菩提寺法泉寺跡地・大内政弘卿墓

静寂に包まれた完全なる廃寺:大内政弘卿墓

雅な花守護様にして風雅な庭園の主が永久に眠る場所。

 大内家最強の将は山口に居を移した弘世様だろうか
 応永の乱を起こした猛将・義弘様だろうか
 それとも天下の管領代・義興様だろうか

これらの問いに対して、我らが庭園の主こそがナンバーワンだとお答えしたい。
誰もが最強なこの家で、雅な上に強いという最高に贅沢な方。

今は廃墟となった菩提寺跡地で彼は何を思うのか。

静かで奥ゆかしいこの場所で、今宵も月明かりに一首詠む

残念なことに、墓と伝えられるこの石塔以外、何も残されてはいない。

由来とその後

法泉寺⇒大通院⇒幻松院と変遷した

法泉寺は円悟碩渓禅師によって創建されたという。開山の年月はf不明。
応永年代に、道朴という僧がおり、氷上山興隆寺所蔵の勧進帳にその名が見える。またこれより先、応永七年二月、兵部卿師成親王がこの寺にて仏門に入ったという記録が、南朝編年紀略にある。古刹なのだろうか。

大内氏滅亡後、住職首座善芳は毛利氏に目をかけられたので、遂に還俗して土肥了佐と改名した。そのため、この寺は使われなくなって、廃れてしまった。
政弘の木像や位牌などは、大通院に移して安置していたが、大通院・二世三湘は、高峯山幻松院を創造し、法泉寺からこれらの木像、位牌はもとより、仏具なども移して香華を手向ていた。
明治時代に入り、幻松院も廃寺となってしまい、木像と位牌は土中に埋めてしまったという。

少なくとも明治時代まではのこっていたらしい木造と位牌も、今は失われてしまった。

法泉寺旧址には古の大樹が一株残っており、仏殿壇、経蔵壇、方丈嶽、風呂谷、山門壇、車止石、御廟野等の字がある。御廟野はやや離れている。
古墓は多数あり、主なものは二つ。一つが政弘の墓、一つが兵部卿師成親王の墓だという。
由来によれば、幻松院の後山に求聞持谷という所があり、足利義植が山口に滞在していた時、ここで求聞持法を修せられたと伝わる。
この場所から、やや登った所に、左右にアウンの梵字を彫った巌石があり、またこれよりわずかに折れ曲がった所を過ぎると、南面に不動、東西に虚空蔵地蔵を掘りつけた大石がある。好古の士なら一見の価値がある。

参考文献:近藤清石『大内氏実録』世家・政弘より 抄訳

近藤先生は明治時代の方なので、その頃と今とではまた風景は変わってしまったことであろう。法泉寺について、唯一詳細に書かれていたものは、知る限りでは、近藤先生のご著作だけだが(ほかにはない、とは言っていない)、何もかもが失われてしまったことだけは事実であるようだ。
また、「古墓は多数あり」となっているが、現在目にすることが出来るのは、政弘とおそらく親王のものだけであると思われる。
私も毛利元就氏を敬愛する者として、防長の主となった彼の子孫が行ったとされる大内家の遺産の破壊や切り売りを、ある程度は仕方のないことだと考えている。
立場が逆なら大内側もそうしたであろう。
しかし、ここの「還俗して土肥了佐と改名した」という住職首座善芳なる人物のあまりの俗物ぶりにはさすがに嫌気がさした。

法泉寺のシンパク

さて、自治体サイトさまで「法泉寺」と検索すると、じつは、政弘菩提寺ということよりも、「法泉寺のシンパク」というものがヒットする。
元々の法泉寺山門脇に植えられていたという巨大なシンパクであるらしく、わざわざこの樹を見に訪れる人もいるほどだ。
悲しいかな、知名度は、法泉寺よりシンパクのほうが高い。

法泉寺厨子

そして、じつは現在、山口県には法泉寺という寺が存在する。
宇部市小野にあるこの法泉寺、政弘の菩提寺が移されてきたものだというのである。
宗派もかわり、場所もかわったが、寺自体は遠く宇部の地で存続しているという。
近藤先生の詳細な記述とはかなり違っているが、地元自治体のサイトの情報が、最新かつもっとも信頼の置けるものである現状を考えれば、これが、「元」法泉寺である可能性は低くない。

しかし、ここでも、菩提寺の一件はさらりと流されている。
法泉寺で有名なのは、「法泉寺厨子」という文化財であるからだ。恐らく、検索でやって来た人たちの目的もこちらであるはずだ。
法泉寺にはもともと寿明院という抱え寺があったが、元々この「厨子」はこの寺院所蔵のもの。しかし、寿明院が廃寺となってしまったため、法泉寺のものとなり「法泉寺厨子」という名が冠されている。

元々の跡地は廃墟となり、木像も位牌も失われた。宗派すらかわってしまった現・法泉寺に赴いたところで、政弘様を偲ぶことができるものは何もなさそうだ。

やはり今なお、あの深い木々が生い茂る静寂の中でねむっておられるのだろう。
時には、美しい月明かりに一首詠みながら。

〒753-0091 山口県山口市上宇野令