ト・ホンホ分国通信

家系図の話

2020年9月6日

サイトキャラクターイラスト:ミル

家系図などというものは、よほどの由緒正しき名門じゃない限り、普通の家には伝わっていないだろう。だいたい、曾祖父母の代ですら知っているケースは稀で、それより先の先祖のことなんて誰も知らない。特に調べようとも思わないはず。そのくらい、どーでもいいことだ。

先祖代々の家系図は、最初は戦国乱世に燃えてしまい、つぎには、第二次世界大戦で焼けてしまった。だから、それらの戦渦を免れてなお、現代にも伝えられた家系図は非常に貴重なのである、ととある先生が仰っていた(第二次世界大戦を経験している世代の先生方が少なくなって来た昨今、こういう台詞はレアなので、学生のほうも戦国乱世で燃えることはフツーにわかるけど、後のほうは気がつかない。『応仁の乱』でほとんど燃えたんだろう、って思ってた)。

今の世の中、血筋や家柄より実力である。焼け残ったごたいそうな家系図を持ち出して、やんごとなき身分を証明したところで、朝廷が位田をくれるわけでもない。

それなのに、世の人々は自らのルーツは放っておくくせに、歴史上の人物たちの系図をせっせと調べたりする。そして、系図が失われてしまって伝わっていなかったり、逆にいくつものバージョンが存在して、いずれが正しいのか証明できないと知って嘆きの日々を送る。

滅亡してしまった大内氏の系図は残されておらず、残念無念なのである、というような話を至るところで聞いたので、何もわからない気の毒な人々なのであろう、と最初は思った。しかし、実際にはそれなりに素性がわかっており、そこらのイマドキの民よりルーツがわかる人たちなのではないだろうか、とすら現在は感じている。

大内氏の家系図色々

明治時代に近藤清石先生が『大内氏実録』を書いて、詳細な家系図をご本にしてくださった。その後も多くの先生方が調査を続け、近藤先生の系図を補っていき、より完成されたものに近付けていった。細かいところは無視すると、いわゆる「歴代当主」の流れについては、ほとんど語り尽くされている感じがする。

現在様々な本に採用されているのは、御薗生翁甫先生が『大内氏史研究』に載せてくださっているものと同じだな、と思う。もちろん、当主以外、枝分かれした分家のことまでは、はっきりしないところがある。それこそ、なおも先生方のご研究が続いているのだろう。なので、今後も書き換えられる可能性はある(陶興房の兄たちの存在など、証明されたのはつい最近のことである)。

ただし、琳聖から平安時代に初めて史料に名前が現われた人々までの空白の時代については、もはや証明する術はないかもしれない。このあたり、じつはいわゆる名門の人々のご大層な家系図でも、最初は神話世界かもしれないので、もう放置する以外ないレベル。あまり気にしないことである。

歴史学というのは、史料がなければ何も証明できないしきたりなので、言い伝えだけでは事実と見なすことができない、という学問である。先生方もつらいだろう。

大まかな全体図 その一

大内氏家系図十八代まで

琳聖から十八代まではだいたいこんな感じ。近藤先生の系図は本になっていて繋がりが複雑すぎて混乱する。名門の系図というのは、もはや「見る」ものではなく、「読む」ものなのである。最近の研究書だと、視覚的なわかりやすさが重視されるから、いくつかにわけてバラバラに図表化される(受験参考書の天皇家系図、藤原氏系図などを想像してください)。

上の「図」もバラバラだが、これ以上増やせない限界まで入れてみた。出典は御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』だけど、イマドキの書物すべてコレ。始祖から八代までは「空白」。これを琳聖のつぎ、なんとか太子とかなんとか王子なんぞを加えて埋めている系図もあって、それはそれで面白いけれど、どなたか昔の人のイタズラみたいで、研究者は誰も信じていない。

いわゆる、妙見社を氷上に勧請した「茂村」という人辺りから、おや、どこかで聞いたことが? となる。しかし、多分、ここも「史料」では証明できないはずで、手がかりとなっているのは大内氏歴代当主の自己申告。興隆寺が勅願寺化された際のセレモニーで仰々しく公開された『大内氏多々良符牒』なるもの。あれの信憑性はどこから来るのだろう、と思うけれど、誰も文句を言っていないから承認されているのだろう。

そもそも「言い伝え」的には、恐らく、「空白」の何代かも含めて、なんとか太子やなんとか王子も、琳聖その人も、すべて実在の人物であると信じられていた。デタラメだらけの『陰徳太平記』の作者がそれをそのまま使っているからという理由で何もかもウソに見えるけれど、近藤先生も「史料」みたいに引用することがある『中国治乱記』だとかも含めて、周辺の人たちは皆、大内氏の自己申告を普通に信じていた。もしかしたら、当主たち自身も信じていたのかもしれない。

つまり、イマドキの感覚で「非科学的だから怪しい」と考えてはいけないのであって、百済の王子を守護するために北辰が降りてきたという「お告げ」も、聖徳太子の時代の人なら信じたはずだ。『平家物語』にも神がかりの話がいくつもあった。あれらを嘘つきだと思う人はいなかったのである(多分)。ただ、現代人の感覚では理解できないし、科学的にも証明できない「神がかり」が古代、中世には本当にあったのか、と言われるとそんなはずはないので、そこはどう説明するのか、と尋ねられたら答えようがない。

そんなわけで、昔の人たちは皆、大内氏の先祖は百済の王子だと普通に信じていた。なので、そこから書き始めた系図が作られ、流布していた。物語の世界や、一般常識的な知識として、「彼らはとつ国の王族の末裔」ということで認識されていたと思われる。むろん、それは、彼らがあれほどまでにすさまじい発展を遂げたからであって、ただの田舎大名(というよりさらにその家来程度)で終わっていたら、そこまで全国区にはならなかっただろうし、本人たちも系図の整理なんぞに奔走することはなかったかも。

本家と分家

一枚目の「図」をここでぶった切ったのにはワケがあって、すでにこの時点で、いくつかの分家ができていることがわかるから。要はそのくらい、大きな勢力になってきたのである。右田、鷲頭、問田などといった人々はその後も「身内」としてしつこく出てくる。そして、最大級にメジャーな陶の家が、すでにこの時点で分れ出ている。

これから先が恐ろしく複雑化する。なぜなら、それぞれの分家ごとに系図が展開していくから。普通は本家だけ見ればいいから一枚の図になっているけれど、近藤先生クラスの大家だとすべてを展開してしまうため、限りになくわかりにくい(わかる頭がないだけだと思うケド)。最近の先生方は研究対象も専門化しているので、分家ごとにわけてくれたりするから、そこは初心者にはたいへんありがたい。

さて、聞いたことがあるような「分家」はこの辺りから分れ、その後も続いていった、というようなことがここまでのまとめ。ついでに、身内身内というけれど、こんなに昔に分れて臣下に下ったのだから、滅亡時には、身内というよりも、完全に主従関係と化していたと思われる。念のため。桓武平氏だって、元を辿ればやんごとなき皇族の末裔だったのに、清盛の父・忠盛は「伊勢瓶子は酢がめなり」なんて揶揄された。戦国時代くらいになって、この系図を開いて、私たちも琳聖さまの子孫です、と威張ってみたところで、主の家との格差は歴然としている。

リライト力尽きたので、いったんここで区切ります。

 

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