人物説明

大内氏家臣 義隆期までの諸臣

2022年5月2日

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義隆期までの普通の家臣たちについてのまとめです。陶の叛乱には参加せず、さりとて、普通に義長政権に参加。主家滅亡後には、そのまま毛利家に属すという、一般的な人たち。または、義隆期以前の忠臣などです。叛乱者に加担するはそそくさと毛利に内通するは……という人は別項目(取るに足らぬ小人はココ。理由は明記しています)。
※なお、忠臣の場合、親族や宗室などに入っているケースがあるため、全員は載せられず、リンクを付ける予定です。

義弘期の家臣

平井道助

道助は法名で、名前は不明。備前守となる。
出家して備前入道と称した。
明徳二年、二条大宮の合戦で功績があった。

応永六年、義弘が堺に東上しようとした時、道助はこれを不可として、しきりにいさめてやめさせようとしたが、義弘はその意見を採用しなかった。僧・中津が前将軍・義満の命令を伝えに来た時、弘茂はその命を受け入れようとすすめ、道助も同じ考えだったが、義弘は杉重運の意見を正しいものとして、将軍家と絶縁した。
戦守の策を相談した時、弘茂と重運はそれぞれ提案したが、道助はそれらの意見を論破し、堺に築城し根拠地として守ることを上策とした。義弘は道助の意見に従った。城が完成すると、道助は弘茂をたすけて東墩を守った。
十二月二十一日、北墩南墩西墩はすべて落ちた。東墩だけが敵を防ぐのに適していて破られなかった。敵兵・今川上総入道、一色左京大夫入道、杉生円明等が必死に努力して攻撃した。弘茂は外へ出て戦ったが、部下の五百余人の兵のうち二百余人を失ったので墩内に退いた。柵門を閉ざして自殺しようとしたところ、道助がその刀を奪い、従うことと逆らうことの道理を諭し、無理やり将軍家に降伏させた。
将軍家は大内氏が名家であることから弘茂の降伏をゆるし、紀泉豊石の四州を削って、防長二国を与えて家系を継がせた。大内氏がこの時断絶しなかったのはひとえに道助のおかげである。

政弘期の家臣

相良正任

遠江守となる。政弘に仕えた。

晩年剃髪し、正任法師と号した。

書に優れ、連歌に巧で、『新撰菟玖波集』の作者につらなった。武任の父 ⇒ 相良武任

義隆期の家臣

吉田興種

 はじめ左兵衛尉となり (享禄二年八月廿八日文書所見) 平兵衛尉と称した。のち若狭守となった。義隆に仕え侍大将先手衆であった。奉行につらなった。国難の後義長に仕えた。

天野隆良等の死にぎわの書翰(書簡、てがみ)に、小原安芸守殿、青景越後守殿、吉田平兵衛尉殿、仁保右衛門大夫殿とあることから考えると、この人数(人々)は国難のとき山口にいなかったのだろう。興種は当時若狭守であったのを平兵衛尉と書いたのは旧名を思いだしたままに書いたものと思われる。⇒天野隆良

奉行であることはもとのまま。のち毛利氏に仕えた(三浦仁保系譜は、隆在の実父を吉田若狭守元種とする。隆元の一字を賜り、興種を元種と改めたのであろう)。

永禄十二年十月二十日、吉敷郡仁保郷の高野原で自殺した。

『保寧日記』によると、永禄十二年十月十五日、大内輝弘が山口に攻め入り、市廛に放火して、築山竜福寺に陣を置いた。同二十四日に敗北し、防府で自害した。この時山口窂人が寺内に乱入し、宝物を奪おうとした。吉川元春の次男元棟の家臣・江田宮内等が当山そ守ったお陰で無事であった。吉田若狭守高野原で自害した、とある。興種は輝弘に与みして略奪に及んだのだろう。

小原隆言

初名は隆名(天文十六年六月二日初見)。中務丞となった。のち安芸守となる。

今山多聞寺奉加帳が安芸守の初見。この奉加帳の巻末に天文十九年十月十二日と記されている。義隆に仕え侍大将先手衆につらなった。

天文九年八月、警固船の将として伊予の中島に赴き、十三 日、忽那島で戦った。
天文十年六月十八日また伊予に赴き、 七月二十六日まで滞在して三島、 甘崎、岡 村、能島、印島等で戦った。

天文十六年八月、義隆の命で安芸に赴く。時に尼子兵が備後の援軍として 国境に陣をはっていたので、賀茂郡志波で毛利元就と相談し、外部に出張した。
天文十六年十二月、外郡大略が味方に従い、尼子兵が帰国したので、報告のために山口に還った。

天文十七年、毛利元就は義隆の依頼を受け、国衆を以て備後国安那郡神辺の村尾城を攻めた。隆言はこのとき、検使となった。

義隆が薨じると義長に仕え、のち毛利氏に従った(家中覚書、小原安芸守の次に小原四郎があって、隆言の子であろう。井上系譜に小原半左衛門尉元忠、永禄二年六月二日、小原左近の跡目を相続したとある。左近は四郎のことと思われる)

楊井国久

飛騨守となる。

父を弥七国盛といった。永正八年、国盛は船岡山の戦いに功があり修理進に推挙された。国久はその二男であり、義隆に仕え、侍大将先手衆につらなった。

傍ら医を善くした。天文の乱で義隆に従い法泉寺に向かった。

義隆は母氏が国難に驚愕して死にそうであるときいて、国久を遣はして治療させた。国久が薬を調合し、効き目があった。ついで義長に仕え小座敷衆となる。のち毛利氏に従った。子孫は今につづいている。

楊井武盛

楊井武盛、幼名:万寿、のち弥七と称す。飛騨守国久の二男である。

天文七年、伯父・但馬守春盛が嫡男を廃し、万寿 を養子とし家督を譲った。

天文十三年、義隆が加冠し武盛と名づけた。侍大将先手衆につらなった。

義長の時、小座敷衆となる。のち毛利氏に従い、 右京進となり、 天正十年但馬守となった。武盛は父の伝をうけて医を善くした。子孫はいまにつづいている。

大庭賢兼

幼名不明。図書允となった。義隆に仕え、小奉行衆であった。

義隆が薨じると義長に仕え、奉行につらなった。

毛利氏に従ったのち、加賀守を受領した(弘治三年八月二十三日以後)。
和歌を善くしたので、元就の愛顧をうけた。
元亀二年六月十四日、元就が薨ずると、賢兼は 哀悼し、剃髪して宗分と法名した。

子孫は今につづいている。

大庭氏は本末合せて四家あり、一、村岡忠通の息子・鎌倉太郎景明より系って、古文書は伝わらない。二、同忠通の息子・鎌倉権頭景成を氏祖とし、庄司景房、平太権頭入道景義、小次郎景兼、刑部少輔盛景、平左衛門尉元景、平三郎若狭守景家、中務丞矩景、加賀守賢兼と系って、景兼が建暦二年和田合戦で討死してから盛景のときになる、文亀元年まで二百六十一不明不明。盛景から賢兼まで五代が大内の家中であったことを記した古文書が伝わっている。その古文書は賢兼より以前のものについては、義興が平左衛門尉元景に与えた文亀二年 四月七日の領知證状、義隆が平三郎に与えた天文十一年八月四日の感状、同十三年九月廿二日の中務丞吹 挙状、若狭守景家に与えた同十四年七月三日の領知証状、中務丞矩景に与えた同十六年六月十六日、父景家 一跡相続の証状である。盛景の名は文亀の領知証状中に見えるので、矩景以上は指摘する点はない。ただ 賢兼を矩景の子とすることについては裏付けがなく、矩景は天文十三年までは幼名平三郎と称し、同十六年に父の遺跡をついだ。ゆえに有名衆は天文五年以後、十六年以前の記っであるが、これに賢兼は図書允とあり、ことに小奉行につらなっているので矩景の子えはあるまい。 賢兼と 矩景とは一族であり、 矩景の家が断絶して、その証文が賢兼の家に伝わって混乱してしまったのであろうと思う。よって、相良武任申条々中に、「大庭若狭守子、父若狭守に被仰付、可切腹由」とある若狭守は、思うに矩景の父・景家あり、若狭守であったことから、これを継いだのは矩景えあるはずだ(『実録』)。

於児丸

下二人の人物は『嬖幸』というところに分類されていたひとたちです。嬖幸というのは、「お気に入り」という意味です。近藤先生が敢えて項目をつくって記述なさっておられるので採用しました。反乱軍に馳せ加わったり、毛利家に内通した人たちを裏切り者呼ばわりする前に、これらのどうしようもない「小人」こそ八つ裂きにして然るべきだと思われます(そのくらい百害あって一利無し、の無意味な人たちです)。

安富源内(嬖幸)

幼名:竹寿丸。

天文八年の氷上山二月会の大頭役となったが、家計が困窮していて費用を捻出できず、所領をそれに充てた。わずかに十二歳だった。見てくれがよかったので、義隆が気に入って傍に置くようになった。

十五、六歳のとき、 内寵(君主の気に入りの女性や臣下)をうけ、本領を還附をされたばかりか、そのうえ、加増の地まで賜わった。源内と改名し、小座敷衆に名を連ねた。

陶隆房が叛乱を起こした時、己が助かりたいがために、冷泉隆豊等の館内で自害するべきとの意見を阻み、義隆を説得して法泉寺に退去させた。

法泉寺から逃亡して内藤興盛の陣営に行き、興盛に依頼して隆房に降伏した。の ち義長に仕えたが、最後はどうなったか分らない。

清四郎(嬖幸)

三位清原頼賢の弟。 義隆に気に入られた。 国難の際、安富源内とともに義隆を法泉寺に逃れさせた。 八月二十九日、二条前関白尹房は使いを派遣して、内藤興盛に義隆との仲の停調を命じたが、興盛が従わなかったことから、義隆は自害を決めた。ところが、清四郎がこれを遮りとどめて、将軍・足利義稙の故事を引き、長門に逃れ、九州の兵を集めて賊を討つのがよいと説得した。義隆はまたしても、 清四郎の意見を聞き入れて長門に向かった。

清四郎はこの時まで本営にいたから、 人々は義隆を助け防戦する覚悟の者だと見なしていた。ところが、義隆が長門に向かうのに紛れて逃亡し、髪を削り僧衣を着て、破笠を被って顔を隠し、山口に戻って兄の家に逃れようとした。

兄・三位は自己の邸内に置くわけにはいかないと、ある民家の床下に隠した。屋主がこれを反乱軍に知らせたので、捕らえられて殺された。

あまりにひどい小人なので、叛乱軍の人たちは特に刃が銹びた槍を選んで刺殺したという。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十九「諸臣」、巻二十四「文苑」、巻二十七「嬖幸」、巻二十九「帰順」より

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