大寧寺(長門市)

大寧寺・基本情報

住所 〒759-4103 長門市深川湯本1074
電話 0837-25-3469
最寄り駅 長門湯本駅から徒歩15分
山号・寺号・本尊 瑞雲萬歳山・大寧護国禅寺
宗派 曹洞宗
公式ホームページ http://www.taineiji.jp/

大寧寺・歴史

応永17年、鷲頭弘忠創建。開山は石屋真梁。
かつては「西の高野」と呼ばれるほど栄えていた。

いわゆる「大寧寺の変」の舞台となったことで全国にその名が知られている。
だが、悲惨な出来事は既に遙か彼方。今はただ美しい景色を愉しむのみ。
奥ゆかしい佇まいも、周囲の豊かな自然景観も一見に値する名刹。
何もかも忘れて心洗われる場所だ。

寺内には大内主従の墓のみならず、毛利家重臣の墓地などもある。

大寧寺・みどころ

大寧寺は緑豊かで水も澄んでおり、ゲンジボタル発祥の地とされる。
春は桜、秋は紅葉の名所として有名。

大寧寺本堂――県指定有形文化財
大寧寺境内――県指定史跡

大内主従の墓、鷲頭弘忠の墓、上杉憲実墓、毛利藩重臣の墓
児玉花外の詩碑:明治から昭和の初期にかけて活躍した詩人。青海島を詠んだ詩碑

ゲンジボタル発生の地

ゲンジボタル発生の地石碑

盤石橋

盤石橋説明看板
大寧寺川にかかる橋。江戸時代前期のもので、山口県三奇橋のひとつ。
道路から寺内に入るためには、最初にこの橋を渡らねばならない。
橋は盤石橋だけではなく、途中にさらに二つの橋があり、それぞれ名前がついている。境内に入る前に奥ゆかしい池があり、そこにかかっているのだ。
盤石橋

盤石亭

盤石亭
休憩所。
こんなのどかなところで、お茶を飲むのも最高。

山門跡

大寧寺・山門跡説明看板
政変の戦火で、山門も焼け落ちた。毛利家の家臣となった益田氏が寄進。
その後、火災によって焼失し、またしても、益田氏によって再建された。
たいへんに荘厳な姿であったとされる。
明治時代になり、藩政期のような手厚い保護がなくなると、惜しくも倒壊するに至った。
現状、礎石だけが残っている。この看板にて、往事の姿を偲ぶのみである。

姿見の池、兜掛けの岩

姿見の池兜掛けの岩
造反者に追われ、ただひたすらに逃げ続けた大内義隆は、最後にこの寺まで辿り着いた。石見の義兄・吉見家を頼れば再起を図れると思ったのだろうか。
但し、暴風雨で船は石見に向かえず、仕方なく逃亡を諦めたのである。
井戸水に己の姿が映らないのに気付いた義隆は、自らの最期を悟ったと言われている。あまりにも有名な逸話。
その姿見の池と兜かけの岩が今も残る。

本堂

大寧寺・本堂
大寧寺は境内がすでに「県指定史跡」。
本堂は「県指定有形文化財」。
再建後の本堂はその後焼失してしまい、現在の本堂は元寺内の別の建物だったものを移築したもの。
それでも当時の建物として価値がある。
元々の本堂の規模は現在のものより、更に大きく立派なものであったことが容易に想像できる。

梵鐘

大寧寺・梵鐘
こちらは「長門市指定文化財」である。

大内主従の墓

大内主従の墓

大内義隆・義尊父子を始め、政変で犠牲になった人々の供養塔がずらりと並ぶ。
とてもすべてを紹介しきれないので、興味のある人は写真集でみてもらうこととして、特筆すべきは供養されているメンバー。
大寧寺で最後まで付き従った冷泉隆豐のような人は当然だが、法泉寺で殉死した陶隆康、はては相良武任まで全員がここにある。
陶弘詮の子孫がここに供養されているのは、血縁と言えども、隆房の造反に加担せず、文字通り主を守って戦死したから。身内同士で敵味方に分かれる悲劇は、陶家にもあったのだ。しかし、元をただせば、陶家も同じ多々良氏の流れ。大内義隆とは一族である。
墓地というよりは、完全に供養塔なのだろう。
なお、それぞれには、判別しやすい文字が彫られているが、全員を網羅した説明看板もあり、懇切丁寧。
なお、これらの墓所、供養塔もすべて「県指定史跡」である。

「経蔵跡」石碑

大寧寺・経蔵跡立て札
忠義の臣・冷泉隆豊の辞世の句碑。

豊川稲荷

豊川稲荷豊川稲荷
大寧寺の隣にある。由来については寺院ホームページに詳しい。

大寧寺写真集