大寧寺護国禅寺・清らかな自然に囲まれた由緒正しい名刹

大内義隆公終焉の地

大寧寺の変で有名な寺院。当時の姿はその際の戦禍で失われたが、その後再建されて大切に伝えられてきている。

何かにつけて「大寧寺の変」というキーワードのみが独り歩きしているのが気になる。
元々由緒のある寺院であり、その奥ゆかしい佇まいも、周囲の豊かな自然景観も一見に値する名刹。

残念ながら、政変にともなう戦火によって伽藍は焼失してしまい、創建当時のものではない。しかし、主がかわった後も手厚い保護を受け、大切に守られてきた。

大寧寺は緑豊かで水も澄んでおり、ゲンジボタル発祥の地とされる。
悲しい出来事は既に遙か彼方。今はただ美しい景色を愉しむのみ。
何もかも忘れて心洗われる場所だ。

寺内には大内主従の墓のみならず、毛利家重臣の墓地などもある。

ゲンジボタル発生の地


昔はどこの川にでもいたとされる蛍。
残念ながら、今は天然記念物となってしまった。
夏にはその蛍の幻想的な光に包まれる、夢のような場所がここ。
未来永劫、守り抜いていかなくてはならない。

盤石橋


大寧寺川にかかる橋。歴史もあり、とても有名な橋だ。
道路から寺内に入るために最初にこの橋を渡らねばならないそうだが、現在、新しそうな橋が架かっているため、そちらを渡ってしまうと、勘違いしてしまうかも。
橋は盤石橋だけではなく、途中にさらに二つの橋があり、それぞれ名前がついている。境内に入る前に奥ゆかしい池がある、そこにかかっているのだ。池と橋の名前については公式サイトに詳しい。

盤石亭


休憩所。
こんなのどかなところで、お茶を飲むのも最高だ。

山門跡


政変の戦火で、当然山門も焼け落ちた。毛利家の家臣となった益田氏が寄進。
その後、火災によって焼失し、またしても、益田氏によって再建された。
たいへんに荘厳な姿であったとされる。
明治時代になり、藩政期のような手厚い保護がなくなると、惜しくも倒壊するに至った。
現状、この看板にて、往事の姿を偲ぶのみである。

姿見の池、兜掛けの岩


造反者に追われ、ただひたすらに逃げ続けた義隆公は、最後にこの寺まで辿り着いた。石見の義兄・吉見家を頼れば再起を図れると思ったのだろうか。
但し、暴風雨で船は石見に向かえず、仕方なく逃亡を諦めたのである。
井戸水に己の姿が映らないのに気付いた義隆公は、自らの最期を悟ったと言われている。あまりにも有名な逸話。
その姿見の池と兜かけの岩が今も残る。

本堂


大寧寺は境内がすでに「県指定史跡」。
本堂は「県指定有形文化財」。
再建後の本堂はその後焼失してしまい、現在の本堂は元寺内の別の建物だったものを移築したもの。
それでも当時の建物として価値がある。
元々の本堂の規模は現在のものより、更に大きく立派なものであったことが容易に想像できる。

梵鐘


こちらは「長門市指定文化財」である。

大内主従の墓

大内義隆・義尊父子を始め、政変で犠牲になった人々の供養塔がずらりと並ぶ。
とてもすべてを紹介しきれないので、興味のある人は写真集でみてもらうこととして、特筆すべきは供養されているメンバー。
大寧寺で最後まで付き従った冷泉隆豐氏はとうぜんだが、法泉寺で殉死した陶隆康、はては相良武任まで全員がここにある。
陶弘詮の子孫がここに供養されているのは、血縁と言えども、隆房の造反に加担せず、文字通り主を守って戦死したから。身内同士で敵味方に分かれる悲劇は、陶家にもあったのだ。しかし、元をただせば、陶家も同じ多々良氏の流れ。大内義隆とは一族である。
墓地というよりは、完全に供養塔なのだろう。
なお、それぞれには、判別しやすい文字が彫られているが、全員を網羅した説明看板もあり、懇切丁寧。
なお、これらの墓所、供養塔もすべて「県指定史跡」である。

「経蔵跡」石碑


忠義の臣・冷泉隆豊氏の辞世の句碑。

豊川稲荷


大寧寺の隣にある。由来については寺院ホームページに詳しい。