人物説明

梵良彦明 十歳にして詠雪の詩を作る・父譲りの神童

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僕の仲良しの弟だよ(by:新介)

大内氏ゆかりの人々について書いています。本日は保寿寺の住職として知られた梵良さまについてご紹介します。単に著名寺院のご住職というだけでは? と思われた皆さま、とんでもないです。法泉寺さまのお子様にして、凌雲寺さまの弟君。つまりは、僧籍に入ってはおられますが、歴とした宗家のお方なのです。

梵良彦明とは?

法泉寺さま(政弘公)の三男で、凌雲寺さま(義興公)の異母弟にあたります。僧籍に入り、以参周省※に弟子入りしました。十歳の時、雪を詠んだ詩が秀逸だったため、数多くの錚々たる禅僧たちに絶賛されました。ほかにも数々の麗しい詩を作り、「詩人」として著名でした。

文武の名将の鑑であったお父上の武人としての才能を受け継いだのが凌雲寺さまだとすれば、文人としての才能を受け継いだのはこの梵良さまです。まさにこの父にしてこの子ありでしたが、天から二物を与えられた父上の才能は、兄弟二人にそれぞれ分け与えられたようです。

なお、梵良さまは大内氏とゆかりの深い保寿寺の住職となりました。お父上同様、五山僧歴々との交流が深く、僧籍にあらせられたことから歌人の才能を受け継いだといっても、専ら漢詩文となりましょうか。大内氏が最も煌めいていた時代にあって、僧侶というお立場からお父上や兄上を助けた人です。
※惟参周省と表記している本が多いですが、米原先生の『戦国武士と文芸の研究』の記述「以(惟)参周省」に合せ、「以参」と表記します。

基本データ

生没年 不明
父 大内政弘
呼称 梵良彦明 
官職等 保寿寺住職
勅諱 霊光円珠禅師 
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『戦国武士と文芸の研究』、『大内義隆』(米原正義))

略年表(生涯)

・二十九代当主・政弘の三男として生まれる
・以参周省に師事する
・十歳の時、雪を詩に詠む。著名五山僧(亀泉集証、横山景三、天隠龍沢、景徐周麟等)がこれに次韻
・保寿寺住職となる

おもな業績

以参周省の弟子となる

二十九代・政弘公には、系図上を見る限り三人の男子と二名の女子がいたことになっています(『新撰大内氏系図』)。これまた、どこまで系図を信じてよいものかという悩ましい問題が横たわってはおりますが、少なくとも系図に名前がある三名の男子については、その業績が明らかとなっていますので、確かに存在していたことは間違いありません。

政弘は跡継と決めた義興以外の息子二人をともに僧籍に入れてしまいました。何やら次期将軍以外すべて僧侶にしてしまった足利将軍家の例を思い出します。後継者争いを防ぐためなどと考えられているようです。政弘に同等の思惑があったか否かは断定できませんが、二人の息子を僧籍に入れたことにはそれぞれ理由がありました。次男(長男とする説もちらほら)である隆弘(高弘)については当人のところに記しましたので、繰り返しません。次男はその行跡にかなり問題があり、義興から家督を簒奪しようなどと大それた考えを抱いて失敗したという史実があります。そのいっぽうで、三男の梵良については、そのような悪い噂はまったく伝わっていません。⇒ 関連記事:大内隆弘

梵良が以参周省の弟子となったについては、先に父・政弘と周省の間に深い交流があったことが挙げられます。以参周省もまた、保寿寺の住職でしたが、政弘が彼に深く帰依していたことは数々の史料によって言及されています。例えば、『蔭涼軒日録』、『翰林葫蘆集』などがそれです。これら漢字だらけの文献に素人が目を通しても無意味ですので、米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』のご研究から学ばせていただくと、「大内帰依僧保寿寺以参和尚」(『蔭涼軒日録』)と見たままの一文があるそうです。

政弘が大切な息子を、深く帰依していた以参周省に託したことは、ある意味当然の成り行きとも思えます。米原先生のご研究にも、以下のように書かれております。

「このような政弘が三男 (義興庶弟) 梵良彦明を、以参に師事させたのも当然の帰結と首肯される。」(『戦国武士と文芸の研究』)

そもそも、大内氏歴代の以参周省に対する崇敬の念は、政弘一代に限ったことではありませんでした。

以参と大内氏との関係については、以参が盛見以下義興の五代から景仰され、政務にも参画し、(前述)「陶弘護肖像賛」を作成したことなど著名。末武本「大内氏系図」の重修者であり、「大内多々氏譜牒」も以参筆かも知れない。 御薗生氏によれば享禄四年八月十三日寂。
出典:『戦国武士と文芸の研究』米原正義
※( )引用者

梵良出生前と考えられる政弘期以前のことは置いておくとして、兄である義興も以参周省に帰依していたのですから、息子、弟がその弟子として学んでいたという事実は極めて貴重です。立派な師匠の下で学んだ梵良が、長じてその跡を継ぐにあたり、師匠同様に大内氏のために尽したであろうことは想像に難くありません。⇒ 関連記事:大内政弘

十歳にして名詩を詠んだ神童

父が愛する我が子を崇敬する人物の門弟としたとしても、息子が凡庸な人物で、師匠の期待に応えられなかったら残念な結果となります。梵良は父や師匠の期待に十二分に応えたのみならず、わずか十歳にして詩を詠んだ神童として知られています。

父・政弘の死後、その名歌の数々が、彼を慕う人々によって私家集にまとめられたことは有名です。政弘は若い頃から歌を詠み始めましたが、その才能が開花していくにつれ、早い時期に詠んだ自らの作品を稚拙なものと感じたらしく、それらを処分してしまいました。それゆえに、後世の我々は、この史上最高の武家歌人が若い頃に詠んだ瑞々しい和歌を詠むことがかないません。本人の意思ゆえ、仕方ないこととは言え、若かりし頃に詠まれた歌をぜひとも味わってみたいものです。そもそも、いつ頃(何歳頃)から和歌に目覚めたものか、具体的な年齢について記したご研究を拝読した機会がまだありません。

いっぽうで、梵良がわずか十歳にして詩を作ったという逸話は、多くの五山僧たちが記していることから後世に伝えられています。遠く周防国に住まいしていた当主の息子である少年が書いた詩は、以参周省により、都へ帰ろうとしていた了庵桂悟に託されました。この詩に次韻をお願いします、という願い出に対して、多くの名だたる文人たちが呼応したのです。ただし、米原先生のご研究を拝読した限りでは、鑑賞することができるのは梵良の詩に次韻した名僧たちの作品のほうでして、梵良の原詩がどこで読めるのか、あるいは失われているのかは不明です。原詩が伝えられているのであれば、米原先生がそれを掲載しないはずがないですので、おそらくは伝わっていないのでしょう。これまた惜しいことです。

次韻というのは、誰かが詠んだ漢詩にその韻をあわせて作詩することをいいます。和歌でも同じことがありますが、あまりに感動的な作品に出逢った時、それに合わせて次々にお歴々が歌を詠んだりしますよね。ここで、偶然の一致に驚かされるのは、後に義興が足利義稙のために上洛した際、やはり多くの公家達が殊勝であると彼の詠歌に和したのも「詠雪」の歌でした。兄弟そろって、雪を詠んだ歌でその名を知らしめたのです。かたや漢詩、かたや和歌ではありますが。

ところで、義興が雪を詠んだ歌については、本人の作品は元より、公家たちの詠歌なども伝わっています。けれども、出来映えはかように多くの著名な歌人たちが和するほど秀逸ともいえない、一般の歌に過ぎません。大内軍の在京により、京の都が守られているということに対する公家たちの追従が見え隠れします。多くの軍記物がこぞってこの歌の故事を掲載していることもあいまって、どことなく俗な感じがしてしまうのです。義興は文というよりは武の人であったというのが、研究者の先生方も認めるところです。在京期間が長期に渡ったため、幕府や朝廷の関係者の前で失態をおかすことがないよう、有職故実の研究につとめた人という認識です。

となると、文武の名将だったお父上の秀でた才能は、兄に「武」が弟に「文」が、それぞれに受け継がれたのではなかろうかと感じるのでした。⇒ 関連記事:大内義興

人物像や評価

まったく異質の二人の弟

梵良との比較でよく引き合いに出されるのが、義興のもう一人の兄弟・隆弘です。家督を奪おうという目論見が露見し、九州に逃れた人ですね。もはや、家督争いは日常茶飯事ですので、これを以て隆弘その人を極悪非道とまで罵倒する方はおられぬかと。とは言え、兄弟仲睦まじければ、こんな大それた考えを起こすはずはないです。むろん、時の権力者の思惑などから、心ならずして争いに発展したケースもゼロではありません。しかし、義興の場合は、父が存命していたうちに順調に家督を継いでいますので、そこに喧嘩をふっかけるというのは割に合いません。背後にあれこれの人脈がついていたことは確かですが、本人にその気がなければ、それらに躍らされることもないはずです。「巻き込まれただけ」という言い訳は通じないように思えます。

その点、梵良は心穏やかに、仏の道に身を置きながら兄を助けたと考えられます。出家だから当然だろう? そうとも言えません。隆弘とて還俗前は出家でした。家督を継げなかった二人の息子は、恐らくは自らの意思とは関係なしに僧籍に入れられたものと考えられます。それを苦々しく感じていたか、師匠の下でしっかり学び、立派な名僧となるか。天と地との差があります。

何とびっくり「勅諱」!?

『新撰大内氏系図』によれば、梵良のところに、「勅諱霊光円珠禅師」と書かれています。「勅諱」と適当に検索しても何も出て来ませんでしたが、「勅」とある以上は天皇さまから下賜されたものです。ですけど、色々見ていくと、「勅諱 ○○ 禅師」とお呼びする方々も大勢おいでのようです。ですので、これを以て畏れ多いことだと平伏するほどの事柄であるのか、仏教徒でない執筆者的には完全に不明です。

ひとつだけ言えることは、僧侶として立派に務めを果たしてきた高僧以外には送られるはずはないであろうという点です。如何に朝廷が困窮していたとしても、金銭でやり取りできるようなものではないでしょう。ただし、中央とのコネクションがないとどんなに徳の高い方でも気付いて貰えない可能性は否定できません。庵を結んで住んでいらした方の中に、立派な方がおられぬとは言い切れませんが、そのような方であれば俗世との縁は切れているでしょう。

名誉なことであるのは疑いない事実です。そして、それに見合うだけの行いをなさったであろうと推測します。

まとめ

  1. 梵良は二十九代政弘の三男とされている(『新撰大内氏系図』ほか)
  2. 僧籍に入り、保寿寺の以参周省の弟子となった
  3. 十歳の時、雪を詠んだ詩が多くの著名五山僧の目に留まり、彼らの著作物にその神童ぶりが記されている。父から類い稀なる文芸の才を受け継いだのであろう
  4. 以参周省の跡を継いで、保寿寺の住職となった
  5. 同じ兄弟で、同様に出家した経験を持つ隆弘(高弘)が、義興に叛いたのとは裏腹に終世大内氏と義興のために尽したと思われる
  6. 勅諱霊光円珠禅師という

参考文献:『新撰大内氏系図』、『戦国武士と文芸の研究』、『大内義隆』(米原正義)、『大内文化研究要覧』

雑感(個人的感想)

系図を見ていると、出家した方は大勢おられます。というより、多くの人が死に臨んで出家したりしてたようですからね、こういう時代は。むろん、出家などせず、亡くなってから法名がつくだけという方もおられたんでしょうけど。無宗教の人だらけの現代、古代や中世の人々の宗教観を理解するのは極めて困難です。

政弘の二人の息子、隆弘(高弘)と梵良はともに僧籍に入れられてしまいました。「入れられてしまう」などと書くと、嫌々ながらというように感じてしまいますが、少なくとも隆弘(高弘)については、嫌々だったのではなかろうかと考えています。でなければ、ほとぼりが冷めた後還俗して、家督簒奪とかに走りませんよね。

息子を強引に僧侶にしてしまうというこのやり方は、政弘期特有のように感じます。常徳院さまはじめ、将軍家の方々と交流が深かった所以でしょうか。確かにそれ以前の人たちは、兄弟相争うということが多すぎましたし、政弘自身も伯父・教幸の叛乱に遭遇しています。となれば、大切な跡継息子のために、火種の元になりそうな人物は排除しておくのも親心かと。隆弘(高弘)の場合、想定外の結果となりましたけどね。これはもう、性格というか人格の問題であって、梵良さんはたとえ、仏に仕える身とならずとも兄上を助けたと思えます。すべて想像ですけども。

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五郎

どうせ訓練するなら、海自に入りたいなぁ。寺で勉強させられるの我慢ならない。

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ミル

子どもはきちんと勉強しないとダメです。訓練は 18 才以上になってから。

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五郎

祖父さまは十五才で活躍してる! そんなに年食ってからでは間に合わないよ。

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兵庫頭

兄上はお前くらいの頃にはとうに器之為璠さまから法衣を授かっていた。得手不得手はあるであろうが、やはり両道に秀でていなければならぬと思うぞ。特にこの家ではなぁ。

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

そんな……。弓矢の道に漢詩文なんて必要ないのに……。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そうだよね……。観光案内サイト運営するのに漢詩文読める必要はないよ……。

御礼

読者の方から、美弥市所在の寺院さまに梵良さまとゆかりがありそうな寺伝がある旨、ご教授いただきました。心より御礼申し上げます。現状、手許資料(≠史料)からは確定できませんが、寺院さまに伝わる御由緒はたいへん貴重なものと存じます。取材が終わり次第、ご紹介したいと思っております。

※返信差し上げましたが、届いているでしょうか? 迷惑メールボックスに入っている可能性もありますので、よろしくご確認のほどお願い申し上げます。郷土史会の方々からもご意見いただいたので、またご連絡いたします。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
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