
大内政弘とは?
室町時代の武将。大内氏が最も繁栄していた時代の当主。応仁の乱で、山名宗全率いる西軍に味方して上洛。東軍有利と思われていた形勢を一気に逆転させるほどの活躍を見せる。東西両軍の総帥死後、和睦が結ばれたが、互いに相反する利益で戦闘を続ける将たちは兵を引かず、最強の軍事力で西軍の要となった。幕府は大内軍の帰国を望んで、すべての領国と地位を安堵。政弘と将軍との講和で戦闘は終結。見た目の上では、敗北を認めたが、得るものこそなかったものの、失ったものもなかった。
帰国後は、領国の経営に専念。それは、各国の守護たちも同様だが、大内氏の勢力は他を圧倒し、西国に都をも凌駕する至上の楽園を築いた。「西の京」と呼ばれた山口の町には、著名な文化人が集い、さながら王朝貴族の都のようであった。
歴代当主は京の都に憧れ、進んだ文芸を貪欲に吸収していったが、政弘も例外ではない。しかし、彼の場合、すでに自らが才ある文化人のひとりなのであって、武家歌人として名を馳せ、その死後、私家集『拾塵和歌集』としてまとめられた。
基本データ
生没年 1446~1495.9.18(明応四年、五十歳)
父 教弘
母 妙喜寺殿(山名時煕の娘、宗全の養女)
幼名 亀童丸、太郎、新介
官職等 大内介、周防権守、周防長門豊前筑前守護、左京大夫、従四位上、贈従三位、相伴衆
法名 法泉寺殿直翁眞正大禅定門
墓所等 法泉寺跡裏山に宝篋印塔、位牌など山中に埋めたという
(典拠:『大内文化研究要覧』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『日本史広事典』)
略年表(生涯)
長禄三年(1459) 父・教弘と上宮参拝 ⇒ 次代当主としての身分を領民に知らしめる行事
寛正六年(1465) 九月三日、父に死により家督を継承、十月、幕府による討伐対象となる
応仁元年(1467) 応仁の乱参陣のため上洛、以後文明十一年まで在京
応仁二年(1468) 相国寺の戦い、陶弘房戦死
文明二年(1470) 伯父・大内教幸が留守分国で挙兵、仁保弘有等在京従軍者が戦線離脱。陶弘護により叛乱は鎮圧され、翌年教幸は豊前にて自害
文明五年(1473) 朝鮮貿易再開
文明九年(1477) 幕府と和解し帰国。周防長門豊前筑前守護、安芸石見所領安堵
文明十年(1478) 九州出陣、少弐討伐
文明十三年(1481) 足利義政に掛絵三十二幅を見せ、三幅一対を献上
文明十四年(1482) 吉見信頼が陶弘護を刺殺
文明十七年(1485) 興隆寺山門法界門建立
文明十八年(1486) 嫡男・亀童丸と氷上山上宮参詣
長享元年(1487) 分国支配強化のため掟書・法度・禁制を次々だし領内引き締めを進める
長享二年(1488) 将軍義尚、亀童丸に「義興」の二字を与える
長享三年(1491) 六角討伐のため上洛
明応三年(1494)秋、家督を義興に譲り隠居
明応四年(1495)九月、死去(五十歳)
ここに掲げたのは、あくまでも主要な出来事であり、以下の項目はそれぞれに分類してまとめてあります。
※年代の確認は『大内文化研究要覧』にて行ないました。
文化史年表、「壁書」年表、対外通商年表、寺社仏閣関連年表
個性や性格
政弘の人となりについては、その死後に猪苗代兼載が綴った「朝の雲」という追悼文に詳しい。ただしこれは、あくまで追悼文であり、彼の死に涙した文人たちの思いを書いた物。日頃より政弘との交流深かった人々による評価であるから、必ずしも中立な意見であるとはいえないことには注意が必要。ただし、おおよそにおいて言い得て妙であり、後世の人々もそこに書かれていることを参考にしたと思われる。
「はかりごとをとばりの内にめぐらし、勝ことをちさとの外にことはり、人のくにまでその名かくれなかりける、 しかのみならず、やまとことの葉にこころをしめ、みぬもろこしのことわざまでもとめつつ、風月に心をすま し、仁徳世にすぐれ給ひしに」云々。
・統率力や軍略に長けた名将 ⇒ 応仁の乱に際し、大軍を率いて上洛。西軍の将として、味方陣営中で重きをなした
・文化的素養が極めて高く、歴代が築いて来た文武の家としての名声を最高レベルまで高めた ⇒ 雪舟や宗祇など多くの文化人と交流。山口は著名な文人が集う一大文化サロンとなった
主な業績
・応仁元年(1467)に勃発した大乱(=後世にいう、応仁・文明の乱)で、西軍・山名宗全に味方し上京。十年におよび在京し、西軍有力武将として活躍
・応仁・文明の乱で長期に渡り国を離れたことで、伯父・教幸の叛乱(文明二年、1470)や、九州地方の勢力の叛乱などが相継いだ。教幸の叛乱は、留守分国を守っていた陶弘護の活躍で鎮圧されたが、それ以外の諸国にも動揺が広がる。帰国後、政弘は叛乱勢力に対して徹底的に武力制裁を加えた。ことに大宰府を侵していた少弐氏を討伐し、九州を平定した
また、伯父・教幸の叛乱に与した石見の吉見氏については降伏を受け入れるなど、懐柔策も併用し、勢力範囲の安定に尽した。守護職を与えられていたのは、周防長門豊前筑前だけだが、石見、安芸、肥前もその勢力下に入っていた
・帰国後の領国経営は、軍事面にとどまらず、政治的秩序確立のため、法整備も徹底された。大内氏の分国法にあたる、「大内家壁書」中の多くの条文は、政弘によって制定されたものである。これらにより、領国の民の生活安定がはかられた
・応仁・文明の乱では敵対勢力となっていた将軍家との関係を修復。義政や義尚と絵画や和歌をやり取りしたほか、同じく味方勢力にあった義視(=義政の弟)、義材父子とも交流を続ける。このように、将軍家と親しく交わることで、その覚えもめでたく、幕府内部での大内氏の地位向上にも繋がった。義尚から嫡男・亀童丸には「義興」という名前が下賜されている。義尚死後、将軍位に就いた義材の六角討伐には自ら上洛して、これを助けた
・いっぽうで、三管領の地位にある細川氏とは、利害関係が対立。特に、対外通商などにおいてしばしば衝突した。大乱中、滞っていた対外通商は終結後再開。歴代同様、その財力や地理的優位性などを駆使して幅広く取引を展開した
・父・教弘期に築山館が造営され、文化人との交流などに使われたが、政弘期には文化人との交流はさらに深まった。多くの文化人が山口に招聘され、一大文化サロンが築かれた。現在、自治体などがキャッチフレーズとして使っている「西の京やまぐち」という概念は、まさにこの時期に育まれたもの。具体的には、宗祇や雪舟といった著名な文化人と交流し、その活動を援助した。雪舟は山口に居住してその才能に磨きをかけ、宗祇は政弘の後押しにより『新撰菟玖波集』を作成した
・文化人を保護したのみならず、政弘自身が一流の文化人でもあった。手がけなかったものはないと言って良いほど、多くの文芸を学んだが、とりわけ和歌・連歌に優れていた。和歌の道は三条公敦に、連歌は宗祇に師事。詠歌は数万首に上るといわれ、その死後、私歌集『拾塵和歌集』(千五百首)にまとめられて現代に伝わる。また、『新撰菟玖波集』にも七十五句が載せられている。猪苗代兼載は政弘の死を悼み「朝の雲」を書き、その才能を称えている
・大内氏の歴史の中で、文明十八年は極めて重要な意味を持つ。この年、大内氏の氏寺・興隆寺は後土御門天皇より勅額を下賜され、それに先だってまとめられた大内氏の家譜『大内多々良譜牒』によって、義弘以来歴代が朝鮮との通交で収集してきた始祖・琳聖からの家譜が完全なものとなった。先祖伝説を完成させるという歴代の願いは政弘期に完璧なものとなり、自らのルーツを明らかにする旅は漸く終わった。一族の歴史は最高の輝きを放ち、以後もその栄光が永遠に続くものと信じられたことだろう。これらの偉業を成し遂げたのは、歴代の努力によるものだが、完成にこぎつけたのが政弘だったことは、大いに評価できる。これより二代後に大内氏は滅亡するが、家譜は長く後世に伝えられることになった(原本は失われたが、写しが伝わる)。
人間関係や影響力
一、文化人との交流
二、将軍家との交流
三、細川氏との対立
一、文化人と幅広く交流し、自らの文芸を磨くと同時に、彼らの保護者となる。雪舟は政弘の援助により山口に滞在して、製作活動に専念。研鑽を積み、画家としての才能を最高レベルまで高めることができた。また、宗祇が『新撰菟玖波集』をまとめるという大業をなし得たのも、政弘の援助によるところが大きい。
二、応仁の乱では、将軍家と敵対する勢力に与することになったが、義政・義尚との関係はおおむね良好であった。ことに義尚とは、和歌を贈答し合う仲であり、その交流が深かったことが知られている。ほかに、西軍の将として、義政弟・義視とも関わり深く、義尚、義視の逝去に際しては追悼の和歌を詠んでいる。また、軍事面でも、義尚とそれを継いだ義材(義稙、義視の子)による六角氏討伐のための親征に協力。名代を派遣したり、自ら従軍するなどして将軍家を援助した。
三、細川氏とは、瀬戸内海の制海権を巡って利害の対立があった。ことに、将軍の権威が徐々に弱まり幕政における管領の影響力が増大するにつれ、軍事的・経済的に大内氏の勢力が肥大化するにつれ、その対立は顕著になった。具体的に衝突するようになったのは、教弘期頃からであり、将軍権力の名を借りて幕政を牛耳る細川氏との対立は避けられぬものとなった。寛正六年、幕府は教弘に河野氏の討伐を命じた。しかし、背後に細川氏の陰謀があることを知る教弘は、幕府が援助するよう求めた河野氏とは敵対する勢力のほうにテコ入れ。教弘はこの合戦の最中に亡くなったため、父の遺志を継いだ政弘も河野氏を支援して細川氏の怒りを買い、「討伐対象」とされてしまった。
以上のように、文化人、将軍家との交流が深く、文化人たちの活動を援助したことから、文化の底上げに大いに貢献。また、幕府との関係を深めることで、大内氏の地位を高めた。
唯一、父・教弘代から顕著となってきた、細川氏との対立関係だけは如何ともしがたく、関係改善がはかられることはなかった。
お詫び
この記事には、以下本文内にやや不十分と感じているところがあります。深く掘り下げられていない部分、典拠となった書物を失念し、明示できていない部分があります。本文以外の箇所、典拠明示のある部分については問題ありません(※表を除く)。作業が完了したら、この文言は消えます。
その名を全国区にした応仁の乱
父の死と興居島の恨み
寛政六年、幕府は伊予・河野氏の討伐を命じた。大内教弘は幕命に反し、河野道春を救援に向かう。この戦は時の管領・細川勝元の意図によるものであり、いわば将軍家の名を借りた勝元の私戦。細川家と対立を深めていた大内氏の当主が、素直に従うはずもなかった。幕府軍を追い散らし、勝元に嫌がらせをすることに成功したならば、こんなにスカッとする戦もなかったが、教弘は不幸にして病に倒れてしまう。
平癒の願い空しく、教弘は伊予国・興居島で世を去る。享年・四十六歳。まだまだ働き盛りの無念の死であった。父と共に出陣していた若き政弘が、家督を継ぐ。若干十九歳。現在と中世では年齢に対する感じ方が違うとはいえ、未だ二十歳前の若武者である。
もともと、犬猿の仲である細川家との戦の最中に亡くなった父。それも、故郷を離れた異国の地での逝去である。細川勝元が自ら手を下したわけではないが、政弘の心で、勝元に対する憎しみの情が沸き上がったであろうことは想像に難くない。加えて、幕府は命に背いた教弘の跡を継いだ政弘を「追討」対象に認定したから、その思いはさらに深まる。幕政を動かしているのは、将軍ではなく、管領であること明白であるからだ。
将軍権力は義満の代に最高に達した後、続く義持まではまあ、安泰と言えた。しかし、義持の跡を継ぐべき嫡男は父に先立って亡くなってしまう。ほかに男児がいなかった義持は、仕方なく兄弟の誰かに跡を継がせるほかなかった。しかし、彼はその跡継を敢えて指名せずに亡くなる。たとえ、誰を指名したにせよ、幕閣たちの意に沿わなければ上手くいかない。誰を推すかで意見が割れる可能性もある。義持は石清水八幡で籤を引いて将軍を選ばせるという前代未聞の後継者選抜法を言い残して世を去った。
その結果、籤に当って将軍位に就いたのが義教。恐怖政治とも言われる強硬なやり方で、将軍権力の底上げを図った義教は、自らの意に染まぬ者たちを次々排除した。明日は我が身と恐れた赤松満祐は何と、将軍を自宅の宴席に招いて暗殺を実行。これまた前代未聞の出来事に世は騒然となる。義教の嫡男は早世。跡を継いだのが兄弟の義政だった。銀閣を造ったことで知られるこの人は、雅な文化人としては優れていたが、政治家としてはあまりぱっとしない。否、すでに幕政は管領始め、有力者たちによって動かされている状態で、父・義教ほど強引ではなかった義政は、早々にやる気をなくしてしまった。
反対に、幕政を動かそうと企む有力者たちの間では権力争いが熾烈であった。当時最も力を持っていたのが管領の細川勝元だが、それに匹敵する程の大物として、山名宗全があげられる。宗全は我が娘を勝元に嫁がせるなどしていたから、両者は親戚同士。共に手を携えていこうという時期もあったのである。山名家は細川家だけでなく、有力な守護たちとの婚姻外交を行い、大内教弘にも娘(養女)を嫁がせている。これが、妙喜寺殿と呼ばれる政弘の生母である。
管領家の分裂と大乱の勃発
畿内での権力闘争は激しさを増し、それは細川と山名だけでなく、他の名門にも次々と起った。三管領の一つ、畠山家では、当主から後継者と指名を受けていた弥三郎と母親の身分が低く、後継者から外されていた実の息子との対立が先鋭化。弥三郎は早くに亡くなったため、弟・政長と、義就(実子)との対立となり、ついには弓矢のことに至った。
この時、細川勝元は政長を支持。対して山名宗全は義就を支持した。南北朝期の動乱同様、天下は真っ二つに割れて、日頃から鬱憤を貯め込んでいる対立する者同士が、それぞれを支持して相手を倒す大義名分を得た。結果闘争が全国規模に広がったのが、俗にいう「応仁の乱」である。
政長と義就の戦闘は京都・上御霊社で行なわれた。ゆえに、「上御霊社の戦い」と呼ばれる。これが、応仁の乱の口火を切った合戦として有名。政長がここに陣を構えた理由は、守るに固い地形であったことと並んで、自らを支持している細川勝元の屋敷から近かったことがあげられる。しかし、勝元からの援軍は「なかった」。理由は将軍・義政から、これは両畠山のいわば「私闘」であって、これらに加担することを禁じたゆえにである。どうせ、将軍など蔑ろにしているのだから、無視してもよいと思われるものの、勝元はこの命令に従い兵を出さなかった。ゆえに、アテが外れた政長方は義就に敗れた。律儀かどうか不明ながら、勝元に与する者たちは皆、将軍の意向に従ったのに、山名側は平然と義就を支援したので、多勢に無勢。しかも、義就は(噂だけで史実は知らないが)評判の戦上手の将。勝ち目がないと見た政長は上御霊社に火を放って行方をくらませた。
この時、援軍を依頼した政長の使者に、勝元は鏑矢を渡したという。使者曰く、今はこうと思い切ったので最後の酒宴を開く所存、酒樽をひとつ差し入れ仕りたく云々だったようだが。この贈物が言わんとしていることの意味は何だろうか。鏑矢は射ることで音を立てるので鳴り矢とも言われる。援軍は出すことができないが、これはこれから始まる大乱の合図。義就とその背後にいる山名宗全との戦はこれから始まるのだ。一杯やって精を出すと同時に、生き抜いて共に戦おうではないか、そんな意味にとった。実際、政長は無事に脱出し、細川方について活躍することとなる。しかし、世の人々は、政長を見殺しにしたと勝元を揶揄し、散々嫌な思いをしたようである。
大義名分と言ったが、まずは初戦を制した山名宗全は、細川勝元を朝敵扱いしてもらうように、朝廷に手を回した。しかし、これはタッチの差で間に合わなかった。それでも、この戦勝ったも同然とはしゃぐ彼らに、政治家としての勝元の敗者復活戦への怠りない準備を見抜く余裕はなかったようだ。あっと言う間に、そこここで火種が上がり、すでに大勝利に終わったと備えも不十分な山名方は手痛いしっぺ返しを喰らう。
何とか持ち堪えた状態で、山名方も自らを支持する勢力を集め始めた。
西国から颯爽と現われた若き救世主
全国を巻き込んだ大乱と言っても、我関せずという勢力もなかったわけではないだろう。この機に晴らすべき鬱憤がたまっていなければ、対岸の火事でよい。実際、遙かに遠い九州や東北などから馳せ参じた者はなかったのでは? 支持は表明したとしても、わざわざ上洛するのは骨だからだ。しかし、父の仇・細川勝元に恨みを晴らすため、若き当主は周防の国を出立する。山名宗全の孫という身分ではあり、事実そのような関係からお声掛かりがあったものと思われるが、じつは私怨もあったものと思う。
政弘の出陣は、応仁元年。水陸領路から、二万の大軍を率いてのことだった。当然、想定の範囲内と思うが、さすがに勝元は焦った。すぐさま大内軍の上洛経路にあたる国人らに号令を出し、食い止めるように命じた。けれども、その圧倒的な威力から逃れる術はなく、そもそも巻き込まれたくなどないので、行く先々のものたちは、次々と軍門に降った。まさに、向かう所敵なしの状態であった。
じつは、政弘参戦までの間、山名方は押され気味だった。遠く周防国にあれば、我関せずという選択肢もあったのではなかろうか。生母の養父を助けるためか、父の恨みを晴らすためか、はたまた、それ以外の目的があったものか、本人に問い合わせない限り真相は不明。史料をひっくり返すことは無意味。けれども、祖父や父のためを思っての行動だとしたら、身内思いで義理堅い好青年という印象になる。そして、祖父への義理は十分に果たせたと思う。大内軍の加勢により、山名方は息を吹き返し、戦況がひっくり返されたからだ。
ここで一気に味方を勝利に導き、大乱を終結させてしまえればよかったのだが……。さすがに、そこまではいかなかった。細川方の嫌らしい反撃も始まり、戦況は膠着状態に陥る。
『大内氏実録』に見る応仁の乱と政弘
応仁の乱について語り始めたら、一月では終わらないだろう。理解できない人はそれでも分からないし、分かる人にはこれほど心惹かれるできごともない。分からなくても生きていけるし、分かる必要もない。せいぜい受験生ならば年号を暗記すれば。わかる必要もないと書いたが、登場人物が多すぎて、すべてを網羅していたら崩壊する。ここでは、政弘が何をしたかだけわかればいい。ほかの方も、関心ある人物のウォッチを続けていると、それがきっかけで全体像が見えてきたりすると思う。
とはいえ、索引で名前の載っている箇所を探して拾い読みしても意味は繋がらない。結局は、難解な書物に、すべて目を通すことに……。そんな中、『大内氏実録』がまさに、政弘の伝記であることは、これ以上ないほど心強い。これだけ読めばすべてわかるではないか。
分量的にはほぼ四ページ。『応仁記』『応仁別記』のほか、近藤先生が調査された古文書などからまとめてくださっている。
「先に確執があった山名宗全と細川勝元とは、ついに諸国に号令し、軍勢を召集して全面対決するに至る。政弘は山名方に与力することを決断。文明元年、六月十三日、長門国二宮に戦勝祈願状を納め、分国の兵を率いて東上した。七月八日、備中下津井、八月三日、播磨国有馬郡本庄山、同じく四日、武庫郡越清水、十日、河辺郡難波氷室、十七日、板見(伊丹のことか、『実録』の注)にて戦った。難波氷室では、末武弘春が戦死。
『応仁記』曰く。大内介が上洛すると聞き、摂津国ではこれを食い止めようと、守護代・秋葉備中守元明に赤松衆をつけて派遣した。所々に要害を構えて防ごうとしたが、洪水が小さな堰を切るように、それらを押し破って上洛したとか。
『応仁別記』に曰く。摂津国ではともに食い止めようと話し合い、秋葉豊後守に国衆をつけて派遣した。赤松次郎衆、在田、本郷、永良、下野、宇野、間島、柏原をはじめ、浦上、小寺、村上駿河守、依藤、安丸、明石などが、摂州猪取野というところまで下った。先陣として河野四郎政通、問田、陶、杉、内藤、広仲(ママ)、安富、神代という面々がそれに対抗した。赤松衆はここが力の見せ所と戦ったが、大内河野も脇目も振らずに切りかかったから、秋葉勢は崩れた云々。摂州池田は大内に降伏し、三宅をはじめ、秋葉を快く思っていなかった国人たちの過半数は降伏してきた。食い止めようとする者もいなくなったので、大内新介は淀山崎まで上ってきたとの報があった云々。
まずは摂津国の敵を破って入京し、二十九日、加茂、九月一日と五日、花坊にて戦った。摂津から上洛するとき、伊予の河野は後陣にて上っていたが、赤松兵が後を追ってきて、井取野で合戦となった。先陣が引返し、挟撃しようとすると、赤松兵は敗走したのだが、摂津兵と一緒になり三千ばかりで上京した。東寺から大宮へ出て讃岐陣に入ろうと五条まで来たところを、山名兵が見つけて馳せ向かう。五条を東に六条河原で潰え、三十三間堂の北しる谷を越えて山科を経て南禅寺の上、岩倉に取り付いて陣を張った。夜になると、その篝火の明かりで、洛中はさながら昼間のようだった。そこで、急ぎこれを追い落とそうと話し合い、この日押し寄せると、寄手が多勢であるのを恐れて藤木を超えて三井寺に退こうとした。寄手は合図を間違えて、政弘の勢だけが南禅寺から嶮峻を攻め上った。敵兵はこれを見て、防がねばと木石を投げ落としたので、前を行く兵たちはいちどきに追い落とされてしまった。つづいて山名一族の兵たちが攻め上ったが、これも同じく追い落とされてしまった(諸説あるが、応仁記の十月一日が古文書と合致している)。十月三日、敵陣・相国寺に山名方に内応する者がいて、火を放った。これを見て、政弘は畠山義就、義忠、一色義直、土岐成頼、六角高頼らと同じく、一条室町から東烏九、東洞院、高倉、四五町を一気に押し進んだ。政弘は土岐成頼と相国寺の総門を攻撃した。黄昏になると両軍は疲れて互いに退いた。この日、山名方は獲った首級を車八輌分に載せて西陣に帰った。四日、北小路室町、および、再び相国寺にて戦った。十二月二十六日、摂州河辺郡中島および宮原で戦った。
応仁二年三月十七日ならびに五月八日、□□□にて戦った(参照古文書地名不鮮明らしい)六月、安富備後入道等を摂津に派遣。十六日、伊丹城を攻撃した。十一月二十四日、陶弘房戦死(系図は十四日とするが、二十四日の誤記と思われる。相国寺の戦いで戦死とする)十二月十九日、細川兵が摂津・神崎城を攻撃したが、城督・仁保弘有が迎撃して討ち取った。二十九日、摂津国真下で戦った。
文明元年三月四日、左京大夫任官。(西軍にて任官されたもの。東軍では文明二年の文書でも、『大内新介』と書かれている。文明十一年十二月二十日の文書まで左京大夫、十三年七月の文書では散位、十七年十月の文書にまた左京大夫とある)周防介はそのまま(文明八年の文書に兼周防介とある)
文明元年五月、筑前代官伯父掃部頭教幸入道南栄道頓が、大友氏から誘いを受け、仁保加賀守盛安とともに、細川勝元に内通した。長門赤間関で挙兵。盛安の子・十郎と七郎は在京し従軍していたが、父盛安から密使が来たため、十郎兄弟は二百余人を率いて敵陣に馳せ加わった。勝元と政則は大いに悦び、やがて奉書申沙汰して周防に下向させた。これ以降道頓に与して帰国する者が少なくなかった。この頃、豊前・筑前の凶徒も隙を見て挙兵した。七月、少弐嘉頼の子・教頼は対馬にいたが、細川方として将軍の命を受け、旧領筑前に侵攻した。(教頼の子を頼忠とする説もあり)八月十日、摂津・河久良、九月十三日および十七日、池田で戦う。十一月十九日、敵が神崎城を攻撃。仁保弘有は迎え撃ってこれを破った。二十二日、陶弘房の遺児・五郎弘護は、南栄道頓と周防国玖珂郡鞍掛山に戦い、道頓勢を大いに打ち破った。道頓は安芸に逃れた。二十八日、弘護は道頓の敗残兵を江良城に攻め、政弘の母氏の命を以て国内を安定させた。道頓は安芸から石見にいたり、吉見信頼を頼った。ついで長門国阿武郡賀年に出て近郊を攻撃する。弘護は堅城を築いてこれを防いだので、道頓勢は自ずと壊滅した。
文明二年、道頓は再度挙兵。(地名不明。豊浦郡と思われる)政弘は分国の混乱により、石見益田の城主・益田越中守貞兼を下向させていたが、貞兼は弘護を援け、豊田城(長門国豊田郡、今の豊浦郡西市一ノ瀬の一ノ瀬山と思われる)井手懸城、小倉城(豊前だろう)高津小城等を落とした。道頓勢は逃亡する者が多く、道頓はささえきれずに、ついに馬嶽に逃れて自殺した。
五月十九日、摂津下島を守備していた将・山名弾正少弼政豊ならびに神崎城督仁保弘有等の軍勢が壊滅。二十五日、杉備中守秀明、椙杜孫七郎弘康等を摂津に派遣したが、中島まで至り、所々で戦い、この日福島城を落とした。
文明三年正月元日、末武左衛門大夫氏久は、吉見信頼と阿武郡地福郷で戦った。氏久ならびに子孫三郎延忠、弥五郎幸氏が戦死した。六月十二日、兵を派遣し摂州の敵城数所を落とす。
文明四年二月四日、周防国衙で火災。八月、内藤弥七弘矩を長門国守護代とする。
文明五年十二月七日、摂州尾崎(もしくは尾島とする)大物二城を落とす。
文明六年四月十五日、山名弾正少弼政豊が離反し、敵陣に加わった。そのため、諸将は政弘に洛中の警衛を依頼した。七月七日、六角油小路に築いていた砦が完成した。杉備中守秀明を主将とした。
文明七年五月十四日、相楽郡木津で戦った。七月七日、昨暁瑞夢を見たので、長門国忌宮に伯耆大原真守作の打刀を奉納。文明七年冬、陶弘護が吉見信頼を攻撃し、阿武郡得佐で対陣した。
文明九年、文明五年三月十九日に山名宗全が死去、同じく五月十三日に細川勝元も亡くなって、東西各主将を失ったけれども、なお互いにしのぎを削っていたが、ここにきて東西ともに武装解除して帰国の途に就いた。政弘も将軍家に款を納れて、十一月を以て帰国した。」
これしか書いてないのか……と思いました。ほとんど、摂津と相国寺、あとは大内教幸の叛乱のことだけですね。大内教幸の件は、教幸もしくは弘護と吉見信頼あたりのところに繋げるし、それらを除けば、ほぼ摂津の話しかないではないか。
応仁の乱は、相国寺で両軍激突した辺り以降は、ほぼ膠着状態となる。そこら中で小競り合いはしているけれども、大きな戦いはなく、手を引きたいのに引けない(引いたら負けになるので)状態のまま固まった。戦は配下の将兵がやればいいので、十年もの長きに渡り、暇を持て余す状態とあいなる。
この絶好の機会を存分に使って大いに都の進んだ文化に触れたいところですが、そこら中燃えてしまっておりますね。とはいえ、やはり、在京中の政弘と都のやんごとなき人々や文人との交流はあった(後述)。
ただ、これだけだと、あまりにもなので、いくつか補足。
まず、政弘が最初に陣を置いたのが船岡山。義興代にもここで重要な合戦が行なわれているため、親子二代にわたる聖地(看板しかないけど)。十年もの長きに渡って滞在していたのだから、単なる陣城も造り込まれて、ちょっとした大要塞のようだった。ところが、政弘が出払って留守の最中、かわりに守っていた一色と山名の留守部隊が弱すぎて、砦は落とされてしまう。それまでは、ここが拠点。これがまずひとつ。
加えて、摂津の重要性。ここは細川の地盤だったので、取られたら取り返したくて仕方ない。それで、守る側も攻める側も必死となった。摂津には港がある。つまりは物資の輸送路としてきわめて重要な拠点。何しろ、周防国から物資を運んでこなければ、戦い続けることができなくなるので。むろん、かくも長きにわたれば、現地調達の術も身につけてはいたであろう。しかし、敵方の親玉は都にいるのだからして、遠隔地から馳せ参じている軍勢はその辺りが最初からとんでもないハンディキャップになっていた。
ついには、摂津も陥落し、しかたないので、北回りで物資を運ぶことになる。能登畠山が友軍なので、北回り航路は安全だった。ところが、斯波配下の朝倉孝景が寝返ったことで、北回りも安全ではなくなる。なんとも迷惑な話。
さらに重要なことが抜け落ちている。足利義視と義政のことや、西軍と東軍の組み分けなどなど。恐らくは、盛り込むとゴチャゴチャになるからだろう。ただ、後に文芸のことについても触れなくてはならないため、ちょっとだけ補足しておくと、東西に別れて対立しているからといって、特に義政・義尚父子などに対して確執はなかったという点。細川が嫌いだっただけなので。その思いは将軍家も同様。大内勢強力だし、早く都から消えて欲しいとは思っても、特に恨まれていたわけでもない。それを証拠に、戦後、政弘と義尚とは和歌を送り合うような関係となる。確かに、盛り込みすぎると、訳が分からなくなりますね。近藤先生のちょっと足りないくらいが、絶妙に心地良い。
大乱の終結と分国の平定
長い長い大乱が終わり、ようやく帰国した政弘にはやらねばならないことが山ほどあった。まずは、留守中に荒れ果てた分国を安定させること。そして、時を同じくして都を去って行った守護たちが一様に思い描いたのは、もはや幕府の権威に頼っている時代は終わった。自らの力で、自らの領国を豊かにすることに専念すべきである、ということ。いずこも同じように、国の安定を図り、独自の道を歩み始めた。それは、法を定め領民の暮らしを豊かにし、焼け野原となった都ではなく、自らの地に文化を育むこと。どこまで実現できるかは、それぞれの当主の力量や国力にも関わってくるので、すべてが思い通りというわけにもいかないが。
しかし、大内氏には財力もあり、政弘には高い統率力もあった。加えて、文化的な素養も極めて高い人だったから、すべてにおいて完璧を目指した。
九州平定
伯父・教幸の叛乱は、陶弘護によって見事に撃退された。しかし、火種はそれだけではなかった。さすがにひとりですべてを鎮火することはできなかったんだろうか。
応仁・文明の乱の最中、ちょうど、大内教幸が叛乱を起こしたのと同じ頃、豊前・筑前の凶徒も隙を見て挙兵した。七月、少弐嘉頼の子・教頼は対馬にいたが、細川方として将軍の命を受け、旧領筑前に侵攻した。これは、細川勝元の「遠隔地撹乱戦法」に便乗したもの。この長たらしい「戦法」については、受験参考書にも載っている。
相国寺の戦い以降、戦線は膠着状態になった。それでも前線で小競り合いを続けている諸将は気付かなかったが、政治家としての能力値抜群である細川勝元は、この膠着状態を打破しようと策を弄した。都に来て戦っている連中は、それぞれ国許を離れている状態である。ならば、国許で騒ぎを起こして背後が不安という事態に陥れてしまえばその心理的打撃はいかばかりか。あわよくば、その「国許の騒ぎ」の結果、彼らの領国を細川方の息のかかった者の領国に変えることができる。どこの家にも不満分子という者はいる。それに声をかけ、叛乱を呼びかけたのだった。
近藤先生の『実録』には書いていないけれど、東軍・細川方には将軍・義政と朝廷が取り込まれているので、西軍は事実上、御敵、凶徒、逆賊扱いにならざるを得ないのである。それがゆえに、義政の弟・義視を「将軍」、南朝の関係者を「朝廷」(こちらについては根拠もわからない)として取り繕っている。つまり、勝てば官軍になれるから、義視を将軍にしてしまえばいい。朝廷のほうは話題にするのは憚られるが。しかし、敗北はあり得ないのだった。負けたら上に掲げたどれかにされて、討伐されてしまうから。命ばかりは助かっても、現在手にしている権益のすべてを失うことになりかねない。南北朝期とまったく同じくで、たとえば、東軍が立てた管領は細川勝元だが、西軍のそれは斯波義廉だった。
このような状況下で声をかけられた者は、気に食わぬ主(それは身内かもしれない)を押しのけて「正統」である東軍の総帥や将軍家に認められれば、この上ない喜びである。さらに、主要な部隊は主とともに都にいるから、留守国は空になっている。自らの「正統性」をアピールし、守りも手薄となっている状態で叛旗を飜したら、いかにも勝ち目がありそうに思える。これは何も、大内教幸のように、甥にとってかわって主君になろうと企む輩でなくとも、近隣諸国で、常は巨大勢力の圧力に屈していることを苦々しく思っている人物でもいいのである。
そんなわけで、日頃から大宰府奪還を夢みながら大内氏に圧迫されていた少弐氏は立ち上がったのだった。まさに鬼の居ぬ間に好き放題やっていたようで、九州の地はかなり荒れていた。いかに陶弘護が活躍すればといっても限界がある。教幸に当主の座を奪われるのは国家の大事だが、とりあえず、周防に侵攻してくるわけでもない少弐のことまで手は回らない。
ということで、放置されていた九州の地が、政弘の帰国で漸く武力制圧されることになった。まずは、弘護を筑前守護代に任命。文明十年七月、少弐教頼討伐を始めた。弘護を先駈けとし九州に派遣。弟・弘詮とともに豊筑を転戦して大活躍。九月十三日、鷲岳城を攻撃。二十五日にはもう、太宰府で戦い、教頼勢を大いに打ち破り、教頼を斬っている。こうして、筑前の地が平定された。
こんなにあっさりと片付けられてしまうならば、留守部隊だけでも行けたのではないのか、と思うが無理。本隊が帰国して合流してますし、何のかんの言っても当主としての威厳に後光がさしてますから。
なお、『大内氏実録』には、文明十五年に教頼の子・政資がまたしても旧領奪還を図ったと記されている。文明十年の時点で九州平定されたんじゃないんですか、と思えど、その後も不穏だった模様です。しかし、これより新しい書物をあれこれめくるに、九州平定は文明十年のことになっています。でもって、教頼が倒された後、政資がまたしても蜂起したのを、政弘自らが討伐して退却させたと。
弘護・弘詮兄弟の活躍だけでなく、九州平定には政弘自身も出陣したことは確かであり、政資は倒されてしまったと思われます。では、『実録』にある文明十五年というのは何なのだろう? ということになりますが、これは、年代不明の記録を、近藤先生がご推測で文明十五年の出来事と判断なさったものです。
少弐氏は将軍家から赦免されて、本領安堵されたそうなので(でなければ、その後も何度も現われて騒ぎを起こしてはいないはずなので、納得できます。ただし、これも年月不明の史料から来ているようです)、その後も不穏な動きを見せたことがあったのでしょう。一応平定された九州で、陶弘護はその任を終えて、筑前守護代を弟・弘詮に譲って帰国しています。しかし、彼の死後、政弘が弘詮にその死を悼む手紙を送った時、弘詮は陣中にいました。弘護の死は、文明十四年です。つまりその前後にも、九州に不穏な動きがあり、弘詮が出陣中であったことは確かなので、文明十五年に少弐がまたしても騒ぎを起こしていたことは、十分あり得ることとは思います。ただし、この時点で政弘が自ら渡海して討伐したというのはあたらない気がします。
「後考を待つ」と書いておられるので、現在は古い考えになっているのかも知れません。
隠居騒ぎと陶弘護刺殺事件
文明十年春、九州出陣に先立ち、吉見信頼が降伏して来た。教幸の叛乱で頼りにされたり、明らかに敵対勢力と見なされる人物の申し出ながら、政弘はこれを許している。じつは、帰国後の分国平定には武力による徹底的な制圧と同時に、武力行使はせず懐柔するという二つの策を使い分けていた。吉見氏の降伏に快く応じたのも、武力制圧を避けたものと思われ、相手側から臣従を申し出ているのに、敢えて討伐して無駄な労力を消費する意義はない。ただ、この件はのちに、重大な事件を引き起こすことになるのだが……。
ほかにも、『実録』はおろか、『大内文化研究要覧』の年表からも抜け落ちているが、同じ文明十年の九州渡海前と思しき時期、政弘は安芸東西条に鏡山城を築き、城掟を定めている(参照:米原正義『大内義隆』)。後方防衛の一環だろう。
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鏡山城(広島県・東広島市)
広島県東広島市にある大内氏の安芸国東西条支配の拠点だった重要な城跡。現在は鏡山公園となっているが、城跡はきちんと保存されている。西条駅から歩いて45分(むろん、バスでも行けます)。道も険しくないので、入門者にも優しい山城跡といえる。
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とにかく、十年もの長きに渡り国許を離れて合戦の真っ只中にいたのである。疲労も蓄積していただろう。そのせいか、政弘は働き盛りであるのになんたることか、「隠居」したい旨願い出ていた。将軍家からはお許しがでなかった。理由は跡継が幼すぎるからとどこかで目にした気がするが、今典拠を失念した。文明十一年閏九月二十日、内藤弘矩等が将軍の御内書を賜り、これを思い止まらせた。
将軍・義尚からは、同じ年の八月一日に剣一口(ひとふり)を賜っていた。十月三日、防府松崎天満宮に参詣したところ、後御門の井戸の中に白蛇を見つけた。昔からこの社頭では、白蛇を崇敬していたから、十五日、将軍より恩賜の剣を奉納したという。翌十二年、相伴衆の地位につく。十二月六日、長門国一宮・二宮ならびに亀山八幡宮(赤間関)に参詣(年月日は『大内氏実録』近藤先生の推測)。
隠居騒ぎがおさまってからしばらくの間、束の間平穏な時が流れていたかのように思える。神社の参詣だとか、将軍家との交流だとかの記事しかないからだ。むろん、何もしていなかったはずはなく、日々の政務に追われていたことと思われる。
文明十四年のこと、春に石見国邑智郡三原城主・小笠原元長が拝謁を求めて来た。五月には、吉見信頼もまたやって来た。二十七日、宴を催したが、その宴席で陶弘護と吉見信頼とが、互いに刺し違えて亡くなるという事件が起こった。主の宴席で刃物を振りかざすという異常事態にその場は騒然となったものかと。『大内氏実録』だと、互いに刺し違えてと淡々と書いてあるだけだが、史料によって、どちらが先に手を出したとか、あれこれ相違があるらしい。この件については、両名の記事に書いたので、ここでは繰り返さない。
それにしても、政弘含めその場にいた全員にとって、あまり気分の良い出来事ではなかっただろう。
将軍の近江親征
長享元年九月、将軍・義尚は、六角高頼討伐のために、江州坂本に下向した。久々に目にする将軍さま自らが遠征軍を率いていく姿に京の都は沸き返ったことだろう。六角高頼はそそくさと逃走し、甲賀の山中に隠れ潜んだという。義尚はさらに進軍し、鈎里に駐屯した。将軍親征に供奉するため、政弘も上洛の準備をしていたようだが、支障があり参陣できなくなり、代わりに問田弘胤を派遣した。
延徳元年四月二十六日、義尚は鈎里陣中で亡くなった。これがいわゆる「鈎の陣」というもので、様々な逸話を生んだが、将軍家について書いているわけではないので省略する。
訃報に接した政弘は、分国中に常赦を行い、この月から翌年の三月二十六日までの間殺生を禁じた(商の釣漁狩猟は先例に任すとあるけど)。ちなみに、常赦というのは恩赦の誤字ではなく、まったく別物です。要検索。
かくも厳格な法を施行したのには理由があり、政弘と義尚の間には、互いに和歌をやり取りするような、親しい関係が築かれていたことによります。
義尚は若くして亡くなったため、まだ跡継がいませんでした。さてどうしたら? ということで、その辺りは京の事情なので、本来なら大内氏とは無関係ではあります。けれども、跡を継いだ足利義材(義尚の従兄弟)が、かつて応仁・文明の乱で西軍に担ぎ上げられていた「将軍格」義視の子であったことから、きわめてご縁がある人事となりました。政弘死後のことにはなるものの、次代の義興がこの義材に大いに振り回される事態となることを考えると幸か不幸か。
長い戦乱により、京は荒れ果て、将軍の権威も失墜して久しかったゆえにか、義尚、義材と二代立て続けに近江に親征を行なう。延徳三年七月二十七日に京より出陣。今回は政弘本人が上洛しており、文字通り将軍に供奉しました。明応元年冬、嫡男・義興も近江に参陣。二月十四日、将軍は一仕事終えて帰洛。
翌年明応二年二月十五日、将軍は凝りもせず、今度は畠義豊討伐のために河内に下向。義興はこれにも供奉。ここで、細川政元が義豊と結んで、義材の本陣・正覚寺を襲うという前代未聞の事件が。要はこれが「明応の政変」というもので、細川政元が将軍の首の挿げ替えを行なったという大胆不敵な騒ぎです。問題は、『大内氏実録』に、「京師にての事なり。事実詳ならず、また父子帰国のこと知れず」とあるところで、ここら辺、とんでもない事件に巻き込まれつつどうやって帰国したのか、どんな立ち位置だったのか、非常に気になるのです。近藤先生の時代より、ずっと研究が進んでおりますから、当然さまざまなことが明らかになっているでしょうが。
米原正義先生がお書きになった大内義隆の伝記によれば、そもそも政弘は義尚の親征には問田弘胤を、義材の親征には嫡子の義興を派遣したとあって、本人は上洛していないように読めます。年表等を見ても、『実録』記事から来ているものか、政弘は上洛したことになっていますが、しなかったのではないか、と考えています(個人的見解です)。この頃、政弘はすでに病に冒されており、そんな気力はなかったのでは? また、跡継息子に活躍の場を与えようとしての義興派遣だったととらえることができそうです。
なお、米原先生のご本によれば、「義興は近江へ参陣し、義稙を援け、越えて明応二年閏四月、泉州堺に布陣したまま動かず、ついに帰国してしまった」(『大内義隆』71ページ)とあります。なぜ、堺から動かず帰国したのかについて言及しているご研究を拝読したことがありますが、意味不明で荒唐無稽でしたので、無視します。米原先生のご本に典拠が書いてあったらなぁと残念です。
政治的秩序の構築
後の戦国大名たちは、自国を治めるにあたり、法律の整備を行なった。大内氏でもそれに先駈けて、分国内の秩序を守るために数々の政治的・経済的施策を行ない、それらに関わる法律を整備した。それらは「大内氏掟書」もしくは「壁書」と呼ばれ、いわゆる「分国法」に分類されるものとなる。
これらの法律(掟書)は、最初期のものとしては持世期にも出されており、教弘期にはさらに増加。そして、政弘期に制定された条文が最多である。政弘が父までに確立されてきた法制度を補完し、完全なものとしようと努力していたことが窺われる。
主な条文は以下の通り。
応仁元年(1467) 佐波川渡しの船賃を定める
文明十年(1478) 安芸国東西条鏡城方式条々(現存最古の城掟)※※※
文明十三年(1481) 奉行人掟制定、正月の椀飯御節など饗膳(方式)を定める
文明十五年(1483) 領国内伊勢参拝者への餞別禁止、兵船渡海赤間関役の法度制定
文明十六年(1484) 金銀売買の基準を京都の法にあわせることを領内に命令
文明十七年(1485) 撰銭禁止、米の売買に関する禁止令
文明十八年(1486) 夜中の往来、念仏禁止
長享元年(1487) 赤間が関と豊前小倉門司赤坂間の渡し賃を決める※
長享二年(1488) 上京などの兵船使用の際、日別糧米を給し、船賃・夫賃を払わないと定める
延徳元年(1489) 身分にかかわりなく長刀をさすことを禁止
明応元年(1492) 築山館築地の上での祇園会見物禁止
明応四年(1495) 喧嘩に関する法などを制定※※
※以上は、『大内文化研究要覧』にある、大内氏年表から「壁書」と記載のある事項を抽出しました。なお、同年表の長享元年欄に以下のような注記がありました。
「分国支配強化のため掟書・法度・禁制を次々だし領内引き締めを進める」
この前後にも、多くの条文が発布されているわけですが、法整備が進みなおも続いていった節目の年とでも言えるゆえにでしょうか。ご参考までに。なお、個々の条文については、『大内氏実録』にも載っており、ほかにも様々な先生方のご研究で引用されております。壁書全体について網羅したご研究としては、岩崎先生の『大内氏壁書を読む』が秀逸です。
※※明応四年の条文は、義興によって出されたものです。政弘はこの年に亡くなっており、明応二年時点で家督を義興に譲っておりました。
※※※執筆者による補足
大内氏最高の煌めき・文明十八年
文明十八年二月三日(1486)、政弘は嫡男・亀童丸を伴い、氷上山上宮に参詣する。これより遡ること二十七年、長禄三年(1459)十四歳だった政弘(亀童丸)も父とともに上宮に参詣している。跡継の若子が、上宮に参詣するということは、領国のすべての人々に、次代の主が誰であるのかを知らしめる大切な行事である。この慣習が始まったのは教弘期のようで、それ以前にも氏寺への父子参詣のことなどいくらでもあったかもしれないが、そのようなセレモニー的な意図はなかったと思われる。代替わりのたびに血生臭い争いが起こってきたこの家で、事前にはっきりと跡継を明示しておくことはきわめて重要な意味を持つ。嫡男と決めた男児に「亀童丸」という幼名を付けるならわしも、教弘期から確認できる。
上宮は神聖不可侵な場所であるため、純真な若子のみしか入山することができない。現在、上宮の頂きに赴いてもかつての姿を偲ぶことはできないが、山深いところにあるという確認はできる。そこには僧侶と、お役目に就いた同じく、純真な子どもである家臣の子息数名しか入れない。父である現当主は中途で参籠するのである。若子にも厳格な精進潔斎が義務づけられ、七日間のお勤めが終わると、つぎには奉幣を捧げ持ち、氷上山の神々に参拝して回る儀式が待っていた。
これらを終えることで、「世継ぎ」としての地位は確定する。単なる儀式に過ぎないが、そのような神秘的なやりとりがこの時代の人々にとって、どれだけ重要な意味をもつかはいうまでもないだろう。さらに、重要なことは、儀式を終えた若子は、二月会に集まってきた大勢の領民たちの前に姿を現すことで、国中の者たちから、あれが次代のご当主さまである、ということを認知される、という点である。
神聖不可侵な神域で厳かに行なわれる儀式は極めて重要な意味を持っていたのである。むろん、この儀式を経たからといって、安穏無事に家督の継承ができる保証などないが、少なくとも、儀式を経ていない者には、父である前当主からの跡継としての認知はない、ということになる。
さて、極めて残念なことに、永遠に続くと思われていたこの行事は、わずかに三代で途絶えてしまった。この時の政弘に、そんな未来を予想することができたであろうか。
この年の春のこと。縁起の良い夢を見たという理由で、興隆寺を勅願寺にして欲しい旨を奏請していた。すると、三条西実隆を通じて、氷上山の由来についてお尋ねがあったので、一巻の書にまとめて叡覧に備えた。宸翰(天皇さま自筆)の扁額ならびに勅願寺とする宣旨を賜ったので、十月二十七日に氷上山の由来について記した書に奥書して寺院の宝物庫に納め、勅額にも裏書きをして山門に掲げた。
この氷上山の由来について記した書というのが、つまりは『大内譜牒』として知られるもの。元本は焼失してしまったが、副本(写し)が残されていたおかげで、現代に伝わる。
その中身はといえば、氷上山の由来について記すには、そこを氏寺とする多々良氏一族の由来も記さねばならず、要するに始祖・琳聖以来の歴代当主について記されている。むろん、氷上山の当時の姿についても記されているから、二重の意味で極めて貴重な史料となる。大内氏の系図、氷上山が繁栄していた当時の様相、を知ることが叶うためである。
ただしこれは、あくまで自己申告であるから、氏寺と一族の由来を示すために敢えて荘厳化された部分もあるだろう。貧弱な寺院が勅願寺申請をしても通るはずはない。ひとつには、大内氏の勢力が大きく、朝廷に口利きをしてくれるコネもあったこと。そして、政弘の手になる立派な家譜と事実絢爛豪華にして荘厳な神域である氷上山と興隆寺の繁栄があったことにより叶った栄誉である。
建物は目に見えるものなので、事実ありのままを書いているに相違ない。だが、家譜のほうはといえば、完全に真実の通りかどうかは疑問視する声がある。それは、義弘期から始まり、朝鮮国王とのやり取りの中で、始祖・琳聖の存在を確たるものとし、その証明を得ようと努力してきたらしき、歴代当主についての記録が残っていることによる。琳聖の存在を裏付けるものはないのに、歴代当主がなんとかその存在を正統化しようと苦心したらしき痕跡のほうは史料になってしまっていたりするため。完全なるでっち上げとおっしゃる研究者の方々が大半だけれど、断定はできない。三十代近い世代を数え、始祖来朝は推古天皇の時代とか。そんなに古いことが、きちんと記録に残っているはずはないのである。歴史に名前も現われない一般庶民の家系ならいざ知らず、歴史上大いなる足跡を残した名門ともなれば、先祖が誰なのか不明というわけにもいかぬのである。大勢力となってから、昔のことを調べようとしたら、その穴埋め作業は困難を極めるはず。歴代の朝鮮国に対する調査要求が次第に詳細となり、また、爾来友好関係にあった朝鮮国王たちもなんとかその要望に応えようとした。そのような涙ぐましい努力により、次第に明らかにされていき、ここに来て確定した。そうはとらえられないのでしょうか。はっきりしていることは、限りなく創作に近いように見受けられるけれども、そうだと断定するに足る史料もないのでは? ということです。研究者の先生方のご研究を否定するものでは決してなく、こんなに浪漫溢れた先祖伝説を否定しないで欲しいと望むだけです。
家譜の完成と、氷上山の勅願寺化は歴代が願ってもやまぬことだった。それがすべて叶えられたのが、この文明十八年という記念すべき年だった。となれば、それを実現にこぎつけた政弘の功績はどれほど大きいものと言えるだろうか。言葉に尽くせない。
さて、同じ文明十八年には、これ以外にも数多くの重大な出来事があった。雪舟は山口に来て「雲谷庵」に住み、「天開図画楼」と名付けた。いわば彼のアトリエ。国宝「四季山水図巻」(山水長巻)は、その落款によると、この年描き上げられた。また、了庵桂悟が山口を訪れ、雪舟のアトリエについて「天開図画楼記」を書いた。国宝ともなっている大作がこの年に完成したことは、雪舟にとっても画家としての集大成のような年だったかも。今は毛利博物館にあるらしいが、この作品は明らかに雪舟が政弘と大内氏のために描き上げたものである。多くの文人たちと交流し、彼らの活動を援助してきた政弘にとって最高の贈物が、この記念すべき年に合せて完成したのである。偶然ではないだろう。
孝行息子・政弘は、細川氏との対立を象徴する河野氏との合戦の最中に病死した父・教弘のために追贈を望んだ。その願いも叶い、この年の六月、教弘には従三位が贈られた。
本当に、何もかもが望み通りとなったこれ以上ない一年だった。
対外通商についての考察
同じ対外通商でも、対明国、対朝鮮王朝でかなーり違う。朝鮮とは始祖が朝鮮半島から来たという先祖伝説をアピールすることと、倭寇討伐などで多大な貢献をしたことなどから、かなりの面で優遇されていた雰囲気。最初、朝鮮に通商に行って、先祖が朝鮮半島出身者と唱えることは、単なる実利優先のためかと考えていたが、現在はむしろ古い時代のご研究に回帰して、血は争えないと考えている(個人的見解です)。
いっぽう、明国との交易は勘合貿易という形式をとり、幕府が介在しているため、思うに任せない部分がどうしても出てくる。瀬戸内海の利権を巡り細川氏と対立し続けていたから、彼らが管領職についている限りは、嫌がらせが尽きない。のちに、大内氏独占のようになるけれども、今はまだその段階ではないので。
ところで、早くから海外に向けて開けていたことなど、浪漫は尽きないが、交易に関してはそこまで手を広げられず、積ん読山となった貴重なご本も処分したくらいなので、「最低限知っておいてください」的にまとめてくださっている『大内文化研究要覧』にあることだけ知っていればよいと考えており、その割には密度が濃すぎるため、難儀しております。
文正六年(1466) 遣明船博多出航(二月肥前呼子で大風、8月再出航)
応仁元年(1467) 雪舟大内氏の遣明船で明国に
文明五年(1473) 朝鮮貿易再開
文明十一年(1479)朝鮮に僧瑞興を派遣、仏像を贈り、長門安国寺のため大蔵経を求める
長享元年(1487) 僧鉄牛派遣、大蔵経を求める
明との交易
教弘期くらいから、細川氏との仲が絶望的なほど険悪になったように思える。それまでも友好的だったとは思えないものの。そこに応仁・文明の乱勃発なので、関係は完全に断絶した。となれば、戦乱の最中に船を出すことは無理。ところが、摂津を抑えられた細川氏の船は、港を堺とし、土佐回りで航海せねばならなくなったとか、明国が勘合符を新しくしたのを、ちゃっかり大内氏が手に入れてしまったとか、なかなかに興味深いことが書いてあった。
勘合貿易の船は、兵庫から出ていましたが、摂津が使えなくなってしまった細川氏は仕方なく、堺の港を使うしかなく、それをきっかけに堺の商人たちとの結びつきが強まりました。それゆえに、「細川―堺商人」、「大内―博多商人」という構図ができました。
応仁・文明の乱が終結すると、大内氏は手に入れていた勘合符を幕府に返還することで、勘合貿易に復帰させてもらう約束を取り付けていました。が、細川氏の嫌がらせで仲間に入れて貰えず。そこで、戻って来る船を博多にて抑留。同じく嫌がらせで対抗します。
このようなみっともない対立がその後も続き、船何艘を加えて貰えるかだとか、常に揉めてました。義興期に立場は逆転しますが、なおも、揉め事は尽きなかったようです。
朝鮮との交易
当然のことながら、応仁・文明の乱の最中には、交易どころではない。文明五年になって再開。あれ? まだ合戦中では? と思われるかもだが、その通りです。要は余裕ができたのでしょう。『大内文化研究要覧』によれば、政弘期の交易回数は以下。
文明五年、六年、九年、十一年、十五年、十七年、長享元年、延徳二年、明応二年、三年
ところで、同じ『大内文化研究要覧』に、以下のように書かれております。
「この間に家臣とか所在不明な人物が、使いを朝鮮におくり交易の利を求めている」
これすなわち、通商交易関係の研究者の先生方おっしゃるところの「偽使」というものですね。要はニセモノです。朝鮮国王(高麗だったり呼び名かわってもまとめて書いております)は、押し並べて大内氏に対しては友好的であり、大内氏側も始祖が朝鮮半島から来たとアピールしている関係で、同じく友好的で、互いに便宜を図っております。それゆえに、大内氏のほうから来ました! なる、ニセモノが出ました。特別待遇が受けられるためです。この辺り、チェックが甘いというか。そこも、大内氏のほうから来ました! と言われるだけで、甘くなってしまったのかも知れず。いかなる者がニセモノを名乗って交易をしていたかについてなど、詳細なご研究がありますが、今回はパスします。
なお、同じ『大内文化研究要覧』によりますと、政弘期の交易品にはいくつかの特徴がありました。
政弘は営利的交易を行なう傾向になり、特に軍費の補充を要求する手段が取られてきたことが特徴づけられる。文明5〔1473)銅銭を、文明6年(1474)には遣明船準備費にあてる財源と物資を求めている。また、明応2年(1493)には軍費補充に銅銭などを強く求めている。
この時代の交易品として特徴的なのは銅銭、綿布がくわわったことである。また使者に随行した商人の交易が活発であったといわれる。
出典:『大内文化研究要覧』より一部抜粋
大内文化最高の輝き・政弘期の文芸
大内文化が最高に輝いていたのは、なんといっても二十九代・政弘期といえる。最後の義隆期をあげる研究者の方は多いけれども、それは後に来る滅亡を暗示するような、どこか退廃的なものであって、輝きも煌めきもない(個人的見解です)。それだけに、政弘期の文芸についてまとめるのは至難の業となる。突き詰めていけば多分、終わりのない旅となるだろう。加えて、追求する側に文芸の素養がなければ、理解することは難しい。
米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』を越える労作はその後も現われてはいないように思われる。現代はなんでも専門分化が進んでいるので、ピンポイントで研究をしている先生方が多く、網羅的にといわれたら却って少ないのかもしれない。ますます凡人には手が届かない世界となった。
歴代当主はおしなべて文武の将であった。五山僧との交流、国文学の研究、歌道、有職故実、神道家との行き来まであった。およそ「文芸」と名の付くもので、この家と無縁なものはないといってよいだろう。それぞれの当主には、向き不向きや好みの問題もあり、全員がすべてを極めていたわけではない。最後の二代については、雅なことを追求する暇はなくなっていた。教弘期になって、築山館を建て、文人そのものを山口に呼んでしまおうという風潮が起こったが、応仁の乱で真面目に焼け出された貴族たちは、山口に第二の居場所を求めた。その意味では、文人たちの山口移住は政弘期にはすでに少なくない数におよんだはずだが、やはり、三十一代のようにここを都そのものにしてしまうほどの馬鹿げた構想はなかっただろう。築山館は貴族専用マンションではなく、迎賓館的な用途で作られたもの。永住させてしまっては意味がない。むろん、文人たちのパトロンになることはそれとは別物である。
政弘期の文芸・まとめ
最初に、末席を汚させていただいている郷土史会の貴重なご本から、政弘期の文芸についてまとめてくださった部分を、敬意をもって引用させていただきます。不勉強をお詫びするとともに、ここに書いてあることを軸に、知識を膨らませていくことが究極の目標です。
一、保寿寺の以参周省に帰依。京五山僧とも親交あつかった。また東福寺了庵桂悟を山口へ招くほど禅学に造詣が深かった。このような当主の家臣には文人が多かった ⇒ 相良正任、杉武明、右田弘詮など
二、公家などに接触してその著作や文芸作品を手に入れたり、書写させた
三、政弘以後大内文化の絢爛とした花が開いたときが連歌も同様にその頂点に達した
四、右田弘詮は「吾妻鏡」の闕本をおぎなって四十八帖と年譜一帖とし写本を完成 ⇒ 「吉川本吾妻鏡」
五、有職故実についても伊藤貞藤、二階堂行二に教えを受ける
六、出版事業 氷上山興隆寺で法華経二八巻の開板に着手(文明十四)、五九枚の板木を完成(延徳二年)。県立山口文書館蔵。周防眞楽軒版「聚分韻略」を刊行〔明応二年)
出典:『大内文化研究要覧』より一部抜粋
これを元に、順追って説明を加えていけば大概のことは網羅できるので、羅針盤として大いに役立つ優れたご研究である。しかし、いくつかを除き、それぞれの項目の解説だけで膨大な分量となってしまい、およそまとめきれない。これを見ればお分かりのとおり、ほとんどすべてに手を出しておられる。もはや如何ともしがたい。
ことに、重要なのは「二」であって、『戦国武士と文芸の研究』がとんでもないことになっている。本当にどうすれば。まずは、『戦国武士と文芸の研究』は、運良く近くの図書館で見つけられなかった場合、とんでもない稀少本である(元々三万円超なので、現在プレミアがついて倍)。そこで、普通に図書館にありそうな本として、同じ米原先生の「大内義隆」の伝記を上げておく。かなりボリュームを減らしてくださった上で(それでも膨大)、政弘の書物蒐集について、一般読者向けに書いてくださっている。
正直なところ、何の本をどのような手段で手に入れたかというリストができあがるだけで、よくぞ集めましたね、という以外に何ら感想がない分野になるのは否めない。『大内氏実録』では、文芸関係のこれほどの業績をほぼスルーしているので、それこそ研究者の先生方からしたら「片手落ち」もいいところ状態になっている。
なにゆえ、近藤清石先生は多くを語らなかったのだろうか。恐らく、あまりに分量が多すぎて、当時はそこまで研究が進んでいなかったのではなかろうかと思う。そもそも、世間一般には、文芸云々と言われても「は?」の世界。最近は受験参考書にまで、西の京山口のようなことが書いてあるけれども、これはわりと最近になって到達したレベルらしい。少し前までは、戦国乱世など合戦ばかりという認識だったのが、現在ではじつは中央の進んだ文化が地方へと波及して全国レベルで展開した画期的な時代であったという認識になっている。
で、じつは、米原先生のご本は10㎝以上軽くあるだろうと思われる分厚さで、何も大内氏についてだけ書いてあるのではないのである。タイトルからして『戦国武士と文芸の研究』なので。大内氏はその中の一項目にすぎない。ほかにも尼子とか色々あって。尼子とかきくと、それこそ「は?」となる。やはり世間一般的に、戦国乱世は合戦だらけで……という思いが拭い去れないため、あれほど領土拡大した尼子氏に文芸やってた余裕あったのか!? となる。その意味で、参考書に載っているのは恐らく一番先進的だったんだろう、ということで。
さて、ではまず本の蒐集から順番に。といっても、本当に書き連ねたところで面白くない。ほかにも何冊かのご著作を拝読したが、先生方のように文芸が分からぬので、如何ともしがたい。米原先生のご本から、リストアップしてまとめたご研究もお見かけした。どうにせよ、何かしら文芸について触れておられるご研究では、この本は必読となっている。そんなわけで、図書館に行って原典にあたり、つまらない……と思ったら、パラパラでいいのではというのが正直なところ。これまでも何度もつまみ食いをしては卒倒している。中でも、先生が大内氏歴代が蒐集した書物を「大内文庫」として一覧表化していたのを見て、その凄まじい分量に驚いた。そう思うと、政弘代に集めたものの主なもの三十ばかりを抽出して解説なさっているのは、まだまだ少ないといえる。
それをここに書き出したところで、あまり意味はないし、分量が多すぎて引用もできない。そこで、本のタイトルと入手先についてリストアップするに留める。入手経路が知りたいと感じた方は図書館に行かれればいいわけで。ちなみに、これらの本は、現在にも伝えられているわけではない。念のため。どこかに流れて伝わっているものもあるが、多くは叛乱や侵略によって失われた。
『戦国武士と文芸の研究』ほかに見る政弘の古典蒐集
原典には、すべての書物について、詳細なご研究が書かれている。また、政弘期だけでなく、弘世期から義隆期におよぶ膨大なご研究であり、最初からすべてにきちんと目を通さねば、理解することは極めて困難。現状、「こんなに集めたんだ!」という理解しかないです。なお、それぞれの書物についての解説には、ほかの研究者の先生方のご研究が反映されていたりしますが、いちいち典拠にあたる時間も資力もないため、米原先生のご研究から学んだということで、いちいち列挙しておりませんことをお詫びいたします。

スマホだと見にくい。直しますのですみません(直せない……)。
書名 | 説明 | 関係者 | 入手時期・場所 | そのほか |
伊勢物語 | 正徹自筆 | 権大僧都持孝(書写、校合) | 文明初年・高倉陣所 | 長享元年七月中旬、娘武子に譲る |
古今集★ | 定家自筆・貞応本 | 聖護院道興(書写、奥書)、足利義視(外題、奥書) | 文明三年十月下旬 | |
百首詠草★ | 盛見「百首詠草」 | 聖護院道興(百首のうち秀逸六十首を浄書) | ||
花鳥口伝抄★ | 『花鳥余情』別紙口伝十三カ条を説明したもの(『源語秘訣』より二カ条少ない) | 一条兼良(書写、校合) | 文明六年(カ)四月 | |
伊勢物語愚見抄(文明再稿本)二帖★ | 一条兼良自筆 | 一条兼良寄贈 | 文明八年七月下旬 | 三条公敦が借り、書写校合 |
花鳥余情(再度本)十五冊★ | 一条兼良寄贈 | 文明八年七月下旬 | 同上 | |
伊勢物語☆ | 権大僧都持孝(書写) | |||
君台観左右帳記☆ | 能阿弥寄贈 | |||
古今集一部十巻★ | 二条為世筆 | 秋月小太郎弘種進献 | 文明十年十月九日・筑前国在陣中 | |
定家撰『僻案抄』★ | (古今・後撰・拾遺三代集の注釈書)定家自筆本 | 三条公敦書写校合 | 文明十二年八月交合(文明二年書写) | |
古今集細字註★ | 三条実継筆本(あるいは竺源撰という) | 三条公敦書写 | 文明十三年正月 | 竺源(師成親王)応永三十年書写 |
金剛般若経★ | 政弘刊行 | 文明十三年九月三日 | 父教弘の冥福を祈る | |
青表紙本源氏物語五十四帖★ | 権中納言飛鳥井雅康 (宋世)書写 | 文明十三年九月十八日 | ||
初篇老葉☆ | 宗祇自撰 | 寄贈 | 文明十三年頃 | |
雑談記(頓阿の井蛙抄雑談の一部)★ | 文明八年二月町広光所持本の公敦書写本 | 三条公敦寄贈 | 文明十六年七月 | |
再編本老葉十巻一冊☆ | 宗祇自注(自注老葉) | 門司宗忍(恩、能秀) | 文明十七年夏 | |
御注孝経★ | 公敦所持本(高祖父・公忠が後小松天皇読書始めに書写進献、父・実量(禅空)から相伝) | 祥空(公敦)より大内亀童丸(義與)に寄贈 | 文明十八年三月下旬 | |
長秋詠藻★ | 藤原俊成 | 三条西実隆書写、読合わせ。勘解由小路(賀茂)左馬権頭在重に托し寄贈 | 長享元年三月三日 | |
政弘本樵談治要★ | 一条兼良が足利義尚に送った政道書 | 一条兼良もしくは足利義尚から入手 | 長亨元年八月 | 月槐下桑門(公敦)が量綱に書写させる |
大蔵経十三部(うち完本八部、なかでも七部は特にすぐれ、そのなかでも一部は上々の経典)★ | 十回に渡る朝鮮通交で大蔵経四部を獲得:文明十一年(長州安国寺施入)、十七 年(普春門寺遮入)、長享元年(大和長谷観音施入)、延徳二年(一蔵請来) | 長享二年二月二十四日 | ||
蹴鞠条々大概(「底作事」以下廿五ヵ条)★ | 飛鳥井雅親(栄雅)寄贈 | 長享三年(延徳元)三月 | ||
伊勢物語山口抄★ | 山口滞在中の宗祇が、伊勢物語の講釈(和歌の注釈・鑑賞)を行う | 長享三年(延徳元) 五月八日~延徳元年八月二十一日 | ||
連歌十間最秘抄★ | かつて二条良基が大内義弘に贈った物 | 竜翔院右府(公敦)新写、宗祇奥書、三條西実隆外題 | 延徳元年夏秋頃 | |
雨夜談抄★ | 宗祇が文明十七年七月に著作 | 大虚(公敦)は、宗祇の奥書本をもって、書写校合 | 延徳元年十二月 | |
河内本源氏物語五十四帖★ | 兼良が文正元年十一月自写して、弟竹内良鎮大僧正に与えた | 山口滞在中の良鎮から(兼良の庭訓秘説を本文および巻末に加えて)贈られた。 | 延徳二年六月十九日 | |
兼載伝授連歌秘書(連歌延徳抄)☆ | 兼載寄贈 | 延徳二年冬 | ||
新古今集仮名序、新古今集 | 実隆は、この日立筆、翌三年九月一日書写完了、ついで十月十五日に上下校合 | 延徳二年九月二十一日 | ||
新続古今集 | 姉小路宰相基綱が書写寄贈 | 延徳二年十二月二十二日以前 | ||
政弘本「源氏物語青表紙本」「河内本」★ | 兼載、源氏物語青表紙本と河内本との相違(一部分の抄出)を注付。公敦は、政弘本の外題を書記、自らも書写 | 延徳二、三年頃 | ||
拾遺集★ | 宋世(飛鳥井雅康)が、この月に書写し数度の校合を終える | 延徳三年七月 | ||
「ちどり」(源氏御談義)政弘本(源氏物語千鳥抄)★ | 大内氏の被官平井相助が、四辻善成の源氏講筵に列して書きとめた物 | 槐下桑門(公敦)は、「ちどり」(源氏御談義)の政弘本を書写。この月、その奥に筆記 | 延徳三年九月 | |
続拾遺集★ | 勧修寺政顕書写本 | 三条西実隆は、この月十九日に禁裏本を以て校合 、政顕とともに校合を続け、翌二十日に下巻の残部を校合 | 延徳三年十月 | |
金葉集(一部)★ | 前関白近衛政家書写寄贈、奥書 | 延徳三年十月 | ||
新勅撰集★ | 滋野井教国新写本 | 実隆(校合) | 延徳四年 (明応元)三月四日 | |
新続古今集☆ | 姉小路政綱(書写)寄贈、奥に飛鳥井栄雅の跋文を加える | 年月不詳 | ||
公敦父実量奥書本(奏覧本系)新古今集 | 大友豊前守政親の感得した公敦父実量奥書本(奏覧本系) | 槐下桑門(公敦)奥書 | 延徳四年四月 | |
延慶両卿訴陳状☆ | 兼載筆写、実隆奥書本 | 公敦外題、奥書 | 明応二年三月上旬 |
一般人には難解な部分は除き、書物のタイトル、蒐集年代、関係者名だけを抽出して作成
さて、こんなに本を集めてどうするつもりだったんだろう、という素朴な疑問がわくと思います。これについては、力をつけてきた武士階級が、その地位の高まりによって、それまで中央貴族だけの特権だった文芸の世界を貪欲に吸収するようになった、というのが、参考書にも書かれているこの時代の特徴です。つまり、古典蒐集を行なっていたのは、なにも大内氏や政弘だけではなく、全国の武家がそのような願望を抱いていたのです。
しかし、中央とまったく繋がりが築けなかったり、財力に乏しかったりという理由、もしくは、当主が文芸にまったく関心がなかったというケースもあったかも知れず、各家の到達点はそれぞれに異なります。どう考えても、大内氏の古典蒐集熱はずば抜けており、ことに政弘期にはそれが最も顕著であったということは言えるかと。それがわかっただけで、素人的には十分でありますが、米原先生のご研究によれば、以下の点に集約できます。
第一、政弘の古典・歌書の蒐集は多く、 源氏物語、伊勢物語およびこれらの注釈書、さらに古今集(含注釈書)を始めとする勅撰集に集中。勅撰集の集大成を意図していた。大内氏はすでに代々の勅撰集を完備していたが、政弘には一部ずつ新調する意志があった。このために政弘は、京の三条西実隆・姉小路基綱・飛鳥井雅康・勧修寺政顕・近衛政家・滋野井教国らの公家衆を動員した。
第二、政弘の古典・歌書などの蒐集の根底は歌道修業のためであった。 一歩進めて政弘の場合には、源氏物語や伊勢物語および勅撰集などを相当程度読破していたのではないか。政弘の文芸は平安古典の復活、京都憧憬の姿ではあったが、なお、政治的経済的優位性を誇る武士の、文化的追従を許さぬ公家に対する文化上の劣等感克服の過程。いいかえると、政弘に古典の保護者としての自覚があったと考えられる。
第三、政弘と交渉のあった文化人に、一条兼良・その子良鎮大僧正・聖護院道興・三条西実隆・飛鳥井雅親・ 同雅康らがあるが、勘解由小路(賀茂)氏との関係も見逃せない。在宗・在重・在康と父子孫三代にわたり、宗教的(陰陽道)に大内氏と深い交渉のあったことが知られる。
政弘の蒐集した古典は、中央へ逆流し、さらに現代になお生きつづけているのであって、中世における地方武士と下向公家の文化交渉は、そのまま中央武士と在京公家の文化交渉に置きかえることができる。これは西の京都にふさわしい周防大内氏の目ざましい文化興隆を意味するものであり、政弘の文芸執心、文化保護の功績は高く評価しなければならない。かくて、大内氏は室町文芸を支えた最も有力な氏族であった、といってよろしいであろう。
出典:『戦国武士と文芸の研究』(米原正義)より、一部抜粋
第三については、ちょっと古典蒐集とは関係ないように思えますが、膨大な分量の中からわずかに一部分を抜粋しているため繋がりが見えなくなっているだけです。陰陽道の関係者との交流についてどうしても触れておきたかったので、省かず引用したため、こうなりました。のちほど、引用に頼らず項目を立てようと思いますが、今のところ間に合いませんので。ご容赦ください。
文化人との交流
政弘と交流のあった文化人は、それぞれが一流の方々ばかり。具体的には個々に見ていくほかないが、まずは、時系列を追っていくと以下のようになる。
応仁元年(1467) 雪舟、大内氏の遣明船で明国に
文明元年(1469) 雪舟帰国
文明六年(1474) 雪舟「山水小巻」を描き、弟子等悦に与える
文明八年(1476) 一条兼良請われて「伊勢物語愚見抄」書写を送る
文明十年(1478) 秋月弘種為世筆「古今集」一部10巻を献上
文明十一年(1479) 右大臣三条公敦下向
文明十二年(1480) 宗祇招聘
文明十三年(1481) 金剛般若経刊行(教弘冥福のため。跋文で琳聖29代後胤と自称)
文明十四年(1482) 興隆寺法華経二十八巻の開版開始、延徳2完成
文明十八年(1486) 雪舟雲谷庵に住み、天開図画楼となづけ「山水長巻」(国宝・四季山水図巻)を画く、
延徳元年(1489) 宗祇山口再訪「伊勢物語」を講義(伊勢物語山口抄)
延徳二年(1490) 雪舟自画像を秋月(薩摩の人、山口で雪舟にまなび等観と号した)に与える、妙喜寺庭園を造らせた(およそ)
明応元年(1492) 「聚分韻略」復刻
明応四年(1495) 宗祇、政弘の援助で『新撰菟玖波集』を編集、猪苗代兼載「あしたの雲」、雪舟「破墨山水図」を描き如水宗淵(鎌倉の僧)に与える
※取り急ぎ、時系列で主要な出来事をまとめた段階です。
寺社仏閣への参詣・造営と再建
長禄三年(1459)父教弘と氷上山上宮参拝
文明元年(1469)石城社を造営
文明七年(1475) 興隆寺法度制定(興隆寺文書)
文明十年(1478) 今八幡宮社頭および神領の条法を定める、周防松崎社祭礼に精進
文明十一年(1479) 興隆寺本堂再建上棟、長門安国寺のため大蔵経を求める
文明十三年(1481) 金剛般若経刊行(教弘冥福のため。跋文で琳聖29代後胤と自称)
文明十四年(1482)興隆寺法華経二十八巻の開版開始、延徳2完成
文明十六年(1484) 阿弥陀寺焼失、再建
文明十七年(1485) 興隆寺山門法界門建立
文明十八年(1486) 父子氷上山上宮参詣、後土御門興隆寺「氷上山」勅額を下賜、勅額に裏書きをし、興隆寺縁起に奥書して寺庫におさめる。家譜完成。
延徳二年(1490)妙喜寺庭園を造らせた(およそ)
延徳三年(1491) 父子氷上山上宮再建遷宮、
明応二年(1493) 清水寺観音堂建立
明応三年(1494) 二月に焼失した興隆寺を九月に再興、楽器、舞童皷大小等複製、洪鐘鋳造、今山多聞寺雷で焼失
※同上
菩提寺と墓所および政弘の子女
明応三年、政弘は中風の病が重くなってきたと感じ、家督を義興に譲った。
明応四年春、母・妙喜寺殿が亡くなる。政弘も、七月頃から病が次第に重くなり、九月十八日の夜に亡くなった。享年五十歳。遺言により、遺命して薄葬とした。十九日、吉敷郡上宇野令滝の法泉寺に安置。二十二日、法泉寺・後山に埋葬。法名を法泉寺直翁真正とした。
政弘の文芸について、あまり多くを語っていない『大内氏実録』は、最後のほうで次のように記している。
「政弘深く和歌に志をよせ、終焉の夕まで猶吟詠せしかば秀逸ども多かるに
一重なる大もぞあると世を知れば薄き衾もさゑぬ夜半哉(拾塵集)
と云ふ歌はもとも人の賞する所なり」
この歌が、なにゆえかくも高く評価されているのか、読んでもさっぱりだったが。これは、醍醐天皇が寒さに凍えているであろう人々を思い、着ている物を一枚脱いだとか脱がなかったとか云々の故事から来ている。醍醐天皇といえば延喜の治と呼ばれる天皇親政を行なった人であり、理想的な治世のような捉え方をされた方なので、それにかけていると思われる。
菩提寺と墓所
法泉寺は、現在山口県庁裏手奥に跡地があり、かつて山門付近にあったものとされるシンパクが天然記念物となって有名。しかし、寺院じたいは失われて久しく、かつての規模などを偲ぶことはまったくできなくなっている。創建年代などは全く不明だが、政弘死後、もしくは生前に、その菩提寺として建立されたのではないようである。応永年間にはすでに存在していたと考えられている。
政弘の墓と伝えられる宝篋印塔は現存。むろん、古墓というのは、伝承的要素が強くなるため、確実にそれが政弘のものであることを保証するものではない。
なお、『大内氏実録』に、法泉寺跡の現状(ご本が書かれた明治時代当時)についての記述があり、とても参考になる。それについては、すでに「法泉寺跡」の箇所に記したので、繰り返さない。
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法泉寺跡(山口市滝町)
法泉寺は大内氏二十九代・政弘公菩提寺だった寺院。現在、寺院は廃頽し、「跡地」が残るのみ。かつての山門付近にあったとされるシンパクと、政弘卿墓と伝えられる石塔を見ることができる。なお、シンパクは国指定天然記念物となっている巨木である。
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政弘の子ら
家督を継いだ義興以外の子弟は以下の通り。このうち、氷上山の別当となっていた「輝弘」だが、『新撰大内氏系図』による以下の記事には、のちに大内氏滅亡後に毛利家統治下となった山口に乱入して騒ぎを起こした大内輝弘との名前の混同が見られる。高弘が正しい。
高弘は義興にとって替わろうとした企みが発覚し、豊前に逃れて大友家を頼った。それゆえ、のちに、その子・輝弘が大友宗麟に焚付けられて、毛利家統治下となった防長の地に乱入して叛乱を起こして敗れ去ったことで知られる。なお、高弘が僧籍にあったのは、国衙において目代となり、東大寺の国司上人の言うがままにならぬよう国衙の権益も手に入れるため。政弘が思いついた究極のアイディアだが、それについては、のちほど当人のところで。
また、同じく僧籍に入った、梵良彦明は和歌にも優れた文化人として知られている。武家歌人としての父の遺伝子は、ほとんどこの人に受け継がれたのかも知れない。次代当主の義興には、戦乱に明け暮れたという時代的制約もあれど、文芸面より武人としての活躍が目立つからだ。
輝弘 或高弘、氷上太郎、初為僧号尊光為氷上山別当号大護院後還俗領氷上村故氷上為称号
僧 梵良彦明、嗣法于惟参周省、保寿寺住職、勅諡霊光円珠禅師
女子 宗像大宮司氏国妻
女子 吉見三郎隆頼妻
まとめ
政治と軍事
- 大内政弘は室町時代の武将で、大内氏二十九代当主。文武両道において、極めて高い能力を誇り、文武の家大内氏の中でもまさに最高ランクの人
- 応仁・文明の乱で西軍・山名方に与して活躍。圧倒的な軍事力は他を圧倒した。しかし、東西両陣営ともに決定打を欠き、戦線は膠着状態に。十年にもおよぶ在京を余儀なくされた
- 在京中に留守分国の伯父が東軍に寝返るなど厄介なできごともあったが、公家や文化人との交流を深めることもできた
- 大乱は勝利することなく終了したが、所領や身分を安堵されるかたちで撤退したので、敗北してすべての権益を失うようなことにはならなかった
- 帰国後は、領国経営に専念。留守中に荒れた九州を平定。武力鎮圧と懐柔策を併用するかたちで、秩序の安定を目指した
- 瀬戸内海の制海権を巡り、細川氏との対立関係だけは終始修復されなかったが、将軍家とは文芸面で親しく交流し、近江親征にも家臣や子息を派遣して尽した
文化・文芸
- 歴代当主はそれぞれに文芸面での素養があり、京への憧れから貪欲に文化を吸収してきたが、政弘代にはそれらの努力が満開の花となった。多くの文人たちと交流し、さらなる学びを求めるとともに、彼らの保護者として、活動を援助。宗祇、雪舟などがその代表
- 多くの文化人が山口に集結し、戦乱で京を焼け出された公家などが新天地を求めて下向した例もあった。中でも大内氏とゆかりが深い三条家の公敦は、山口に居住し、政弘の和歌の師匠となった。さながら西国に新しい京が生まれた如くで、山口は「西の京」と呼ばれた。その呼び名は今も自治体の観光や文化面でのアピールポイントとして健在。受験参考書にも載る
- 文明十八年、氏寺・興隆寺は勅願寺となり、氷上山には勅額が掲げられた。始祖から続く家譜も整理され、父・教弘にも従三位が贈られるなど、めでたいことが重なった。この年、雪舟は国宝となる「山水長巻」を描き上げている
- 政弘は将軍義尚が新しい勅撰集を作ろうとしていた事業に夢を託していたものの、義尚の早世で願いは叶わなかった。もしも勅撰集が完成したとしたら、政弘自身はもとより、作者として父や祖父らの名が連なることになったろう。政弘は宗祇を後押しし、連歌集『新撰菟玖波集』の完成を心待ちにしていたが、見ることなく亡くなった
- 生涯に詠んだ歌の数は数万首におよぶという。生前親交のあった文人たちは、政弘の死を悼み、秀逸な作品を選んで私歌集『拾塵集』を作った
参考文献:『大内文化研究要覧』、『大内氏実録』、『新撰大内氏系図』、『戦国武士と文芸の研究』、『大内義隆』(米原正義)、『日本史広事典』、受験参考書ほか
20250125 最愛の父の誕生日と月命日に贈る
雑感
疲れました。執筆者が大内氏に心惹かれるに至ったのは、応仁の乱からです(戦国時代に関心はないため、応仁の乱から戦国時代とは思いません。古すぎる説ですみません。織田某とかでゲームしてる方々の辺りからという認識です。皆が大好き関ヶ原とかまったくわかりません。もちろん、合戦の意義とか、戦国時代の英雄に心惹かれる皆さまの思いを否定するものではありません)。西から大軍を率いて上洛、二十歳そこそこ、超絶イケメン、あな麗しと思ったのが始まりです。
もちろん、真っ先に記事を書いたのですが、たぶん、数日で下書きに戻したはず。以来、グチャグチャになってずっとまとめられなかったのがここです。現状、やはり、まとまっていないと感じています。ですが、とにかく器だけは早く作っておかないとと思い、強引にアップしております。
なんのかんので、このお方と、二十五代、三十一代あたりが、最もややこしく、わけがわかりません(三十代も)。わかるようなわからないような。ただ、どうせ完璧になどならないのですから、下書きのまま放置するより公開したほうがいいでしょう。
ここが、このサイトのメインになるべき記事なので、こんなもので終わりにしたくないのですが、テーマが深すぎて完璧を目指したら寿命が尽きてしまいます。みっともないままで上げますが、ちょっとずつ直します。

かなりみっともないよね……。

しばらく、サイトの更新まったくできなくなるので、とにかく器だけ作っておきたいの。大量にね。

一度低ランク認定されたら、這い上がるのは最初からやり直すより、さらに骨では?

わかっているけど、仕方ないです。公開はどうしてもこの日にする必要があったので。日付跨いで直し続けますよ。何年かかってもね。

徹夜でヘンテコなところ直してた……。なんで俺が? きっとまだあるよね?
更新履歴:20250201 スマートフォン表示の際、表が横スクロールできるよう調整