※執筆中※
大内家の家系図
これから何回かに分けて、家系図の話をしていこうと思っているよ。
僕たちみたいな名門で、一族が繁栄していると、系図も複雑すぎてなかなか理解しづらい。見ただけでは分かりにくいところには、言葉で説明を加えていくね。
鶴と僕の関係が正確にはどんななのか、実は僕にもよく分からないんだよ。だから、正直ドキドキワクワクしているよ。一緒に頑張って学んでいこうね。
思うに、欲張らないで、少しずつやるほうがいいみたい。
鶴の最初の作品はヒドいものだよ……。全員いちどきに入れようとしてはみ出してしまったみたい。



大まかな全体図
鶴寿丸作一門の家系図・其の一
本家と分家
まず今回の系図で何をお話したいか、というと、本家・分家の話。
僕と鶴は元々は身内、っていつも言ってるけど……。どこからどんな風に分かれたのかな? そんな疑問がこの図を見ればバッチリ解消するね。
青色になっているのが、分かれて分家を起ち上げた人の名前。姓がついているから、今の誰の先祖にあたるのか分るよね?
と言うことは……?
陶の家は、昔々に本家から分かれた右田家のそのまた分家なんだ!
ページの関係上、これ以上付け加えるとゴチャゴチャするので、全員書き切れていません。だから、抜けている人もいると思ってください。
これより先は、それぞれの家ごとに見ていくほうがいいと思ったんだ。
先祖について
少し注意事項があるから付け加えておくね。
僕たちの先祖は、百済の王様・聖明王様。その息子の琳聖様が倭国に流れ着いたのが始まりだよ。



琳聖様の子孫が正恒様だけど、この間は何代か抜けているので、線が繋がっていないよ。この人が多々良の姓を初めて使ったことになっているみたい。
その後皆、分家したときの地名を姓にしてるけど、僕たちが「大内」なのは、住み着いて繁栄した土地の名前が大内だったからだよ。
多々良氏
将軍様とかほかの人たちは、僕たちを「大内」って呼ぶから返事してるけど、父上も文書に署名するときは「多々良政弘」だよ。
これ、いろんな武家がいきなり外交文書だと「源」「平」名乗り出すみたいなもんだと思う?
違うな。僕たちは、「王様の」子孫だから。
僕も手習いの紙に「多々良亀童」って書いているよ。

これからは、「陶」って呼ばないね。


分家して枝分かれしていき、大所帯となった。分家の際には、領地を姓とするものが多かった。
その後も子々孫々繁栄したか、途中で途切れてしまったかは、それぞれの家ごとに違う。
陶家は、右田家から分かれた一族である。そして、その右田家も、元々は多々良氏から別れてきている。
つまり、元をただせば全員が多々良一族であり、「琳聖太子」を始まりとする同族一門である。
部分家系図・大内政弘ー亀童丸(義興)
お家の滅亡と家系図

我が畠山家のような公方様ご一門の名門中の名門ならば……



研究者の方々の地道な努力の末に、ようやっと欠けていた部分、誤っていた部分の補修がなされ、現在我々が目にすることが出来るような系図が整理されてきた。
それでもまだまだ分らない事が多く、研究は続いている。ご本によって、微妙に違っていたりするのは、未だ通説がまとまっていない証拠である。
※本サイトの家系図はすべてデネット様の「らくらく家系図作成」にて作成しました。ありがとうございます。まだ操作法に慣れていないこと、人数が多すぎることで、見本のような綺麗なものが書けません。そのうち全部書き直したいです。
家系図が見にくいのは、ソフトのせいじゃないので、誤解しないようにご覧ください。