雑録

家系図の話

2020年9月6日

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「大内氏系図」とは?

大内氏系図とは、始祖・琳聖太子から始まり、最後の大内義長までの系譜をまとめたものです。本家が滅亡していることもわざわいして、先祖代々子孫が家宝として伝えてきた、という原本があるわけじゃありません。なので、研究者の先生方が、断片的に伝えられてきたあれこれの系図を整理、修正してまとめたものが「大内氏系図」である、ということになります。近藤清石先生と御薗生翁甫先生のご研究が最高水準のものです。より新しい御薗生翁甫先生の『新編大内氏系図』が、現在目にする「略系図」類の出典となっているケースが多いです。

大内氏の系図について 二人の権威による労作

「完全」な系図を作ることはたぶん不可能

これはほかのどの氏族にも言えることかもしれませんが、大内氏系図はとても不確かなものです。けれども、『大内氏実録』の近藤清石先生はもちろん、その後もたくさんの研究者の先生方があれこれと調査してくださった結果、だいたいこのようなものであろう、という「定説」ができています。

細かいところは無視すると、いわゆる「歴代当主」の流れについては、ほとんど語り尽くされている感じがします。「当主の流れ」というのは、あくまでも弘幸のつぎが弘世、弘世のつぎが義弘、のようなことです(むろん、それすらも、兄弟家督を相争ったケースなど、争奪戦に敗れ脱落した人でも『後継者として幕府に指名されたという経緯があった場合』、それをいちおう当主として数えるべきかなど、いくつかの問題は含みます。後で説明します)。

よく言われていることですが、大内氏の系図というのは、滅亡してしまった家だからなのか、完全なかたちのものが存在しません。先生方のご研究は、かなり怪しいものも含め、あれこれと流布していた「完全ではないもの」を種本として使わざるを得なかったのです。それゆえに、どれだけ頑張っても、それらの不完全なものの総まとめにしかならないわけで、実際の史実とは異なる点があるかもしれないことは否めません。あくまでも、現状手に入る様々な系図類を、現状手に入る信頼できる史料で確認可能な範囲内で集大成したものなのであり、「不完全」な状態から抜け出すことはできていません。

明治時代に近藤清石先生が『大内氏実録』(明治十八年)を書いて、詳細な家系図をご本にしてくださいました。その後も多くの先生方が調査を続けて、近藤先生の系図を補っていき、より完成されたものに近付けていきます。現在様々な本に採用されているのは、だいたい御薗生翁甫先生が『大内氏史研究』に載せてくださっているものと同じです。(御薗生翁甫先生は『近世防長諸家系図綜覧』の付録として、昭和四十一年『新撰大内氏系図』をお書きになりました) 。

「歴代当主」の流れについてはだいたい「定説」ができていると述べましたが、その親族となると問題は遙かに深刻です。宗家の系図からして「不完全」なのですから、当主以外の枝分かれした分家のこととなると、残された史料の数もぐっと少なくなるであろうし、家督相続の流れはもちろんのこと、親子兄弟関係すらはっきりしないところがあります(この人物は先代の息子なのか兄弟なのか、兄弟の長幼の順番はどうなっているのか、といった『系図』が伝える役割として一番重要な部分すら諸説あります。流布している系図類それぞれによって異なるため、幾通りもの数え方が存在している状態です)。それこそ、なおも先生方のご研究が続いております。なので、今後も書き換えられる可能性がございます(陶興房の兄たちの存在など、証明されたのはつい最近のことです)。

でも、始祖・琳聖から平安時代に初めて史料に名前が現われた人々までの空白の時代については、もはや証明する術はないかもしれません。このあたり、じつはいわゆる名門の人々のご大層な家系図でも、最初は神話世界かもしれないので、もう放置する以外ないレベル。あまり気にしないことです。

近藤清石先生の『大内氏実録』附録系図

近藤先生の『大内氏実録』は紀伝体の形式をとっていることで知られていますが、その最初の伝記として大内弘幸の項目から書き始められいます。ゆえに、始祖・琳聖太子から弘幸に至る過程の人々は皆、弘幸のところに補足されるかたちをとっています。それゆえに、始祖から弘幸までについては、このご本だけではあまり多くの情報が得られない箇所となっています。

むろん、古い時代の話なので史料も乏しく、あまり書けることがないことも確かです。大内氏が南北朝時代、弘世や義弘の代にいきなり発生してきた謎の大勢力のように感じられるときがあるのは、それ以前についてはあまり詳細なことがわからないという事情も関係しているでしょう。

とはいえ、どのような勢力も、自然発生的に降って湧くはずはありません。琳聖来朝以降の先祖たちが長い時間をかけて、防長の地に根を張り、確固たる地盤を築いていった上に、その後の栄光の時代が乗っかっているのです。ゆえに、たとえ、情報に限りがあるからといえ、弘幸以前の先祖たちについて無視することはできません。

御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』や三坂圭治先生の『周防国府の研究』は、始祖~弘幸までの空白の時代についても取り扱っています。後者は特に、大内氏についての研究書というわけではないけれども、彼らが「在庁官人」出身であったことを思い出してください。つまりは、国府の役人だったわけで、当然のことながら、当時の国府、国衙についても知っておくべきなのです。

近藤先生が大内氏について網羅した初めてのご本をお書きになった功績は甚大ですし、先生の『大内氏実録』は、今なお、多くの方々の必読文献となっています。大内氏についての当時流布していた系図をまとめ、わかりやすい形で読者に提示してくださったのも先生が最初で、これまた大内氏の「系図」研究の最新にして、詳細なものとして革新的なものであったと思われます。

けれども、どんな研究領域も時を経るにつれて発展していくのは当然の流れですし、前述のように、弘幸以前の記述があまり充実していない、などの限界もあり、その後も多くの先生方が日夜研究を続け、近藤先生のご著作に欠けている部分を補うなど、最新の研究成果に置き換える作業が続けられています。

御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』と『新編大内氏系図』

御薗生翁甫先生は『大内氏実録』が書かれた以後の研究の成果を踏まえて『大内氏史研究』をお書きになり、また、近藤先生がおまとめになった「系図」を修正した『新編大内氏系図』を発表なさいました。何しろ、近藤先生のご本は明治時代に、御薗生翁甫先生のご本は昭和時代に書かれたものですので、両者の間には長い時間の隔たりがあります。その間に研究が大きく前進したのも当然のことで、けっして近藤先生のご本がいい加減だったわけではありません。

現在大内氏研究について書かれている先生方の研究書はだいたい、『新編大内氏系図』を参照にしておられるのかな、という印象です。けれども、これすらも完璧とはいえず、なおも新たな書き直しが生じている部分もあります。一つ一つが不確かなものから集大成を作るという事業ですので、完全なものを完成させるのは並大抵なことではないのでしょう。

ところで、「不確かなもの」って、いったいどんなものを言っているのでしょう? これにはいくつかの種類があります。本家は滅亡しても、分家の中には現在にまで続いている方々もおられるでしょう。あるいは、身内でなくとも、関係者があとから記憶を辿ったり、寺院などに残されていた記録から編集して作られたものなどです。けれども、関係者の情報提供には記憶違いがあるかもしれず、寺社に伝わる書写にも単純な書き間違いがあるかもしれません。そもそもが、断片的にしか残されていない可能性が高いです。

じつは、このような失われた系図の再構築を試みた人々は、近現代の研究者にとどまらず、近世にもすでに存在しました。残された記憶や断片から作られた「大内氏系図」なるものは、近世以来何種類もあった模様で、それらにもすでに長い歴史があるわけで、貴重なものとして整理・保存されて今に伝えられています。現在の研究成果から見ると、信じられないような誤りが平然と書かれていたりする部分もありますが、近世の人々はこのように理解していた(思い込んでいた)のかということを知ることができる、という意味ではたいへんに興味深いものです。

とはいえ、微妙に異なるいくつもの系図を眺めていたら、ますます混乱するだけですので、ここではすべて御薗生翁甫先生の『新編大内氏系図』を典拠としたいと思います(※ 20230407 現在、修正できていない表記揺れがございます)。御薗生翁甫先生後、明らかな誤りがわかった部分についても、敢えて修正はせず、個別の話題として取り上げることにします。

大内氏の系図はどこで見ることができるか?

近藤先生の『大内氏実録』、御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』とも現在は新刊本で手に入れることはできません(20230407 現在)。けれども県内の図書館でこれらを常備していないところはないと思われます(むろん、すべて調査したわけではありませんので、○○町にはないじゃないか! という事例がございましたら、申し訳ありません)。

どうしても手元に置きたいという方は古書店で探せば、今のところ、そこまで手に入りにくい書籍ではありません。また、「系図」に関しては『山口市史 史料編 大内文化』に『新編大内氏系図』と、それ以外の近世までに流布していた系図類の掲載もあり、とても興味深いです。こちらはまさか、図書館にないことはあり得ないでしょう。

なお、近藤先生、御薗生翁甫先生の「系図」は「読むもの」です。ひとりひとりについて、「略歴」のようなたいへん多くの書き込みがあって、何ページにも及ぶ大作です……。単に、歴代当主の流れがわかればよい、教科書や参考書に載っているような図表みたいなものが見たいのだ、という方々は、普通に流通している研究書をごらんください。たいていはどの本にも載っています。あまりに数が多いですので、書籍名は省略いたします。

大内氏の系図・まとめ

  1. 大内氏の系図は滅亡した家であるゆえにか、完全なものがない。断片的に伝えられてきたあれこれを一つにまとめて、その当時としては最新にして完成度の高い「系図」を完成させたのは近藤清石先生である
  2. 近藤先生の『大内氏実録』はたいへんな労作で、現在に至るまで多くの研究者の必読文献となっている。しかし、明治時代の著作であることから、その後の最新研究は反映されていないという悲しい現実がある
  3. 昭和時代に書かれた御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』は近藤先生以後の研究成果を取り入れた第二の必読文献であり、同じく御薗生翁甫先生がまとめられた『新編大内氏系図』は現在に至るまであれこれの研究書に載っている大内氏の略系図類の出典となっている
  4. 『大内氏実録』も『大内氏史研究』もすでに絶版で、新刊書としては買えない。けれども、図書館で見ることは可能であると思われ、また古書店にもたいていどこかしらに在庫はある
  5. 「系図」だけに限って見れば、山口市発行の『大内氏 史料編 大内文化』に、『新編大内氏系図』が掲載されており、これならば、図書館で必ず見れるはずである
  6. 当主の流れ程度がわかれば充分である、という人には、諸々の研究書や啓蒙書、もしくは文化財案内看板や、博物館の展示など、ありとあらゆる場所で略系図を見ることができると思われる

大内氏系図 具体例(サンプル)

ウエブサイト上で系図を紹介することは骨です。表計算ソフトで見映えのいいものをささっと作ってしまわれる方ならば、自由自在なんでしょうけど。見映えの問題は置いておくとして、代を重ねるに従って大所帯となっていく血縁的繋がりを一枚に収めることは困難というか、不可能です。

近藤先生や御薗生先生のご著作をご覧くださればおわかりの通り、系図も「本」の一部分として、何ページにも及んでいます。ページをめくると前のページとどう繋がっているのかすらわからなくなり、非常に混乱します。名門の系図というのは、もはや「見る」ものではなく、「読む」ものなのです。

最近の研究書だと、視覚的なわかりやすさが重視されるため、いくつかにわけてバラバラに図表化されたり(受験参考書の天皇家系図、藤原氏系図などを想像してください)、有名ではない人物を省略するなどしてスッキリと一枚にまとまっていることがほとんどです。ただ、それですと、わかるのは本当に歴代当主の流れくらいになってしまいますので、まことにメンドーながら、何枚かに分割して出来うる限りの情報を詰め込もうと思います。

とりあえず、ここではサンプル的に「歴代当主の流れ」がわかる部分だけをご紹介します。

歴代当主の世代順について

『大内氏実録』にある大内氏系図は、とても有難いものです。これを参考にしない人はいないかと。ただし、一つだけ、この系図独自の特徴があることには注意が必要です。近藤先生が琳聖太子のつぎに、二世を正恒として系図を作っておられる点です。先祖の中には何代かまったく不明な個所があるわけですが、それらを無視して、存在が明らかとなっている人たちだけに順番を割り振っています。その関係で、始祖・琳聖 ⇒ 二世・ 正恒……とつづき、列伝の最初、弘幸が第十六世となります。

存在不明な人を除くことはある意味、実用的ではありますが、このやり方でいくと問題も出てきます。のちに、当主たちが自らのルーツを明らかにしようと思い立った時、我こそは○○代の子孫、とやるわけですが、その時にズレが生じてしまうのです。米原正義先生が『戦国武士と文芸の研究』でお作りになった系図の注意書きに、世代数は大内政弘が父・教弘十七回忌に刊行した「金剛般若経」で「琳聖太子二十九代後胤」と奥書したことによる、と説明しておられ、先生の系図ではなるほど政弘がちょうど二十九代となります。近藤先生の系図だと、政弘は二十四代です。

順番なんてどうでもいいじゃん? というのも正論ですが、ここでは米原先生の世代順に合わせるというルールを作っておきたいと思います。ちなみに、御薗生翁甫先生の系図の世代順は米原先生と同じです。恐らくは、その後の諸先生方のご研究もこれらのより新しいものを踏襲しておられると思います(すべての本でそうであるかは未確認です)。

当主の流れ 始祖から27代まで

新編大内氏系図

※御薗生翁甫『新編大内氏系図』(『山口市史 史料編 大内文化』掲載のもの)を元に作成

重要

近世以降あれこれと制作されてきた「大内氏系図」類は、いついかなる時代のものであれ、始祖は必ず琳聖である。

歴代当主の涙ぐましい宣伝と、系図制作プロジェクトの成果によるものか、とにかくこの家の始祖が琳聖という名前の百済の王子である、という点はほかの様々な部分に諸説あってそれぞれの「系図」により不整合が生じても、絶対に変りません。

近世の系図なんて、関係者に記憶を辿って再現してもらったり、寺社に残る書き付け類を探し集めて作ったものゆえ、様々な意見が出て完璧なものは作りづらくなっているというのに、ここだけは誰ひとりとして絶対に譲らない。逆に言うと、そのくらい、誰もが知っていることになっていたんですね。

始祖から八代までは「不明」です。これを琳聖のつぎ、なんとか太子とかなんとか王子なんぞを加えて埋めている系図もあって、それはそれで面白いけれど、どなたか昔の人のイタズラみたいで、研究者は誰も信じていないようです。ここではとにかく『新編大内氏系図』が出典なので、それらの人々についても興味深いですが、典拠に書いてないものは省略しました。

なお、この系図にお名前が出ている当主の方々について、説明は以下のページにございます。⇒ 関連記事:始祖から弘幸まで弘世、義弘、持世

法泉寺さまイメージ画像
ご先祖さまたち(始祖から弘幸公まで)

始祖・琳聖から始まって、二十三代・弘幸までの人物についてのごく簡単な説明文。ここまでの相続の流れを系図で示し、視覚的にも理解できるようにしました。

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大内弘世イメージ画像
大内弘世・市民が崇敬する山口開府の父

大内氏が大大名家として西国に君臨する基礎を作った「最初の人」。山口開府、周防・長門の守護世襲……すべてはこの人から始まった。

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大内持世イメージ画像
大内持世・嘉吉の乱に巻き込まれた歌人

大内義弘の子。弟・持盛との相続争いに勝ち、叔父・盛見の後継者として家督を継ぐ。嘉吉の乱に巻き込まれて命を落としたため、当主としての活動期間がわずかに十年ばかりと短い。新続古今集、新撰菟玖波集に作品が載る、文芸の人。

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当主の流れ 24代から31代まで

新編大内氏系図(二十四代から三十一代まで)

※御薗生翁甫『新編大内氏系図』(『山口市史 史料編 大内文化』掲載のもの)を元に作成

たまたま31代で終わりになっていますが、別に大内義長を無視したわけではなく、義隆姉の子として、義長を引っ張ってくるためには、義興子女の部分が複雑化し、スペースの関係上、とても一枚には入りきらないからです。義興代から始まるもう一枚を作成することで問題は解決しますが、とりあえず省略してありますので、義長以外に、晴持(上では義房)も義隆の実子ではなく姉の子、というところが不明瞭になっています。

この系図に出ている当主さま方についての説明は以下のページにあります。関連記事:盛見教弘、政弘、義興、義隆

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大内盛見・仏教に深く帰依した文武の人

応永の乱で戦死した兄・義弘から後事を託されていた。兄の遺言を守り、幕府に降伏した兄弟・弘茂らとの争いに勝ち、家督を継ぐ。義持将軍政権下で幕閣として活躍。文武両面で功績を残したが、九州での合戦で戦死。仏教への信心厚く、禅僧らとの交流も盛ん。

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大内教弘・神さまになった築山館の主

守護館の隣に接待用の「築山館」を建て、多くの文化人と交流した文武両道の人。連歌に優れ「新撰菟玖波集」の作者にもなった。死後神格化されて「築山大明神」という神様となる。幕府権力を笠に着た細川家と激しく対立するなど反骨精神も旺盛。

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史料による確定はどこまで可能なのか?

いわゆる、妙見社を氷上に勧請した「茂村」という人辺りから、おや、どこかで聞いたことが? となります。しかし、多分、ここも「史料」では証明できないはずで、手がかりとなっているのは大内氏歴代当主の自己申告。興隆寺が勅願寺化された際のセレモニーで仰々しく公開された『大内氏多々良符牒』なるもの。あれの信憑性はどこから来るのだろう、と思うけれど、誰も文句を言っていないから承認されているのですかね。

系図を離れ、「大内先祖が史料に出てくる最初」というのは平安時代、それもかなり後期のことです。現状はそれ以前の方々については学術的な確証はとれていないはずです。

「言い伝え」的には恐らく、「空白」の何代かも含めて、なんとか太子やなんとか王子も、琳聖その人も、すべて実在の人物であると信じられていたのだと思います。『陰徳太平記』には琳聖の兄まで登場しますし、『陰徳太平記』を嫌う近藤先生が「史料」みたいに引用してしまっている『中国治乱記』なども含めて、これらの物語が書かれた当時の人たちは皆、大内氏の自己申告を普通に信じており、あるいは、当主たち自身も信じていたのかもしれません(研究者の先生方によれば、意図的でっち上げみたいな理論が展開されていますが)。

そんなわけで、昔の人たちは皆、大内氏の先祖は百済の王子だと普通に信じていた。だからこそ、そこから書き始めた系図が作られ、流布していたのです。物語の世界や、一般常識的な知識として、「彼らはとつ国の王族の末裔」ということで認識されていたと思われます。むろん、それは、彼らがあれほどまでにすさまじい発展を遂げたからであって、ただの田舎大名(というよりさらにその家来程度)で終わっていたら、そこまで全国区にはならなかっただろうし、本人たちも系図の整理なんぞに奔走することはなかったかもしれません。

本家と分家

一枚目の「図」をここで切ったのにはワケがあって、すでにこの時点で、いくつかの分家ができていることがわかるからです。要はそのくらい、大きな勢力になってきたことを意味します。右田、鷲頭、問田などといった人々はその後も「身内」としてしつこく出てきます。そして、最大級にメジャーな陶の家が、すでにこの時点で分れ出ていることもわかるかと。

系図はこれから先が恐ろしく複雑化します。なぜなら、それぞれの分家ごとにその始祖以下が発展していくから。普通は本家だけ見ればいいため一枚の図になっているけれど、近藤先生クラスの大家だとすべてを展開してしまうため、きわめて複雑化し、限りになくわかりにくくなります(わかる頭がないだけだと思うケド)。最近の先生方は研究対象も専門化しているので、分家ごとにわけてくれたりするから、そこは初心者にはたいへんありがたいです。

とりあえずは、聞いたことがあるような「分家」はこの辺りから分れ、その後も続いていった、というようなことを頭に入れておいてください。個々の分家についてはそれぞれ別の場所で展開します。ついでに、身内身内というけれど、こんなに昔に分れて臣下に下ったのだから、滅亡時には、身内というよりも、完全に主従関係と化していたと思われます。念のため。桓武平氏だって、元を辿ればやんごとなき皇族の末裔だったのに、清盛の父・忠盛は「伊勢瓶子は酢がめなりけり」なんて揶揄されていました。戦国時代くらいになってから、この系図を開いて、私たちも琳聖さまの子孫です、と威張ってみたところで、主の家との格差は歴然としているってことです。

となると、例の「政変」は身内どうしの内輪揉めとは到底言えないし、元は一門でも自らが当主の換えパーツにはなれず、もっと最近に枝分かれした甥を探してこなければならなかったこともなんとなくわかりますね。たまに部外者が身内内部と書いておられるのを散見するのですが、どことなく違和感を覚えています。じつはほかの名門でも、家老クラスの重臣で、主とは姓が違っており、それこそ部外者ゆえ、ただの家来なんだろうと思っていると、元々は一門っだったってケース多いことに最近気が付いたので。他家のことなんてまったく不明でしたが、どこも事情は同じなんですね。

大内氏の系図・まとめ2

  1. 『大内氏実録』附録系図、『新編大内氏系図』ともに、当主略歴などの記載があったり、無数に枝分かれしていく血縁の繋がりを網羅しているために、一枚にまとめることは不可能。系図は単なる「図」ではなく、「読むためのもの」となっている
  2. 『実録』の近藤清石先生は始祖以降不明となっている八代分の当主を世代順に数えなかった。そのため、現在流布している『新編大内氏系図』はもちろん、史料の中で当主たちが名乗っている第○代とも数字が合致しない。現在は『実録』の世代順は採用しない研究書が普通
  3. 近世以降、「大内氏系図」を再現しようという試みは、かならず、始祖・琳聖から始めるのが普通だった。これは裏返せば、当時の人々の大内氏に対する認識が、百済の王子の末裔である、というものであった、という証拠ともなる
  4. 近世に限らず、現代の研究者の先生方監修の系図でさえ、始祖は琳聖になっている。それ以降の人々も院政期くらいに公文書で名前が確認できる以前は、寺院文書などからしか確認がとれないわけなので、多分に伝承的要素を含む系図として、もはや黙認されている感がある(それはそれで浪漫があってよいことなので、1ミリも否定はしない)
  5. 始祖から弘世期までに至る部分の系図で、なじみの一門衆がすでに分出しており、この頃までにはかなりの大勢力、大所帯となっていたことがわかる。早い時期に分れ出るほど、血縁的に遠くなることから、この時期に分れ出た一門は、滅亡時期には同族意識はもちつつもほぼ完全にただの臣下と化していたと思われる

家系図のページへのリンク集

このボロなサイトで、それこそボロな家系図をあれこれ試行錯誤しながら作っています。一枚ですべてを網羅することはできないため、テーマごとにバラバラに分けて作成しています。基本はここにある「歴代当主年代」のものを中心に派生していますので、ご面倒でもココに戻りつつ、皆さまの頭の中で一枚の系図にしてくださいませ。

系図は作り方が多少マシになったり、抜け落ちを加えるなどしてしょっちゅう改訂されていますので、こんなものかよ? と失望しても、時間絵御置いてそのうちまた、覗いてやってください。

宗室(歴代当主の子女)

歴代当主の兄弟姉妹、もしくはその子女を確認するためのものです。主に、以下のことがわかります。⇒ 関連記事:大内氏歴代当主の子ら

こんなにたくさん子どもがいたのか……
この人が分家「○○家」の始祖となったんだなぁ……
このご息女は「△△家」に嫁いでいた、つまり「△△家」とは親戚関係にあったんだなあ……

というようなことです。ほとんど「きいたことも、見たこともない」って人々だったりしますので、けっこう面白いです。もちろん、「不完全」な系図が史料ですので、載ってない人についてまではわかりません。

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宗室・大内氏歴代当主の子ら

歴代当主子女・簡単まとめ(一覧表)。現在、主たる資料として出回っている『新編大内氏系図』から、歴代当主の子女を抜き書きし、系図内の但書をそえて全員掲載しました。一部、『大内氏実録』に項目が立てられている人物の説明文も添付しています。

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参考文献:近藤清石先生『大内氏実録』、御薗生翁甫先生『大内氏史研究』、米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』、『山口市史 史料編 大内文化』

この記事は 20230407 に加筆修正されました。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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