みやじま・えりゅしおん

厳島神社(広島県廿日市市宮島町)

2022-05-11

厳島神社・社殿

広島県廿日市市宮島町の厳島神社とは?

海に浮かぶ社殿や朱の大鳥居が有名な世界文化遺産の神社です。『平家物語』で有名な平清盛と平家一門ゆかりの神社として知られていますが、その創建はずっと古く、飛鳥時代、推古天皇の御代まで遡るといわれています。現在の社殿は、その後も修繕を繰り返したとはいえ、基本は平清盛が再建した当時の姿を継承しているため、平安時代の王朝文化の面影を偲ぶことができる稀有な建造物です。

御祭神は宗像三女神で、とりわけ市杵島姫命を祀る神社として著名です。神仏習合の時代、市杵島姫命が弁財天の垂迹と見なされていた関係で、弁天様信仰が盛んであった時には「日本三大弁財天」の一つとして、たいへんな賑わいでした。人々の信仰を集める神社であることは今も変らず、いつ訪れても大量の観光客であふれています。

その魅力は何と言っても「海に浮かぶ社殿と大鳥居」。ゆえに、大潮の時期の満潮時間帯に訪れることが必須となります。

厳島神社・基本情報

ご鎮座地 〒739-0588 廿日市市宮島町1−1
主祭神 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命
相殿 天照大神ほか
主な祭典 神衣献上式、桃花祭、管弦祭、菊花祭、鎮火祭、
社殿 弊殿、拝殿、祓殿、本殿
主な建物 不明門、左右内侍橋、平舞台、高舞台、左右楽坊、左右門客人社、東西廻廊
境内神社 客神社、大国神社、天神社
社宝 平家納経ほか
(参照:厳島神社 HP、『宮島本』、由緒看板ほか)

今回ご紹介する厳島神社のご鎮座地を、宮島桟橋からの位置関係で確認しておくと、以下の通りです。

厳島神社位置図

(五重塔の入口にある案内看板をお借りしています)

厳島神社・歴史

神烏に導かれて建てられた神社

厳島神社を創建したのは、長らく厳島神社の神事を執り行っておられた佐伯氏の方、佐伯鞍職です。よく、平清盛が造った神社である、と言われておりますが、違います。あくまでも、現在の立派な社殿を造ったのが平清盛という意味です。要は再建したってことです。ココ大切なので間違えないでくださいませ。

とはいえ、創建は推古天皇の時代まで遡りますので、その縁起はほとんど神話のような内容です。重複を厭わずおおよそのことを書き記します。

往古、ある日ある時、佐伯鞍職が釣りを楽しんでいたところ、一艘の船が近付いてきました。その船にはこの世のものとは思われぬほどの美女が。それもそのはず、その美女は、厳島神社の御祭神・市杵島姫命さまでした。宮島に住まいしている神だが、相応しい住まいがないので、造って欲しい。女神からそう頼まれた佐伯鞍職は困ってしまいます。

女神からの要求は断れないけれども、神社の造営には朝廷の許可が必要。加えて、どの場所に、どのような社殿を建てるべきかもわかりません。けれども、鞍職が時の推古天皇にこの件を奏上したところ、天皇の御前に榊の枝を咥えた神烏が現われます。この瑞兆に心動かされた天皇さまは神社の造営を許可。鞍職は神社の建立に取りかかりますが、さて、このような美しい女神さまのお住まいとして、いずこが相応しいものか。宮島の浦々に船を進めて好適地を探していたところ、またしても神烏が現われます。

鞍職が烏に従っていくと、現在社殿が建っている場所まで先導し、そこで姿を消しました。つまりは、女神様のお望みはこの地であったのか、と悟った鞍職は、早速彼の地に社殿を建立しました。それが、現在の厳島神社の起源です。この創建年代は推古天皇元年(593)のことでした。

平家の栄華を反映した海に浮かぶ天上世界

こうして宮島には、佐伯鞍職が創建した、市杵島姫命を祀る神社ができました。時は流れ、平安時代の末期頃、安芸国を知行していた平清盛は、厳島神社の再建を志します。鞍職の子孫にあたる、佐伯景弘からの願いもあったと思われます。二人は共同で神社の再建に取り組みました。

『平家物語』には清盛が弘法大師のお告げによって、厳島神社を再興したと解説する章段があります(巻三『大塔建立』)。荒廃した厳島神社を再建した清盛のもとには、厳島大明神の使いが現れます。使いの神童は「悪行」があれば、栄耀栄華は子孫の代までは保証しないと清盛に伝え、長刀を渡して立ち去ります。驕る平家は久しからずとなったのち、くだんの長刀はなぜか清盛の元から消え失せてしまうのでした。

『平家物語』はあくまで創作です。弘法大師のお告げや神の使いなどあるはずがありません。安芸守だった清盛と、厳島神社の神主だった佐伯景弘とが、互いの利益のために手を結び、ともに神社を繁栄させた、そんなところでしょう。しかし、清盛が自らの手で再建した厳島神社を心から愛していた(信仰していた)ことは事実だと思われます。

平家一門にはいわゆる「氏社」がありませんでした。桓武天皇の末裔である以上、皇室の祖先神をお祀りした伊勢神宮ではないのか? と思ったりしますが、そうもいかなかったようです。それゆえに、どこか一門の繁栄を託せる信仰の対象を求めていたともいえます。正式に、厳島神社を平家の「氏社」とすることは無理でも、精神的な支えとして篤く信仰することは自由ですからね。

いっぽうで、厳島神主家の佐伯景弘という方は、一族と神社の繁栄を「時の人」平清盛に託したのでしょう。清盛が安芸守であったこと、その後の栄耀栄華を思えば、清盛と結べば一族も神社も、その繁栄が約束されるだろうと考えた景弘さんも鋭い感覚をお持ちだったのだな、と感心します。むろん、清盛に振り向いてもらうために、あれこれの根回しをしたであろうことは想像に難くありません。とはいえ、それこそ、清盛に取り入ろうとした人物は数え切れなかったと思われますので、それらすべての人々が望み通りにしてもらえたはずはありません。景弘の根回しが格別であって清盛の目に留まったこともあるでしょうが、ちょうどどこかに心の支えとしての神社を求めていた清盛にとって好都合だったというのが正解であるようです。

のちに、平家一門が辿った運命を思えば、景弘さんの努力も水の泡……って感じですが、厳島神社はそんな政治的背景とは関係なしに繁栄を続けます。それは、二人の共同製作である厳島神社が、この世のものとも思えない最高傑作となったこと、平家一門の繁栄に伴い、多くの人々が参詣するようになったことが大きいです。もはや、神社そのものが、人々の信仰の対象として定着していたのです。

厳島神社の社殿建立は、当時の王朝貴族の館・寝殿造りを海上に再現するという、夢のような一大プロジェクトでした。それを成し得たのは平家の権勢ゆえにでしょうが、自らの神社を輝かせたいという、神主・景弘の願いも結実します。そして、海の上に浮かぶ天上世界ともいうべき麗しいお姿は、現代に住む我々の心をも魅了してやみません。

けれども、海上に浮かんでいるがために、台風や暴風雨などの影響を受けやすいという欠点もあります。むろん、そう簡単に壊れたりはしませんが。そんな危うさも、儚げな美女を思わせ、ますます見る人を虜にさせます。

毛利元就再建の本殿

当たり前ですが、平清盛の時代に再建されたといっても、その後ずっと修繕や増改築が行なわれないままのはずはありません。そうならば、それこそ、またしても荒廃して見る影もなくなってしまっていたはずです。つい最近まで、厳島神社のシンボルともいえる大鳥居が長期に渡り修理中であったことは記憶に新しい出来事です。大鳥居もそうですが、社殿も含め、多くの「時の人」たちの修繕事業が行なわれてきました。

現在の本殿については、毛利元就が再建したものである、とされております(参照:『広島県の歴史散歩』)。広島県内は勿論、全国的にも著名でファンも多い、毛利元就公およびその三人の優秀な息子さんたち。その中で長男であった毛利隆元さんは、不幸にして若くして亡くなられました。和智誠春という人が一服盛ったことがその死因であるという「噂」があり、真偽の程はわかりませんが、和智さんは元就さんによって「粛清」されしまいました。

もしも、愛する息子が命を奪われたのだとしたら、父としてその相手を恨むのは当然の流れです。ただし、これはただの食中毒であり、和智さんは無実であったというご意見もあります。また、隆元さんが亡くなられた件とは無関係に、あれこれの理由で邪魔になった人物として消されてしまったというご意見も。元就さんのお人柄からいって、無用な殺生はなさらないと思われること、和智さんという方について詳しく知りませんので、勝手な判断はできないこと、などからご案内だけに留めます。要するに、人が亡くなったという「穢れ」により、本殿を再建する必要があった、という説があるということです。

厳島神社は基本、平清盛と佐伯景弘が再建した当時の姿を留めているということになっています。それゆえに、元就公による再建が行なわれたとしても、それは「再建」であって、元々のお姿に近いかたちで修繕したものと思われます。元就による再建は元亀二年(1571)のことです。

厳島神社・概観

中心となるのは当然、ご本殿となります。ただし、大鳥居などそれ単体で世界的に著名な観光資源となっておりますし、五重塔や多宝塔のような宮島で人気のスポットは、ほとんどが厳島神社の管轄となっております。その意味では、島中がすべて厳島神社なのではないか、とすら思えます。この考え方はあながち間違ってはおらず、宮島という島そのものを聖なる存在として捉えたことが、厳島神社の起源とするご研究もあるほどです。となると、宮島=厳島神社、厳島神社=宮島となって、卵が先か鶏が先か、となってしまいますので、難解な起源についてはスルーしましょう。

まずは、厳島神社が世界文化遺産に登録されたことをご存じない方はおられぬでしょう。国内だけではなく、全世界から認められた貴重な文化財として認定されているのです。ほかにも「国宝」「国指定重要文化財」が綺羅星です(建築物以外の重要文化財については、あまりに数が多すぎて書き写すのも大変ですので、平家納経だけで現状省略してます)。要は、ほとんどすべての関連施設が国宝もしくは国指定重要文化財になっております。

大鳥居が国宝になっていないのは、壊れやすく往古からそのままの姿であり続けることが難しいためでしょう。そもそも、国指定重要文化財である時点で極めて貴重な文化財であることを示しています。「国宝」は全国でも数えるほどしかないのですから、そこは仕方ないですね。

厳島神社の国宝(建築物)

本社:不明門、弊殿、拝殿、本殿、左右内侍橋、祓殿、平舞台、高舞台、左右楽坊、左右門客人社、東西廻廊
摂社:客神社(本殿、弊殿、拝殿、玉垣)

厳島神社の国宝(建築物以外)

平家納経ほか

厳島神社の国指定重要文化財

大鳥居、朝座屋、大国神社、天神社、能舞台、宝蔵、多宝塔、豊国神社本殿(=千畳閣)、五重塔、荒胡子神社、大元神社

国宝はすべて、厳島神社本社内です。本社内の建物にも、国宝ではなく、国指定重要文化財扱いのものもございます。本社外の関連施設には残念ながら国宝はないですが、ほぼすべてが国指定重要文化財ですので、厳島神社周辺の関連施設も見落としのないようにしなくてはなりません。

七浦巡りの神社が、文化財指定を受けていないことが寂しいですが、海上に浮かんだ小さなお社ですし、そもそも創建年代も証明不可能ですから、致し方ないですね(まさか、本当にすべてが神烏の時代から存在するとは思えませんし)。

厳島神社境内案内図

厳島神社・境内案内図

各種案内ガイドブック、地図本などを参照して自作しています。作成者の技術上の問題で、建物どうしの位置関係、廻廊の曲がり方などに正確でない部分がありますことをご了承くださいませ。おおよその配置と存在する建物は書き込めていると思います。

厳島神社は、すべてが極上のみどころです! 厳島神社本社だけでなく、摂社、末社、外宮も含め、関連箇所でみどころでないものなど、ひとつもございません。五重塔や多宝塔まで厳島神社のものですから、それらも含めてすべてです。ですので、今回は「みどころ」という見出しは使いません。ここでは、中でも別格「大鳥居」から始めて、参拝順路順にすべての建物をご紹介いたします。

なお、境外の外宮、摂社、末社については、別のところで扱っております。

大鳥居

厳島神社・大鳥居

大鳥居の周辺はいつも人だかり。麗しいお姿をバッチリおさめるのはなかなかに難しいのです。潮が引けば、皆さんは鳥居に群がり、潮が満ちれば近付くことはできません。というようなわけで、写り込みの方々のプライバシーに配慮した写真撮影はなかなか上手くいきません。撮影技術の問題もありますし。

基本情報

明治32 (1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国指定重要文化財
木造両部鳥居、桧皮葺屋根、 丹塗、高さ:約16m

現在のような形となったのは応安年間のことで、それ以前のものについては分からないそうです。逆に言えば、応安以降はずっと、この形が踏襲されてきている、ということになります。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

『宮島本』には「現在のものは明治8(1875)年 の再建で、平安末期以来8代目の鳥居である」。とあるけど、じつはこの八代目、長らく修理中で見ることができなかったんだよね。

五郎イメージ画像
五郎

ようやく修理が終わったから、今は麗しいお姿を拝めるよ。

国宝クラスの文化財の修理は本当にたいへんな大事業となります。瑠璃光寺の五重塔も修理が始まりましたが、いつ終わるのかは「未定」。だいたい二~三年後、というような言い方しかできない。なぜというに、修理を始めてみてからわかるあれこれの事態が起こり得るためです。厳島神社の大鳥居についても恐らくは同じだったと思います。

宮島に来たら、大鳥居はあるのが普通。しかし、あるはずのものがないというのもまた、珍しいことです。修理中だったからこそ見ることができた光景もありました。

修理中の大鳥居

厳島神社・火焼前(大鳥居修理中)

本来ならば、ここをまっすぐ行くと目の前には大鳥居が!

となるんだけど、ご覧の通り。でもさ、修理中の姿なんて、なかなか目にできないでしょ?

しかし、この場所(後述)が、かくも閑散としているのは、鳥居を見ることができなかったゆえにであって、現在は写真を撮るための方々が行列しております。やっと順番が回ってきたとしても、潮が引いていれば、鳥居の周囲は人だらけですので、プライバシーに配慮した撮影は難しいです。満潮時、社殿が水に浮かんでいれば、鳥居の周りには誰もいませんが、そのような時間帯は、さらに大勢の方々で撮影箇所が行列しております……。

扁額

2021年訪問時、ミルたちはとっても貴重な、今このときにしかお目にかかれないものを見ることができました。それは、大鳥居の「扁額」。もちろん、大鳥居を見上げれば扁額は掲げられているので、いつだって見れるものなのだけど、それが陸地におろされて、どデカい姿のまま拝めるとなると、それこそ、めったにない機会です。

厳島神社・大鳥居扁額

こんな感じで、神社の中に詳細な説明看板とともにお披露目されていたのです! 看板説明文大好きミルが、これを放置するはずがありません。

「大鳥居扁額

当社の大鳥居は、明治八年(一八七五)の再建で平安時代末期に平清盛公が造営した鳥居を初代とすると八代目にあたると考えられています。 社殿側と沖側に有栖川宮熾仁親王の御染筆による 二面の扁額を掲げています。額は、木製の漆箔銅板装で縦二、六メートル、横二、四五メートルです。 二面を掲げる形式となった経緯は明らかではなく、記録や実物が残るのは、四代目とされる天文一六年(一五四七)の 大鳥居扁額からで、それ以前については詳らかではありません」。(看板説明文)

ここで思い出されるのは、『大内氏実録』「世家義隆」天文十六年の次の記事。

 冬十一月二十七日、これに先立ち安芸国厳島の鳥居を再建して勅額を望んでいたところ、宸筆を賜ったので、「鳥居額二、被染震翰候、 可為千歳之奇宝候、神慮定可有感応候、一社之満足、 只此事候哉、 弥以可被奉祈宝祚延長」との書状を添えて大願寺に送った。

これは四代目だったというのだから、どれだけ再建されてきたのか。まあ、五百年くらい経っているけども。

沖側扁額「厳嶋神社」

厳島神社・大鳥居扁額(沖側)

「沖側に掲げられているもので、厳嶋神社(行書体)の四文字が青銅製鋳物で打ち付けられています。 額面は鏡板を黒漆塗、縁取りを弁柄朱漆塗とし、御神紋である三亀甲剣花菱紋と連殊文を銅板などで表しています。額縁は黒漆で塗られており、上辺中央に宝珠、左右に屈輪模様の渦巻文と唐草文を配しています。左右辺の彫刻は雲龍で向かって右が登り龍左が降り龍です。 四方の蕨手状の飾りには銅板を被せています」(看板説明文)

社殿側扁額 「伊都岐島神社」

厳島神社・大鳥居扁額(社殿側)

「社殿側に掲げられているもので、 伊都岐島神社(草書体・万葉仮名)の六文字が青剣製鋳物で打ち付けられています。「伊都岐島」」とは「心身を清めて神に仕え奉る島」であることを意味し、島の古い名称を踏襲しています。額縁の彫刻は屈輪模様の渦巻文と唐草文となっています。裏面には有栖川宮熾仁親王の御染筆であることが分かる「明治七年申戌四月二品仁親王謹書」との刻銘があります。 申戌は干支の一つで「きのえいぬ」とも読み、二品とは四品まである親王の位階の第二等のことです」(看板説明文)

太陽と月

鳥居の屋根の両側に、太陽と月とが描かれており、それは陰陽道の影響なのだろうか云々という記述が『宮島本』に。陰陽道はわからないので、どうでもいいとして、太陽と月が描かれているなんて、なんとロマンチック。何とかして確認したいとうずうず。しかし、鳥居は巨大な建造物であるため、見上げても扁額の文字や、太陽と月のマークなどは、意外と見にくいものです。肉眼だと、辛うじて見える程度。そう思うと、ますますもって、上の扁額を見れたことは貴重だったとわかります。

厳島神社大鳥居・屋根に描かれた月(西側)

月(西側)

厳島神社大鳥居・屋根に描かれた太陽(東側)

太陽(東側)

こんな具合で、月と太陽が描き分けられております。あえて望遠機能を使っておりません。当然のことながら、こだわりのある方は潮が引いた時に、鳥居の傍まで近づいて行き、ピンポイントでズームするのがよろしいと思います。太陽と月だけを撮影するのであれば、鳥居の下に群れている観光客の方々が映り込むこともないかと。

なぜか、いつ行っても厳島神社が海に浮かんでいない、とこぼしているのに、こういう写真を撮りに行く時に限って、鳥居は海に浮かぶ麗しい姿となっておりました。

大鳥居はなんでこんなに壊れやすいのか? 

まあ、大鳥居に限らずだけど。火災や虫食いにやられるのは木造建築物の宿命。海に浮かんでいる鳥居が火災に遭うのかどうかよくわからないですが。ただ、台風や暴風雨の被害に遭いそうな気はしますね。

浜辺に立っているだけに、常に塩の干満を受けて腐食や、虫害に曝され、台風や落雷などにより倒れ、その都度再建・修理されている。

出典:『宮島本』

なるほど。この虫の害というのも相当なもので、シロアリとか普通に怖いけど、海中にもその類の虫がおり、その害を受けるということですね。

これだけ壊れやすいと、修繕もたいへん。最近もっとも深刻なのは、木材の問題なのだそうです。

戦後の大規模な修理は、昭和25年(1950)から始まった柱の腐食による根継ぎ取替え工事で、主柱の材料となる楠の巨樹を探すのに苦労した記録が残っている。
出典:『宮島本』

ミルイメージ画像
ミル

『宮島本』にはこれまでの修理の記録がすべて載っています。そこには倒れた理由と、木材の調達場所がまとめられているよ。木材の調達が古来よりどれだけ大変だったかがわかります。聖なる鳥居だからそこらの木ってわけにもいかないものね。イマドキは木材も減ってきているから、海外から輸入しないといけないかも? なんてことになりかねないけど、そういうことは絶対に許されません。

五郎イメージ画像(怒)
五郎

倒壊した理由は半分くらい「不明」じゃないか。わかっているのは大風二回、落雷一回、自然倒壊一回。記録しておく、って大切だね。ところで、これって試験に出るの?

ミルイメージ画像(怒)
ミル

試験に出なかったら覚えないの? 何回壊れたとか、何年に修理したとかそういう細かい事ではなく、たいせつなのは「倒壊しやすい ⇒ (だから)何度も壊れた ⇒ (そのたびに)修理するのがたいへん ⇒ (理由の一つは)木材の調達も困難」というような「流れ」を理解することだよ。

表参道

石鳥居

御笠浜・石鳥居

厳島神社へ向かう参道にある石の鳥居。いかにも由緒あるものかと思いきや、建築年代はわりかし新しく、明治十年に企画され、明治三十八年に完成したといいます。

海の大鳥居に負けない、石の大鳥居を造ろう! という願いが込められたもので、高さ約9.7m(『宮島本』)。そして、この石鳥居のもとになった御影石は我らが周防国田尻(周防大島町椋野)からやってきたのです。そんな風に思って眺めると、大鳥居に負けず劣らず愛着が湧きますね。

なお、こちらの扁額は最後の太政大臣・三条実美さんの手になるもの(参照:『歩く地図本・宮島』)。

神社様HPのご説明によりますと、「御笠浜の石鳥居」とお呼びするそうです。

ミルイメージ画像
ミル

石鳥居の辺りを歩いていた時、ガイドさんに引率されたグループとすれ違ったの。そしたら、「大鳥居には現在、避雷針がついているので、落雷による倒壊はない」というご説明が耳に入ってしまいました。

注連石

厳島神社・注連石

注連石というのは、これより神聖な神社です~というマークみたいなものっぽいです。鳥居がなく、これだけで神社の領域との境を示している神社もあるのだとか。そういえば、厳島神社の大鳥居は海中にあるわけでして、陸路来ようとするとコチラから(というか、参拝料払うためにどのみち入り口はココですよね)ですので、文字通り鳥居のかわりですね。

東回廊(入口)

厳島神社・入口

基本情報

明治 32(1899)年4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国宝
折曲り延長45間、一重、切妻造り、桧皮葺。

厳島神社に着きましたー-!!

とみなさんがカシャカシャやっているのがココです。要するに入口。参拝料をお支払いするのもこちらです。下の写真が参拝料をお納めする案内所(向かって左手の建物)です。

厳島神社・受付

単に、入口だという理解しかないのですが、実際には「回廊」なだけに、曲がりくねりながら長々と続いているわけです。本殿を挟んで東回廊と西回廊に分かれ、東から入って、西から出る、俗っぽくまとめるとそのような配置です。

厳島神社・廻廊床

この床板の写真は何なのか、って? これは東廻廊の床板ですが、板と板との間にちょこっと隙間が空いている、そういうことを説明したいのです。

これは高潮時の浮力をやわらげたり、降り込んだ雨水を抜くためといわれている。 廻廊が倒壊する災害は台風の襲来による高潮で、 その際には廻廊などが浮き上がるのを防ぐために、 床上に御笠浜などの石灯篭が一時解体され重石として並べられた。
(同上)

灯篭を分解して一時的な重しにする、っていうのがすごいですね。ちなみに、この床板の隙間、細いヒールの女性は挟まるかもね……。

ちなみにですが、この板はホンモノではございません。皆さんが土足で上がるような現在の形になった時、床板が傷むことを防ぐために養生が敷かれました。なので、この防護用の板の下に、本来の神社の床板がある、というわけですね。(参照:『歩く地図本・宮島』)

なお、ここにも「厳島八景」がございまして、この廻廊の灯篭に火が灯された景観のことで、「厳島明燈」と言われております。写真なくてすみません。

回廊の化粧屋根裏

厳島神社・廻廊天井

何だろうね? 偶然にも『宮島本』と同じ写真を撮っていました。こんどガイドさんにお伺いしてみましょう。

客神社(摂社)

東廻廊から入ってすぐのところにある神社(というか神殿?)です。何しろ、廻廊の中にあったりしてしまうので、一瞬これが本殿なんだと誤解してしまうわけです(写真を整理するまで気づかなかった……)。

こんなに立派で、造りなども本殿にそっくりですが、まぎれもない摂社でして、配下の神社となります。

厳島神社・客神社

基本情報

明治 32 (1899)4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952) 年3月29日、 国宝
本殿 桁行5間、梁間4間、 一重、 両流造り、桧皮葺
幣殿 桁行1間、梁間 1間、 一重、 両下造り、桧皮葺
拝殿 桁行8間、梁間3間、一重、切妻造り、両端庇屋根附き、桧皮葺祓殿 桁行4間、梁間3間、一重、 入母屋造り、妻入り、背面拝殿屋根に接続、桧皮葺
本殿ご祭神:天忍穂耳命・活津彦根命・天穂日命・天津彦根命・熊野橡樟日命の五男神

祓殿は修理中でして、これもまた、え!? せっかく来たのに、修理? とは思わず、珍しい現場に遭遇できたと思いましょう。ここ数年、ずっと修理が続いておりますが、これだけの規模の神社ですから、改築工事に時間がかかるのも当然ですね。完璧な姿で全体像が見られないのは残念ですが、工事完了の日を楽しみに待ちましょう。

厳島神社・客神社祓殿

朝座屋

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、特別保護建造物
昭和27(1952)年3月29日、国指定重要文化財
桁行8間、梁間4間、 1重、 東側面切妻造り、西側面入母屋造り、桧皮葺

これは、イマイチよくわかっていなくて、申し訳ありません。客神社を経て東廻廊突き当りの建物、ということなので、必ず行き過ぎたはずですし、これらしいと思われる写真はいくつかあるものの何となく地味で、どれなのか不明です。

もとは神社の社務所として使われていた建物だそうです。ただし、その歴史はとても古く、やはり由緒正しいものです。

仁安3 (1168)年の造営記録に「朝座屋」 の名があり、 本社・ 客神社などとともに当初から建てられており、江戸時代には社家・供僧・内侍らが会合する建物として使われていた。
(同上)

鏡の池

厳島神社・鏡の池

写真に写る水たまりは「鏡の池」と言われてるものです。潮が引いたときに現れるこのような水たまりは三か所あって、特に、客神社横のものは、「鏡の池」と呼ばれています。これまた例の「厳島八景」の一つで「鏡池秋月」。秋の名月を見に訪れる必要がありそうです。

さて、地図から確認するに、この鏡の池の後ろに写っているのがどうやら朝座屋です。

ミルイメージ画像
ミル

こんなにロマンティックな名前がついているのに、本来は、干潮の時に火事になったりしたときの消火用水用途だったんだって。

五郎イメージ画像
五郎

俺も消火活動して、吉川元春とやらより有名になるぞ!!

ミルイメージ画像(涙)
ミル

本の読み過ぎで混乱してしまっているみたいだけど、鏡の池と吉川元春さんは関係ないからね。

康頼灯篭と卒塔婆石

厳島神社・卒塔婆石と康頼灯籠

ここで、日本史と古文を一緒に復習していただきます。

日本史は ⇒「鹿ケ谷の陰謀事件」
古文は ⇒「平家物語」巻二・卒塔婆流

なー-んてことを本当はやったほうがいいのですが、『宮島本』にすべて載っているので本を購入するか、もしくは図書館に行きましょう。ここでは『宮島本』に頼らずきちんと復習したよ。

まず「鹿ヶ谷の陰謀事件」については、日本史参考書に必ず出ています。平清盛の権威がますます強くなる中、それを快く思わない人たちもいました。背後には平清盛と後白河上皇(法皇)の対立があるわけですが。で、後白河上皇派の人たちが集まって反平家の密謀をしましたが、平家方にバレてしまいました。関係者は処刑されたり、島流しになったりして、この時の陰謀は脆くも潰え去りました。ココまでが日本史。

そして、『平家物語』ですが。この鹿ヶ谷の陰謀事件について、琵琶法師の語り物なだけに、最初に鹿ヶ谷山荘で密談するところから、首謀者が処刑されたり、島流しに遭ったりする様々な出来事を時には滑稽に、時には物悲しく、時には感動的にかなりの文字数を割いて詳述しています。平康頼だけにクローズアップしてみてみます。

上皇側近の一人だった平康頼は、鹿ヶ谷の陰謀事件「密談」の際、その場に居合わせました。反平家の人たちは、平氏を「瓶子」と揶揄し、最後にその「瓶子」の「首を取」ってみせる、というようなくだらない即興劇を演じます。それを見た上皇は上機嫌。その時、たくさん並べられた「瓶子」を見て「あまりに瓶子(=平家)が多いので、酔ってしまいました」という台詞を言ったのが、この平康頼です。

事件の関係者は処刑されたり、流罪になったり、と書きましたが、平康頼は鬼海ヶ島というところに流刑となりました。命ばかりは助けられたわけですが、この「鬼海ヶ島」は当時、それこそ地の果てみたいな場所だったんですね。康頼は都へ帰りたい一心で、信仰していた熊野権現始めさまざまな神に祈り続け、卒塔婆を造っては海に流しました。その一つ一つに、自らの名前と、現在地などについて刻みました。流した卒塔婆が千本にもなったとき、そのうちの一本がなんと、厳島神社に流れ着いたのです。

康頼の知己である僧侶は、彼の身を案じ、現在の有り様について知りたいと旅に出ますが、その途中、厳島神社に立ち寄ります。そこで、流れ着いた卒塔婆のことをきいて急いで都に戻り、康頼の老母に届けます。やがてその話は、嫡男・重盛を経て清盛の耳にも届きました。さしもの清盛入道もそれなりに感動した模様。

その後、建礼門院ご懐妊&出産に際して恩赦が行なわれ、康頼も罪を許されて都へ戻りました。

というわけで、厳島神社には康頼が流した卒塔婆だという石(卒塔婆石)と、のちに、康頼がお礼に奉納したものだといわれる康頼灯篭という灯篭とが伝えられているのです。

ちなみに、写真は手前が卒塔婆石、その後ろが康頼灯篭という一枚で二つ分のエコノミーな設定となっているため、灯篭が少し見えにくいです。また、卒塔婆石の手前も「鏡の池」の一つです。

手水鉢

厳島神社・手水鉢

この手水鉢は、天文二十年に奉納されたもので、手水鉢としては古いものとなる。厳島神社さまのHPに載っていたものを偶然にも撮影していた。揚水橋の横にあります。

揚水橋

厳島神社・揚水橋

基本情報

「あげみずばし」と読む。
明治32 (1899) 年4月5日、 特別保建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国指定重要文化財
長さ16尺6寸2分、 幅9尺9寸5分

左内侍橋・右内侍橋

厳島神社・西内侍橋

ミルイメージ画像
ミル

ガイド説明写真、わかったかな? 白枠で囲ったところ(現在工事中)が内侍橋です(多分ね)。左右あるわけだし、もちろんココだけじゃないのだけど、手元の写真にはこれしかなかった。

基本情報

明治32 (1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国宝
各桁行1間、梁間1間、 切妻造り、桧皮葺。

地図によると、東廻廊と西回廊をつないでいる橋。本社拝殿をはさんで左と右に分かれているものと思われます。内侍というのは、厳島神社では巫女さんのこと。『宮島本』の記述から思うに、屋根がついていて、一種の建物みたいなものかと。

五郎イメージ画像(涙)
五郎

いよいよ本社に向かうんだけど……俺たちが訪問した時は、常に修理中。まるきり見えない場所もあったんだ。今年は去年にもましてすっかり覆われている感じがしたよ。

本社

基本情報

明治 32(1899)4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
本殿 桁行正面8間、背面9間、梁間4間、一重、両流造り、桧皮葺
幣殿 桁行1間、梁間間、一重、両下造り、桧皮葺、背面両端託間附き
拝殿 桁行10間、梁間3間、一重、 両端すがる破風附き、入母屋造り、桧皮葺
蔵殿 桁行6間、梁間3間、一重、入母屋造り、妻入り、背面拝殿屋根に接続、 桧皮葺

本殿

厳島神社・本社

ご祭神:市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命

祓殿&拝殿

厳島神社・本社祓殿祓殿は読んで字のごとく、お祓いをする所です。 ほかにも、「雨天時の舞楽奉奏」「明治大正期の『年越相場』」にも使われたそうです。 平安末期の阿弥陀堂建築の工法が使われています(参照:『宮島本』)。
祓殿、拝殿、本殿は一続きなので、祓殿の入口から拝殿も見えています。

舞楽奉奏の舞台

地図と『宮島本』の説明文を読むと、次のような構造になっていることがわかります。
祓殿の前に平舞台があり、その上に高舞台が建っています。平舞台の前には、大鳥居に向かって左右それぞれに、左楽坊・右楽坊があります。高舞台から大鳥居までは一直線です。

高舞台、左右楽坊ともに、現在も舞楽で使われています(屋根がないので、高舞台は晴れた日のみ)。

高舞台

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
高欄真々正面17 尺2寸、 側面 21尺

厳島神社・高舞台

黒漆塗の基壇に朱塗の高欄で前後に階段のある舞台。戦国時代にはすでに存在していたことが確認できるということです。下の写真は高舞台の「擬宝珠」。棚守房顕が書いた(刻んだ、彫った?)文字が見えています。この人が書いたものがあるってことは、戦国時代にあったことは確かですね。

厳島神社・高舞台宝珠

平舞台

厳島神社・平舞台

基本情報

明治32(1899)年4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
167坪

ヒノキの板敷で、潮が満ちると海の上に浮かびます。厳島神社創建時から存在していたかどうかは不明ですが、平清盛が「千僧供養」を行ったときに、社殿前に仮廊を造ったという記録があり、そのような仮のものがやがて常設化されたのではないか、と考えられています。

厳島神社社殿の束柱は木造なのに、 平舞台の束柱は石造りの柱。材料となった石は「赤間石」であり、毛利元就の寄進といいます。(参照:『宮島本』)

火焼前

厳島神社・火焼前

平舞台の最先端を火焼前(ひたさき)といい、江戸時代の青銅製の灯篭が三基あります。管絃祭や、「たのもさん」 、玉取祭といったイベントの重要な舞台の一つ。上の写真では、一番先端部分の灯籠が隠れています(映り込んでしまったほかのお客様のお姿を隠すため)。

鳥居修理完了後。なんと、火焼前の前には写真撮影の人が行列しており、とてもじゃないけど並んでいる余裕はなかったので、諦めて帰宅。次回は並ぼうかなと思うけど、あまりに人が多くて写り込み必至なので、写真はどれも公開できないかと。早朝か夜がいいです(神社閉まってるけどね)。

左楽坊&右楽坊

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和 27 (1952) 年3月29日、国宝
各桁行5間、梁間 2間、一重、切妻造り、桧皮葺

厳島神社・右楽坊

写真は右楽坊。この建物は由来がはっきりしており、「千僧供養」の時に造られたものです。ただし、当初は「楽坊」とは呼ばれていなかったそうです。楽坊の呼び名は江戸時代から。

左門客神社&右門客神社

基本情報

ひだりかどまろうどじんじゃ、みぎかどまろうどじんじゃと読む。厳島神社末社。
明治32 (1899)年4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
本殿 各一間社流造り、栃葺

厳島神社・左門客神社

厳島神社・右門客神社

東廻廊側にあるのが「右」。西廻廊側にあるのが「左」。写真は上が左門客神社。下が右門客神社です。両社の外見はそっくりだし、区別するのはやや難しいです。基本は、大鳥居に向かって右か左かで見分けます。もう一つのポイントとして、覆屋についているお社のお名前を記した木札が、左側についているほうが左門客神社で、右側についているのが右門客神社です。混乱した時には、ご参考になさってください。

本殿が覆屋におおわれている珍しい形状は左右まったく同じ。ご祭神は左門客神社が豊磐窓神。右門客神社が石窓神。ちなみに、覆屋というのは中にあるお社や文化財を風雨から守るために建てられる保護的な建物です。中のお社や厨子が傷んでしまい、これ以上の損壊を防ぐために造った例ばかりを目にしてきましたが、最初から造っておくこともあるようです。

西廻廊

さて、これで東西二つに分かれた廻廊の東半分を見終わりました。続いて西半分を見学し、出口へ向かうことになります。まずは西廻廊から。……て、いきなり出口の写真になっちゃってごめんね。

厳島神社・出口

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国宝
折曲り延長 62間、一重、東端切妻造り、西端唐破風造り、桧皮葺

ミルイメージ画像
ミル

現在ここは「出口」として使われているわけですが、なんと、昔はこっちが入口だったのだそうです。どうして出口になってしまったんでしょうね?

『宮島本』にはとても興味深い話が載っていたので、簡単にまとめてみます。創建当初、廻廊の長さは東西合計して113間でした。116間、180間と時代を追うごとに廻廊が伸びていきます。次第に拡大していく、というのは非常にわかりやすく、納得できます。ところが、現在の東西廻廊の長さは107間で、180間あったときと比べて非常に短くなってしまっています。なにゆえに?

天文十年の土石流によって社殿が損壊した話は『棚守覚書』なんかにも書いてありますが、だから? と軽く流していい話ではなかったようで、この時の土石流の被害は甚大で、周辺の地形までも大きく変えてしまうほどだったのだといいます。それゆえに、元の通りに再建することができなかったのです。それで、廻廊の長さも短くなってしまった、というのが先生方の見解のようです。

なお、東西廻廊の柱の間隔は八尺、1間に8枚の床板を敷き、末広がりの「八」にあやかって縁起を担いでいるそうです。

鶴ちゃんイメージ画像(怒)
鶴ちゃん

弘治二年(1556)に元就公によって廻廊の敷板が改められた、と本にはしっかり書いてあるのに、あれらの連中は読み落としたか、無視したのだな。

大国神社(摂社)

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国指定重要文化財
本殿桁行3間、梁間4間、一重、切妻造り、妻入り、桧皮葺
ご祭神:大国主命

厳島神社・大国神社

創建年代不明。戦国期には「大国」と呼ばれていました。

天神社(摂社)

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月25日、 国指定重要文化財(本殿・ 宮殿・渡廊)
本殿桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、 入り 背面庇附き、桧皮葺
ご祭神:菅原道真
創建:弘治2(1556) 年。毛利隆元によって建立。

厳島神社・天神社

この写真だと、ちょっとわかりにくいのですが、さすが天神様、絵馬だらけでした。お願いの内容が学業にかかわるものであることは言うまでもないでしょう。

長橋

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国指定重要文化財
長さ18間 幅1間4尺

厳島神社・長橋

揚水橋と同じ構造。(といっても『揚水橋』がよく分ってないからなぁ)。古い記録にはほかにも、打橋・平橋などとあって、満潮時水に浮かぶ社殿はこれらの橋によって陸と結ばれていたようです。先の土石流に関係しているのか、長さがどんどん短くなったといいます。橋脚は平舞台と同じ赤間石を使った石造り。

反橋

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国指定重要文化財
長さ11間3尺、幅2間2尺、擬宝珠高欄附

厳島神社・反橋

文字で説明するより、見たほうがわかりやすい典型。文字通り反っています。仁治年間の記録が初見。 別名 を「勅使橋」といい、勅使たちだけが使った特別な橋だったのかも知れません。

不明門

厳島神社・不開門

基本情報

あけずのもんと読む。
明治32(1899)年4月5日 特別保護建造物
昭和27 (1952) 年3月29日 国宝
桁行1間、梁間2間、 四脚門、切妻造、本瓦葺、丹塗

本殿裏にあります。神様だけがお通りになる特別な門です、と地元の方が教えてくださいました。名前の通り開けられることはないそうです。ここをお通りになる際、深々と一礼されていた神主さんのお姿が、たいへん印象に残っています。

背後の森は「後園」といい、境内内からだと、本殿の左側に見えます。

能舞台

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国指定重要文化財
桁行7間、梁間1間、一重、切妻造り、妻入り、桧皮葺

厳島神社・能舞台

まったく同じ能舞台だけど、潮が満ちてくると下のような感じに。潮の満ち引きは、季節によっても変るし、これまでの訪問でもっとも潮が満ちてきていた時間帯が以下の写真。

厳島神社・能舞台

現在、国の重要文化財として指定されている能舞台は六つあるのだといいます。しかし、海に浮かんでいるものはほかにはないのではないでしょうか?(未確認です)。

能舞台は海上にあるため珍しい床構造をもつ舞台である。錆びやすい釘などは極力使用していないにもかかわらず、高潮時の波や浮力にも耐えうる構造で、さらに床の響きをよくするため、1枚の板のようになっているのである。これは床が太鼓の皮のような役目を果たすように 造られており、足拍子のたびに大きく共鳴する仕組みとなっている。 潮の満ち引きによって床の響きも変わるという、この能舞台独特の工法である。

(同上)

永禄十一年 (1568)、観世太夫の来演が厳島における能興行の初めとされ、そのときは海中に仮設の舞台をつくったと考えられています。

厳島神社・能舞台(2)毛利元就が造営寄進。現在のものは、延宝八年 (1680)、浅野綱長によって再建されたもの。(参照:厳島神社HP)

桃花祭御神能、献茶祭などのイベントが毎年ここで行われています。

厳島神社・能舞台(2)

スマートフォンのカメラにズームがついたので、どんな絵(?)が画かれているのか見てみました。松の木しかわかりませんでした。

厳島神社・大鳥居(2)

今まででいちばん、潮が満ちていた厳島神社でした(20230310)。

厳島神社(広島県廿日市市宮島町)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒739-0588 廿日市市宮島町1−1

アクセス

本州側宮島口駅からフェリーで宮島に渡海。桟橋から徒歩圏。迷う方もおられないと思いますが、意外と歩きます。人混みについていけば間違いないです。

参考文献:『宮島本』、『歩く地図本 宮島』、厳島神社様HP http://www.itsukushimajinja.jp/index.html

厳島神社(広島県廿日市市宮島町)について:まとめ & 感想

厳島神社(広島県廿日市市宮島町)・まとめ

  1. 推古天皇の御代、佐伯鞍職が創建
  2. その後、佐伯景弘の代に、平清盛が再建
  3. 現在の社殿は、その後も何度も再建されているが、建築様式は清盛が再建した時の姿を継承している。よって、平安末期の寝殿造りに近い
  4. 世界文化遺産に登録されている日本の至宝であり、多くの建築物が国宝ないしは重要文化財指定となっている

世界にこれほど美しい建築物が存在するのでしょうか。日本三景、松島、天橋立、宮島。ということは、ほか二つの景勝地も宮島に勝るとも劣らないと思われるものの。短い人生、残り二つの景勝地に行くことはないと思います。ゆえに、自らの心の中では日本一景。宮島だけ。島そのものを愛しているので、みどころは厳島神社だけではないことは分っています。穴場もそれなり極めております。美しいものを愛でたいという人の心は万国共通ですので、世界遺産認定された宮島、それも厳島神社には常に多くの観光客の方々が群がっております。ゆえに、混みすぎていてちょっと苦手です。

それでもやっぱり厳島神社なのは、海に浮かぶ儚い美女のようなその麗しいお姿に、他の観光客の方々同様、萌え萌えているからです。お祀りされているのが女神さまであることからも、ますますもって、麗しさが際立ちます。そして大鳥居。初めて宮島を訪れた時は工事中。二年目も、三年目も……。何年も待たされて、漸くその姿を拝めた時は、フェリーから落ちそうになりながら歓声をあげていました。

野暮な解説も、ましてや感想文なども不要でしょう。厳島神社を見ずして人生を終えるのは勿体ない。とは言え、人の好みはそれぞれ。あれこれの事情で多忙な方も多いのが現状。天橋立が近い方はそこへ向かうもよし。東国の方は松島へ向かうもよし。一つだけお伝えできるとすれば、厳島神社は海に浮かんでいるお姿を見なければ意味がありません。潮見表を確認し、満潮時間帯に参詣することだけは忘れないようにしてくださいませ。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きなすべての方に
  • 世界遺産を巡る旅が好きな方に

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎イメージ画像
五郎

「○○を見ずして結構と言うなかれ」とか言われているらしいけどさ、その言葉そっくり厳島神社のものだよ。○○ではなくてね。

鶴ちゃんイメージ画像
鶴ちゃん

その通りだ! 厳島神社を越える文化遺産はほかにはないと言える。

次郎次郎
次郎

へへん。お前ら珍しく意見一致してるじゃないの。

五郎イメージ画像(怒)
五郎

俺山口出身だから。明治維新分んないけど。

鶴ちゃんイメージ画像(怒)
鶴ちゃん

元就公ゆかりの神社だ!

ミルイメージ画像
ミル

厳島神社はこの世のものとは思われぬ美しさです。○○は個人的に好きではありません。豪華絢爛すぎるからです(個人的な好みの問題です。世界に誇れる貴重な世界遺産を侮辱する意図はけっしてございません)。奥ゆかしい美しさこそが日本という国の魅力なのです。○○は一度でけっこうですが、厳島神社は数え切れないほど参詣しています。要は信仰しているのです。

五郎イメージ画像(笑顔)
五郎

命ある限り、毎年お参りに来るよ!

隆房イメージ画像
陶入道

……。

ミルイメージ画像(涙)
ミル

(はっ、今一瞬、五郎が陶さまに進化したみたいに見えたけど……まさかね)

※この記事は 20240223 に加筆修正されました。なおもリライト中です。

-みやじま・えりゅしおん
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