
寄舟神社・基本情報
ご鎮座地 〒754-0891 山口市陶1171−14
最寄り駅 新山口駅
御祭神 寄舟大明神(?)
祭典 毎年四月第二日曜日
社殿 なし
主な建物 鳥居、石祠、石碑、灯籠、記念碑
(参照:『陶村史』、説明看板)
寄舟神社・歴史
『陶村史』によれば、陶の地には、大内氏の始祖・琳聖太子が上陸したという伝承がある。世間一般に言われている「伝承」では、下松に星が降りてきて異国の王子が来朝することを告げ、そのご本当に彼の地に……ということになっていたが?
はたして、陶には「艫綱の森」といわれる場所があり、そこが紛れもない太子上陸の地、だという。
「艫綱の森(寄舟神社)は国道二号線ぞい(現在は石碑が建立されている) にあったが、道路工事のためこの地に移設された。
艫綱とは、船つき場、港という意味で、推古天皇一九年(六一一年)、大内 の祖先、百済の皇子琳聖太子がこの艫綱の森に上陸されたと伝えられ、寄舟大明神として祀られて来た。太子は陶の土が、やきものを作るのに大変よい土であることに気づかれ、やきものの作り方を陶の村人に教えられた。村人はさかんにやきものを作るようになった。作ったやきものは、この港から船で日本のあちこちに送り出したと伝えられている。
またこの艫綱の森について、次のような話もある。この港に針を積んだ船が着いていると、大風が吹き針を積んだまま船は沈んでしまった。今でも、この地を掘ると針が出てくるので、この森を針森様とも呼んでいる。
毎年四月第二日曜日にお祭がおこなわれる。」(説明看板)
『陶村史』にも説明看板と同じ内容が、より詳細に書かれている。元来、「陶」という地名の由来はそこで、陶(須恵)器が作られていたから。それは陶窯跡などが残っていることなどからも明らか。
琳聖太子が実在した人物かどうかについては、現代の研究ではたくさんの疑問符が出ている。けれども、異国からやってきて日本に定住した人が大内氏の先祖であったことは否定されていない。名前を琳聖といったのかどうか、本当に聖明王の王子だったのかは知らないけど。古代には多くの渡来系の人々が日本に来て、あれこれの技術を伝えてくれたことは教科書にも載っている。かつて、陶の地に百済の王子が来て、製陶の技術を伝えてくれたのは紛れもない事実だ(多分)。
しかし、琳聖は多々良浜に上陸したはずで、陶の地ではないのでは? という疑問についてだが、それについては諸説ある。「定説」だと、太子が多々良浜に上陸し、それから難波で聖徳太子と会い……という流れ。この難波での聖徳太子との面会を終えて周防の地に戻ってきた時、この場所に上陸、そこから、大内の地に向かった。あるいは、そもそも、来朝時、多々良浜に上陸する前に、陶の地に船を寄せたともいう。
いずれにしても、かつて琳聖が陶の地に来たこと、そこで製陶の技術を伝授したことなどは大昔から語り伝えられてきた。人々は感謝の思いを込めて、祠を建てて太子をお祀りした。その祠は寄舟大明神と呼ばれていた。太子が陶に船を着けた日は「推古天皇の十九年十二月二十六日」(『陶村史』)といわれ、この日は大明神の祭日だったという。今はなぜ、四月にお祭りをやっているのか謎だけれども、神社の場所を探し彷徨っていた時、タクシーの運転手さんが地元の方にお伺いしたところ、お祭りは今もにぎやかに行われているという。
ついでに、『陶村史』はかなりのページ数を割いて太子について考察していてとても興味深い。そこに書かれてあったことだけれども、太子が上陸した場所と言われているところはほかにも何か所かあり、のみならず、琳聖太子ゆかりの場所はなんと九州にも。熊本県八代郡宮地にある八代神社(別名白木妙見宮)には、下松同様、星が降ったという伝説があり、その祭神・白木明神は「新羅」王子琳聖なのだとか。こうなるともう、大内盛見が適当に名前をつけたとか思えなくなってくるし、一種の「神様」として琳聖太子なる人が存在し、それは大内氏だけのものではなかったかのようにすら思える。
『陶村史』は星への信仰や妙見にかかわる伝説は、「西日本の一部では琳聖太子と結びつく」とまとめている。
陶の人々から、かくも信仰を集めていた寄舟大明神は、国道工事のために場所を狭められ、のちには、バイパス工事のために完全に移設された。
なお移設工事の時に、発掘調査を行ったがめぼしいものは見つからなかった。しかし、古銭がたくさん出てきたことから、古くから信仰があったことがわかったという。
寄舟神社・みどころ
神社参詣のお供として貴重な『山口県神社誌』にも載っていない寄舟神社なので、基本情報すら目視で書いたほど。なので、目に入らなかった「みどころ」がもしあったならば残念なことになる(普通はあとから境内案内図を見たりして、あれもこれも見落としてもう一度行くことになるけど)。『陶村史』に書かれていたものはすべて見ることができたと思う。
鳥居
『陶村史』によれば、「琳聖太子音楽社」「文化四丁卯十一月六日氏子中」と書かれ、「寄舟大明神」の木額がかかっているらしいが、文字までは気付かなかった。また、額には寄舟神社と書かれている。大明神ではなく。
石碑
向かって左から記念碑、祠、石碑。このほかに灯籠がひとつあって、確認できたものはこれがすべて。
琳聖太子之旧跡碑
江戸時代末期に作られた石碑。ついうっかり、裏側を見忘れていたのだが、『陶村史』によれば、「推古天王十九年十二月廿六日着岸釜山臂土器根元」と書かれている。釜山は地名ではなく、「窯山」。「臂土器」というのは土器を作る時、臂で型をつけたこと、「根源」は発祥の地、というような意味である、との解説があった。
記念碑
「艫綱の森は大内氏の始祖琳聖太子の着岸の地と伝う 今国道拡張により遺跡の北方約二百二十米のこの地に移し祀る 昭和四十六年一月 陶有志」と書かれている。文字通り、場所を移設した時に造られた記念碑である。
艫綱の森跡地
「琳聖太子上陸の地 艫綱の森跡」と書かれた石碑が建っている。艫綱の森跡のほうが、Googlemap で神社と一緒に出てきてくれないので、下に二枚の map を貼っている(表示速度遅くなりそう……)。地図を見てわかる通り、かつてここが海だったとは、とうてい信じられない。
もちろんそれは、この上陸地伝説が信じられないという意味ではなく、かつての海が完全なる陸地となっていることを言っている。ほかにもこのような事例は数多いけれど、海岸線がはるかかなたとなってしまった地形の変化に驚くばかりなのであった。
アクセス
陶の辺りを回る時には、山口ではなく、新山口の駅からと観光案内所で教えてもらいました。ただし、今回は山口駅からタクシーを使っています。艫綱の森跡は本当に小さな石碑一つですので、タクシーの運転手さんでも探すのに困っておられました。結局地元の方にお声かけして場所を確認。地元の方でも「知らない」ということは多々あるのですが、これは地元の方ならどなたでもご存じなくらい有名みたいでした。見ての通り、神社が分かればその向かい側なので、むしろ徒歩でナビゲーションのほうが気付きやすいかと。ただ、ここまで歩くのはかなりしんどいと思います。
参照文献:『陶村史』、説明看板

なんで陶来るといつもタクシーなんだ? いくらでも歩けるはずなのに。

なんとなく、とても遠い気がした……(山口からは歩けないよ、君)。
-
-
五郎とミルの防芸旅日記
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
続きを見る