関連史跡案内

赤間神宮(下関市)

2020年10月9日

赤間神宮

赤間神宮・基本情報

住所 〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4-1
電話 083-231-4138
御祭神 安徳天皇
最寄り駅 下関駅、赤間神宮前バス停
主な祭典 例祭(十月七日)、先帝祭(五月二・三・四日)、祈年祭(二月十七日)、新嘗祭(十一月二十三日)
社殿 本殿(流造)、祝詞殿、内拝殿、翼殿、神鐉所、回廊、 外拝殿、脇殿、楼門水天門、回廊、宝物殿、社務所
境内神社 日本西門鎮守八幡宮(八幡大神)、紅石稲荷神社(稲荷大神)、七盛神社(平知盛公外七座)、大連神社(天照皇大神他四柱)
主な建物 鳥居、燈籠、狛犬、十三重塔三基、赤間神宮復興之碑、社号碑、太閤石由来記、石幢、 句碑 (自然石・松尾芭蕉・ 高浜虚子・山口誓子・西尾其桃・木下友敬・土井南国城)、 手水舎、太鼓楼(平成御大典記念)、勅額、由緒記、客殿水天閣、会館龍宮殿 、 参拝者休憩所平家茶や
特殊神事 上臈参拝(五月三日)、関門海峡祭(十月七日)、芳一琵琶供養祭 (七月十五日)、雲丹供養祭(十月二十日)、注連縄祭 (十二月十日)
奉納芸能 能楽の夕べ(十月六日)、耳無芳一屋外劇(七月十五日)、 先帝祭上臈道中(五月三日、市指定文化財)
公式サイト http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/

赤間神宮・歴史

古くは阿弥陀寺という寺院であった。

寛正五年(1464)、歌僧正徹の弟子正広は山口へ下向。当主教弘やその子・政弘、家臣らと歌会を楽しむと同時に、北九州の大内氏分国へ、歌枕観光の旅に出た。その際、渡海前に立ち寄った中に阿弥陀寺の名がある。赤間関に来た人は必ず参詣するような寺院だったのだろう。

源平合戦の折、この付近は壇ノ浦合戦の舞台となった。平清盛の孫・安徳天皇が祖母・二位の尼(清盛妻)に抱かれて海に身を投げて亡くなられた、という話を知らない人はいないだろう(別に知らなくても何ら問題はないけど、学校の授業で必ず教わるはずだ)。よく言われるけど、天皇という方々は位についておられる間は、○○天皇とはお呼びしない。教科書に○○天皇と載っているのは、歴史上の人になってしまわれたからであって、本来は、畏れ多くて実のお名前を口にすることもかなわないお方である。

安徳天皇というお名前は、朝廷が後から贈った「尊号」で、お名前をお贈りすると同時に、御廟所も造って差し上げた(敬語おかしいところあったらすみません)。御廟所は、お亡くなりになった地である長門国、赤間関に建立され、最初は朝廷から遣わされた尼さんが奉仕していたが、やがて僧侶にかわって、聖衆山無量寿院阿弥陀寺という、浄土宗西山派の寺院となった。

赤間神宮となったのは、明治維新の神仏分離令で阿弥陀寺が廃され、神社となったのちのこと。御廟所は安徳天皇社となり、明治天皇の御代、所在地の名をとって赤間宮と改称し、新たな社殿が造営された。明治十三年(1880)、御廟所から安徳天皇の尊像を社殿に移した。元の御廟所も修理されて安徳天皇阿弥陀陵となり、宮内省の管轄となった。

赤間神宮と命名されたのは、昭和十五年であり、社殿も荘厳なものに改造された。ところが、第二次世界大戦における本土空襲によって、社殿は全焼してしまう。安徳天皇尊像や古文書類は別の場所に移されていて無事だった。本殿は二十年の歳月をかけて復興・再建された。

つまり、現在目にすることができる社殿はすべて、戦後再建されたものである。皇室ゆかりのお方をお祀りする神宮ゆえ、皇族方の参拝が数多い。昭和三十三年(1959)、水天門が完成時の昭和天皇御夫妻。三十八年(1963)、平成天皇 (現上皇さま)。五十五年(1985)には、皇太子だった現天皇陛下の御参拝があった。六十年(1985)、 安徳天皇 八〇〇年式年祭の折には、平家ゆかりの宮島厳島神社が舞楽を奉納したという。(以上、参照:『山口県神社誌』)

赤間神宮・みどころ

水天門

水天門の写真

楼門。昭和三十三年(1959)に完成。龍宮造りという建築様式は世界でここしかないのだという。見ての通り、竜宮城のイメージそのものである。
二位の尼が詠んだ「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」との御歌から来ており、海の中の都におられる安徳天皇ゆかりのものとして建てられた。幼帝は海底に沈んでしまわれても、その御霊は天上世界におられるとのことから、水天皇大神となり、水天門という名前の由来はここから。

ミル

このお歌の出典はどこなの? ミルたち『平家物語』を読んだけれど、「みもすそ川」なんて詠んでいる歌は見付けられなかった。

山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、 まづ東をふしをがみ、 伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
となぐさめ奉( ッ)て、千尋の底へぞ入り給ふ。  
悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め奉る。 
新版 平家物語 全訳注 全四冊合本版 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.49843-49851). 講談社. Kindle 版.

卜山

「延慶本」の中にある。そなたらが読んでいるのは「覚一本」だ。『平家物語』には多くの異本が存在するのだ。

五郎

……。

わずかに八歳の子どもにどこまで理解できるんだろう? って思うけれど、お祖母さまに「どこへ連れて行くの?」と尋ねて「極楽浄土というところです」と教えてもらい、旅立つ前にお祖母さまにいわれた通り、きちんと祖先神に手を合せ、西方浄土に向かって念仏を唱える。水中に身を投げても、助けられてしまった人々は何人もいたのに、帝と二位の尼は二度と浮かび上がってくることがなかった。

「悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め」のところでなぜだか毎回、涙が止まらない。安徳帝の御遺体は赤間関に流れ着いたが、二位の尼のほうは、遙々と平家ゆかりの地・厳島まで流されていった。

「惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は卆先多額の 御寄進に加へて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より腸はり御歌の
今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日 畏くも 昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり」(説明看板「水天門記」)
水天門額の写真

とてもわかりづらい写真になってしまうけれども、こちらの額は創建当時の皇太子さま、現在の天皇陛下の御染筆です。

「神門楼上に関門海峡を見はるかし 黒漆地に金波輝く水天門の御額は 寬仁親王殿下の御染筆をたまわり 平成十七年五月三日御祭神と仰ぐ 安德天皇八百二十年大祭に際して 宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。」(説明看板「水天門 掲額の記」)

太鼓楼

太鼓楼の写真

平成二年(1990)に完成した建物。平成天皇の即位御大礼をお祝いして造られた。大きな絵馬が可愛らしい。

「水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長清原梅義氏は本宮崇敬 会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日旧元旦を期して見事に竣成す 蓋し新帝即位大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡をわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ」(説明看板「太鼓楼記」)

大安殿

赤間神宮HPの境内案内図から考えて、これは外拝殿だと思う。回廊の奥に内拝殿、祝詞殿、神殿と続く。これらあわせて全体が「大安殿」らしい。

五郎

なんだか厳島神社みたいだ!

確かに厳島神社に似ている。回廊の向こう、内拝殿が見える。

内拝殿の写真

十三重塔

十三重塔の写真

幼くして亡くなった安徳天皇に関連して、水難供養の塔がある。「水天供養塔」という。この右手奥に小さな社がチラ見えている。『山口県神社誌』の境内図だと、十三重塔の奥にあるのは「七盛神社」だが、HP の境内案内図だと、その場所には「芳一堂」があることになっている。芳一堂は見ているから、この建物の前まで行ったはずだが、記憶にない。

ちなみに、「七盛神社」は平知盛はじめ平家の人々を祭神とする社ということだが、HP には「七盛塚」という説明があって、「塚」と「神社」が同じものなのか不明(HPには神社の説明がないから、おそらく、同じものなのではないか、と推定)。

平家一門の墓

平家一門の墓の写真

別名「七盛塚」という墓碑は、一つずつ、どれが誰のものかって決まっている。詳細は、神社のホームページに説明がある。まったく見た記憶がないけれど、付近に説明看板があったはずだ(大寧寺みたいに)。

芳一堂

耳無芳一の写真

じつは、かの有名な耳なし芳一の物語の発祥の地はここなのである。その意味で、絶対に外せない一枚だ。タクシーの運転手さんから「耳無芳一を見落とさないように」と教わっていたので、きちんと見ることができたものの、ほかのみどころはすべてなおざりになってしまった……。

そもそも、なにゆえにかこの神社内で撮影した写真はほぼすべてが、ピンぼけになっていた。

安徳天皇阿弥陀寺陵

安徳天皇阿弥陀寺陵入り口の写真

安徳天皇は赤間神宮にお祀りされているが、元の御廟所も陵墓として整備されている。阿弥陀寺の名前も、ココに残っている。

宝物殿

宝物殿の写真

所蔵している社宝がものスゴい。平家物語長門本(全二〇冊・国指定文化財)、赤間神宮文書 (全十巻一冊・国指定文化財)、紙本金地着色安徳天皇縁起絵図(全八幅・山口県指定文化財)、平家一門画像(全一〇幅)、源平合戦図屏風(一双)、太刀(一把・伝平教経佩用)ほか。これらが戦渦を免れて本当に幸いだった。(参照:説明看板「御神宝類」、『山口県神社誌』。太刀は『山口県神社誌』にだけ掲載)

宝物殿の見学には、拝観料が必要。ただし、わずかに100円。開館時間 9:00~17:00をきちんと確認してからご訪問ください。

お守り

お守りの写真

お守りはどこの神社もだいだい同じようなかたち(神社の名前が違うくらい)。でも、最近はあれこれとその神社独特のものが売られており、それらを眺めることも楽しみのひとつ。一時にたくさんの神社のお守りを購入したらダメで、自らの崇敬する神様ひとつに絞ってお守りしてもらうべきなのか、その辺の事情、わからないけど、見るだけで買わないことが多いので、あまり気にしてない。

赤間神宮のお守りはとても可愛らしかったので、つい購入してしまった。複数もっていて神様どうしがケンカしたらどうしよう、とか思うけど、厳島神社とゆかりあるところだからいいのかな、との思いです。

五郎

なんだか、俺らや殿様とはあまり関係がない神社みたいだ。ここ、本当に「関連史跡」なのか? ミルが自己都合で平教経の墓参りしているだけでは?

ミル

あのね、これだけ有名な神社と所在地の殿様たちが無関係なはずはないんだよ。敢えて言わなかったけど、大内、毛利もそれ以前の鎌倉幕府北条氏も、みんな篤く信仰していた、と本に書いてあったよ。豊臣秀吉だのなんだのも参詣に来ている。要するに、支配領国内の寺社で無関係なところなどないということ。

五郎

そんな……。いったい県内にいくら寺や神社があると思ってるんだよ? 回りきれないじゃないか。

ミル

別に全部見れなくたっていいよね。だいたい、勢力範囲県内だけじゃないよ。

赤間神宮写真集

アクセス

赤間神宮バス停からすぐ。バス停までは下関駅から10分くらいかかる。駅から徒歩は少しキツいかもしれない。

参照文献:赤間神宮様 HP、同説明看板、山口県神社庁様『山口県神社誌』

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