みやじま・えりゅしおん

厳島神社

2022-05-11

宮島といったら厳島神社ですが、じつは何度も訪れているのにぼんやりしているのか、この建物なんだっけ? と帰宅後に写真とにらめっこしながら暫し悩むミルでした。そこで、今回は思い切って徹底的に洗い出し、「何がすでに把握できているか」「何はまだ分っていないか」を整理します。見落としなどもはっきりすると思いますので、次回は絶対外さないようにしたいです。
なお、建物の構造などの基本情報は、すべて『宮島本』によりました。いつもありがとうございます。
神社の歴史については、通史編にまとめますので、こちらは観光スポットのご案内のみとなります。
関連記事:宮島簡略歴史

大鳥居

基本情報

明治32 (1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国指定重要文化財
木造両部鳥居、桧皮葺屋根、 丹塗、高さ:約16m

現在のような形となったのは応安年間のことで、それ以前のものについては分からないらしい。逆に言えば、応安以降はずっと、この形が踏襲されてきている、ということになる。

鳥居の修理はいつ終わる?

ミル
ミル

『宮島本』には「現在のものは明治8(1875)年 の再建で、平安末期以来8代目の鳥居である」。とあるけど、じつはこの8代目、現在修理中なんだよね。

五郎
五郎

三度目の正直でついに新しい鳥居を拝めるなんてミルが言うから、楽しみにしていたのに。

どこかのサイトオーナーさまが Twitter で修理が終わったと発言していたので、そうなんだ!(リンク先のサイトには写真も掲載され、ほかの方からの、ようやくなんですね! との書き込みまであった……)と思ってしまったけれど、全然ダメでした。Twitterの呟きやサイトに悪意があったとは思えず、そろそろ終わるみたい、程度の情報に食らいついたものと思われます。恥ずかしい限り。
「公式」アナウンス以外は信じるな、というのはこういうことなんですね。最新情報は、厳島神社様の公式サイト、および、宮島観光協会様のホームページで必ず確認をするようにしましょう。

重要

鳥居、そのた厳島神社の改修工事は 20220520 現在も続いております。
工事が完了して、鳥居を含めすべての施設が拝観可能になっているかどうかについては、事前に必ず「公式サイト」で確認をしてから旅行スケジュールをたてましょう。

宮島に来たら、大鳥居はあるのが普通。しかし、あるはずのものがないというのもまた、珍しいことだよね。修理中だからこそ見ることができたお楽しみもあったし。そんな話をしてみるよ。

本来ならば、ここをまっすぐ行くと目の前には大鳥居が!

となるんだけど、ご覧の通り。でもさ、修理中の姿なんて、なかなか目にできないでしょ?

大鳥居は修理中

それだけでなく、去年(2021)の訪問で、ミルたちはもっと貴重な今このときでしかお目にかかれないものを見ることができた。それは、大鳥居の「扁額」。もちろん、大鳥居を見上げれば扁額は掲げられているので、いつだって見れるものなのだけど、それが陸地におろされて、どデカい姿のまま拝めるとなると、これはまた、めったにない機会である。

大鳥居扁額説明看板

こんな感じで、神社の中に詳細な説明看板とともにお披露目されていたのである! 看板説明文大好きミルが、これを放置するはずはない。

大鳥居扁額

「当社の大鳥居は、明治八年(一八七五)の再建で平安時代末期に平清盛公が造営した鳥居を初代とすると八代目にあたると考えられています。 社殿側と沖側に有栖川宮熾仁親王の御染筆による 二面の扁額を掲げています。額は、木製の漆箔銅板装で縦二、六メートル、横二、四五メートルです。 二面を掲げる形式となった経緯は明らかではなく、記録や実物が残るのは、四代目とされる天文一六年(一五四七)の 大鳥居扁額からで、それ以前については詳らかではありません」。(看板説明文)

ここで思い出されるのは、『大内氏実録』「世家義隆」天文十六年の次の記事。

冬十一月二十七日、これに先立ち安芸国厳島の鳥居を再建して勅額を望んでいたところ、宸筆を賜ったので、「鳥居額二、被染震翰候、 可為千歳之奇宝候、神慮定可有感応候、一社之満足、 只此事候哉、 弥以可被奉祈宝祚延長」との書状を添えて大願寺に贈った。

これは4代目だったというのだから、どれだけ再建されてきたのか。まあ、五百年くらい経っているけども。

沖側扁額「厳嶋神社」

扁額

「沖側に掲げられているもので、厳嶋神社(行書体)の四文字が青銅製鋳物で打ち付けられています。 額面は鏡板を黒漆塗、縁取りを弁柄朱漆塗とし、御神紋である三亀甲剣花菱紋と連殊文を銅板などで表しています。額縁は黒漆で塗られており、上辺中央に宝珠、左右に屈輪模様の渦巻文と唐草文を配しています。左右辺の彫刻は雲龍で向かって右が登り龍左が降り龍です。 四方の蕨手状の飾りには銅板を被せています」(看板説明文)

社股側扁額 「伊都岐島神社」

扁額

「社殿側に掲げられているもので、 伊都岐島神社(草書体・万葉仮名)の六文字が青剣製鋳物で打ち付けられています。「伊都岐島」」とは「心身を清めて神に仕え奉る島」であることを意味し、島の古い名称を踏襲しています。額縁の彫刻は屈輪模様の渦巻文と唐草文となっています。裏面には有栖川宮熾仁親王の御染筆であることが分かる「明治七年申戌四月二品仁親王謹書」との刻銘があります。 申戌は干支の一つで「きのえいぬ」とも読み、二品とは四品まである親王の位階の第二等のことです」(看板説明文)

大鳥居はなんでこんなに壊れやすいのか? 

まあ、大鳥居に限らずだけど。火災や虫食いにやられるのは木造建築物の宿命。海に浮かんでいる鳥居が火災に遭うのかどうかよくわからないですが。ただ、台風や暴風雨の被害に遭いそうな気はしますね。

浜辺に立っているだけに、常に塩の干満を受けて腐食や、虫害に曝され、台風や落雷などにより倒れ、その都度再建・修理されている。

『宮島本』

なるほど。この虫の害というのも相当なもので、シロアリとか普通に怖いけど、海中にもその類の虫がおり、その害を受けるということですね。

これだけ壊れやすいと、修繕もたいへん。最近もっとも深刻なのは、木材の問題なのだそうです。

戦後の大規模な修理は、昭和25年1950から始まった柱の腐食による根継ぎ取替え工事で、主柱の材料となる楠の巨樹を探すのに苦労した記録が残っている。
(同上)

ミル
ミル

『宮島本』にはこれまでの修理の記録がすべて載っています。そこには倒れた理由と、木材の調達場所がまとめられているよ。木材の調達が古来よりどれだけ大変だったかがわかりますね。聖なる鳥居だからそこらの木ってわけにもいかないものね。イマドキは木材も減ってきているから、海外から輸入しないといけないかも? なんてことになりかねないけど、そういうことは絶対に許されません。

五郎
五郎

倒壊した理由は半分くらい「不明」じゃないか。わかっているのは大風二回、落雷一回、自然倒壊一回。記録しておく、って大切だね。ところで、これって試験に出るの?

ミル
ミル

石鳥居の辺りを歩いていた時、ガイドさんに引率されたグループとすれ違ったの。そしたら、現在は避雷針がついているので、落雷による倒壊はないのだというご説明が耳に入ってしまいました。

石鳥居

石鳥居

厳島神社へ向かう参道にある石の鳥居。いかにも由緒あるものかと思いきや、建築年代はわりかし新しく、明治10年に企画され、明治38年に完成したという。

海の大鳥居に負けない、石の大鳥居を造ろう! という願いが込められたもので、高さ約9.7m(宮島本)。そして、この石鳥居のもとになった御影石は我らが周防国田尻(周防大島町椋野)からやってきたのだ。そんな風に思って眺めると、大鳥居に負けず劣らず愛着が湧くね。

なお、こちらの扁額は最後の太政大臣・三条実美さんの手になるもの(歩く地図本・宮島)。

東回廊(入口)

東回廊

基本情報

明治 32(1899)4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国宝
折曲り延長45間、一重、切妻造り、桧皮葺。

厳島神社に着きましたー-!!

とみなさんがカシャカシャやっているのがココです。要するに入口。参拝料をお支払いするのもこちらです。

単に、入口だという理解しかないのですが、実際には「回廊」なだけに、曲がりくねりながら長々と続いているわけです。本殿を挟んで東回廊と西回廊に分かれ、東から入って、西から出る、俗っぽくまとめるとそのような配置です。

東回廊 床

この床板の写真は何なのか、って? これは東廻廊の床板ですが、板と板との間にちょこっと隙間が空いている、そういうことを説明したいのです。

これは高潮時の浮力をやわらげたり、降り込んだ雨水を抜くためといわれている。 廻廊が倒壊する災害は台風の襲来による高潮で、 その際には廻廊などが浮き上がるのを防ぐために、 床上に御笠浜などの石灯篭が一時解体され重石として並べられた。
(同上)

灯篭を分解して一時的な重しにする、っていうのがすごいですね。ちなみに、この床板の隙間、細いヒールの女性は挟まるかもね……。

なお、ここにも「厳島八景」がございまして、この廻廊の灯篭に火が灯された景観のことで、「厳島明燈」と言われております。写真なくてすみません。

客神社(摂社)

東廻廊から入ってすぐのところにある神社(というか神殿?)です。何しろ、廻廊の中にあったりしてしまうので、一瞬これが本殿なんだと誤解してしまうわけです(写真を整理するまで気づかなかった……)。

こんなに立派で、造りなども本殿にそっくりですが、まぎれもない摂社でして、配下の神社となります。

客神社

基本情報

明治 32 (1899)4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952) 年3月29日、 国宝
本殿 桁行5間、梁間4間、 一重、 両流造り、桧皮葺
幣殿 桁行1間、梁間 1間、 一重、 両下造り、桧皮葺
拝殿 桁行8間、梁間3間、一重、切妻造り、両端庇屋根附き、桧皮葺祓殿 桁行4間、梁間3間、一重、 入母屋造り、妻入り、背面拝殿屋根に接続、桧皮葺
本殿ご祭神:天忍穂耳命・活津彦根命・天穂日命・天津彦根命・熊野橡樟日命の五男神

祓殿は修理中でして、これもまた、え!? せっかく来たのに、修理? とは思わず、珍しい現場に遭遇できたと思いましょう。ここ数年、ずっと修理が続いておりますが、これだけの規模の神社ですから、改築工事に時間がかかるのも当然ですね。完璧な姿で全体像が見られないのは残念ですが、工事完了の日を楽しみに待ちましょう。

客神社祓殿

朝座屋

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、特別保護建造物
昭和27(1952)年3月29日、国指定重要文化財
桁行8間、梁間4間、 1重、 東側面切妻造り、西側面入母屋造り、桧皮葺

これは、イマイチよくわかっていなくて、申し訳ありません。客神社を経て東廻廊突き当りの建物、ということなので、必ず行き過ぎたはずですし、これらしいと思われる写真はいくつかあるものの何となく地味で、どれなのか不明です。

もとは神社の社務所として使われていた建物だそうです。ただし、その歴史はとても古く、やはり由緒正しいものです。

仁安3 (1168)年の造営記録に「朝座屋」 の名があり、 本社・ 客神社などとともに当初から建てられており、江戸時代には社家・供僧・内侍らが会合する建物として使われていた。
(同上)

鏡の池

鏡の池

写真に写る水たまりは「鏡の池」と言われている。潮が引いたときに現れるこのような水たまりは三か所あって、特に、客神社横のものは、「鏡の池」と呼ばれている。これまた例の「厳島八景」の一つで「鏡池秋月」。秋の名月を見に訪れる必要がありそうだ。

さて、地図から確認するに、この鏡の池の後ろに写っているのがどうやら朝座屋です。

ミル
ミル

こんなにロマンティックな名前がついているのに、本来は、干潮の時に火事になったりしたときの消火用水用途だったんだって。

五郎
五郎

俺も消火活動して、吉川元春とやらより有名になるぞ!!

ミル
ミル

本の読み過ぎで混乱してしまっているみたいだけど、鏡の池と吉川元春さんは関係ないからね。

康頼灯篭と卒塔婆石

卒塔婆石と灯篭

ここで、日本史と古文を一緒に復習していただきます。

日本史は ⇒「鹿ケ谷の陰謀事件」
古文は ⇒「平家物語」巻二・卒塔婆流

なー-んてことを本当はやったほうがいいのですが、『宮島本』にすべて載っているのでありがたくダイジェストで。

平清盛の権威がますます強くなる中、それを快く思わない人たちもいました。で、後白河上皇派の人たちが集まって反平家の密謀をしましたが、平家方にバレてしまいました。関係者は鬼海ヶ島というところに流刑になりました。その中に、上皇側近の一人だった平康頼という人がいました。彼は都へ帰りたい一心で神に祈り続け、卒塔婆を造っては海に流しました。流した卒塔婆が千本にもなったとき、そのうちの一本がなんと、厳島神社に流れ着いたのです。
とある僧侶がそれを見つけて都に持ち込み、この話は清盛の耳にも届きました。さしもの清盛入道も感動したのか、その後恩赦もあり、康頼は都に帰ることができたのでした。

というわけで、厳島神社には康頼が流した卒塔婆だという石(卒塔婆石)と、のちに、康頼が奉納したものだといわれる康頼灯篭という灯篭とが伝えられているのです。

ちなみに、写真は手前が卒塔婆石、その後ろが康頼灯篭という一枚で二つ分のエコノミーな設定となっているため、灯篭が少し見えにくいです。

揚水橋

揚水橋

基本情報

「あげみずばし」と読む。
明治32 (1899) 年4月5日、 特別保建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国指定重要文化財
長さ16尺6寸2分、 幅9尺9寸5分

左内侍橋・右内侍橋

内侍橋?

基本情報

明治32 (1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国宝
各桁行1間、梁間1間、 切妻造り、桧皮葺。

地図によると、東廻廊と西回廊をつないでいる橋。本社拝殿をはさんで左と右に分かれているものと思われる。内侍というのは、厳島神社では巫女さんのこと。『宮島本』の記述から思うに、屋根がついていて、一種の建物みたいなものかと。

ミル
ミル

上ふたつは、この写真であっているか自信ないし、そもそも何なのかわかんない……。

五郎
五郎

いよいよ本社に向かうんだけど……俺たちが訪問した時、常に修理中。まるきり見えない場所もあったんだ。今年は去年にもましてすっかり覆われている感じがしたよ。

本社

基本情報

明治 32(1899)4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
本殿 桁行正面8間、背面9間、梁間4間、一重、両流造り、桧皮葺
幣殿 桁行1間、梁間間、一重、両下造り、桧皮葺、背面両端託間附き
拝殿 桁行10間、梁間3間、一重、 両端すがる破風附き、入母屋造り、桧皮葺
蔵殿 桁行6間、梁間3間、一重、入母屋造り、妻入り、背面拝殿屋根に接続、 桧皮葺

本殿

本殿

ご祭神:市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命

祓殿&拝殿

祓殿祓殿は読んで字のごとく、お祓いをする所です。 ほかにも、「雨天時の舞楽奉奏」「明治大正期の『年越相場』」にも使われたそうです。 平安末期の阿弥陀堂建築の工法が使われています(宮島本)。
祓殿、拝殿、本殿は一続きなので、祓殿の入口から拝殿も見えています。

※こちらの写真には、プライバシーに配慮して一般のお客様のお姿を隠す処理をしています。

舞楽奉奏の舞台

地図と『宮島本』の説明文を読むと、次のような構造になっていることがわかります。
祓殿の前に平舞台があり、その上に高舞台が建っています。平舞台の前には、大鳥居に向かって左右それぞれに、左楽坊・右楽坊があります。高舞台から大鳥居までは一直線です。

高舞台、左右楽坊ともに、現在も舞楽で使われています(屋根がないので、高舞台は晴れた日のみ)。

高舞台

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
高欄真々正面17 尺2寸、 側面 21尺

高舞台

黒漆塗の基壇に朱塗の高欄で前後に階段のある舞台。戦国時代にはすでに存在していたことが確認できるという。

平舞台

基本情報

明治32(1899)年4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
167坪

ヒノキの板敷で、潮が満ちると海の上に浮かぶ。厳島神社創建時から存在していたかどうかは不明だが、平清盛が「千僧供養」を行ったときに、社殿前に仮廊を造ったという記録があり、そのような仮のものがやがて常設化されたのではないか、と考えられている。

厳島神社社殿の束柱は木造なのに、 平舞台の束柱は石造りの柱。材料となった石は「赤間石」であり、毛利元就の寄進という(宮島本)。

なお、平舞台の最先端を火焼前(ひたさき)といい、江戸時代の青銅製の灯篭が三基ある(工事中の大鳥居の写真に見えているのがそれ)。管絃祭や、「たのもさん」 、玉取祭といったイベントの重要な舞台の一つ。

左楽坊&右楽坊

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和 27 (1952) 年3月29日、国宝
各桁行5間、梁間 2間、一重、切妻造り、桧皮葺

右楽坊

写真は右楽坊。この建物は由来がはっきりしており、「千僧供養」の時に造られたものという。ただし、当初は「楽坊」とは呼ばれていなかったらしい。楽坊の呼び名は江戸時代から。

左門客神社&右門客神社

基本情報

ひだりかどまろうどじんじゃ、みぎかどまろうどじんじゃと読む。厳島神社末社。
明治32 (1899)年4月5日、特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国宝
本殿 各一間社流造り、栃葺

左門客人神社

東廻廊側にあるのが「右」。西廻廊側にあるのが「左」。ややこしいね。基本は前述のように、大鳥居に向かって右か左かで見分ける。写真は左門客神社。本殿が覆屋におおわれている面白い形状は左右まったく同じ。ご祭神は豊磐窓神。右門客神社石窓神。

西廻廊

さて、これで東西二つに分かれた廻廊の東半分を見終わりました。続いて西半分を見学し、出口へ向かうことになります。まずは西廻廊から。……て、いきなり出口の写真になっちゃってごめんね。

出口

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国宝
折曲り延長 62間、一重、東端切妻造り、西端唐破風造り、桧皮葺

ミル
ミル

現在ここは「出口」として使われているわけですが、なんと、昔はこっちが入口だったのだそうです。どうして出口になってしまったんでしょうね?

『宮島本』にはとても興味深い話が載っていたので、簡単にまとめてみるよ。創建当初、廻廊の長さは東西合計して113間だった。116間、180間と時代を追うごとに廻廊が伸びていった。次第に拡大していく、というのは非常にわかりやすく、納得できる。ところがである、現在の東西廻廊の長さは107間で、180間あったときと比べて非常に短くなってしまっている。なにゆえに?
天文十年の土石流によって社殿が損壊した話は『棚守覚書』なんかにも書いてあったが、だから? と軽く流していい話ではなかったようで、この時の土石流の被害は甚大で、周辺の地形までも大きく変えてしまうほどだったのだという。それゆえに、元の通りに再建することができなかった。それで、廻廊の長さも短くなってしまった、というのが先生方の見解らしい。

なお、東西廻廊の柱の間隔は八尺、1間に8枚の床板を敷き、末広がりの「八」にあやかって縁起を担いでいるという。

鶴ちゃん
鶴ちゃん

弘治二(1556)に元就公によって廻廊の敷板が改められた、と本にはしっかり書いてあるのに、あれらの連中は読み落としたか、無視したのだな。

大国神社(摂社)

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国指定重要文化財
本殿桁行3間、梁間4間、一重、切妻造り、妻入り、桧皮葺
ご祭神:大国主命

大国神社

創建年代不明。戦国期には「大国」と呼ばれていた。

天神社(摂社)

ポイント

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月25日、 国指定重要文化財(本殿・ 宮殿・渡廊)
本殿桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、 入り 背面庇附き、桧皮葺
ご祭神:菅原道真
創建:弘治2(1556) 年。毛利隆元によって建立。

この写真だと、ちょっとわかりにくいのですが、さすが天神様、絵馬だらけでした。お願いの内容が学業にかかわるものであることは言うまでもないでしょう。

長橋

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国指定重要文化財
長さ18間 幅1間4尺

長橋

揚水橋と同じ構造。(といっても『揚水橋』がよく分ってないからなぁ)。古い記録にはほかにも、打橋・平橋などとあって、満潮時水に浮かぶ社殿はこれらの橋によって陸と結ばれていたらしい。先の土石流に関係しているのか、長さがどんどん短くなったという。橋脚は平舞台と同じ赤間石を使った石造り。

反橋

基本情報

明治32(1899)年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、国指定重要文化財
長さ11間3尺、幅2間2尺、擬宝珠高欄附

反橋

文字で説明するより、見たほうがわかりやすい典型。文字通り反っています。仁治年間の記録が初見。 別名 を「勅使橋」といい、勅使たちだけが使った特別な橋だったのかも知れない。

不明門

基本情報

あけずのもんと読む。
明治32(1899)年4月5日 特別保護建造物
昭和27 (1952) 年3月29日 国宝
桁行1間、梁間2間、 四脚門、切妻造、本瓦葺、丹塗

神様がお通りになる特別な門なのだ、と地元の方が教えてくださった。写真はあったはずだが、見当たらないので、探しておく。名前の通り開けられることはないという。

能舞台

基本情報

明治32 (1899) 年4月5日、 特別保護建造物
昭和27 (1952)年3月29日、 国指定重要文化財
桁行7間、梁間1間、一重、切妻造り、妻入り、桧皮葺

能舞台

現在国の国宝重要文化財として指定されている能舞台は六つあるのだという(宮島本)。しかし、海に浮かんでいるものはほかにはないのではないだろうか?(未確認です)。

能舞台は海上にあるため珍しい床構造をもつ舞台である。錆びやすい釘などは極力使用していないにもかかわらず、高潮時の波や浮力にも耐えうる構造で、さらに床の響きをよくするため、1枚の板のようになっているのである。これは床が太鼓の皮のような役目を果たすように 造られており、足拍子のたびに大きく共鳴する仕組みとなっている。 潮の満ち引きによって床の響きも変わるという、この能舞台独特の工法である。

(同上)

永禄11 (1568)年、観世太夫の来演が厳島における能興行の初めとされ、そのときは海中に仮設の舞台をつくったと考えられている。
慶長 10 (1605) 年、福島正則が能舞台を寄進。これ以降、常設の舞台ができる。
延宝8 (1680)年、浅野綱長が建設した能舞台が、現在まで続くものである。

桃花祭御神能、献茶祭などのイベントが毎年ここで行われている。

参考文献:『宮島本』、『歩く地図本 宮島』

アクセス:宮島駅口からフェリー

-みやじま・えりゅしおん