人物説明

山口開府の父・大内弘世

2020年5月14日

大内弘世イメージ画像

大内弘世・アイカワサンさま画

大内弘世とは?

大内氏第二十四代当主。活躍した時期はちょうど南北朝期にあたる。この頃、父・弘幸の弟にあたり、分家・鷲頭家を継いでいた長弘が一族の中で勢力を拡大しており、北朝武家方の周防守護に任命されていた。弘世は南朝宮方につくことで、鷲頭家に対抗。家督相続後、同じく代替わりして長弘の子・弘直が継いでいた鷲頭家と全面対決の上、これを撃破。ついで、長門を地盤としていた厚東氏を滅ぼし、防長二ヶ国を統一。

周防・長門の守護職を認めさせることを条件に、武家方に転向するなど、南北朝という特異な時代の特徴を巧みに利用して勢力を拡大した。防長両国はその後も終始一貫変ることなく、大内氏の根幹地であり続けたが、それはすべて弘世の功績。また、本拠地を名字の地・大内から山口に移したのも、弘世であり、「山口開府の父」とされる。

大内家という室町期西国を制した大国の基礎を作った人。

大内弘世・基本データ

生没年 ? ~1380,11,15(天授六年、康暦二年)、56歳
※死亡年月と年齢が明らかなので、引き算すれば誕生年も導き出せますが、明記している書物は見当たらないため、不明とします。
父 大内弘幸
母 ?
幼名 孫太郎
通称 大内介
官位等 周防権介、修理大夫、周防、長門、石見守護(防長二州守護 ⇒ 帰順時、石見 ⇒ 貞治三年)、従五位上 
法名 正寿院殿玄峯道階大居士(大禅定門)
墓地等 乗福寺に供養塔(墓?、無縫塔)
(出典:『日本史広事典』、『新編大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内分家研究要覧』等)

南北朝動乱と防長統一

弘世の功績その一は、防長二ヶ国を統一したこと。後に、大内家の版図はさらに広大なものとなっていくが、幕府との関係が変化するたびに、分国の地図は書き換えられた。しかし、最初から最後までけっして変わることがなかったのが、根幹地ともいうべき周防長門の二ヶ国。この二ヶ国の支配が確立されたのが、弘世の代だった。

武家方と大内氏

鎌倉幕府を倒すために協力した、後醍醐天皇ら宮方と足利尊氏をリーダーとする武家方とはやがて対立するに至った。全国の武士たちもいずれかの陣営に与して戦うことになる。

このような状況下で、大内家は武家方につく。武家方としての活躍ぶりについては、『太平記』にもその記述がある。すなわち、尊氏が南朝側に敗れて西下した際、兵庫から防長に尊氏を運んだのは大内長弘と厚東武実が提供した軍船であった。武家方はその後、九州で再起し東に上り、宮方を打ち破って京都に入る。ここで新たな天皇を立てたから、後醍醐天皇の南朝、武家方の北朝という二つの朝廷が並び立つ状況となった。

防長の大内家と厚東家は先に武家方として貢献した功績により、それぞれ周防と長門の守護職に任じられる。一見すると、大内家の周防国支配はここに始まり、すんなりとこのまま進んだかのように見えるが、実際には違う。このとき、周防守護職に任じられた大内長弘は、惣領家ではなく、分家・鷲頭家の当主だったからだ。

惣領家と重弘、長弘

系図

大内惣領家の家督は盛房ののち、弘盛 ⇒ 満盛 ⇒ 弘成 ⇒ 弘貞 ⇒ 弘家と続き、弘家の跡は重弘が継いだ。重弘の子息は弘幸だったが、当時一族内で力を持っていたのは弘幸よりも重弘の弟・長弘のほうだった。つまり、弘幸の叔父である。この時、分家・鷲頭家は跡継ぎに恵まれず断絶しており、長弘はその鷲頭家の家督を継いだ。

鎌倉時代、多々良氏の一族は、それぞれが己の根拠地と勢力をもっていた。ちょうど、惣領制が崩れていく時代の流れの中にあり、惣領としての大内介が圧倒的統率力で一族をまとめていたわけではなかった。大内介は周防在庁官人のトップとはいえ、多々良氏同族どうしが惣領の下で主従関係を結んではおらず、それぞれが実力により、国衙要職を分掌していたのである。

力ある者の発言権が強くなり、誰がリーダーとなるかも力関係によるのは当然のこと。恐らくは、長弘は有能な人物で人望もあったものと思われ、弘幸はそれに敵わなかったのだろう。しかし、長弘が亡くなって子息の弘直が守護職をそっくり継ぎ、いっぽう病を得た弘幸にかわり弘世が父の跡を継ぐと、事情が変わってくる。弘直には長弘ほどのリーダーシップはなく、逆に弘世のほうは極めて有能な人物であったらしい。惣領家の地位と権力をあるべきところに奪い返すこと、それこそが弘世の願いであり、それを成し遂げる実力も十分に備わっていた。

系図の隅っこ

新編大内氏系図(二十四代から三十一代まで)

大内弘世には実に多くの子女がいた。ここには聞いたことのある名前しか書いていないが、系図には「某」と記された男子数名と多数の女子が載っている。重要となるのは女子である。政略結婚で思いもかけないところと姻戚関係になっていることがあるから。

系図にある女子は八名。うち、「母」もしくは「妻」と記されている者の嫁ぎ先は以下の通りである。
 少弐冬資、大友親世、山名晴政、宗像大宮司氏重、厳島神主

系図(鷲頭家)※鷲頭家の者でこの図以下にも後継者が記されているのは、弘員と盛継
※大内弘幸の弟、鷲頭長弘の息子はともに「弘直」で、同名であることに注意。

宮方と大内氏

領国支配の確立のためには領内の統一が、領内の統一のためには一族の団結が必要となる。しかし、大内家の一族はけっして一枚岩ではなく、惣領家の地位を巡って争っており、それは大内・鷲頭両家の対立に集約された。

弘世が一族間の権力闘争に勝利するための戦いに乗り出した時、国内は南北朝対立の混乱期だった。倒すべき相手である弘直が、武家方の北朝勢力から周防守護に任命されていたことから、弘世は北朝と対立する南朝勢力に与力することを決める。観応二年(正平六年、1351)、 弘幸・弘世父子はともに南朝に帰順した。

弘世の心の中まで透視した史料はないから、武家方につくべきか宮方につくべきか、実際のところどちらを望んでいたのかは分からない。だが、単純に、「敵の敵は味方」ということだろう。弘直が武家方だったから、弘世は宮方についたということだ。

武家方が弘直を周防守護にすれば、宮方は弘世を周防守護に任命。同じ周防国に二人の守護が存在することになった。南北両朝は本来共存できない。周防守護も当然、南北二人は相容れないものだ。こうして、弘世と弘直、惣領大内と鷲頭両家の争いは、南北両朝の内乱の中に組み込まれていった。もう少し正確に言うと、いきなり南朝の門を叩いたのではなく、先に、足利直冬一派に属していたという経緯がある。

足利直冬は尊氏の長男だが、父親に認められず叔父である直義の養子となった人物。世にいう「観応の擾乱」にともない、西国にて「第三の勢力」を形成していた。弘世は直冬が南朝にくだると同時に、ともに南朝方に転向したのだった。

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『足利直冬』

読んだ本:瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館。ターゲットに関心がなかったため、特に感想もない。

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鷲頭家との内訌

大内惣領家の地盤は、無論名字の地・大内だが、在庁官人として活躍していた歴史から分かる通り、国衙領があった現在の防府市辺りでもある。いっぽうの鷲頭家はかつて、大内盛房の三男・盛保が都濃郡鷲頭庄の地頭を拝領し、鷲頭姓を名乗った分家である。琳聖太子のところで出てきたように、都濃郡鷲頭庄は北辰降臨の場所、現在の下松あたりとなる。

全面対決に際して、双方は準備を進める。大内側は鷲頭家との対戦に先立ち、配下の陶弘政を陶の地から富田の地に移す。

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五郎

ご先祖様……✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

いっぽうの鷲頭側は来る弘世の侵攻に備え、同じく配下の内藤氏に城を築かせ、守りを固めた。

文和元年(正平七年、1352)、弘世は鷲頭家の本拠・都濃郡鷲頭庄に侵攻し、白坂山において合戦が始まった。弘直の弟・鷲頭貞弘や内藤藤時らが応戦し、高鹿垣、新屋河内真尾と戦いは続き、藤時の弟・内藤盛清は命を落とした(白坂山・高鹿垣の戦い)。

白坂山古戦場跡

白坂山古戦場跡(下松市)

鷲頭家は弘世との争いに敗れ、弘世は惣領として一族の中での地位を固めていくことになる。そして、こののち、この惣領の地位は弘世の直系によって世襲されていく。

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ミル

鷲頭家はここで滅亡しちゃったわけではありません。いちおう、両家は和睦というかたちになりました。もっと後になるけど、また鷲頭家が出てくる機会があるからね。

厚東氏との戦い

鷲頭氏を倒し、一族を統率する地位に就き、名実ともに周防国の支配者となった弘世は長門国への進出を開始する。自らの勢力基盤を広めるための戦いへと移っていったのだ。各種年表類によれば、弘世の「周防平定」は、文和四年(正平十年、1355年)のこととされ、同じ年に長門への進出が始まったとされる。

大内長弘とともに、武家方を支持していた厚東氏は長門守護に就いていた。厚東氏は防長の三大名族に数えられる家柄で、その先祖は古代史に出てくる物部守屋だと言われている。その子孫が今の宇部市付近に移り、在地勢力となっていた。

防長三名族(始祖&はじまりの地)

大内氏:百済聖明王王子・琳聖、大内県

厚東氏:物部大連守屋子息・武忠、厚東郡

豊田氏:藤原北家法興院摂政兼家嫡男・関白正二位道隆、豊浦郡

厚東武実は大内長弘と同時期、長門守護に任命され、以後最後の当主・義武に至るまでその地位を世襲した。防長平定を目指す弘世にとって、厚東氏の勢力は邪魔。都合のよいことに、宮方についている限り、彼らとは敵同士だから、戦う理由もある。

厚東氏では先に、武実が京都で客死。跡を継いだ武村も、南朝側・弘世配下の陶、杉らの軍勢に敗れ、長府・四王司山城にて自刃、城も陥落した。弘世の加入もあったためかと思うが、南朝側の勢いは激しく、長門守護職を継いだ厚東義武は前途多難であった。そんな中で、先々代・武村の弟・武藤が南朝に寝返るなど、一族内部も混乱。

この機に乗じて、弘世は着実に支配を広げる。文和四年(正平十年、1355)と、延文三年(正平十三年、1358)、弘世は厚狭の厚東氏を攻撃。ついに厚東氏の本拠地・霜降城を陥落させる。長府に逃れた厚東義武は四王司山の戦いでも弘世に敗れ、長門を離れ豊前国へと落ちて行った。

厚東氏に続き、同じく長門豊浦郡の豪族・豊田氏に対する攻撃も始まる。ちょうど、厚東義武が九州に逃れたのち、延文四年(正平十四年、1359)頃からのこととなっている。豊田氏は厚東氏のような徹底抗戦はせず、弘世に帰順する道を選んだ。厚東氏の逃亡と、豊田氏の帰順で反対勢力はいなくなり、長門国も弘世の統治下に入った。南朝は周防に続き、長門の守護職も補任。防長二ヶ国が大内家の支配下に入った。

厚東氏の抵抗はなおも続き、一時は長府に戻って失地回復を目指したが、ついに成功することはなかった。

北朝帰順

興味深いのはその後の弘世の動きである。防長二ヶ国をしっかり押さえて意気揚々としている大内家の存在は、宮方にとっては心強いが、敵対する武家方からみたら大事件だ。元々は大内(長弘)・厚東の両氏ともどもが味方で、防長の地は安泰だったはず。一挙に勢力圏が塗り変わってしまった。

武家方は弘世に対して働きかけをする。帰順したならば現在お持ちの周防長門領国の守護職はそのまま安堵してあげますよ、という破格の条件を提示したと思われる。弘世はその申し出を受け入れ、武家方に寝返ってしまった。楠木正成だ、新田義貞だ……と南朝びいきのエピソードに夢中になる面々は、大内弘世の変わり身の早さに幻滅するかもしれない。

最初は「宮方」の武将として出発した彼が、いともたやすく「武家方」に鞍替えするところ、当事者たちはさぞびっくりし、恨んだり喜んだりしたことだろう。ただ、この時代はそういう時代だったのであり、「昨日は宮方、今日は武家方」という事象が普通にあった。だから、弘世の行動が特殊というよりは、楠木、新田らの忠誠心物語(?)のほうが感動的、かつ伝説的すぎるだけだ。

弘世の転向は貞治二年(正平十八年、1363)のこととされている。

この時期は、様々な文書で、南北それぞれの元号が使われていた。武家方は北朝元号を、宮方は南朝元号を用いて記録したのである。大内家に関わる現存文書でも南北両方の元号が使い分けられている。しかし、近藤清石先生によれば、大内家関連文書で北朝年号が使い始められた年代にはばらつきがあり、弘世の転向時期を元号から読み解くことは難しいらしい。

諸説あるが、正平九年(1354)から十八年(1363)のあいだのいずれかの年である。歴史書によっては「この頃」という表現を使っており、断定を避けている。

おおよその目安としては、北朝側が弘世に位階を授けた記録があるので、その年にはすでに帰順していたことが明らである(従五位上昇進、貞治4年12月20日付「後光厳天皇口宣案」)。

翌貞治三年(正平十九年、1364)、早速上洛した弘世が新渡の唐物と多額の金銭を都にばらまいたという『太平記』の逸話は、とても有名である。この時に目にした、京都の町並みは、山口で町づくりを始めていた弘世にとって、とても印象深いものとなったらしい。山口の町が「京都に似せて」造られたという説は、定番である。

弘世北朝帰順の報を聞き、苦々しく思ったのは、九州に逃れていた厚東武実だった。元々、武家方は厚東氏と鷲頭家とをそれぞれ長門と周防の守護に任じてくれたはず。旗揚げ当初からずっと力を貸してきた。それゆえにの補任だったろう。敵方・南朝方の弘世が、身内の鷲頭氏を追い落とし、厚東氏や豊田氏を打ち破ったのはともかく、防長二ヶ国の守護職を安堵されたとたんに北朝に鞍替えするとはなんたることか。北朝の長門守護はほかならぬ厚東氏なのである。腹に据えかねた厚東氏は、弘世にも北朝にも従わぬことを明白にするため、南朝方に寝返った。こうすれば、大手を振って弘世を討伐できるし、南朝方も味方してくれるに違いない。同じ北朝方にいる限り、武家方が大内家に認めた長門守護を厚東氏に返してくれるあてはないのだ。

貞治五年(正平二十一年、1366)、厚東氏は早速、南朝の大物菊池氏らの力を借り、九州で反大内の旗印を掲げて気勢を上げた。弘世はこれらの反対勢力を潰すため、豊前国に向かった。馬ヶ岳において、菊池・名和・秋月・厚東の連合軍と戦闘になったが、結果は惨敗。香春山方面に逃げ延びた弘世は、長門を厚東氏に返還すると約して和睦にこぎつけ、何とか山口に帰国することができた。すべては逃げるための方便だったようで、そもそも長門国を厚東氏に返す気などさらさらなかったと思われる。

大国の基盤

大内家の特色とは何だろう? 色々あって難しいが、ひとことで言い表すならば、「大きくて強い国」である、ということ。大きくて強い、つまりは領土が広くて国力が強大なのだ。なにゆえにこんなミラクルな国ができたのか? と考えてみると、朝鮮との友好関係――というよりも対外貿易の成功によって財をなしたこと、がもっとも大きいのではないだろうか。

歴代の当主が皆、優秀であったという点も重要ではある。でも、巨大な軍事力も、西の京・山口文化サロンの繁栄も、それを支えることができた財力があったればこそだ。すべてを金銭に帰結させるのはつまらない。でも、突き詰めればここなんでは? 先の『太平記』の逸話から分るように、弘世の代にはすでに、財力の基盤ができていたと思われる。

博多と赤間関

当時国内有数の貿易港だったのが、博多。大内家が博多商人と結び海外貿易で莫大な利益を得ていたことは教科書にも書いてある。南北朝の対立が続いていた頃、九州は南朝勢力の支配下にあり、特に博多を擁する大宰府は南朝征西府の根拠地だった。さすがにこの時点では、大内家の支配下にあったということはできない。

もう一つ、博多と同じく、重要な貿易港と言えるのが赤間関、現在の下関だ。こちらは長門国にある。そうは言っても、元々長門は厚東氏の地盤だった。弘世の長門進出が始まったのが、文和四年(正平十年、1355年)。二年後の延文二年(正平十二年、1357)には、住吉神社に凶徒退治願文が奉納されていることから、この時点ですでに、長門瀬戸内沿海部を掌握していたとわかるそうだ。

赤間関が海外通交における重要拠点であることは、地図を見てもわかる。鎌倉時代、元の襲来に備え、九州に異国警固番役が置かれた時、長門国にも長門警固番役なるものが置かれた。九州(博多湾)同様、関門海峡も異国が攻め寄せてくる恐れがある要警戒地域だったということだ。平和な時代なら来航するのは敵国の軍隊ではなく、友好国の外交船や貿易船となる。

赤間関は外国にも通じる、瀬戸内海の西の玄関口みたいなところ。ここを押さえることで、軍事的、経済的にどれほど有利な立場に立てるか。説明は不要だろう。

首府・山口の始まり

大内氏の根拠地は「大内」だった。鎌倉時代末期の時点で、すでに周防国内に多くの領地をもっていたことは史料によって確認されている。在庁官人であったため、活動拠点は国府、つまり防府中心であったろう。そこから山口に拠点を移したのは、大内弘世の時代だとされている。

弘世は厚東氏との戦闘前に、拠点を大内から山口に移したと言われている。だとしたら、文和四年(正平十年、1355年)より前ということになるけれど、手元の年表類によれば、延文五年(正平十五年、1360)頃から五年ほどかけてと年代が記されている。「大内氏関連町並遺跡」の発掘調査が始められたのは平成二年(1990)のことで、これまでに様々なことが明らかになった。考古学的成果から、山口での町づくりが開始されたのはだいたい 十四世紀頃ということが分っている。いわゆる「山口大内氏館」は義弘代にはすでに存在しており、その起源は父・弘世の頃まで遡るとみられるのだ。

香山公園・大内弘世像

山口はやがて西の京といわれる繁栄した都市に成長していくが、すべては弘世の山口移転から始まるのである。弘世が山口を京の都に似た町づくりにしようと考えた、というエピソードがあれこれ残っている。とはいえ、完全に都そっくりな町づくりとまでも言えないようである。

例えば、京の都は碁盤の目のような町並みになっていることで有名だが、山口はそうではない。人工的な碁盤目状の街並みというより、一之坂川にそった、地形に合わせた町づくりがなされたとか。完全なコピーではなく、地形に合わせた都市計画も行っていたあたり、そこがまたいい(とはいえ、基本は碁盤目のように、わかりやすい区画整理がなされていたことは明らか。それは現在の山口市内の『道』がわかりやすく、観光資源が見付けやすいことから明白)。

その後の弘世

石見平定

都で華々しいデビューを飾った弘世は、周防長門に加えて、石見守護の地位を得た。石見はかつて南朝とともに並んで一大勢力を形成し、のちにはそっくり南朝側となった足利直冬の拠点となったこともある地域。なおも政情不安定であったから、弘世の力で統一して欲しいという願いが武家方にはあったのだろう。

石見の豪族・益田氏は一足先に弘世側に与していた。貞治五年(正平二十年、1366年)、弘世は益田兼見と石見青龍城を攻める。益田氏はその後も弘世に協力して石見で連戦し、短期間のうちにその平定を成し遂げる。

さらに、石見を足掛かりに安芸にも進出。幕府の命を受け、横領行為を行っていた豪族らを制圧して回った。

九州の火種

先頃、九州に渡った厚東氏は、弘世に長門国返還を認めさせるほど追い詰めた。しかし、弘世が長門国を厚東氏に返す気配は皆無だった。それどころか、再び九州に進撃する素振りを見せる。そこで、厚東氏は菊池軍とともに、三万の軍勢で赤間が関に上陸。再び弘世と戈を交えた。しかし、弘世を打ち破ることは敵わず、次第に戦意を失っていく。厚東氏の弱体化を見て、九州勢もこの一件から手を引いてしまい、厚東氏は孤立無援となった。厚東義武はその後も生き延び、大内氏と和解して霜降城へ戻ったという伝承があるらしい。だが、それ以後、厚東氏の名前は史料から消えてしまい、滅亡したとされている。史料からの消滅は、応安元年(正平二十三年、1368)頃のことである(1370年とする説もあり、一定しない)。

弘世は鷲頭家や厚東氏を鮮やかな手並みで打ち破ったが、豊前での大敗を見てもわかるように、常に連戦連勝の生涯というわけでもなかった。この時点では、九州の南朝勢力がまだまだ優勢。征西宮・懐良親王を奉じる菊池氏のような猛将相手に、少弐、大友といった幕府側はどうにも旗色が悪かった。北朝の一員となった以上、猛威を振るう九州南朝勢力を敵にしなくてはならないから、幕府が派遣してくる九州探題との共闘で、弘世もともに敗北を重ねた。

幕府は九州探題として渋川氏を派遣したが、九州に入ることすらままならぬ有り様。武家方に与する大内家もともに敗北し、一同は長門・赤間関まで逃げ帰った。こんなことが続いたのち、応安四年(建徳二年、1371年)、今川了俊が新たな探題として派遣されてくる。弘世は早速、子息の義弘に4000の軍勢をつけて探題に従わせ、九州での戦に協力させている。

着任当初こそ了俊を助けたものの、その後は手を引き、弘世は石見国を拠点に、九州そっちのけで安芸国への進出を試みる。このような態度が、非協力的と見なされ、永和二年(天授二年、1376)、幕府は弘世の石見守護職を剥奪する。真偽のほどは不明ながら、この解任劇に激怒した弘世は南朝に転向しようとしたとまで言われており、管領・細川頼之に諭されて、何とか思い止まったとされる。その後、弘世が了俊に協力することはなかった。これにより、幕府の大内氏に対する信頼度が地に落ちたということではなく、石見の守護職は、弘世の手は離れたものの、九州で活躍した息子の義弘に「付け替えられた」。父よりもむしろ、積極的に了俊を助けた義弘が、やがて幕府の九州平定を完了させることになる。

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ミル

九州平定への道のりについては、続く義弘様のお話をお読みください。

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次郎

『お読みください』ってもう何年も続き待ってるんだけど? いったいどんだけ時間かかってるのよ?

弘世の妻

転法輪三条家の荘園は長門にあった。深川荘、日置荘、大津荘などがそれ。長門が正式に権力地盤に組み入れられたのち、大内家と三条家の交流が始まった。

皇族や名門貴族、寺社の荘園は全国各地に散らばっており、京や本拠地から遠いこともあった。領主たちは在地勢力の者を荘官に任命したり、配下の者を派遣したりして荘園の経営にあたらねばならなかった。

長門の三条家荘園にも、京から管理の者が下向してきて、大内家との間に友好関係を築いていったようだ。守護である大内家と良好な関係を保っておくことで、三条家の荘園経営は安泰だった。大内家側にも、名門一族に便宜をはかっておけば、朝廷とやりとりする際、有利に事が運ぶよう手助けしてもらえるというメリットがある。両家の関係はたいへん友好的だったらしく、この後も歴代当主と深くかかわった人物が多数出てくる。

長い友好関係の始まりも弘世期のことで、このときの当主は公忠だった。弘世の妻は三条家出身の女性である。弘世の子沢山は系図のところで触れたが、京出身の夫人は、盛見の母であるらしい。

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新介

曾祖父様に半分京の血が流れているとすると……祖父様には四分の一……父上には……。

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法泉寺さま

……。

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新介

えーーと……。

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次郎

いつまで計算してんだか。血筋とか生まれとか、そんなんどーだっていーのよ♪

転法輪三条家

三条家は藤原北家閑院流の嫡流

四代公房の時、兄弟の公宣が姉小路家、公氏が正親町家に分れたので、区別して嫡流を「転法輪」三条家と呼ぶようになった。

弘世の文芸

文武の名門として有名な大内氏だが、弘世の時代は、漸くその名前が全国区で有名になった頃。そもそも、室町将軍たちも、全国統一を成し遂げていない状態(南北朝期の最中にあった)。彼らとの交わりの中で、中央の文化に触れ、それを吸収していくていくような余裕はまだなかった。そもそも、弘世が都=幕府を訪れたのは、唐物と銭貨をばらまいたという逸話が残る一度だけである。

しかし、父・弘幸とともに、仁平寺落成供養の法楽を盛大に執り行ったり、大内氏にとっての新都・山口の造営に際して、さまざまな寺院を勧請するなど、文化・宗教の上でもその後の大内文化の萌芽というべき数々の出来事に関与している。最後にこの点をまとめておく。

社寺建立関係

信仰は人々の精神的支えとして非常に重要である。それまで、大内家が本拠地を置いていた大内の地には氏寺・興隆寺、乗福寺、仁平寺などの大寺院が存在し、一族の心の支えとして大切にされていた。首都機能を山口に移すにあたり、弘世は山口の地に元々あった寺院を改築したり、新たに神社を勧請したりということを盛んに行なった。

また、領国が周防から長門にまで拡大するにあたり、長門国でも寺社の創建、再建事業を抜かりなく行い、整備した。たびたび、同国の由緒ある神社で戦勝祈願が行なわれているのも注目に値する。長門国は九州への玄関口にあたる赤間関を擁しているから、九州に渡海しての戦闘や厚東氏との攻防の中で同国の神社に祈願するのは重要だし、その度に寄進なども行なわれるから、神社からも信頼されただろう。

この時代、神仏習合で寺社は一体化していたから、寺院の中に鎮護の社があったり、神社の中に寺院の坊があったりと渾然一体化していたことには注意。

文和元年(正平七年、1352)父・弘幸、仁平寺本堂落成供養のため、三月に鎮守・山王社で法楽舞を奉納。この後、弘幸が亡くなったため、弘世が父の遺志を継ぎ仁平寺本堂供養会を盛大に執り行う。
文和二年(正平八年、1353)足利直冬が興隆寺に宿泊。祈願所とする。弘世は本圀寺を創建(この頃) ⇒ 山口で最初の日蓮宗寺院だった
文和三年(正平九年、1354) 興隆寺別当に、妙見社恒例の神事等を先例により興行させる
延文二年(正平十二年、1357) 興隆寺条規三箇条を制定、長門国一の宮にて長門平定を祈願
貞治四年(正平二十年、1365) 弘世・義弘父子、松崎天満宮(現在の防府天満宮)を重建遷宮
応安二年(正平二十四年、1369)竪小路に祇園社を勧請(現在の八坂神社)
応安三年(建徳元年、1370)長門住吉神社に本殿造営寄進(本殿再建遷宮)
応安六年(文中二年、1373)北野天神を勧請(現在の古熊神社)
応安七年(文中三年、1374) 清水寺に鎮守として、山王社本殿を建立
永和元年(天授元年、1375)妙見社を再建 ⇒ 前年に上宮を再建上棟、本年四月十日に遷宮
1375 松崎天満宮重建、熊野権現勧請(この頃とされる)
永和五年(天授四年、1378) 氏寺・興隆寺大坊に、領所として、矢田令仁戸村などを寄進(1町7反)

五山僧との交わり

寺院とのやり取りの中で、五山の禅僧たちとの交流も起り、当時、それは最先端の文化を吸収することを意味した。こちらから都に出向かずとも、在国しながらにして学べることは数多くあったのである。

『大内文化研究要覧』には以下のように書かれている。

弘世は五山在住の高僧義堂周信と親交、更に丹後の春屋妙葩・梅岩昌霖と交わり詩文の格調高揚を務めた。
岩国に永興寺を創立、開山・仏国禅師以下代々の住職が儒学者であり当地方の朱子学普及に影響。
出典:『大内文化研究要覧』78ページ

正直、五山僧云々は難しすぎるので、信頼置ける書籍からの引用で誤魔化しています。そのうち、理解できたら、自らの言葉で、と思います。

明使趙秩と「山口十境詩」

山口市内を歩いていると、そこここにある「山口十境詩」なるプレート看板。「山口十境詩」とは、明からやって来た使節・趙秩という人が、山口の美しい風景を十選んで、詩に詠んだものをいう。ゆえに、観光資源化するために、それぞれの詩に詠み込まれた景勝地にプレートが設置され、その詩文が刻まれているのである。

弘世期にもすでに、海外との交流はあったものと思われる。でなければ、『太平記』いうところの新渡の唐物を配って歩いたという逸話が成り立たない。ばらまけるほど大量に所持し、経済的にもかなり潤っていたと見るのが妥当。しかし、弘世期は未だ南北朝期にあたり、九州には征西府が陣取っていた。幕府主導の海外交流が始まるのはもっと先のことになる。

ならば、なにゆえに弘世期にばらまけるほどの唐物があったのだろうと思うけれど、南朝に与していたら、大宰府は味方勢力の拠点ということになるし、海外に向けて開けた場所に根拠地を持つ勢力は自由に交流していたのだろう。むろん、交流するにはお金がかかるので、弱小勢力には無理な相談であるけれど。あとは、上述の趙秩のごとく、相手のほうからやって来たのである。

始祖・琳聖から始まって、流れに任せて朝鮮半島や大陸から船を出せば、周防国に流れ着くことは普通にあった。趙秩の場合、使節として京都に向かっていたというので、偶然にも流れ着いたわけではない。

応安六年(文中二年、1373)明の使者・趙秩が来朝した。「この頃」としている書物もあり、年代は正確ではないかもしれない。前の年に、趙秩と朱本という使者が京都へ向かう途中、山口に立ち寄った。その折、弘世は趙秩がいたく気に入ったのか、もしくは、趙秩が山口に魅了されたのか、趙秩は再び山口を訪れる。弘世の要請により、としている解説が多いので、恐らく弘世側から招聘したのだろう。もちろん、気に入らなければ招きに応じない選択肢もあり得るので、趙秩も弘世の歓待や山口の町が気に入っていたものと思われる。弘世は日清軒という居所を提供し、趙秩はそこに滞在。春屋妙葩などとも詩文のやりとりをしていた模様。「山口十境詩」はこの期間に書かれたものである。

おわりに

康暦二年(天授六年、1380)十月、弘世は波乱に満ちた生涯を閉じた。死の直前、幕府に不信感を抱いた弘世と幕府に忠義を尽して九州で転戦していた義弘との間には微妙な温度差が生じ、それは、義弘の弟・満弘と義弘とに分れた家中を二分する争いにまで発展していた。どこまでも幕府に従順であるか、距離を置いて我が道を行くべきかという意見の食い違いから起った対立で、前者は義弘、後者は弘世を代表する意見であった。満弘は父の代理のような形で、同意見の家臣らの旗頭となったのであろう。この内訌は、結局義弘方の勝利に終わるが、弘世はその結末を見ることなく亡くなった。

距離を置くなどと書けば聞こえがいいけれども、結局は石見守護を解任された一件で、弘世は相当に立腹していたと思われ、再び南朝に鞍替えしようとしていたなどと言われていたくらいだから、もはや幕府に協力するつもりはなかったのだろう。しかし、大勢は武家方有利に動いていたし、今更宮方に戻ったところで得るところはなかったと思われる。武家方の勝利に義弘が大いに貢献したことを思えば、大内氏が味方しなければ潮目は再び変った可能性はゼロとは言えない。しかし、宮方は追い詰められて九州だけで踏ん張っていた状態である。大内氏の加入で寿命が延びたとしても、一発逆転とまではいかなかったのではあるまいか。

幕府と手を組むことをやめるのもかまわない。だが、そうならば、宮方を大勝利に導き、そちらで征夷大将軍に任命してもらい、自らの幕府を開くくらいの意気込みでなければと思う。後醍醐天皇は亡くなられていたが、そもそも、天皇親政を目指していた政権である。どう頑張っても国の統治者にはなれない。

内訌を経て、家中の意見が幕府方に忠実であろうとした義弘の行き方に統一されたことは理にかなっており、将来を見据えた正しい選択であったと思う。けれども皮肉なことに、そこまでして尽した義弘はのちに、幕府のせいで命を落とすことになる。意見の食い違いはあれども、愛しい我が子である。その後のあれこれを知らずに逝った弘世は幸運だったともいえる。

まとめ

  1. 大内弘世は大内氏嫡流当主・弘幸の嫡男として生まれた。しかし、弘幸代には分家である鷲頭家の当主・長弘の発言権が強く、惣領家を凌駕していた
  2. 時は南北朝時代、大内氏を統率する地位にあったと見なされていた鷲頭長弘は、武家方(北朝方)として活躍し、周防の守護に任命された
  3. 長弘は弘幸の叔父にあたり、鷲頭家には養子として入ったので、血統的には本家の人。しかし、分家の養子となった以上惣領とは違う。それでも実力のある立派な人ゆえ、彼がリーダーシップをとっていることに我慢していた面々も、その死後は考えをあらためる。その子・弘直代になっても周防守護として君臨する鷲頭家に対抗するため、弘世は南朝方につき、鷲頭家を倒す大義名分を得た
  4. 弘世は鷲頭家の本拠地に攻め込み、両者は激突。弘世の実力に圧倒された鷲頭家は和睦を願い出た
  5. 鷲頭家から一族を統率する地位を奪還した弘世は、長門国に進出。当地の大勢力・厚東氏と豊田氏を制圧し、周防に加えて長門国も支配下に置いた
  6. 長弘代から、北朝方として味方してもらっていた武家方は大内氏の統治者交代劇と弘世の勢力拡大に驚き、帰順を勧める。この時、周防・長門の守護を世襲することを認めるなど、破格の条件提示があった模様
  7. 武家方となった弘世は、幕府に協力し、石見を平定したり、九州探題に協力したりする。ことに、今川了俊の探題就任時は、子息・義弘を派遣し大いに貢献させた
  8. そのいっぽうで、弘世自身は次第に幕府への積極的な協力をやめ、自らの勢力圏拡大をはかり始める。このことが、幕府の怒りを買い、石見の守護職を没収される。同職はかわりに息子・義弘に与えられたため、大内氏全体としては損得なしだったが、弘世はこの一件を恨みに思い、南朝転向も考慮したとか
  9. 北朝方に帰順した際、弘世は上洛して新渡の唐物や銭貨を「ばらまいた」とされ、すでにこの頃から、大内氏が経済的に富裕であったことがうかがえる
  10. 弘世は本拠地を大内から山口に移転する。政庁機能が移されたほか、上洛の折に目にした京都の町に憧れ、京都に似せた町づくりが行なわれたとされる。以後滅亡まで、大内氏の本拠地は山口となる。ゆえに、弘世を山口開府の父と呼ぶ
  11. 町づくりに際して、弘世は多くの寺社を建立・再建、もしくは勧請した。事情は、あらたに支配領国となった長門国でも同じである。このような過程で、五山僧との親交があり、明から来た使節・趙秩が山口に滞在し、有名な「山口十境詩」を詠んだりもした。これらの文化的交流はまだ、ささやかなものではあったが、のちに大内文化が花開く萌芽でもあった

おまけ・惣領制と相続争い

鎌倉時代の武士は「惣領制」だったと、教科書にもある。惣領を中心に、家の子、郎党と一族皆が、将軍に尽くしていた。

「惣領を中心に」というところがポイント。常に一族皆が惣領に従って、同一の行動をとる。ひとたび主に叛くとなれば、一族全員が叛旗を翻すことになるから、かなりの兵力が動員される大がかりな合戦に発展する。造反は成功するケースのほうが稀だから、返り討ちに遭って一族全滅の大惨事となってしまう。足並みを揃えない者もたまにいて、主のお情け、もしくは事前にこっそり告発した功績などで、赦されることもあるが。そのくらい、一族の団結は強かったとされている。

この頃のもう一つの特色として、分割相続が挙げられる。土地(というよりは地頭『職』というべきだが)の相続は分割して行われることが普通だった。代替わりのたびに、先祖代々の土地を大勢で分割するから、新たな土地を手にしない限り、代を追うごとにもらえる面積が狭くなっていく。ゆえに、わずかな土地しか持つことができない御家人たちは次第に困窮していった。

これじゃいかんだろう、というわけで、だんだんと「惣領による単独相続」に変わっていく。分割相続が行われていた時なら、土地を分けてもらえていた惣領以外の人々(庶子)は、何ももらえなくなる。

すべてもらえるか。何一つもらえないか。――――惣領の地位というものは以前にもまして魅力的に思える。というよりも、惣領になって土地や様々な権力を手に入れることができるか否かは死活問題となってくる。

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

俺、どこかで言ったはずだよな? 兄上だけが何でももらえるのはおかしい、って。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

だからお願い、ケンカはやめて! 実の兄弟じゃないの!

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

ちょっとばかり俺より先に生まれただけじゃないか! 俺のほうがずっと優秀なのに……。こうなりゃ腕尽くで俺が跡継になってやる!!

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

このような争いが、全国各地で起っていました……。(五郎のお兄さんは早くに亡くなったので揉め事にはなりませんでしたが)

ただし、長男、もしくは正妻の生んだ子どもが必ず家督を継ぐ、というような明確なルールはなかった。年上か、母親が正妻か否かで継承順位が上がることもない。それでも何となく、なにごともなければ正妻の長子が継ぐのが順当みたいなイメージはある。

だから無能な長男や、出来損ないだらけの正妻の息子たちといったときに、優秀な弟や庶子らの激しい突き上げが起こった。そこから血みどろの果たし合いに突入していくことも。こうなると、家臣たちもそれぞれが推しの主候補について分裂。家中(国中)が大騒ぎ。このようなそこら中が火種だらけの時代、大内家と鷲頭家との争いもごく普通のことだった。

惣領家の直系・弘幸ではなく、叔父とされる長弘のほうが惣領のように振る舞っていたのは、それなり有能で勢力基盤もあったゆえにだろう。跡を継いだ息子に父ほどのリーダーシップがなければ、当然ほかの者に追い落とされる。一切れのパイを巡る争いは、その後も絶えることがなく、世代交代のたびに紛争は繰り返された。

凄まじいまでの権力争いを勝ち抜いてきただけあって、歴代当主は皆優秀。最後の代だけ何の奪い合いもなかったことは奇跡的だが、単に競争相手がいなかったのである(政弘代と義興代も家督交替時の身内の流血はなかったが、当主となってから造反者が出ている。そんなこと言ったら、最後の代はもっともスゴイ造反者が出て命まで落としているが……)。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

でもさ、実際には弟たちにもちょっとは取り分を遺してくれるしだし。分家して新たな家を作れたりだし。ま、いずれにしても惣領以外は、家来になっちゃうんだから、誰しも頂点を目指すよね。

分割相続から単独相続への移行は一筋縄ではいかなかったし、惣領制が崩壊していく過程も複雑で、ともにあれこれの地域差があったり、家毎に違いもあった。ゆえに、おまけ程度で説明することは不可能。やがていつの日か詳細がまとまるのをお待ちください。

参照:『大内氏史研究』御薗生翁甫 マツノ書店 平成13年復刻、『中世日朝関係と大内氏』須田牧子 東京大学出版会、『大内氏の領国支配と宗教』平瀬直樹 塙書房、『室町戦国日本の覇者・大内氏の文化をさぐる』大内氏歴史分家研究会、伊藤幸司 勉誠出版 2019年、『増補大内氏實録』近藤清石 マツノ書店
おまけ:日本史講義と受験参考書から。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

これらの本を読んだことは確かなんだけど、どこのページに何が書いてあったか忘れた……。とりあえず、典拠不明でごめんなさい。

附録・『大内氏実録』記事まとめ

本文中で触れなかった(まだリサーチ不足)ところで、今後組み込んでいくべきテーマは多数。そこで、根本史料の『実録』中の記事で抜け落ちてしまったことをこちらにメモしておく。覚書のようなもので、何のまとまりもないけれど、なかには重要なことが現段階では抜けているケースもあるので、補足の意味も兼ねている。
※基本は原文イマドキ語変換です。なお、いくつかは本文と重複している箇所もあり、削除予定です。

系図に載る官職の流れ:正平四年四月十日、同十二年七月十二日、同十八年八月十日の文書に散位、また貞治三年二月十七日の文書に大内介とある。
系図には修理大夫の名があるが、ほかに所見がない。

観応元年庚寅(南朝正平五年)冬十月一日、一族但馬権守弘員が内藤徳益丸と高越後守師泰の代官山内彦二郎入道を攻めてこれを斬り、守護代・乙面左近将監を敗走させた。
正平七年壬辰(北朝文和元年)春二月十九日、都濃郡鷲頭荘白坂山で、北軍散位貞弘、内藤肥後彦太郎藤時(前述の徳益丸である)等と戦った。二月二十日また戦う。閏二月十七日高志垣で戦う。二月十九日熊毛郡新屋河内真尾で戦い、藤時の弟内藤新三郎盛清を斬った。三月廿七日、新屋河内真尾で、合戦。三月廿八日、同所で戦う。夏四月九日~廿九日、鷲頭荘白坂山で戦う。秋八月三日、散位貞弘と合戦した。これは本文中の鷲頭氏との内訌の年譜みたいなモノです。年表がきちんとできたら要らなくなりますね。

※これに先立ち南朝に帰順していた。帰順の事は、弘幸の項目で述べることだが、考証すべき文書が皆、弘世のものであるためここで述べる。もともと帰順の年月はいつなのだろうか。長門国豊浦郡忌宮神社に正平四年四月十日、散位弘世とする文書があるので、これより以前のことであるとは思われるが、貞和六年十二月、内藤肥後徳益丸が将軍家に捧げた軍忠言上書によって見ると、いまだ北朝方で南朝に帰順していない。ここに至り帰順は明らかなのに、仁平寺本堂供養日記、また乗福寺所蔵の文書は観応の年号をいている。また貞治二年春は北朝に属していたのに、その年の八月十日の文書ではなお正平十八年と書いている。そういうわけで、年号を以ては南とも北とも定めにくい。本文で帰順の年は、文書からは分からない、と書いていあるところの典拠です。

正平七年三月六日父・弘幸が没した。
正平十一年丙申(北朝延文元年)秋九月廿一日、父・弘幸の牌を高野山成慶院に立てる。

正平七年三月十五日、父・弘幸が没したことから延期していた仁平寺供養会を、この日執り行う(仁平寺本堂供養日記)三月十六日、童舞。
本文でまったく触れていないのですが、仁平寺関係のことは、郷土史にも詳しく載っている重要事項です。

正平十年乙未(北朝文和四年)長門の北軍厚東氏を攻める。
正平十四年己亥(北朝延文四年)冬十二月廿六日、厚東氏の居城豊浦郡四王寺山を攻めて之を落とし、厚東某及び富永又三郎を斬る。
厚東氏についての典拠はコレ

正平十二年丁酉(北朝延文二年)秋七月十三日、長門国一宮住吉神社に朝敵退治の祈願状を納める。
正平十三年戊戌(北朝延文三年)夏六月廿三日、これに先立ち長門国守護職となっていたが、この日長府に入り、一宮(往吉)二宮(忌宮)に参詣した。
これも盛り込み過ぎて混乱するので今のところ無視されていますが、寺社の建立、修築そのたのイベントは大量にあります。

貞治二年癸卯(南朝正平十八年)春、北朝についた。更に周防長門の守護職となる。太平記諸本は皆、貞治三年としている。金勝院本のみ二年とする。貞治三年二月十七日、足利義詮が佐々木彦六郎、また小野弾正左衛門尉に与えた書に、豊前国柳城兇徒退治事、去年十二月十三日合戦之時、自身被疵之由、大内介弘世所注申也とあるので、二年である。今金勝院本に従う。

貞治二冬十二月十三日、豊前国柳城を攻める。
貞治二三年甲辰(南朝正平十九年)春二月、南軍・名和伯耆権守顕長、同小次郎長生、菊池武勝、厚東駿河守等が攻めてきた。弘世は馬岳で迎え撃ったが、敗れて香春岳に退いた。顕長等は追撃して香春を囲んだ。弘世はどうすることもできず、名和長生との円弧を頼り、誓書を贈り、降伏を望んで帰国した。

ついで東上し将軍義詮に拝謁した。敢えて九州の敗状を明らかに言わず、多くの金帛(貨幣と絹織物)を将軍の侍臣にまいない(そでのした)として贈った。そこで、甚だ声誉(よい評判)を得た。この歳、石見守護職となる。

貞治五年丙午(南朝正平二十一年)、剃髪して道階と名乗った。
貞治六月廿日の文書に弘世とあり、九月三日花押のみの文書に「大内弘世入道道階の」と当時の加筆がある。ゆえに剃髪はこの年六月廿日から九月以前の間である。七月に石見に進発しているので、六月の末のことであると思う。

貞治五年秋七月石見に進発し、十三日、青龍寺城を攻めた。
先に、貞治三年九月、国人益田越中守兼見に奉書申沙汰してあった。兼見はその月廿六日に三隅城の向かい椛見嶽に陣をはり、十月五日に大寺に要害を築いてそこに在陣していた。この日になって弘世が軍を出したので、兼見は十六日に有福城を落とし、廿二日福屋の大石城を囲み、廿五日、兵を分けて久佐金木城を攻めて之を取り、廿六日大石城を落とした。こうして石州が平定されたので、弘世は安芸に進入して諸城を降し、貞治七年になって帰国した。
コチラは石見平定の典拠。元はこんなに詳しい。

応安三年庚戌(南朝建徳元年)春三月十一日、先に、丁酉の歳、長府一宮に当国九州凶徒退治事を祈願していたが、早速達所存者、当社於一宮遂修造幷臨時之祭礼、令参詣可精誠との状(かきつけ、ふだ)を納めた。厚東氏等を滅ぼした戦争で忙しく、漸くここにきて社殿造換(つくりかえる改築)の功をなしとげ、本日遷宮式を行って参詣したのである。

応安四年辛亥(南朝建徳二年)、今川貞世が九州探題となり、九月廿四日防府に来る。将軍は弘世に援軍を命じた。よって嫡男・義弘に兵士四千余を預けて貞世に従わせた。
応安四年冬十月七日、貞世は防府を出発して九州に下向した。

永和元年乙卯(南朝天授元年)夏四月十日、氷上山妙見社を修造し遷宮式を行う。
永和元年秋八月十日、防府松崎天満宮の幣殿を建立する。

永和二年丙辰(南朝天授二年)秋閏七月十四日、石見国守護職の事で武家を恨み、この頃南朝に降参するたくらみありと京師に聞えていたのだが、管領細川頼之はこの日、弘世の代官として在京していた者に、大内介周防長門両国守護の事に於ては子細はないことを諭した。

康暦二年庚申(南朝天授六年)、冬十一月十五日死去。吉敷郡御堀村正寿院に葬られた。
正寿院は乗福寺の塔頭である。寛文年間、乗福寺は火災に遭い、正寿院を改めて乗福寺とした。墓は寺内にある。大内殿有名衆、大内殿家中覚書に正寿寺とあり、正寿寺ともいったのだろうか。闢雲寺と闢雲院と二寺がある例とは違うと思う。

法名:正寿院玄峰道階

大内氏が山口に居館を置いたのは弘世に始まる。
系図によれば、始遷吉敷郡山口、此地之繁栄起于此代、山口祇園清水愛宕等建立之、統遷帝都之構様とあり、異本義隆記に、その後防州山口という所に屋形を立られ、築地の数どもあまた出来云々と見える。誰と名を指していないが弘世の時のことと思われ、系図と符合する。故人高橋有文が著書中で、大内氏は御堀村乗福寺から山口天華村大蔵山に城を築いて移り、数世を経て築山に移る、というのは大蔵山古城墟なるを以て、推量しているのだろう。大蔵山は思うに中国治乱記で、「弘世は又将軍家へ参りければ、長門に厚東と豊田と、周防に山口なんど申宮方の大名有て、数年の合戦ありけれは弘世悉く追討せしめ云々」。言延覚書に、「長門国には厚東ならびに豊田殿と申す国人、周防国には山口殿と申す人、其外人体歴歴候づるを次第次第に被任御存分、近年大内様御分国に及びたる儀に候」、と見える山口氏の旧墟だろう。大内氏は城にはいなかった。上掲の異本義隆記に、築地の数どもあまた出来とあるが如くである。さて厚東氏豊田氏のことは、いささか文書等も残り伝わるが、山口氏のことは上の二書の外には所見がない。
菩提寺についての考察がやたら詳しいのは『実録』の特徴の一つかも。ただし、明治時代と今とではさらに景観がかわっているであろうこと、その後発掘調査でわかったことなどの最新の成果もあろうことなどから、よほどページボリュームがたりない時を除いてあまり立ち入らないところです。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二「世家・弘世」より

※この記事は20240713に加筆修正されました。なおもリライトが続いております。

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ミル@周防山口館

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