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大寧寺(長門市)

2020年10月9日

入り口の写真

大寧寺・基本情報

住所 〒759-4103 長門市深川湯本1074
電話 0837-25-3469
最寄り駅 長門湯本駅から徒歩15分
山号・寺号・本尊 瑞雲萬歳山・大寧護国禅寺
宗派 曹洞宗
公式ホームページ http://www.taineiji.jp/

大寧寺・歴史

長門守護代・鷲頭肥前守弘忠は、石屋真梁に帰依していた。新しく寺院を創建したが、禅師はほどなく薩摩に帰ってしまった。のちに智翁永宗が来て、そのあとをついだ。弘忠はおおいに喜んで、寺院を現在の地に移し、仏殿僧堂などの建物を整備した。智翁は四年後に亡くなり、つづいて定庵、そして、竹居正猷が継いだ。竹居が住山して十六年、鷲頭弘忠は大内教弘に誅殺されてしまった。壇越弘忠が亡くなったので、竹居は寺を去ったが教弘に懇願されてついには戻った。それ以後、代々の住僧が法幢を継いでいる。(参照:『山口県寺院沿革史』)

五郎

竹居正猷ってお坊さん、龍文寺の開山だよね。

のちに、教弘の曾孫にあたる大内義隆が、家臣たちの造反に遭ってこの寺院に逃れてきた。逃げ切れずに亡くなったので、その供養塔などが境内にある。

まとめ

一族の鷲頭弘忠が創建した寺院で、開山は石屋真梁

1551年、「天文の国難」と呼ばれる政変で、大内義隆は山口を出て長門国まで来た。海を渡って九州まで逃れ、再起をはかろうとしていたらしい(あるいは石見の姉聟・吉見正頼を頼ろうとした、とも)。ところが、波風荒く船はどうしても進まない。もはやこれまでと逃避行をあきらめ、この寺院に入った。「異雪慶珠禪師に帰依深かりしかば」とあるから、道すがら偶然にではなく、何かしらの関わりがあったのだろう。

異雪慶珠の導きで法名を授かり、付き従って来た家臣たちともどもに亡くなった。

 うつ人もうたるゝ人ももろ共に如露亦如電應作如是観

という辞世の句が伝えられているけれど、『大内義隆記』だと、義隆はじめ一同の辞世の句は「煙となりけん聞へず候」となっていて、後世には伝えられなかったことになっている。これを辞世の句だと、堂々と記しているのは研究者の先生方に嫌われる『陰徳太平記』の類。さらに不思議なのは、義隆そのたの歌は煙となったのに、冷泉隆豊の歌だけは全員一致で後世に伝わっていること。

そもそも、言い伝えの類が大好きだから、この歌は本当に本人が詠んだかどうかは証明できない、のような議論は気にしないことにしている。ところで、境内には辞世の句の句碑があるものとばかり思っていたら、写真の中にはなかった。龍福寺にあったので、本家本元にないとは思えないので、見落としたらしい(むろん、『大内義隆記』に従って辞世の句は伝えられていない説をとっておられるのかもしれないけど、確認できていないので保留)。

義隆と付き従って来た家臣など(冷泉隆豐、黒川隆像、岡部隆景、天野隆良、太田隆通、禰宜右延等々本によってあれこれで詳しくは知らない)は寺院の中で亡くなったが、義隆の息子・義尊、左近衛中将二條良豊、持明院権中納言基規、転法輪三條前左大臣公頼等々の長たらしい名前の人々はココではなく、ほかのところで捕まって殺された。全員寺内に墓がある。

「国難」に遭ったからといって、寺院が滅亡することはない。義隆自害の際に、反乱者の乱入で堂宇は荒廃したが、やがて再建された。毛利家家老が山門を寄進したり、重臣たちが墓地を造ったりなど、由緒ある格式高い寺院として、後々までも篤く信仰されながら現在に至っている。

大寧寺・みどころ

寺院案内図に「東廬山十景」という説明文がある。昔中国の禅僧がこの地を訪れた際、その風景の美しさに驚き、「東方の廬山」と呼んだとか。同じ看板に「山紫水明」とあるけれど、その言葉がまさにぴったりとあてはまる。緑豊かで水も澄んでおり、ゲンジボタル発生地となっている。春は桜、秋は紅葉の名所として有名。

大寧寺本堂――県指定有形文化財
大寧寺境内――県指定史跡

大内主従の墓、鷲頭弘忠の墓、上杉憲実墓、毛利藩重臣の墓
児玉花外の詩碑:明治から昭和の初期にかけて活躍した詩人。青海島を詠んだ詩碑
盤石橋、山門跡、梵鐘など。

ゲンジボタル発生の地

ゲンジボタル発生地碑の写真

山口県内にはホタルの名所がたくさんあるけれど、ここは何もせずとも普通にホタルが生息していそうな雰囲気である。清流がサラサラと流れ、空気も爽やかな地。

盤石橋

盤石橋説明看板の写真

盤石橋の写真

大寧寺川にかかる石橋。寛文八年(1668)に架けられ、のちに、宝暦十四年(1764)に架け直されたことがわかっている。説明看板に「ドイツで開発されたゲルバー橋」よりも早く、「突桁式工法の架橋技術が日本にあった」とかなんとか書いてあるけど、難しくてわからない。とにかくも貴重なもので、「防長三奇橋」のひとつ。

渡ってしまってから看板を見ることになるから、帰宅後に探しても橋の写真がなかった。わかりにくいが、下の写真の右手の石組がこの橋である。

虎渓橋

虎渓橋の写真

盤石橋とともに、大寧寺川に架かっている橋。こちらのほうがわかりやすいし、普通にこの橋を渡っている人が多いと思う。なお、盤石橋もこの橋も、ともに「東廬山十景」に入っている。

白蓮池

白蓮池の写真

本堂に至るまでに、盤石橋(もしくは虎渓橋)を渡り、山門跡の手前と、本堂の手前とに池がある。本堂前は放生池、山門跡前のは白蓮池である。そして、「東廬山十景」に入っているのはコチラの池。

盤石亭

盤石亭の写真

休憩所。こんなのどかなところで、お茶を飲むのも最高。

山門跡

山門跡看板の写真

山門礎石の写真

天正年間(1570年代)に、毛利家の家老・益田藤兼が山門を寄進した。しかし、その門は寛永十七年(1640)に野火で焼失してしまい、延宝五年(1677)、益田元尭により再建された。明治時代に倒壊したまま、再建されることなく現在に至る。説明看板に当時の写真が載っている。看板付近にある穴の開いた石はかつての山門の礎石である。

姿見の池、兜掛けの岩

姿見の池の写真

かぶとかけの岩の写真

国難の時、この寺まで逃れて来た大内義隆は参道脇の岩にかぶとを置き、池の水を鏡に乱れた髪を整えようとした。しかし、池の水には姿が映らなかった……。というようなことで、運命が尽きたことを悟ったという。元々は別の場所(旧参道)にあったものを、こちらに移してきたという。

本堂

本堂の写真

大寧寺は、天文の国難(天文二十年、1551)、寛永十七年(1640)の野火と二回焼失した。現在の本堂は、文政十二年(1829)に元は衆寮(曹洞禅の道場)であった建物をもとに建て替えたもの。元々の本堂ではないものの、建築物的な価値はとても高く、県の有形文化財に指定されている。

梵鐘

梵鐘の写真

こちらは「長門市指定文化財」である。銘文から、応永三年(1396)筑前国長福寺のために芦屋の鋳物師が鋳造したものであることがわかっている。

大内主従の墓

大内主従の墓の写真

大内義隆・義尊父子を始め、政変で犠牲になった人々の供養塔がずらりと並ぶ。なお、この墓所の所在地は「遊仙窟」という場所で、「東廬山十景」のひとつである。
とてもすべてを紹介しきれないので、興味のある人は写真だけのページでみてもらうこととして、特筆すべきは供養されているメンバー。
大寧寺で最後まで付き従った冷泉隆豐のような人は当然だが、法泉寺で殉死した陶隆康、はては相良武任まで全員の分がここにある。墓地というよりは、完全に供養塔なのだろう。
陶弘詮の子孫がここに供養されているのは、血縁と言えども、隆房の造反に加担せず、文字通り主を守って戦死したから。身内同士で敵味方に分かれる悲劇は、陶家にもあったのだ。

なお、それぞれには、判別しやすい文字が彫られているが、全員を網羅した説明看板もあり、懇切丁寧。これらの墓所、供養塔はすべて「県指定史跡」である。

「経藏跡」石碑

経蔵跡の写真

「忠義の臣」として有名な、冷泉隆豊の辞世の句碑。隆豊の辞世の句といわれるものは二種類あるけれど、こちらには「見よや立つ煙も雲も半天に さそいし風の音も残らず」とある。彼が自害した時、臓物を取り出して経蔵に投げつけた、というびっくりな逸話が有名だが、ここにはその「経蔵」があった。その跡地という。

毛利家家臣の墓

毛利家家臣の墓の写真

ここにあるのは大内主従の墓である、という認識で訪れると、じつに多くの毛利家の方々のお墓があることを意外に思ってしまうかも。こちらにあるのは、毛利家家臣でも「重臣」と呼ばれるような方々のお墓で、大内主従の墓とあわせると、大寧寺には合計約二百五十基のこうした史跡的な墓があるという。重臣方の墓がここにある理由は、大寧寺の格式の高さを物語る。じつに様々な形の墓が揃っていることも特徴で、ここに見えている五輪塔のほか、宝篋印塔もあるそうだ。

三條公頼公の墓

三條公頼公墓の写真

大内家とゆかりある転法輪三条家の方。となりの持明院という方もそうであるが、西の京山口に下向してきていて国難に巻き込まれた公家の方々である。二人とも大寧寺で義隆主従と運命をともにせず、なおも逃亡途中に反乱者たちに捕まって殺されてしまった。薄情だから逃げていたわけではなくて、やんごとなきお方なので、まさか手にかけるような凶徒もないと思ったのだろう。

豊川稲荷

豊川稲荷参道の写真

豊川稲荷の写真

大寧寺の隣にある。由来については寺院さまホームページに詳しい。
祭神:叱枳尼真天(参照:大寧寺HP)

大寧寺写真集

アクセス

長門湯本駅から歩きました。基本真っ直ぐな道なのですが、ちょい脇道に入るとたいへんです。駅からタクシーでも、と思いましたが、駅は無人でタクシーはおろか、ほかに降りる人もいませんでした。歩くのが嫌な人は、人気があるところからタクシーに乗りましょう(スマートフォンあればどこからでもタクシー呼べる世の中ではありますが)。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、大寧寺様HP、説明看板

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