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法泉寺跡(山口市)

2020年11月2日

説明看板の写真

法泉寺跡・基本情報

所在地 〒753-0071 山口県山口市滝町11(シンパク、法泉寺跡地)、〒753-0091 山口県山口市上宇野令(政弘卿墓)
最寄り駅 山口駅、県庁前(バス停) 徒歩圏内

法泉寺跡・歴史

「法泉寺の開山は円悟碩渓禅師という。創建の年月は不明。応永年間に、道朴という僧がおり、氷上山興隆寺蔵経勧進帳にその名が見える。またこれより先、応永七年二月、兵部卿師成親王がこの寺にて仏門に入ったことが、南朝編年紀略に見えるから、古刹である。

しかし、大内氏滅亡後、住職首座善芳は毛利氏に目をかけられたので、遂に還俗して土肥了佐と改名した。そのため、この寺は廃れてしまった。そこで、政弘の木像や位牌などを、大通院に移して安置していたが、大通院・二世三湘は、高峯山幻松院を創造し、法泉寺から伝えられた木像、位牌はもとより、仏具なども移して香華を手向ていた。明治□年、幻松院は廃寺となり、木像と位牌は土中に埋めてしまったという。

法泉寺旧址には古栝の大樹が一株残っており、仏殿壇、経蔵壇、方丈嶽、風呂谷、山門壇、車止石、御廟野等の字がある。御廟野はやや離れている。古墓が多数あり、主なものは二つ。一つは政弘卿の墓、一つは兵部卿師成親王の御墓だという。

由来によれば、幻松院の後山に求聞持谷という所があり、足利義稙が山口に滞在していた時、ここで求聞持法を習得したと伝わる。この場所から、やや登った所に、左右にアウンの梵字を彫った巌石があり、またこれよりわずかに折れ曲がった所を過ぎると、南面に不動、東西に虚空蔵地蔵を掘りつけた大石がある。好古の士なら一見の価値がある。」

以上は近藤清石先生『大内氏実録』の記事である。法泉寺跡地について詳細に書かれているものは、知る限りでは、近藤先生のご著作だけだが(ほかにはない、という意味ではなく、単に知らない)、先生は明治時代の方なので、その頃と今とではまた風景が変わってしまっているであろう。「古墓が多数あり」となっているが、現在目にすることが出来るのは、政弘とおそらく親王のものだけであると思われる。
求聞持谷云々は、木像や位牌が移されたとされる幻松院の後山らしいから、以降の記述は法泉寺とは無関係だろう。もっとも、大通院や幻松院と法泉寺跡地との位置関係も不明だから、場所的に近かったのかもしれない。

法泉寺のシンパク説明看板にも、「仏殿の壇、経蔵の壇、方丈の壇などの地名が残っており、当時の規模を知ることができる」とあり、『実録』記事と一致している。凌雲寺とは違って、発掘調査などは行なわれていないようで、現状、地名を頼りにかつての寺院の敷地を想像することしかできないものと思われる。

晩年の政弘は病気がちで、亡くなる以前に義興に家督を譲っていたようだし、法泉寺が隠居所のようになっていたのではないだろうか。陶らの政変で、義隆が最初に逃れたのは法泉寺ということになっているから、館と比べて防御的役目を果たすような造りだったのだろう。この時に戦渦にあった可能性は高いけれども、そのために廃絶したとする説は、今のところ見かけていない。

法泉寺跡・みどころ

法泉寺跡として認識されているものは、天然記念物のシンパクと伝政弘墓。付近は山口十境詩に詠まれた景勝地で、かつては花見の宴なども開かれたようだが、今はただ鬱蒼とした森。菩提寺を思わせる遺物は何一つない。背後に五十鈴川ダムがある。※なお、厨子は法泉寺「跡地」とは無関係である。

大内政弘卿墓

大内政弘墓の写真

これが、政弘卿墓と伝えられるもの。残念ながらほかの当主たちも含め、いわゆる墓と呼ばれているものは、言い伝え的要素が強いことは否めない。「伝」政弘卿墓といったところか。ただ見るからにホンモノではないかと思える(思いたい)。

法泉寺のシンパク

シンパクの写真

国指定天然記念物。
法泉寺の山門脇に植えられていたものであったといわれている。三つの株が並び立っているように見えるが、 じつは全体で一株。根元から三つに分れている。根元の周囲は 98メートルを超えるという。 三つの幹の中で、もっとも繁茂しているのは東側の株で、高さは約12メートルもある。目通り周囲はどの幹もだいたい3メートル。老樹なので内部は腐朽しているにもかかわらず、新しい樹皮で包まれているという不思議な大木。(参照:案内看板)
『実録』で近藤先生が書いておられた「古栝の大樹」というのはこれのことであろう。文化財説明看板によれば、シンパクは「イブキの別名」とのことで、漢和辞典で調べると「栝」は文字通りイブキ。

梅峯飛瀑

「梅峯飛瀑」石碑の写真

山口十境詩。政弘墓所があった法泉寺の山号は梅峯山。梅と桜の名所として知られており、大内義隆はここで観梅の宴を開いたという。(参照:十境詩説明プレート)。

付記・法泉寺の厨子

法泉寺跡地については、現状を見たところも、近藤先生の『実録』記事に書かれていることが正しいと思われる。シンパクの説明看板にも同様のことが書かれており、政弘菩提寺としての法泉寺は廃絶して跡形もなく、シンパクだけが唯一残った、というのが共通認識。しかし、厄介なことには、「法泉寺」という名称の寺院は現在も存在しており、ややこしいことにそこにある山口県指定有形文化財の厨子が、大内氏に関連するものである。

文化財関連の資料には、だいたいつぎのようなことが書いてある。

法泉寺は大内義興が父・政弘の菩提を弔うために山口の滝の地に建立した寺院で、梅峯山法泉寺といった。大内氏滅亡後、毛利輝元が厚狭郡棯小野(宇部市棯小野)龍岩山に移築。龍岩山法泉寺と名を変えた。その後、場所は長尾山に移り(年代不明)、宗派も禅宗から浄土真宗に変わった。

有形文化財の厨子は、この法泉寺が抱えとしていた「長尾山寿明院」という寺の観音堂にあったもので、寿明院が廃寺となり、観音堂も廃れたので、法泉寺に安置されたのだという。寿明院は大内家代々の祈祷所であったという由来とか、観音堂は享禄年間大内氏によって建造された云々とする棟札などがあり、建築様式からも享禄年間のものと推定される。

つまりは、現法泉寺にある厨子が確かに大内文化の遺物であるらしいことは、先生方のご研究からもほぼ明らかである。ただし、この法泉寺と政弘菩提寺だった法泉寺との間にはもはや、名前を引き継いでいるくらいの関連性しかないように思える。寺院の変遷の問題は複雑で、本当に理解に苦しむ。果たして義興が父の菩提寺を建てる以前、兵部卿師成親王の頃からこの寺院が存在していたのかどうかについても謎である。

はっきりしていることは、この滝の地に政弘菩提寺があった、という一点だけなのかもしれない。静寂に包まれた完全なる廃寺。鬱蒼と茂る深い森の中で、今宵も一首詠む若き法泉寺さまのお姿が見えたような気がした。

法泉寺さまキャラクター画像法泉寺さま

法泉寺写真集

アクセス

山口県庁から近い。山口駅から散歩がてら歩いても、県庁前まではバスで来てもよい。

シンパクを見るだけならば、山口県警脇から上がっていけば、迷うこともなく辿り着けるし、距離もそう遠くない。ただし、墓所も見ておきたい場合は、シンパクからさらに奥へ進むことになる。

※夏場に行く際の注意事項※
墓所に続く道は草に覆われてしまい、クモの巣だらけで恐ろしく、墓石にも近寄れない(虫平気な方は問題なし)。ダム方面に向かう車道を進んでいくほうが楽だし、虫の被害も最小ですむ(どの道墓石は草が生い茂る中にあるので、完全に虫を避けることは困難)。車道を行った場合、シンパクを見落とさないように。入口まで戻って再度徒歩で行かなくては見ることができない。

参照文献:近藤清石先生『大内氏実録』、山口市様編纂『山口市史 史料編 大内文化』、文化財説明看板
※この記事は20220910に加筆修正されました。

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