
大内氏ゆかりの人について書いています。今回は滅亡後に山口に侵攻してきた大内輝弘について。大友家の居候やってた人が、大友宗麟に唆されて大内氏再興とか思ったんでしょうか。貴重な文化財の多くが灰となり、どうしてくれようというお方です。むろん退治されました。
大内輝弘とは?
戦国期の武将。義興兄弟・高弘の子で、大友家に保護されていました。永禄十二年(1569)、毛利軍が筑前に出陣した際、大友宗麟に唆されて挙兵。主力が留守であったこともあり、渡海当初は山口に侵攻する勢いでしたが、毛利家の留守部隊もよく守り、すぐに本隊が帰還したことで、壊滅状態となり自殺。お家再興の望みを抱いていたものか不明ながら、その夢は叶うことなく、叛乱はわずかな期間で鎮圧されました。
基本データ
生没年 ?~1569.10.21
父 大内髙弘
呼称 太郎左衛門尉※※
法名 定葱
※輝弘の「輝」は将軍・義輝から与えられたもの
※※『新撰大内氏系図』では「左衛門尉」、『大内村誌』では「太郎左衛門尉」
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『日本史広事典』、『大内村誌』)
略年表(生涯)
・義興期に家督争いに失敗して九州に逃れた高弘の子として、大友氏に身を寄せていた
永禄十二年(1569) 毛利氏統治下となった山口に侵攻、叛乱を起こす。元就父子帰還により鎮圧されて死亡。
父子混同の問題
近藤清石先生の『大内氏実録』では、輝弘を父・高弘と同一人物と見なしています。この説は現在は否定されており、親子関係であるということは諸先生方のご研究でも明らかになっています(要は史料もある。でも、それら史料を目にすることは無理なので事典類を典拠にしております)。近藤先生ご自身も、年齢的に考えて無理があると感じておられたようですが、当時のご研究では別人であると断定できる史料がまだなかったのかも知れません。
主な事蹟
大内氏再興を目指して挙兵
大内氏滅亡から十余年過ぎた頃(1555とするか1557とするかはお好みで)、永禄十二年(1569)十月、大友義鎮(=宗麟)は大友家に居候状態となっていた輝弘に兵若干(2000、参照:『大内文化研究要覧』)を預け、旧国を回復するよう命じます。上手くいけば、お家再興が叶い、輝弘は当主の座につくことができます。輝弘は大いに悦び、周防国吉敷郡秋穂に渡海。秋穂、岐波、白松、藤曲等の地元民(大内氏残党6000、同上)がこれに呼応しました。
それまでにも、大内氏残党が叛乱を起こしたことはありましたが、すべて鎮圧されています。いかに元就公が最後の殿さまの仇討ちとして「義軍」を挙げ、元家臣たちもつぎつぎと降伏したとはいえ、統治者の交代で国内が混乱状態にあったことは否めません。さらに、領土の拡大により対大友との合戦も始まっており、元就はじめ主力は山口を離れ、九州にいました。先に、大友宗麟は、「豊後の船監若林鎮興に命じて、八月九日周防吉敷郡合尾(秋穂)浦を襲撃させ、毛利軍の背後を牽制すると共に、強行偵察を試み」(参照:『大内村誌』)ていました。
このような状況下で騒ぎを起こせば、それなりの効果は望めます。大友家の後押しもあるわけなので、心強いこと限りなし。ただし、それを以て「旧国回復」までこぎつけられるかと言えば、考えが甘すぎるように思えます。輝弘にはお家再興の願いがあったのか、単に父の代に追い出された恨みから鬱憤晴らしも兼ねて遅まきながら当主の座についてやろうという野心でもあったのか、さてどちらでしょう。本人に確かめる術はありません。これもまた、お家再興を願っての行動ととらえれば麗しい物語となるようで、輝弘に感心なさる方が一定数おられるのは事実ですが。
ちなみに、『大内村誌』の記述に基づいて考えると、輝弘の周防侵攻は、宗麟に唆されたためではなく、輝弘による自発的なものであり、大友家はそれを援護した、という流れとなっています。
あっと言う間に鎮圧される
毛利軍主力が離れている隙をついてのことですから、渡海後しばしの間は戦果をあげることができました。輝弘は、豊後木付ノ浦から船を出し、大友家の若林鎮興に護送されて、十一日に秋穂浦に上陸。翌十二日、陶峠から山口に入ります。
緊急事態の知らせに探りに駆けつけた山口町奉行・井上善兵衛尉就貞という人は、平野口で糸根峠を上って来る輝弘と遭遇してしまいます。就貞は輝弘に殺害されてしまい、ほかにも、三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎などという方々が命を落としました。
山口に入った輝弘は、築山館および龍福寺を本営とし、高嶺城を囲みます。この際、山口市内各所に放火。高嶺城は、市川経好が守る城でした。しかし、経好は九州に出陣中で留守でした。そこで、経好夫人が留守部隊とともに城を守ります。まさに女傑。いっぽうで、元就の陣営にも報告を入れ、また、安芸石見にも急をしらせて援軍を求めました。毛利軍の守りは堅く、輝弘は高嶺城を落とすことができませんでした。
真っ先に駆けつけたのが、石見の吉見勢。輝弘は宮野で迎え撃ち、敵将上領余二郎等を倒します(日付や地名など不明らしく、『大内氏実録』の近藤先生は十七日に宮野でではないかと推測なさっています)。輝弘が威勢良かったのはここまででした。
輝弘の元には、毛利家の支配を快く思わない者が馳せ参じ、一時はその数、五、六千にまで達していたといいます(参照:『大内村誌』)しかし、吉川元春を大将に、福原貞俊が先鋒となって鎮圧に来る、しかもその兵一万(同上)と聞いた輝弘の軍勢には動揺が走ります。二十四日までには皆逃亡し、壊滅状態となった模様です。輝弘は山口を諦めて秋穂に逃れ、渡海しようとしたがかなわず、海に沿って防府に至ります。ここで、右田岳城の城兵が攻撃してきたため、狼狽した輝弘は都濃郡富海に逃亡。この時、配下の兵士はわずかに百人程度になっていました。
大友家から来たのですから、大友家に戻れば助かるわけです。それゆえに上陸地点の秋穂から渡海しようとしたものの、それができなかったのは「船がなかった」からのようです。その理由は毛利方水軍(乃美宗勝等、参照:『大内村誌』)によって、大友方の船はすべて「焼棄又は撃沈」(同上)されてしまったためです。船がないために逃れられないとかきくと、とある別のシーンを思い浮かべますが。まったく同じ状況です。
安芸の軍勢が、すでに椿峠というところまで来ているときいた輝弘は、茶臼山(佐波郡富海)に楯籠もりました。二十五日、毛利勢は前後から茶臼山を攻撃。輝弘は何とかこれを防ごうとしましたが、衆寡敵せず、力尽きて自刃しました。
以上は『大内氏実録』に書いてあったことですが、最近の事典を見る限りでは、毛利元就は長府に、吉川元春・小早川隆景は九州に在陣していたとあります。大友家的には、毛利家の本隊を九州から退散させたかっただけなんだろうと思えますね。その意味では多少は成功したと(吉川軍が帰国した)。しかし、大内輝弘の「旧国回復」はてんでダメだったとなります。『大内村誌』は、「大友氏による防長攪乱策は見事失敗に終った」と結んでいます。
『大内村誌』による補足
大内輝弘の叛乱とそれが鎮圧されるまでの流れは上述の通りです。事典類にもこれ以上のことは書かれていません。また、『大内氏実録』では、輝弘と父・高弘を混同するなどの誤りがあり、ほかにも色々と書かれている事蹟については信頼できません。それらについて、『大内村誌』に、高弘と輝弘をきちんと二人の人物として分けながら、詳細に記述してくださってありました。『大内氏実録』にも、同様な内容は書かれておりますが、父子混同のせいで、どこまでが誰のことなのか分からなくなっています。以下、『大内村誌』を参照に、輝弘の事蹟を補足します。
・父・高弘は大友氏に身を寄せており、実子についても大友氏に託した
・高弘の子は、のちに京都に上り、義輝将軍と知り合う機会に恵まれ、「輝」の一字を拝領した
・一時期、出雲の尼子氏を頼っていた
・弘治元年(1555)、厳島合戦の後、毛利氏の防長経略が始まった時、陶氏の若山城籠城戦に参加していた
・若山落城前に脱出し、豊後に戻ると、大友宗麟の娘婿となった
だいたいこのような内容について書かれております。これを拝読する限りでは、単なる大友家の居候が身の程知らずの叛乱を試みて討伐された、という一言では片付けることができなくなります。上洛して将軍から偏諱を賜ったり、尼子氏を頼ったり、大内氏の危急にあたっては陶氏とともに籠城していたり……と、まさに波瀾万丈な人生を歩みつつ、心の片隅ではやはり自らの出自と関わる大内氏について気に懸けていたともなり。
あまりに出来すぎており、本当なんですか、と思います。しかし、大内輝弘が輝弘という名前であったことは事実なので、将軍から一文字拝領したことは疑いないことです。尼子氏を頼ったとか、若山で籠城していたについては不明ながら、『大内村誌』では、大友氏や九州側の史料にもあたりこれらの事蹟についておまとめになったようです。当然のことながら、毛利家側の史料に大内輝弘について好ましく書かれているはずはなく、彼の大冒険については一切記述がありません。名前が輝弘であるという点以外は、何もわからない人です。それは事典類についても同じことです。
人物像や評価
お家再興を目指し叶わなかった悲運の人なのか?
輝弘の反乱は、いちおう、大内氏再興を目指しての行動ととらえられているようです。実際、毛利氏による支配を快く思わない人も中にはいたでしょうから、それ以前にも義隆の遺児を奉じて叛乱を起こした人たちはいました。しかし、いずれも即鎮圧されています。普通、お家再興を目指す物語は麗しいものとして語り継がれていることが多いですが、この方の場合、どうなんでしょう。あまりにみっともないと、評価されないどころか、非難の対象となります。非難までしている方を見かけたことはない気がしますが、さりとて麗しい物語として語り継がれてもいないように思えます。
背後に大友家がおり、結局はその利害関係のために利用されただけのような気がしますが。大友も毛利を叩きたいのならば、もっと計画性をもってあたるべきでは? 元就父子が山口を離れている隙に侵攻すれば一瞬かき回すことはできますが、それ以上の成果が望めるとは思えません。何となくうやむやです。あわよくばとでも思ったのでしょうか。そうだとしたら、もっと協力してくれないと。
多くの文化財が焼失
よく耳にするのは、山口の貴重な文化財が灰になったのは、陶らの叛乱のためでも、毛利家による侵略のためでもなく、この人のせいという話です。仮に、お家再興して当主になるつもりならば、先祖代々の貴重な文化財を燃やしたらダメでしょう。この時点ですでに、今ひとつな人物としか思えません。合戦なんだから、普通もやし放題だろうとおっしゃる方は多いと思いますが、勝ち目もない戦のせいで被害を受けたとしたら、もったいないのひとことしかないです。(仁壁神社そのた多数焼失、参照:『大内文化研究要覧』)
大内輝弘に対して、好意的な記述も見受けられる『大内村誌』にも、以下のように書かれています。
山口動乱に際し、山口及び附近の社寺は多く焼き払われ、大内村内の社寺も、その兵害を蒙っている。例えば問田の清滝寺 (正英寺) とその鎮守愛宕権現社がこの時の兵火のために焼失し、又長野の八幡宮もこの時に焼失したと伝えられて いる。その他は伝わっていないが、大なり小なりの災害を受け、寺宝の盗難・記録の散逸も多くこの時にあったのではあるまいか。
出典:『大内村誌』
ほかに、『陶村史』などにも同様の記述があります。輝弘が侵攻し、逃亡した先々が被害にあったものと思われ、すべて調査などしておりませんが、かなりの文化財が失われた可能性は否めません。
大内義長といい、この輝弘といい、大友の人が毛利に対抗してるという構図にしか見えません。この家、1555年で終わってるので、その後は他人事です。
輝弘の子ら
『新撰大内氏系図』によれば、輝弘には三人の息子が存在したことになっております。それぞれ、武弘、盬童、乙童です。盬童、乙童については、ともに山口で亡くなったことになっておりますが、武弘については空白です。三人とも、生没年など不明ですので、山口で亡くなったというのが、父の叛乱時のことであるのかなど系図からは全く不明です。
武弘
盬童 於防州山口生害、法名春和雍公
乙童 於防州山口生害、法名天甫童公
墓石らしきもの
『大内氏実録』には、輝弘の伝に、以下のような記述があります。
「浮野峠の路傍に古塁が三基あって、輝弘主従の墓であるといわれている。草莽(くさむら)の中を探れば このほかにもあるだろうとおもわれる。いずれも無銘の斤石なので、確かにそうであるとは言い難いけれども、さしあたって認めることができる。さりながら、むかし地元の人がこの墓地を穿って手に入れたものを、輝弘の物であるともてはやしていたところ、祟りがあったとかで、ある人が某社に納めた短刀を見たが、銘はいま記憶していないが輝弘死後の鍛冶の銘であった。」
まとめ
- 大内政弘の子・高弘の子(つまりは義興の甥で義隆の従兄弟)
- 父・高弘は義興から家督を奪おうとしていた事件が発覚し、九州に逃れ、大友家を頼っていた。その関係で、輝弘も大友家に養われていた
- 大友宗麟から「旧国回復」を命じられ、援軍をつけてもらって九州から渡海(毛利家と交戦中だった大友家が毛利領の背後撹乱を狙って焚付けたものか、輝弘自身に大内氏再興の願望が強くあったものかは、書物によって意見が異なる。両者ともに成立するから、お互いの利害関係が一致しての渡海と思うも、断定は避ける)
- 大友家と合戦の最中にあった毛利元就父子は山口にはいなかった。秋穂から上陸した輝弘はその隙をついて山口に侵攻
- 最初のうちこそ、留守部隊との戦闘だけだったので多少の成果は出たが、毛利側も手薄な状態でよく守り、また、急を知った元就父子が戻ると輝弘の配下は動揺。本人も九州へ戻ろうとするも、渡海するための船がみつからなかった
- 佐波郡富海まで至り、茶臼山に楯籠もって抵抗したが、毛利軍に叶うはずもなく自刃した
参考文献:『大内氏実録』、『大内村誌』、『日本史広事典』、『新撰大内氏系図』、『大内文化研究要覧』

山中鹿之助の尼子再興軍とかとはまるで違う感じだよね。

なんなの、それ?

月山富田城に像あったじゃん。あんな風にして、後世の人からも慕われてはいないみたいね、このひと。よくわかんないけど。

元就公に楯突こうなどと身の程知らずなのだ。

イマイチ意味不明だし、今回の主役はお前でいいよ。毛利軍頑張って山口を守りました。