大内義興・史上最強、最大、最高の西国の覇者

 

幼名:亀童丸、次郎
文明九(1477)年二月十五日、京師にて生まれる
周防権介、大内介、左京大夫、正六位~従三位
周防・長門・筑前・豊前・石見・安芸・山城守護、管領代

史上最強、最大、最高の西国の覇者・大内義興

大内家の版図が最大となった時の当主。
その強大な軍事力で、明応の政変で追放された「流れ公方」足利義材の復職を助けた。
いうまでもなく、史上最大の当主は、最強の将である。
織×氏、豊×氏、徳×氏なんて足元にも及ばない。
ただ、彼は最後まで将軍様の忠義の家臣であって、「自らの手で天下統一」なんて野心は欠片もなかった。
こんな善人、二人といない。
戦国乱世を統一したのが、彼ではなく後から来た一回りも二回りも小さい連中だったこと、山口から天下を統べる者が出る機会が失われたこと、とんでもなく悔しい。
西国の覇者という呼称は史上何度か使われているが……他の者は、誰一人、相応しくない。なぜなら、彼を越えることは誰にもできっこないので。
毛×さん、ごめんよ。あんたのことも、嫌いではない(むしろ大好きなんだ)。

青年当主の船出

応仁の乱で名を馳せた大内政弘と、能登畠山家の縁者・今小路殿との間に生まれた。

父は風雅な花守護様

父の政弘は、猛将であると同時に、歌人としても著名。

両親の愛情を一身に受けた運命の若子

応仁の乱で上洛していた政弘が、京でも評判の美女・今小路との間にもうけた玉のような若子・亀童丸。父の在京中、京の都での生まれだ。
愛らしくて聡明な彼は両親に深く愛されて育つ。有能過ぎる文武の将・政弘の亀童への期待は大きく、厳しい指導監督の下、十分な教養を身に着けた完璧な若子に育てられたことは間違いない。
大内家歴代当主が必ず通る道である、氏寺興隆寺でのおこもり行事も無事に終え、将来の当主・亀童丸は強く、健康に成長していく。

時の将軍・足利義尚は、西の大国大内家の将来の当主に、自らの「義」の字を与えた。
将軍が配下の子弟に諱を授けることは珍しくなく、それは、将軍家のみならず、他家においても同様である。大内家でもその例に習い、義興の「興」の字、そして、その子・義隆の「隆」の字を頂戴した臣下は大量にいる。ただし、将軍様のお名前の上の字、つまり、義尚の「義」の字のほうを頂戴する、というと事情が少し違う。「尚」の字をもらった配下は数多いが「義」のほうは、そう簡単にはもらえないのである。

このあたり、将軍家の大内家に対するサービスぶり=力ある臣下への配慮が見て取れると同時に、恐らくは、父である政弘の根回しもあったのではないか、と思う。
政弘と、義尚、それに隠居して東山殿となっていた先代の義政とは和歌のやりとりを通じて親しかった。

応仁の乱もすでに遥か彼方。敵対していたとはいえ、将軍家にというよりは、細川家憎しのほうがメインだから、戦が終われば特にわだかまりもなくなったのだろう。そんな日頃からの付き合いと、それに、将軍家が大好きな唐物の山とが、政弘の愛息に稀にみるご寵愛の一文字をお授けくださる理由となったことは想像に難くない。

Name
大内介の嫡男とあらば、喜んで、我が「義」の字を授ける。
Name
あわわ……なんてお美しい将軍様……父上より美男かも……
ここまでのまとめ
大内義興は、政弘と今小路の息子。
嫡男:亀童丸として大切に育てられた。
美しく、賢い若子だった。

家督相続

父からみっちり帝王学を受け継いでいた亀童丸改め義興だったが、政弘が健在なうちは父の下で政務のいろはを学ぶ日々。名家の若様として、忙しくも恵まれた日々を過ごしていたと思われる。ところが、足利義政が、かつて弟・義視に家督を譲って隠居したい、などと言い始めたように、政弘も何度も「隠居」を口にしている。義政同様、楽隠居して、大好きな歌の道に専念したかったのかもしれないし、ほかの理由があったのかもしれない。しかし、彼の数度にわたる「隠居」申し出は幕府によって却下されていた。理由は、息子が幼過ぎるため。そう、応仁の乱から帰国して間もない、まだ三十代の頃から「隠居」宣言が出ていたのだ。
政弘の宴会好き、歌詠みの日々は変わらなかったが、体調は異変を来たした。そこで、元服した義興に少しずつ政務を任せるようになっていく。政弘が亡くなった時点で、政務はほぼ義興を中心に回っている状態になっていた。
家督相続のたびに揉め事が勃発するこの家で、政弘から義興への相続は穏やかに行われたかのように見える。だが、実際には、陶武護、内藤弘矩といった重臣が、彼の相続と前後して成敗されており、なんらかの「異変」があったことを指摘する学者も多い。

戦い続けた生涯

大内家の版図は安定の周防・長門から北九州の豊前、筑前、そして、中国の安芸、石見、時に都に近い、山城、紀伊と及んだ。このなかで周防長門はもちろんのこと、豊前の地も比較的安定してその支配下に置かれていた。

だが、中国地方は、国人領主の集合体であり、小領主たちを配下被官に取り込み切れていなかった。それはほかの守護家からみても同じことであり、時に大内、時に山名、後には尼子などと支配者をかえる不安定な地盤。
守護を任命するのは将軍でも、その指名権を得るにはそれなりの支配力を見せつける必要があるから、これらの地を巡る争いは絶えなかった。さらに、配下の国人領主たちが自主的な能力を強めていくに従い、互いに協力して支配勢力に対抗しようと国人一揆などを起こしたりもするし、最悪だった。

そして、九州。ここは、そもそも、幕府が派遣した九州探題の管轄下のはずだが、支配下の領主たちはやはり言う事を聞かない。遠く九州の地まで力及ばない将軍家は、配下としての大内家にそれら「賊軍」となった不満分子の制圧を度々命じている。
そんななかで、九州探題は、完全に有名無実化し、最後は肥前の一守護レベルにまで落ちぶれ果てた。それと入れ替わりに、九州の中心地大宰府を含めた筑前の地も、大内家の支配が及ぶところとなった。

山城、紀伊は将軍義満時代の大内義弘がその守護に認められていた時期がある。そして、後述するように、在京時代の義興もその職に就いていた。

少弐と大友

上に見たように、九州と中国は紛争が絶えない地域であったが、特に、大宰府奪還に命を懸ける「名門」少弐氏、次第に力をつけてきた豊後の大友氏などが、厄介者筆頭であった。無論、島津家など、九州にはほかにも多数の有力大名がいたわけだが、利害関係の衝突は、まずは境を接するところから、というのが鉄則である。

政弘という偉大な人物の死で、わずか十九歳の義興が後を継いだときけば、大人しくしていた周辺国の動きは俄かに活発になる。最初に、少弐家が、この若造から領地を奪い取ろうと画策した。

大宰府を巡っては、取ったり取られたりを繰り返しつつ、次第に大内家の支配力が強まって行ったが、応仁の乱のどさくさで、一旦少弐家が奪い返すようなこともあった。彼らにしてみたら、経験浅い若い当主に交代したばかりのこの期は、絶好の機会であった。しかし、「善戦虚しく」少弐家はまったく大内家の敵ではなかったようだ。

Name
時至りぬ。今こそ、賊徒どもを蹴散らし、筑前の地を解放するのだ‼

義興は疾風怒濤の快進撃で少弐家を蹴散らし、華々しいデビュー戦を飾った。

続いて動き出したのは大友家。大友家ではおりしも、家中で家督を巡る紛争が起こっていた。少弐と違い、大内大友間の関係は、良好(に見えるよう)な時期と不仲な時期が交互に訪れていた。誰しも、一度に大勢の敵に囲まれることは厄介なので、幾つかとは、心にもない友好関係を結び、事なかれ主義で誤魔化そうとする。大友家との関係はまさにそれで、全面対決を避けているときは、婚姻関係を結んでいた。
そのようにして、大内家から嫁いだ母から生まれた当主が大友親豐。義興とは従兄弟にあたるので、将来も子々孫々友好関係をと行きたいところであった。ところが、このような関係に異を唱える家臣が少なくなく、大内家の庇護下にある当主をこころよく思わぬ重臣と、彼に忠誠を誓う親大内派家臣とで分裂していた。その真っ二つに割れた家中で、当主の親豐と真っ向から対立している急先鋒が、なんと、実の父・隠居した政親であった。
親豐派が優勢であるうちは、大友家との友好は続く。義興としても、少弐のこともあるし、できれば、戦は避けたかった。ところが、政親はなんと実の子である親豐を毒殺してその地位を奪い、当主として大内家に宣戦布告するに至った。

このような血塗られた当主を許すわけにはいかない義の人・義興はこの売られた喧嘩を買わざるを得なかったが、何と、威風堂々豊後を出発したはずの政親を乗せた船が、何の因果か座礁して長門の地に漂着。政親は囚われて自害する羽目になった。

こうして、笑うしかない結末となった大友家の侵攻戦。しかし、これで終わりではなかった。少弐の残党と大友家とは互いに手を組み、執拗に豊前の大内領を侵す。この時は、「大内之介難儀」といわれるほどの苦戦を強いられ、義興の生涯でも珍しい敗色濃厚な日々。忠義の家臣が幾人も犠牲となった。それでも、なんとか体勢を整え、こんどこそ、敵の息の根を止めようと着々と準備を進めた。
ところが、そんな時、とんでもない知らせがもたらせる。

Name
おおお、大内介、ようやっと周防の片田舎に辿り着いた……。
全身全霊を傾け、余の復職を助けるのだ!

越中に隠れ潜んでいたはずの、将軍・足利義材が、周防に逃れて来たのであった。義興は、ひとまず、大友の力を削いだ状態で戦を中断し、将軍の接待に奔走しなくてはならなくなった。

生涯の敵・尼子経久

安芸・石見は国人領主の集合体的性格の土地だと述べたが、それでも、初期の頃は大内家の力が強く、十分に抑えが効いていた。それには、ほかに同じような大国がいなかったことも幸いしており、その点、北九州とは少し違っていた。

ところが、この、権力の空白地に、彗星のように現れたのが、出雲の尼子経久だった。大内と尼子が全面対決に至ると、日和見主義の国人たちは、時には大内、時には尼子に味方するようになり、この地域の支配はますます混沌としてきた。

そもそも、元を辿れば、尼子家がこのように肥大化したのには理由がある。足利義材のために上洛させられた義興が、十年も国を留守にしたからだ。留守中の分国にも優秀な家臣を当然残していたはずである。
しかし、大内政弘の時の陶弘護のような英雄はおらず、小粒だらけ。しかも、第一の忠臣・陶興房は、義興とともに在京していたから、彼に任せるわけにもいかない。加えて、弘護の時の、大内道頓やら、吉見家のような連中と尼子経久はそもそも格が違う。
これ以上の増長は放っておけないと、ようやく義興が義材に見切りをつけて帰国した時、すでに、両者は勝負がつかない状態だった。結局、二人の英雄は死ぬまで争い続けたが決着はつかなかった。

Name
ふふふ。謀聖の前では覇者も霞むな。
石見と安芸はわしがいただくとするか。

兄弟相克

義興の弟、もしくは兄とされる人物に、正護院尊光という僧侶がいる。父・政弘の命令で、氏寺・興隆寺の別当になっていた。しかし、父の死後、細川家に唆された彼は還俗して、大内高弘と名乗り、義興に反旗を翻した。ところが、この造反劇は、決行前に情報が漏洩したため、高弘は何も起こせぬまま逃亡した。潜伏先は大友家。
結局、彼はそのまま客死したが、その息子・輝弘の代に反乱を起こしている。これは、大友家に焚き付けられたもので、大内家滅亡後、防長の主となっていた毛利家に矛先を向けたものだった。
そんなわけで、兄弟は反目したという事実こそあれ、実際に戦に及ぶことはなかった。かわりに、高弘に与力する予定となっていた重臣・杉が切腹している。
兄弟の序列が実際のところどうであったのかは分からない。
政弘の時の、伯父・教幸も、伯父なのか叔父なのか定説はない。高弘は通称を「太郎」と名乗っていて、これを根拠に長男だった、とする説も、義興、高弘を含め、彼らにはほかにも兄である政弘の長男がいたが早々に亡くなった、もしくは廃嫡されたとする意見もある。
いずれにせよ、兄弟であったことは疑いがないようだ。

Name
ふん。何で俺が坊主やらなきゃなんねぇわけ?
同じ兄弟で不公平だろう?
父上は、亀亀亀ーーって、依怙贔屓が酷いんだよ。
将軍家じゃあるまいし、跡継ぎ以外全員坊主にするとか、正気かよ?

正妻は誰?

兄弟関係もあいまいだが、じつは正妻が誰なのかも分からない。後に家督を譲る嫡男・義隆の生母、内藤氏は「東向殿」と呼ばれている。これは文字通り、東の御殿に住んでいたからである。正妻を「北の方」と呼ぶように、東の御殿に住んでいる女性が正妻のはずはない。

だいたい、大内家の夫人は京から身分ある公家の姫などを迎えるのが普通だったようで、公家マニアの義隆に限らず、京から夫人を迎えている先祖は少なくない。ただ、ここも、それらの夫人が跡継ぎとなった男児を出生していなければ記述が残らないので、何とも言えない。大内義隆には、正式な史実として知られているだけでも、土佐の一条家、大友家、石見国人・吉見家にそれぞれ嫁いだ三人もの姉がいるが、その母親が誰なのか分からないのである。
より詳細に記した書物だと、さらに、足利家、細川家に嫁した娘についての記述も現れる(足利義栄の母が、大内義興の娘であった、というくだりはおなじみ。だが、研究書のたぐいでは、疑問符つきの通説として紹介されることが多い)。
男児は、少なくとも健やかに成長したのは義隆のみであったと考えられるから、当主の生母として内藤氏が大切にされたことは当然である。だが、ほかの姉たちもすべて彼女の娘であり、義興にはたった一人の妻しかいなかったのかどうかは、不明である。

菩提寺凌雲寺には、義興の墓と伝えられる石塔のほか、その夫人と、開山塔がある。この「夫人」というのが、内藤氏を指すのかどうか、分からないそうだ。
内藤氏は、大内家に成敗された内藤弘矩の娘。どう考えても、義興との縁組は「政略結婚」である。婚姻の時期も定かではないらしく、弘矩の死の前であれば、夫婦の仲はこれを境に冷え切ったかもしれないし、死後であるのなら、婚姻によって強引に親戚一門に迎え入れることで、内藤家という重臣一族を懐柔するための主の意に従って、やむなく親の敵に嫁いだことになる。

この東向殿という人はたいへんな長寿で、なんと、後の大寧寺の変の時、まだ存命だったという。理由はどうあれ、主君の家の若君に嫁ぎ、さらに唯一の跡継ぎを産んだことが、一人の女性の運命を変えたのだ。

ここまでのまとめ
病気がちな政弘は半ば隠居して、若い義興が政務を執っていた。
政弘から義興への代変わりもスムースではなく、陶、内藤といった重臣とのいざこざがあった。
義興の生涯はまさに戦に明け暮れたものだった。
大友、少弐、尼子、毛利、安芸武田……と多くの合戦を体験した。
ことに生涯にわたる敵は尼子経久であったが、ついに決着はつかなかった。
義興の兄弟・高弘は造反して大友家に逃亡。直接矛を交えることはなかったが、兄弟の縁は断絶した。
嫡子・義隆を産んだのは内藤家の娘だが、正妻が誰なのかは分からない。

迷惑な流れ公方

義興も将軍の命令で、父に代わって参軍していた、足利義材の河内親征。
その最中、細川政元がクーデターを起こし、気に入らない将軍・義材を追い払って、自らが選んだ傀儡・義澄を新しい将軍位につけた。明応の政変という。

この騒ぎで、義材はいったん、細川家に囚われたが、逃亡に成功。「忠臣」・畠山政長のそのまた「忠臣」神保長誠の領国・越中に隠れ潜んだ。政長の嫡男・尚順も紀伊国に逃れて抵抗を続け、義材、尚順主従は、紀伊と越中の地から京を挟み撃ちにして、細川政元とニセモノの将軍を追い出し、義材を復職させようと日々奔走していた。

尚順の忠義は涙ぐましいほどで、同じ畠山家で、父が守護職を認められたはずの河内国を勝手に占拠して好き勝手する畠山義豊と戦い続けた。義豊の背後に、細川政元がいたことはいうまでもない。だいたい、敵の敵は味方、である。畠山尚順は父・政長を細川家のために殺されたと仇討の機会を狙っていたし、そもそも、父親同士の時代から、畠山家は二つに分裂して争っていた。
そして、義豊の勢力は、尚順の勢力に屈し、その領国もだんだんと狭くなっていった。とうとう、義豊は自害、息子の義英は尚順に降伏する。これを最大の好機と見た、義材と尚順は、一挙に例の挟み撃ちを決行しようとしたが。細川政元に敗れてしまった。

Name
うう、無念なり。公方様……ここは一旦兵を引きます。
つぎの機会を待ちましょう。
どうか、御無事で。

尚順は再び紀伊に潜伏。義材は新たなる亡命先として、周防国を選んだ。
この自分勝手な選択で、大内家は将軍家の相続争いに否応なく組み込まれてしまう。

足利義材周防へ

義興は、そもそも、足利義材派の大名である。細川家だけとは手を組むな、というのが先祖代々の教えだから、細川政元が「半将軍」などと我が世の春を歌う政権に味方などするはずがない。しかし、都は遠く、義興自身も、少弐や大友との戦で手一杯であったから、兵を送って助けに来い、という要請はやんわりと断っていた。
しかし、将軍みずから乗り込んでこれらたら、追い出すわけにもいかないだろう。
それからしばらく、戦もそっちのけで、将軍様を接待する日々が続く。

Name
片田舎とはいえ、西の京なんぞと呼ばれるだけあるのぉ。
大内之介のところは、御膳も豪勢だし、極楽じゃわい。ふふふっ。
Name
実に迷惑ですな……。いったいどれほどの金子が必要か。
いかに、我らが分国が豊かとはいえ、これは「余計な出費」ですからな。

「管領」のつとめ

義材は越中にいた時、「越中幕府」なる名称を使い、その正統性をアピールしていた。たまたま領国が近くにあった幾人かの守護は、「念のため」、付け届けをしたりしている。周防国でも将軍様がいる以上、そこは「幕府」であった。
ただし、周防幕府、山口御所、などという名称は「ない」。だが、やっていることは、越中にいた時と同じように、「正式な」将軍の名で、あれこれの教書を出したり、檄文を飛ばすことだ。義興は彼の「政務」を助けながら、事実上「管領」のようなことになった。ただし、そのような名称を自称してはいない。ただ、公文書の署名が、それらしいのである。実質上、義材の政権を切り盛りしていたナンバーツーと言ってよい。とは言え、自らの分国の政務もたいへんなのだから、いきなり迷惑な話であった。一刻も早く京に帰りたいと気がせく義材であったが、義興はそれを必死に押しとどめる。
確かに、大内家の軍事力の強大さは、応仁の乱で、父の政弘が上洛の道中向かうところ敵なしで、到着後も、東軍不利の状況をひっくり返したことからも分かる。だが、その後の長い膠着状態を思い起こしても、下手に動くのは危険である。
そんな風にして、面倒な将軍が居候すること八年。
ようやく、絶好の機会がやって来た。京で、細川政元が家臣に暗殺されたのである。「半将軍」の死で騒然となる京に、西からは大軍を率いた元・将軍が現れた。
この政元という男には、跡継ぎがいなかった。暗殺という非情な手段になったのも、養子同士の争いからだ。そんな具合だから、政元は死んでも、誰がその後を継ぐかで、騒ぎはすぐには鎮静化しない。

Name
うぐぐ……ま、まさか、半将軍たるこのわしが……こ、このような最期を迎えるとは……。
Name
上手くいったか。
これからは、この家の主は私だ。
Name
そう簡単にはいきませんよ。
我らが細川家の血を一滴も継いでいない、そこらの公家から来た養子なんぞに、この家を継がせるものですか。
Name
よくぞ申した。これが我ら細川一門の総意だ。思い知れ。

養父・政元を暗殺したのは養子・澄之の家臣だが、澄之の天下は僅かな期間。すぐに、細川澄元・髙国の二人の養子によって倒されてしまった。
こうして、細川家の当主が澄元に確定したのも束の間、今度は元将軍・義材の上洛で、現・将軍義澄の身が危うくなった。

Name
将軍様ーー、ここは危のうございます。
取り敢えず、逃げましょう……。
Name
くっ、今出川め……。
将軍はこの私だ。決して、あやつに譲ったりはせぬぞ。
必ずや取り返して見せる……

義興は政元暗殺という京を揺るがす大事件の機に乗じたのであった。すったもんだの末、養父・政元を殺した澄之を倒し、細川家の家督を継いだ細川澄元であったが、前将軍の上洛に泡を喰らって、将軍・義澄とともに、近江へ逃れるのが精いっぱいであった。

京での日々

上洛した義興は、義材を守りつつ京暮らしとなる。
周防に下向してきた義材を匿い、上洛を助け、これほどまでに尽くしたというのに、「家格」のせいで、義興の役職は「管領」ではなく「管領代」であった。
細川澄元とともに、澄之を殺し、澄元と友好的であったはずの髙国は、なぜかそのご澄元と袂を分かち合った。澄元が義澄について近江に逃れたのを尻目に、髙国はちゃっかり新将軍(正式には『復職』)義材を迎え入れ、細川家の当主として認められたばかりか、管領職にも就いている。この変わり身の早さ。とても真似できない。

Name
ふふふ、やはり、管領職は代々この細川家のものですよねぇ?
(周防の田舎者めが)

そんなことを気にするような義興ではないが、やはりあまり気分の良いものではなかったろう。そもそも、細川家とは犬猿の仲なのだ。二つに分裂した細川家の片方が義材についていたため、行きがかり上「仲間」のようになってはいたが。
じっさい、長く京で暮らすうちに、細川家の家臣の横暴に耐えられなくなった大内家の者は、しばしば喧嘩騒ぎを起こすようになった。
はては、有名な寧波事件なども起こっている。
いい加減、周防に帰りたくなった義興はなんども、義材に打診したが、その度に断られた。義材の政権がもっているのは、大内家の軍事力に支えれれているからのようなものであったから、帰国などされては困るからである。

Name
いい加減、周防に戻りませんと。
石見や安芸が気がかりでございます。
Name
しかし……お許しがでないのだ。

大内家が京を去れば、今度は近江に隠れている義澄と澄元が攻め寄せて来るであろう。そんな事態になったら、またも京は戦火に見舞われる。
義材とは違う意味で、朝廷も義興を慰留した。そのために、次々と彼に高官を与えて引き留めをはかり、気が付いたら、なんと義興の官位は、将軍である義材のそれを上回ってしまっていた。

Name
なぬ!? 大内介の官職が、将軍である余を上回っただと?
むむ……あやつ、いい気になりおるからに。

へそを曲げた義材は出奔騒ぎを起こすなどして、騒ぎ立て、義興は、高国、尚順らとともに、苦労して将軍を京に連れ帰さねばならなかった。
つまらないことで駄々をこねるなど、将軍としてあるまじき義材の姿に、さすがの義興も嫌気がさしてしまった。
病気療養を言い訳に、堺に湯治に出かけた義興はそのまま周防に帰国した。
分国はそれこそ、風雲急を告げていたのである。
尼子家との全面対決を前にして、義興は、現在の山口大神宮を勧進している。
これが、最後の穏やかな日々となった。

無念の死

足利義材との迷惑極まりない茶番に十年もの間付き合わされた義興が、帰国後真っ先にしたことは、神社の勧進だった。意外なようにも見えるが、民の心の拠り所として、神仏を大切にすることは領主としての大事な仕事の一つである。
かなり大がかりな工事となった。
その寺院は今も大切にされている。
京での十年、紆余曲折あったが、学ぶところも多かった。とは言え、父の政弘ほど、典雅な世界にどっぷり浸かる義興でもなかった。すでに、家中には、十分過ぎる文化的教養の素地があり、この上上書きする意味もなかったのだろう。
それよりも何よりも、留守の間に増長した周辺の勢力への牽制が第一の任務であった。さしあたっては、日が昇る勢いである尼子家が大問題であった。よって、残された歳月、義興は全勢力を中国平定に向けた。
まさに、人生はすべて戦いの日々。思えば、京にいた十年とて、彼が必要とされたのは、その「軍事力」ゆえに。そうなれば、雅な暮らしを楽しむためというよりは、警備でもしている雰囲気である。
もちろん、父親譲りの風雅な一面もあるから、雅なエピソードもちらほらあるが、これ以上文字数が増えるのはよろしくないだろう。

寿命は誰にも決められない

義興は尼子との戦の最中に病にかかり、五十代で世を去った。すでに、嫡男・亀童丸は成人していたし、思い残すことは何もなかった。
しかし、尼子と言う大敵を残したまま志半ばで世を去ることは、どんなにつらかったろうか。家臣たちは話し合いの末、義興にまだ息があるうちに、戦を切り上げて、なんとか山口に連れて帰った。
あともう少し、彼に時間が遺されていたなら、この後の歴史はどうなっていたのだろうか。義材との腐れ縁は、義興から貴重な時間を奪い去ってしまったようである。
しかし、彼は、最後まで、忠義の幕臣だった。尼子との戦も自らの領国を守るため。領土拡張しようなどという思いはなかっただろう。
ただ、義材との付き合いのなかで、義興も公方というものの実態を知ってしまった。この後も、それ以前と同じように接することができたかどうかは、もはや誰にも分からない。

ここまでのまとめ
周防に下向してきた足利義材の将軍職復職を助け、上洛した。
大内家の軍事力だけが頼りの義材、さらには朝廷にまで引き留められて、在京期間は十年を超えた。
その間に、分国の周辺では尼子経久や毛利元就が力をつけてしまった。
宿敵・尼子経久との全面対決を前にして無念にも病に倒れた。

愛する我が子のとんでもない末路

出来すぎた父の早過ぎる死。いや、五十代といえば、織田某が歌っていたように人間五十年だった時代なので、まずまずの寿命ではある。だが、毛利元就、尼子経久らが八十代と高齢になるまで矍鑠としていたことを考えると、運が悪いと思わざるを得ない。
それも、それらの海千山千の知略と武勇を兼ね備えた大物に対抗するには、彼の遺児は器が小さすぎた。いや、無能だったというのではない。周辺のそれらの人物が、化け物すぎたのである。
将来を託した息子・義隆は、あまりに「普通」すぎた。風雅を好み、美しい物を愛した(「者」ではないからな)彼に、戦国の世を渡っていくのは辛すぎた。世の中は、公家趣味の館で、平和な日々を過ごすことを許してはくれなかったからだ。
もしも、先祖の弘世、義弘といった猛者や、父や祖父のような文武の将ならば、対応は少し違っていたかも知れないのだが。
父祖から与えられた豊かすぎる王国を、彼の息子は守り通すことが出来なかった。
臨終の床で、義興にはそんな将来が見えていただろうか?

山口の町には義興様がいっぱい

山口市内を歩いていると、何かしら「義興公」にぶち当たる。山口大神宮のような大物もそうだが、観光ガイドに載っていないような寺院にもその足跡があるのだ。
夕ご飯を買いに行ったコンビニまでの道すがら、おや? こんなところに寺院が……。と、中に入っていくと、なんとゆかりの寺であった。
こういうことが、数限りなくあるのが山口である。

今も残る寺社

市内にある有名自社で、無関係なところはないと言っていいだろう。なぜかなら、たとえ、本人が建立していなかったとしても、補修工事をした、改築した、何かを寄進した、戦勝祈願に訪れた、と寺社絡みの記録は数え切れないからである。
勿論、昨今は寺社も財政難であって、寄付を募ったり、仕方なく場所や名前を変えたりということは避けられない。
それでも、およそ、創建当時のままで残っている寺社がないわけではない。
それらについては、観光案内ページに書いたので、後程、義興公との関係も調べ上げて、それぞれの記述をより深めていきたい。

廃墟となった最強の主の菩提寺

義興様の菩提寺・凌雲寺。ここは残念ながら、完全なる廃墟である。ただし、行政が、大内氏遺跡に指定してくれたお陰で、きちんと守られている。現在も発掘作業が進行中であるから、やがてはその全容が明らかになるのかもしれない。
しかし、あまりにも広大な敷地を見ていると、生きている間には無理なのかな、と思う(別に、おばーさんじゃないんですが)。そのくらい、時間と労力が必要とされる作業なのだ。
現在、跡地には、復元された惣門と、義興の墓と言われるものが残る。傍には、夫人と開山僧のものとされる小さな石塔もあった。
吹きっ晒しの墓を見ていると、どうして、毛利さんはここだけは再建してくれなかったのかな、と思うのである。
しかし、毛利元就氏の墓を見た時、初めて分かったことがある。
基本、墓は吹きっ晒しなのである。屋根などついてはいないのだ。
そう言えば、先祖の墓もそうであった。

ここまでのまとめ
将来を託した愛する我が子・義隆はなんと家臣らの謀叛によって自害に追い込まれる。
当然、義興の死後のことだから、その悲劇を知らなくてすんだ。
山口の町には、いまも、義興の痕跡が至る所にある。
菩提寺・凌雲寺は廃寺となってしまい、現在は、墓と伝えられるものが残るばかり。ただし、地道な発掘作業が続けられ、現在「惣門跡」が復元されている。

年譜

明応四(1495)年二月二十八日、防府に兵を派遣し長門守護代・内藤、弘矩及びその子・弘和を討伐する。弘矩父子は抗戦の後、敗死した。
九月十八日、父・政弘死去。

五(1496)年十一月二十二日、少弐政資が筑前に侵攻する。
十二月十三日、少弐討伐のため、筑前に出陣。
『肥陽軍記』に、「政資は三前二島を安堵して全盛十五六年におよぶ。それなのに西肥前青山の城主留守氏を理由もなく攻撃して追放した。また、筑前国宗像大宮司の許にあった重代の宝物を無体に所望し、大宮司がそれを深く惜しむのに腹を立てて、罪なき大宮司を殺害した。留守氏は中国に渡って、大内家に少弐の悪逆を訴えた。大内義興は時至りぬと、六万余騎を引率して筑前へ軍を出動させた」と記されている。

六(1497)年三月十三日、博多・聖福寺門前にて戦う。
十五日、筑紫村及び城山にて戦う(天野氏所蔵古文書に、高鳥居城を攻めるとあるのはこの城山のことであろう)。
二十三日、肥前・朝日城を攻め落とす。
四月十四日、少弐政資を小城城に囲む。
十六日、先に山口に帰還していたが、この日、周防国一宮・佐波郡玉祖神社(大崎村鎮坐、式内)、二宮・同郡得地の出雲神社(堀村鎮坐、式内)、三宮・吉敷郡宮野荘の仁壁神社(宮野下村鎮坐、式内)、四宮・同郡吉敷荘の赤田神社(吉敷村鎮坐、官知)五宮・同郡同荘の浅田神社(朝田村鎮坐、未官知)に参詣した。
五社参詣次第:五社参詣の行程は、十七、八里である。現在(管理人注・『実録』の作者近藤先生は明治時代の方である)も山口に住む人々は、必ず上の五社に行くとは限らないものの、五社詣といって五社に参詣する慣習がある。
十八日、小城城を落とし、政資は逃亡した。
『肥陽軍記』に、「大内義興は時至りぬと、六万余騎を引率し筑前へ軍を進めた。政資方は戦況芳しくなく、肥前国晴気の城主・千葉介胤資は政資が弟であったので、政資は晴気城に入った。中国勢はつづけて晴気城を攻め、胤資すでに討死し、政資は同国多久梶峰の城にむ逃れた。しかし、多久氏が心変わりして(大内家に降った)ために、政資は終に切腹し、嫡子・新少弐高経も東肥前城原の城を落され、同国広瀬山にて自殺した」とある。思うに、本文の小城城は晴気城のことだろう。さて政資、および新少弐高経の切腹の月日がいつであるかは分からない。
秋九月、内藤弘春を長門守護代とす。
十八日、父・政弘の位牌を高野山成慶院にまつる。

七(1498)年八月二十七日、先に、敵軍は九州探題を肥前綾部城に囲んでおり、援軍として仁保護郷らを派遣していたが、この日、肄基、養父両郡にて合戦し敵兵を破った。
九月十七日、護郷らは、肄基、養父で敗れた敵兵が三根郡に集まり、中野に要害を構えていたのを撃破した。
十一月、右田弘量及び末武長安らを豊後に派遣し、日田、玖珠二郡を攻める。
七日、玖珠郡青内山にて戦ったが、戦況は不利であり、弘量は戦死。長安も負傷した。
東寺過去帳に、九州にて、大内介と、菊池・小弐・大友以下牢人が合戦し、死者の数百人、裏に明応七年、牢人衆が攻め返して、双方死者数百人、「大内介難義に及ぶ」云々とある。

八(1499)年正月十七日、吉敷郡仁保の瑠璃光寺出火。
七月二十五日、杉弘国を派遣し豊前を攻める。
八月二十九日、企救郡小倉津にて戦う。
十一月、太宰筑後太郎頼総ら筑前を乱す。十九日、大分村に戦ってをこれを敗り、八幡馬場及び内野坂に追撃。天野元連の配下が、河村豊後、太宰四郎を斬った。

九(1500)年三月五日、先に細川政元に幽閉されていた、将軍・足利義尹(義材)は、後北国に逃れ、政元討伐の兵を挙げたが、政元方に敗れていた。この日、義尹が周防を訪れ、ひとえに大内家の忠勤を頼みとする、との思し召しであったので、山口に招き、今八幡宮の宮司坊・神光寺をその居館とした。
神光寺は上宇野令村江良の七尾山麓にあり、明治三年、長山平蓮寺を合併して今は神蓮寺という。当時は今八幡宮が鎮座する亀山の右側の地にあって、その背後の地、宮野下村の内にかけて字を御屋敷といった。義尹の館跡だったとの言い伝えである。思うに、当時、神光寺は広いとはいっても、将軍の居館とするには狭かったので、地つづきに増築し、この名が残ったのだろう。
この日、将軍を居館に迎えてもてなした。
将軍下向の年月の詳細は分からない。諸記録あって、食い違っており、いずれが正しいのかわからないため、今暫く根拠の多いものに従っておく。
将軍は、中国・西国・九州の諸将に御内書をお授けになり、義興もこれに添え書きして将軍家に忠勤を尽くすよう、指令した。

文亀元(1501)年二月一日、去年丹波国から下向して、将軍に仕えていた荻野三郎光豊が今八幡宮に参詣したおり、車寄の榎に一流の旗が懸かっているのを見つけた。これを取って、宮司坊の権少僧都真乗坊定了に渡したが、定了は親族・法師定慶に持参させて、義興に見せた。
義興が見てみると、異国の文字で神号を書き、その下に将軍・尊氏が、建武三年に豊前・宇佐八幡宮に奉納したという由来を記したものであった。取り敢えず、義尹にさしあげた。三日、義尹は、剣馬を今八幡宮に寄進し、義興は重代の菊銘の太刀、刀及び馬一疋を奉納した。四日、旗の模本を造り、相良正任に裏書を命じて今八幡宮に納めた。
閏六月二十日、大友、少弐(少弐は政資の二男、名は資元)が豊前に侵攻し、馬岡城を攻めた(馬岳、高山もしくは小高山ともいう)。
二十四日、先に援軍として馬岡に派遣していた神代与三兵衛尉が、安楽平、高祖両城内の兵を引き連れて馬岡城に入った。
仁保護郷は、仲津郡沓尾崎にて戦ったが、戦況不利であり、戦死した。
七月六日、氷上山妙見社に九州の凶徒退治の祈願をし、重代の剣・鳶切を奉納する。
二十三日、杉木弘依らを援軍として馬岡に派遣する。城兵力を合わせて戦い、大友・少弐軍を退けた。

永正四(1507)年十一月二十五日、六月に細川政元が家人に殺害され、洛中がごたごたしていると聞き及んでいたので、将軍を奉じて、この日、山口から防府に出立、中国・西国・九州の兵を召集した。

五(1508)年四月、細川高国が先駆けを承り東上する。
九日、細川澄元及び三好希雲らは、義興の東上を聞き、京から出奔した。
十日、高国は上洛して、従父弟・中務丞尹賢に、摂津・池田城を攻撃させた。
十六日、将軍・足利義澄は近江に出奔。
二十七日、義興は将軍を奉じ、堺浦に到達した。(数百艙で船出し、順調に漕ぎ出して泉州・堺に到達。諸侯が出迎えたとある。船出の日にちは分からない)
五月十日、細川尹賢、池田城を攻め落し、城主・池田筑後守を斬る。
六月八日、将軍入洛。
七月一日、将軍復職。
八月一日、従四位下に叙された。
九月十四日、従四位上に進む。

六(1509)年八月、少弐の残党が筑前にて挙兵。軍を派遣してこれを撃つ。

七(1510)年四月、将軍に吹挙して本郷扶泰にの若狭国本領を安堵してもらう。

八(1511)年七月、細川澄元が兵を挙げ、細川政賢と和泉に出陣。淡路守は摂津に出陣した。細川高国は両国に兵を派遣してこれを防いだ。
二十六日、灘にて戦う。
八月、高国軍が敗走し鷹尾城(菟原郡、城主・河原林対馬守正頼、八月十日夜退城)・伊丹城などが落ちた。そこで、義興は、今は敵が勢いづいているので、ここは一旦退いて、敵を上京させ、やがて思い上がった敵軍の勢力が衰えてから返り討ちにするのが良い、と提案した。
十六日、将軍は丹波・守護代・内藤貞正邸に下向した。
細川政賢は細川刑部少輔(和泉国守護)、三上兵庫介、三宅出羽守、九里六郎、遊佐河内入道印波、山中遠江守、荻原弥十郎、赤沢孫二郎、竹内孫六郎(九里の弟)以下、一万五六千人を率いて進入追撃した。後陣は兵を引き返して、千本口にてこれらを退けた。
二十三日、将軍は丹波から上り、高雄に陣を置いた。義興は細川高国らと長坂山に、敵は紫野船岡今宮林に布陣した。
二十四日、義興はこの日の先鋒を承り・陶興房を先駆けとして、船岡に向かった。義興は「勇ならんと欲する者は我が余勇を賈え」と大声で叫び、単騎で先頭に立って戦った。敵の人馬は怖れて逃げ出した。乃美肥前守(思うに肥前守は備前守の誤りか? 備前守ならば安芸国衆である)及び興房の配下・江良藤兵衛尉、深野石見守らが多くの人家に火を放ち、味方はこれに乗じて奮闘した。遂に敵陣はことごとく敗れて、細川右馬助政賢以下数十人が戦死した(房顕記には、近江衆竹下ほか数万が切られ果てたとある)。澄元は逃走した。
九月一日、将軍入洛。

九(1512)年春、去年の十二月二十五日嵯峨野に遊んだおり、西芳寺にて、義興は「かくばかり遠き吾妻の不二がねを今ぞみやこの雪の曙」という歌を詠んでいたが、この歌が殊勝であるとして、伏見中務卿貞敦規王をはじめとして公卿十三人が和答したのが天皇のお耳に入り、「雪に見し山は不二がね言の葉の世々の其名も雲の上まで」という御製を賜った。従三位に叙された。

十一(1502)年、将軍が馬及び国宗の太刀を氷上山に寄進した。

十二(1503)年、安芸国佐西郡の兵が東西に分れ、東方は五日市の宍戸治部少輔を首将として桜尾城に拠り、西方は新里若狭守を首将として藤懸城に拠って、相争った。佐東郡金山城主・武田刑部少輔元繁は、遠祖・伊豆守信武が建武年間に安芸の守護職に任じられてからの連綿たる名族であるが、反乱鎮圧のためと、将軍家に願い出て下向した。その志を強固なものとするために、飛鳥井氏の娘を養女として元繁に娶らせたが、元繁は安芸に下向するやいなやこれを離縁して、東方に荷担し、勝手にに神領に進入した。大野の河内城は攻撃することもなく自ら明け退いたので、山県郡の有田城を攻めた。城主・己斐某はこれを注進したから、高田郡郡山城主・毛利興元に有田城へ援軍を送らせると、元繁は包囲を解いて去った。
十一月十三日、氷上山妙見に菊銘の太刀、行平の刀を寄進する。
十二月二日、将軍の三条の新館が落成した。昨日、伊勢守貞陸邸に一泊し、本日亥刻に移転したものである。義興は病のため、出向くことが出来なかったので、杉越前守を遣わし、太刀と折紙を献じてお祝いした。

十三(1504)年、摂州有馬の温泉に浴す。これより直に堺に出て帰国したいと願ったが、将軍に引き留められたので、堺に滞在し、京には戻らなかった。

十四(1505)年二月十三日、嫡男・義隆、氷上山上宮に参詣。
十二月、去年八月に毛利興元が死去し、その子・幸松丸が家督を継いだが、わずかに二歳だったので、武田元繁が憚る所なくまた山県に侵攻し、今田の要害に拠て近辺を侵略し、有田城もあやうくなった。
二十二日、幸松丸の叔父・元就は有田を援けたが、武田旗下の驍将・安北郡三入高松城主・熊谷二郎三郎元直が元就を妨げた。元就はこれを打ち破り、元直を斬った。元繁は元直の敗死を聞いて、軍を二つに分け、一軍を留めて城兵の突出に備え、一軍を率いて元就の陣を衝いた。元就は応戦してしてまたこれを破り、元繁を斬った。

十五(1506)年八月二日、堺を発して帰国。
十月五日、山口に帰着。
十一月、前々から、天照大神を山口に勧請したいという願いがあったが、その地を高嶺山麓とした。
十三日、釿始の式を行う。

十六(1507)年十一月三日、高嶺内宮落成。
九日、竪小路に鎮坐する祇園社は、市中にては(旧址、上宇野令村字水ノ上にあり、古祇園という、二十年前までは古杉があった)不浄の恐れがあったため、神明の敷地内に移そうと仮殿を建立してあったが、本日これに神霊を移した。

十七(1508)年四月八日、高嶺外宮落成。
六月六日、四月十二日から祇園社を高嶺に運び、十五日に立柱していたのが、本日落成した。
七日、祇園仮殿より今道の御旅所(旧址あり、今の今市町になった年代は不詳)にご神体を渡御。
十四日、祇園から還るはずが、雨天によって延期。十八日夜遷宮、今道より直に新殿に還幸した。
二十六日、先に、吉田神主より天照大神の御体代を奉送し、伊勢から下向していた御師高向二頭大夫光定が、儀式を整え、本日より参篭した。
二十九日夜、遷宮式を行い、義興父子が参詣した。「高嶺神明」と崇めるべしと定めた。後に高嶺太神宮の勅額を賜った。
十二月十日、長門国豊浦郡阿弥陀寺出火。

大永元(1521)年十月一日、氷上山本堂を再建し、本日上棟式を執り行う。氷上山に上り、祝った。

二(1522)年正月、陶興房に命じ安芸国佐東郡を攻める。
十三日、興房軍令を布告。
三月、興房佐東に出て藤丸に布陣。
十八日、仁保島にて戦う。
四月六日、上八屋にて戦う。
十六日、同所にて戦う。
八月、毛利元就に、山県郡壬生城を攻撃させ、十六日、これを落とす。
興房は今春以来、所々にて戦ったけれども、新庄の小幡の城を取っただけであったが、兵を引き上げた。

三(1523)年夏、出雲国能儀郡富田月山城主・尼子伊予守経久は安芸に出陣し、安北郡北池田に布陣した。経久が毛利元就を招くと、元就はこれに応じた。合流して坂城を攻め、坂城を落とした。尼子方は進軍して佐東郡に入り鏡山城を攻めた。鏡山は落城し、城主・蔵田備中守信房は戦死した。
四月十一日、永正五(1508)年、厳嶋神主四郎興親は将軍に随従してし上洛していたが、その年の十二月八日に病死して神主の家は断絶していた。そこで、小方加賀守は友田上野介興藤と神主職を競望するにおよび、「訟するものは中より取れ」との諺があるから、桜尾、己斐、石道本城に城番を置き神領を預かった。興藤は念願がかなわなかったのを憤り、武田光和らに援軍を乞い、この日、兵を挙げて己斐城番・内藤孫六、桜尾城番・大藤加賀守、石道本城城番・杉甲斐守を追放して、桜尾に入城した。杉は廿日市の後小路にて佐東兵に殺された。これを聞いて、陶興房及び弘中下野守、弘中越後守武長らを芸州に派遣し興藤を攻めた。興房は佐西郡に出て、大野の門山に陣し、八月五日、友田にて戦った。弘中武長は警固船に将として斎藤次郎高利等を率い、大島郡遠崎を一日に出帆し、十八日、厳島に渡り、友田の番兵を追い払い、進軍して廿日市の番兵をも攻め逃走させた。
十月三日、佐東兵が侵攻し厳島を襲ったが、迎撃してこれを破った。
十一月一日、佐東兵に囲れていた石道の小幡興行は、和解して、親族八人が切腹した。興行は城を出て、三宅の円明寺に入った。この日、弘中武長が五日市を焼いた。
五日、また同所に放火した。帰還の際、敵兵に襲撃され、野間刑部大輔、能美弾正忠及び武長の配下・兵野村民部丞ら二十余人が戦死した。
この年、僧宗設を明に派遣した。細川高国も宋素卿及び僧瑞佐を派遣していたが、宗設は素卿らに先立って寧波に到着した。しかし、素卿は寧波市舶大監に賄賂を送り、宗設よりはやく府に入る。宗設は大いに憤って府を騒がした。素卿はもと鄭人にて朱縞という者だったが、日本に亡命して姓名を変え、細川氏の使者となったことが露顕して国法により処罰された。宗設、瑞佐は使いをはたして帰国した。

四(1524)年五月六日、陶興房、大野城を攻める。
十二日、友田興藤は武田光和と合流し、大野の後援に女滝に出陣する。大野城主・弾正少弼は興房と誼を通じ、城を焼いた。興藤と光和は逃げ、興房はこれを追撃した。
六月、義興は大野での勝ち戦の知らせを聞き、義隆を伴って芸州に出陣した。この月、杉修理亮、筑前にて戦う。宗像四郎らが杉に合力した。
七月三日、桜尾城を囲む。興房は岩戸山に陣を置き、吉見、杉、内藤らは天神山篠尾に布陣した。義興は厳島の勝山に仮の館を造ってこれを本営とし、日々桜尾に渡り兵士の働きを調べた。
二十四日。陶軍は桜尾城の二の郭に切り入って戦った。二十五日また戦う。これより八月一日まで日々戦った。
二十三日、また戦う。
十月十日、味方は車櫓を造り、北下りに桜尾におし懸て攻撃したが、敵城兵は笛太鼓にてこれを囃しつつ防御していた。だが、遂に力尽きた興藤は、吉見三河守頼興について降伏を申し出たので、これを許した。興藤は子息・藤太郎を厳島に渡し、本日謁見した。

五(1525)年正月二十八日、厳島社に参詣。
二月十日、陶興房、岩戸陣より厳島に渡り義興をもてなす。二十二日。義興は大野に渡り、門山の地を見た。この日、有浦に繋がれていた本船が失火により燃えてしまった。当直の能美孫三郎は旗筥を取り出し、海波を潜って洋中の浮礁に身を隠した。孫三郎当直のことならば、切腹を命じられるのでは、と皆は思ったが、門山より帰島した義興は、孫三郎が若輩ながら、御旗を心がけて取出したのは比類ない働きであると褒賞して、熊毛郡田布施において五十貫足の地を与えたのだった。
二十六日、厳島より門山に陣を移す。
四月五日、興房、矢野に進軍する。
六月、興房、賀茂郡に入り、天野民部大輔興定の志芳庄米山城を囲む。毛利元就は尼子氏と断絶して味方になっていたが、米山に使いを遣わし、興定を諭して味方に引き入れた。
八月六日、興房、天野興定と共に、志芳奥尾にて佐東兵と戦う。二十七日、志和別府で戦った。
房顕記によれば、米山攻めにとりかかり、和議の後、黒山合戦にて、興房の配下・江良三郎、屋形三島彦九郎、陶内深野松助、同名平太郎、宗徒衆合計十人が戦死した。尼子衆は、牛尾備後守、米原衆、備後□など数十人が戦死。防州衆は備後より帰陣し、浅沼の内野村大藤備後陣の留守□□付而、世野鳥子攻めにとりかかる、野村木工允に腹を切らせ、和議となったと見える。黒山合戦の年月日いまだ不明。世野鳥子城合戦は七年三月である。
十二月、大友氏より援軍一万ばかりが派遣され、二十七、八両日に厳島に到着した。
この年、筑前国で一揆が起こる。これを平定し、張本四人を処罰した。

六(1526)年春、大友兵を合せ佐東□中城に向った。石道新城等の城砦は戦わずして敗れた。ただちに□中に進み、ここもりに陣を置く。□中城は国中にて有名な要害であるが、味方多勢に威圧されて、降伏を望んできた。これを許し、内藤玄蕃助、渋谷某両人を切腹させた。大友軍は本国に流言があって帰国した。
七月五日、佐西郡草津にて戦う。
九月十七日、防府松崎天満宮出火。

七(1527)年二月七日、石道新城にて戦う。(去年開城したが、大友軍帰国の後、復活していた)
九日、安南郡熊野城を落とす。
三月七日、新城にて戦う。
八日、興房、毛利元就、天野興定、益田尹兼と合流し、安南郡世能鳥子城を囲む。
十日、鳥子城にて戦う。
十八日、馬子城、降伏を望む。これを許し、城主・野村木工允に切腹させた。
四月七日、安南郡府中城を攻める。
五月五日、府中城にて戦う。
六日、府中城の西固屋を落とす。
八日、府中城にて戦う
十二日、又戦う。
十三日、武田軍が府中城に来援し松笠山を襲撃した。迎撃してこれを破った。
三十日、佐東郡久村にて戦う。
六月二十一日、府中城にて戦う。
八月九日、興房、尼子伊予守経久と備後国三谷郡和智郷細沢山にて戦う。
九月、僧源松を明に派遣し明主の即位を祝った。
十一月二十七日、興房、備後国三次郡三次にて戦う。

享禄元(1528)年二月十三日、吉敷郡鯖山禅昌寺出火。
七月十四日、義興は病に罹患していたが、日を追うごとに重くなるので、佐東から陶興房、野田興方、右田××、杉興重、内藤興盛、門山から杉民部入道、右田右京亮が厳島に帰還し、話し合う。
二十日、興房、友田興藤を諭し、その子・掃部頭広就を厳島に渡らせて義興に謁見させる。
十二月二十日、義興は山口に還って、療養していたが、遂にこの日に亡くなった。
享年五十二歳。吉敷郡中尾村凌雲寺に葬り、凌雲寺傑叟義秀と法名す。

参考文献:近藤清石『大内家実録』世家・義興より
リニューアル前初出:2020年4月2日 『周防山口館』大内関連武将事典 改編
『大内庭園』サイト転載日: 2020年7月27日 19:04
最終更新日:現在の「投稿日」日時

於児丸&ミル的講評
大内家が最も隆盛を極めた時期の当主。義理堅く情に厚い若者で、家臣にも領民にも深く慕われている。何人かの問題ある人物以外、他人を疑うという事をしないため、損をするケースも。間違いなく、歴代当主の中で、最も優れていた完璧な人物である。その生涯は合戦、合戦また合戦で心休まる時期は少なかった。足利将軍家の家督問題に深入りさせられたことも悲劇の一つかと。お人好しが損をするのは、今も昔も変わらない。

武勇:★5
知略:★5
政治:★5
財力:★5
教養:★4.5
ルックス:英姿颯爽
性格:義理人情に厚い、真面目、お人好し
総合評価:★5⁻
講評:能力値、人柄ともに申し分なし。強いて言えば……人が良すぎて損をしている。勿論、とてつもないイケメンぶり。