるのでしょうか? 「何も心配はいらない。すべては神烏が導いてくれるであろう」とのお答え。
なんと、鞍職には女神様の命を受けた神がかりの烏がサポート役として付けられたのです。さきほど、朝廷に現われた榊の枝を持って来た神鳥の話が出ましたけど、同じ鳥でしょう。神々が住むという高天原から飛来したというのですから、まさに神様の鳥です。ちなみにこの鳥はカラスです。「鳥」と「烏」、字が似ていますので、ご注意ください。
鞍職は宮島の浦々を物色して回りました。候補地はいくつかありましたが、はたしてどこにすればよいものか。すると、養父崎というところに来た時、御山かられいの「神烏」が飛来しました。神烏は鞍職たちを先導するようにして、ともに浦々を廻り、脇浦(有浦の西部) と呼ばれるところまで到着した後、姿を消してしまいました。なるほどここか! と思った鞍職は、神社建立の場所をこの地に決定したのでした。
このとき、佐伯鞍職が廻ったという宮島の浦々には小さな社が建てられており、これを参拝して廻るのを「御島巡り」神事といい、現在も行なわれています。それらの浦々の社はすべて厳島神社の末社でして、それらは以下の通りです。
浦々の末社
杉之浦神社、包ヶ浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、青海苔浦神社、養父崎神社、山白浜神社、須屋浦神社、御床神社
佐伯氏は古代史に出てくる、有名な氏族の一つです。鞍職さんもその関係者なのでしょうか? 佐伯氏、厳島神主については、メインサイトの「厳島神主家」にも記述があるので、そちらもご参照ください。
ここで重要なことは、厳島神社を創建した佐伯鞍職さんは、のちに神格化されたことです。宮島だと、三翁神社でご祭神になっていましたね。さらに、美しい女神とやりとりした、鞍職さんの家来は名前を「所翁」と言いました。この方も同じく、神格化されています。
そのくらい重要なお二人なので、この名前は絶対に忘れないでくださいね。
覚えておいたほうがいいかも
市杵島姫命、佐伯鞍職、所翁、神烏
なお、『宮島本』には、厳島神社の名前が最初に現われた史書が何なのか……などについて書かれていました。これらは、郷土史だの神社のご由緒だのにも、普通に載っていそうではあります。一般の観光客は特に覚えなくていいことにも思えますが、宮島検定を受ける人のためにいちおう。
史書に書かれた厳島
『日本後紀』 (840年成立) 、『三代実録』、『延喜式』
なんだか日本史の授業で覚えさせられた本が並んでいるね。まあ、そんだけ古いってコトが分れば良いよ。何しろ推古朝なので。
平清盛と厳島
厳島(=宮島)ゆかりの人物については、『宮島本』に大量にまとめられていて、こんなにたくさん、どうするの? って感じですが、さすがに平清盛を知らない人はいないでしょう。そして、厳島神社が全国区で有名となり、また、現在のような美しい姿の原型が出来上がったのはこの人の時代です。その意味で、絶対に忘れてはならない人なんです。
厳島神社の父・平清盛公
祇園精舎の鐘の声~は学校で暗誦させられた人がほとんどではないかな? なので、平氏の栄耀栄華とその没落(滅亡)については説明はいらないかと。まあ、ついでに日本史を復習する人は「武士の台頭」とか「院政」~「源平合戦」くらいまでお願いします。
平清盛と厳島の関係は、清盛が安芸守となった時から結ばれました。そして、佐伯郡の豪族である佐伯氏とも親密になりました。清盛の厳島神社に対する信仰心はきわめて篤く、10回も社参したと言われています。これは文字史料で確認できる回数なので、実際にはもっと多かった可能性もあります。
清盛の時代、厳島神社の神主だったのが佐伯景弘です。清盛は佐伯氏と親密であったと書きましたが、彼は権力者とのこの関係を上手く利用し、清盛の援助を取り付けて厳島神社を繁栄させていったのでしょう。
現在見ることのできる厳島神社の原型は、平清盛の時代、具体的には仁安三年(1168)に造営されたといわれています。(参照:『宮島本』)この年代の典拠となっているのは、佐伯景弘がこのような神社を造ります、と上奏した書類です。同じことは、地御前神社の御由緒にも書かれており、厳島神社とその外宮・地御前神社とは同じ年に書類提出されたということです(というか、同じ書類に二つの神社について書かれていた)。
つまり、その後何度も修築や改築を繰り返しつつも、だいたいにおいて現在のような美しい厳島神社の姿が完成したのは、この頃のことなのです。
平氏一門は、長寛二年(1164) にいわゆる現在の国宝・「平家納経」を奉納。また山県郡志道原荘 (現在の北広島町志路原) を厳島神社に寄進するなどの厚い信仰ぶり。さらに、千僧供養なるイベントも開催しています。
時の権力者・平清盛のこうした厳島信仰に影響を受けて、ほかにも多くの都人たちが厳島神社を訪れるようになりました。たとえば、後白河法皇や建春門院(後白河法皇の夫人、高倉天皇のお母上)の参詣(1174年)などです。厳島神社はたんに平氏一門の信仰篤い神社であるというだけでなく、全国区で著名な神社となっていったのです。
厳島神社を造った人は?
厳島神社が現在のような海に浮かぶ美しい神社としての社殿に整備されたのは、平清盛の功績。
この頃の神主は佐伯景弘(鞍職の子孫)。
やがて、単なる平氏の崇敬厚い神社というだけでなく、全国有数の著名な神社となっていった。
中世の厳島
鎌倉幕府と厳島
最大のパトロンだった平清盛の死、それに続く平氏の滅亡。厳島神社の将来が気になるところです。神主の佐伯景弘とて、平氏ベッタリだったりだったと思われ、無事でおれたのでしょうか?
結論からいうと、特にどうということもありませんでした。前述のように、厳島神社はすでに、平清盛個人のお気に入り神社というような位置づけではなく、由緒ある名門神社となっていました。平氏の連中気に入らないから、彼らが信仰していた神社も整理してしまおう、なんてことはできっこありません。それでもいくつかの大きな変化はありました。
その最大のものは、神主家の交替です。鎌倉幕府は、鞍職以来外代々続いていた佐伯氏ではなく、代わりに、藤原親実という人を新しい神主家当主に任命します。彼は周防国の元国司で関東御家人でした。「関東御家人」である、という身分が重要でしょう。
源頼朝は自らの配下である御家人たちを全国に配置して行くことで権力を確立していったので(ここらは『鎌倉幕府の成立』とかを復習してね)、厳島神社という重要な神社および厳島という要衝の地を、同様のやり方でその支配下にしっかりと組み込んでいこうとしたのだと思われます。まず、自らの息のかかった人物として、藤原親実を安芸の守護に任命しました。
つづいて、厳島神主の交替ですが、コレ、頼朝の時、と考えてしまいますが違います。藤原親実はあくまで安芸の守護にすぎず、最初から神主の地位まで手に入れたわけではありませんでした。じつは、厳島神主(佐伯氏)は承久の乱で後鳥羽上皇方についたんです。幕府からしたら、上皇方に味方したということは許しがたいことですから、ココでバッサリと佐伯氏を処分しました。承久の乱の後、上皇方についた人々の土地が没収され、幕府の御家人たちに配られたことは周知のごとくです。ことに西国には上皇に味方した人が多かったので、ごっそりと幕府に持って行かれてしまいました。西国に、東国由来の武士たちの子孫が多い理由はそのためです。
かくして、代々厳島神社神主をつとめてきた佐伯氏は、守護としてこの地に入っていた藤原氏と交替させられてしまったのです。とはいえ、守護職藤原氏はただの武士(藤原姓だから、やんごとない都人を想像するけど、御家人ですから、御家人)。神事のことなどわかるはずがありません。ゆえに、少なくとも当初は、神主とは名ばかりで、神社のことはやはり引き続き元々の神社の方々が執り行いました。
ゆえに、佐伯姓の人たちが神社から完全に追い出されたとか、そのようなことはありません。神社の組織などに疎いため、神主さんときくと、その神社で一番エラい方なんだろうと思っていましたが、そうではなく、神職さん、くらいの意味です。つまり、一番エラい方となりますと、大宮司さん、みたいな呼称(神社によって違うかも)となるので、そのようなトップ、責任者の方も含めて全員が「神主」さんなのです。もちろん、佐伯鞍職、景弘さんたちは、厳島神社のトップでした。幕府はそのトップの座を、幕府派遣の人物に変えた、ということです。
でもって、交替させられた理由が承久の乱で上皇方についたから、ってことですので、もうこれは、源氏姓とは無関係。藤原氏が頼朝と親しい関係にあったことは確かのようで、ゆえに守護として派遣されたのですが、神主にまでなったその時点では、幕府の実権は尼将軍政子と北条氏の時代。ココ、しばらく間違えて書いていました。すみません。地元の神領衆を研究しているガイドさんから学びましたので、訂正します(20230412 訂正)。
新旧神主の明暗
元神主・佐伯景弘は平家が壇ノ浦で滅んだとき、安徳天皇の御座船近くにいたと言われています(参照:『宮島本』)。『平家物語』などに詳しいですが、三種の神器のうち、剣だけは二位尼とともに海底に沈んでしまい、見付けられませんでした。壇ノ浦合戦に勝利した源氏の人々は、剣なしで凱旋ってなったわけです。すべての神器を回収しなくてはたいへんですから、頼朝は剣の探索を景弘に命じたといいます。御座船近くにいたのだから、どこら辺で沈んだとか何となく知ってそうに思ったのでしょうか? しかし、景弘はついに見つけ出すことが出来なかったそうです。
いっぽう、新神主・藤原親実は火災に遭った神社を再建するなどして着実に実務をこなしていきました(まあ、神事わからない人なので、命令出したくらいでしょう)。厳島神社は安芸国一之宮としての地位を確立し、「神領」として大量の荘園を寄進されるなど、経済的にもたいそう潤いました。神主といえども、御家人だからなのか、本州桜尾に城を築いて本拠地を固めるなど、やっていることは完全に武士でした。単なる神官というよりは、地元有力武家のような存在としてとらえたほうがよさそうです。
厳島の賑わい
この頃、どんな人が厳島神社を訪れ、その信仰心を現したのでしょうか。『宮島本』を拝見したら、つぎのような人たちのお話が載っていました。
祈禱:藤原泰衡追討祈祷、異国降伏の祈祷(1293、元寇の時)
参詣者:一遍、二条尼など。
写経の奉納:華厳経など(全国各地より)
造営料の寄進:足利尊氏、大内義弘など。
釣灯篭奉納:博多の商人
絵馬 「三十六歌仙之図」奉:納堺の商人
弘法大師さまゆかりの宮島だけに、密教で祈禱たくさんやってるね、ってトコで、弘法大師さまのお話が全然書いてなくて、いきなり平清盛にワープしてることに気付いた……。
ま、まあ、いいじゃないか。俺も平清盛の像は知ってるけど、弘法大師は見かけてない。
(なんていい加減な連中だ……ところで、弘法大師は『佐伯姓』とあるのだが、佐伯姓神主たちと何か関係があるのだろうか? こいつらのリサーチなど待っていたらいつになるかわからんな)
それまで、宮島には「内侍」さんと呼ばれる巫女さんしか住んでいなかったんだって。男の人たちは、対岸の地御前なんかにいたらしい。でもこうやって、参詣、奉納&寄進、といった行為を行うことでたくさんの人が島外からやってくるようになりました。
人が集まるところには町が出来る。島外から来た者たちは、島の中に住み着き、民家や寺院が出来ていった。町ができれば商業も発達する。そして、島に向かうための交通も整備されていくね。
大内氏時代の厳島
鎌倉幕府が滅亡すると、室町幕府がこれにとって変わります(まあ、間に建武の新政とかあれこれだけど)。神主家は、頼朝によって定められた藤原姓神主家がなおも務めていました。
先述したように、もはや、神主家といっても、一大勢力なので、日々の神事と同時に、どうやってお家を発展させていくか、神主家としての地位を守っていくか……ということに頭を悩ませるところは普通の武家と変らなかったでしょう(多分)。
そんなところで、たいへんな激震が神主家を襲います。
この頃、中国地方最大の勢力は、大内氏でした。そこで、将軍家に忠誠を誓いつつも、半ば配下として大内氏の指示にも従う、というのが、この辺りの人々の処世術。厳島神主家もその例に漏れませんでした。
ところが、そうやって、うまくやって来れていたところに、突然に神主・興親が病死してしまいます。この時、足利義材の将軍復職のため、大内氏の当主・義興は上洛しており、興親もそれに同道していました。恐らくは、想定外の病死だったのでしょう。彼には、跡継となる実子がいない上、さらに、養子を立てて、つぎの神主は誰にする、という決まり事をまだ書き置いていませんでした。
興藤の身内として、神社の様々な仕事に携わってきていた者たちは、我こそが後継者に相応しい、と名乗りをあげますが、なんと大内義興は彼らを認めず、管理者が亡くなった、ということで、自らの配下を神主家管理下の城に入れてしまいます。何やら直轄支配を始めてしまった雰囲気ですね。
ここから、大内氏と、神主職を求める人々との闘争が始まります。
この騒ぎは、つぎの大内義隆の代になるまで続きました。
厳島神主家を巡る争い
藤原興親の死で、大内氏と神領衆との戦闘が始まった。この争いは、大内義隆の代に、大内氏の勝利に終わった。
さて、大内氏による宮島の「支配」は厳島神主家との争いに終止符が打たれた時点で完全なものとなりました。大勢力に支配されちゃうより自立していたいなとか、いいように使われちゃったんでは? とか、何にせよ、誰かに「直接支配」されちゃうのは、何となく気分がよろしくない気もするけれど、長い闘争状態(30年続いた)の終結が、厳島に安定と繁栄をもたらしたことは確かです。
「直接支配」になったのは大内氏最後の当主・義隆の時代でしたが、このお殿様は文事諸々に超一流な雅なお人だったゆえ、厳島神社に対しての信仰心も半端なく、多くの寄進を行い、様々な優遇措置をとってくれるといった有り難い特権も享受できました。そのことを念頭に置いた上で、この時代の出来事を良いことも悪いことも含めごく簡単にまとめると以下の通り。
一、天文十年(1541)四月、友田興藤が敗死し、宮島は大内氏の直接支配下に入った。
二、天文十年(1541)五月、紅葉谷川で大規模な土石流が起り、厳島神社の社殿は壊滅的な打撃を受けた。
三、厳島神社社殿の復旧工事、古式に則った祭礼の復興(義隆はまさにこういうことが好きなお殿様だった)、多宝塔の建立(1523年)、大願寺の僧侶・尊海による一切経を求めての朝鮮通交(1539年)など、力をつけた寺社たちの活躍も目立った。
四、弘治元年 (1555)、政変により大内義隆を死に追いやって大内氏の実権を手にしていた陶晴賢と、次第に力をつけてきていた安芸国人領主・毛利元就との間に、宮島を舞台に「厳島合戦」が勃発した。
一、二、四は年表上の知識だけれど、三に関連して、この時代の神社や寺院の動きについて見ておきましょう。
メモ
厳島神社の社家は有名武将の御師となった。座主・大聖院、寺社の造営にあたる大願寺らは大内氏の庇護下で力をつけ、島の支配勢力となっていった。
色々と聞いたことあるようなないような言葉が出てくるので『日本史広辞典』をもとにまとめておきます。
メモ
社家:しゃけ、特定の神社に世襲的に奉仕する神職。
神主:かんぬし、神道で神に奉仕する人。もとは神祇奉仕の中核をなす人のことだったが、のちには神職一般を指すようになった。
御師:おし、神に対して信者の祈願の仲立ちをする職能者。伊勢神宮はじめ各地の大社に存在。具体的には、参詣時の宿泊手配、祈禱、奉幣、神楽奉納、守り札発行などを行った。
座主:ざす、大寺院の寺務を統括する僧職。
奉行:ぶぎょう、「承り行う」の意味で、上位者の命を受けて公事や行事の実務にあたること。またその担当者。
座主については、「大寺院」のというところがポイントでして、よく「天台座主」なんてききますが、小さなお寺のお坊さんには使わないのでしょう。大聖院の格式が非常に高いものであったことがわかりますね。元々は、博識で人柄も優れた人が選ばれたものでしたが、京などでは大貴族の子弟たちが大寺院に入ったりしたので、そのような権門の人たちから選ばれるようになって世俗化していってしまいました。
いっぽうの大願寺ですが、「普請奉行として島内外寺社の修理造営の役割を担っていた」(宮島本)とあります。お寺が御奉行様とかびっくりですが、語源的にみれば、単に担当していたということなので、あり得ることですね。任命したのが誰なのか、ちょっと調べられなかったので気になりますが。
重要なのは「御師」でして、もともと一般人が勝手に神社で行事を行うようなことはできませんから、信仰し何かを寄進したり、奉納したり、祈禱してもらったり、というときには必ず神職の方にお願いをしなくてはいけません。誰か特定の人の御師になる、ということは、イマドキ風にいうと信者からみたらお寺の檀家になるみたいなことの反対で、その誰かが厳島神社を信仰しているので、神職さん私のためによろしくお願いします、ということですね。
むろん、一般人でもその神社に入れ上げていたら御師さんを頼まねばなりませんが、大内氏、陶氏、毛利氏のような大物たちのために御師となっていた点がすごいことなんです。当然ながら、それらの権力者のために祭祀を執り行えば、彼らの側からも神社に対して相応の便宜をはかってくれるわけです(信仰しているのですから、この言い方は適当ではないかもですが)。
というようなことで、ちょっと説明が冗長になってしまいましたが、
宮島で超重要な寺社
厳島神社、大聖院、大願寺
ってことです。
これらの寺社の発展により、参詣する人々が増え、島は賑わい、町が形成されていきました。町ができ、商家が軒を連ね、その範囲も次第に大きくなっていたようです。商人たちの活動により、
自治的に町を運営する自由都市の雰囲気を持つ島になっていった
『宮島本』
といいます。
毛利氏と厳島
大内家が滅亡すると、宮島は毛利家の管理下に置かれました。
棚守房顕
大内氏~毛利氏の支配時代、もっとも有名かつ重要な人物
この人は、厳島神社の神職で『棚守房顕覚書』という記録を残したことで有名ですね。じつにさまざまな有名人の御師を勤めていて、陶興房から始まり、大内義隆や毛利元就まで皆、房顕さんと関係を持っています。
単に御師をやって、記録を残しただけの人ではなく、厳島神主家の争いから厳島の合戦といった激動の時代の中で、厳島神社の復興に努めた人としてその功績が高く評価されているのです。
大内氏は防長が基盤の勢力ですから、厳島神社をどれほど気に入ってくれていたとしてもどことなく他所者ですが、毛利氏は文字通り安芸の人です。自国の一之宮である厳島神社への思い入れは比較にならないでしょう。のちに、徳川の世になって自らが滅ぼした大内氏の防長に強制的に囲い込まれたのは皮肉なことですが……。
毛利氏はじつに大量の土地を寄進。多くの造営料地も得て、厳島神社は経済的にも潤い、さらに発展しました。
豊臣秀吉の天下になると大規模なイベントが多く執り行われました。つまりは連歌会や能楽なんかです。秀吉が亡くなったことで、永遠に終わらない大工事となった千畳閣もこの時代のものですし。
予告
毛利氏は大内氏を継承し、厳島神社を篤く信仰し、その維持補修に尽力した。しかし、関ヶ原の戦いで、毛利家が防長二国に押し込められると、以後は一人挟んだのち、浅野家のお殿様の支配下に入って明治維新を迎える。浅野家にも大切にされたのは言うまでもない。
※まだまだ続きます。
五郎がいなくなった後の宮島については、このサイトでは今のところ扱いません。毛利時代については順次加筆。また、最終的には江戸時代以降も書くかもしれません(試験勉強のためには外せないし、近世、現代にも素晴らしい人々、大切なイベントはたくさんあるからね)。
参照文献:『宮島本』、『平家物語』ほか