人物説明

殉難家臣・関係者

2022年4月8日

大内義隆イメージ画像
大内義隆・茶色のキウイ様画

『大内氏実録』には、陶隆房が政変を起こした時、義隆とともに自殺した人、もしくは逃亡中に殺された人などに関する項目が大量にある。彼らは「殉難」、「死事」に分類されたり、普通に「諸臣」に入っていたりする。たとえば、相良武任は「死事」に、冷泉隆豊は「殉難」である。また、山口下向中に被害に遭った公家などは「遭難」として区別されている。
冷泉は親族、公家は公家に入れるが、それ以外の人は全員コチラ。まとめて「殉難」とした。
※文字数や分類方法の関係で、「殉難」したけどここに載っていない人がいるため、ご注意ください。⇒ 黒川隆像冷泉隆豊殉難者公家

佐波隆連

幼名:善四郎、のち出雲介となり、出雲新介と称した。三善清行の遠裔(遠い後世の子孫)、佐波善四郎実連七代の孫・常陸介誠連の息子で石見の名門である。義隆に仕えた。
天文二十年八月二十八日の乱で、義隆に従って法泉寺に行き、嶽山を守った。翌日、法泉寺に呼び戻された。その夜、軍は散り散りとなり、本国に逃れる。長門国阿武郡出雲まで来た時、町野氏に殺された(系譜は従弟・隆秀の舅・町野とする)。
二女があった。長女は従弟・隆秀の子・広忠の妻となる。子孫は今に続いている。次女は一族善内の妻となった。

小幡山城守

名前不明。天文の乱の時、法泉寺に従った。軍が潰滅し、石州津和野に逃れた。賊軍はこれを追撃。長門国阿武郡徳佐原に来た時、逃れられないと知って腹を切って死んだ。

小幡義実

山城守の子。四郎と称した。大寧寺に従う。 九月朔日、賊軍にとらえられ、翌日殺された。十五、六歳だった。臨終に歌を詠み硯を求めたが、賊中に硯をもつ者はおらず、望みは叶えられなかった。

貫隆仲

下総守となる。天文二十年四月二日、従五位下を授かる。

天文二十年八月二十九日、法泉寺で戦死した。
※歴名土代で清水寺で戦死とするのは誤り(『実録』)。

松原隆則

初名は隆安、弾正と称した。のち木工丞となる。 土佐守安定の二男である。 幼い頃から義隆につきしたがった。成長したのち、陶隆房の一所衆となり、熊毛郡で三十石地と分銭十貫文を領有した。天文十五年九月九日、直参に戻った。

天文十五年九月十三日、隆則は詰所で宿直していた。その夜、義隆は明月をたのしんでいたが、外墩の塀上にあやしいものがいることに気がつき、宿直を呼んだ。馬場兵庫と隆則がこれに応じた。義隆は特に隆則に命じてこれを調べさせた。
隆則が弓を射ると、ばけものはゆみづるにあたって堕ちた。塀に上り逃げ去ろうとしたから、追いかけて斬った。この時、空は黒雲に覆われ、一寸先も分らない闇となって、とうとう行方を見失ってしまった。辺りを探すと、切り落とされた大腿部が見付かった。人の脚に似て毛が生えており、指が長くて四五寸ほどあった。義隆は感心して隆則をほめ、持っていた盃を授け、さらに、十石の地を与えた。
翌朝、血の跡を辿って深い山奥まで行くと、岩穴でばけものが死んでいた。山女というものだったという。

隆房が裏切った時、仲間に誘われなかった将士は、冷泉隆豊とともにいた兵だけであった。

隆則は義隆が難を逃れられないと知り、七月二十八日、父・安定および子・又太郎、藤二郎に譲状と遺品を送った。

政変が勃発すると、法泉寺に逃れた義隆に従った。最後は、大寧寺の山門で、追って来た賊軍の兵を防ぎ、力尽きて自殺した。三十六歳。

その時、子・又太郎は十二歳だった。熊毛郡伊保荘の領所から山代に逃れ、伯父・刑部正祐に匿われた。成長したのち、盛氏と名乗った。永禄五年、毛利氏に仕え、子孫は今につづく。

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松原さんは、冷泉隆豊さんの項目に「附・松原隆則」として載っています。何も書いていないので、冷泉さんとの関連性がわかりません……。殉職されておいでなので、ここに入れました。

岡部隆景

幼名:又四郎、父は讃岐守興景。天文十五年四月五日に家督を譲り受けた。右衛門尉となる。
天文十九年七月二十一日、従五位下を授かる。それ以後、右衛門大夫と称した。大寧寺で殉死。

天野隆良

幼名:彦四郎、のち藤内と称した。藤内遠景の遠孫、安芸国賀茂郡志芳米山城主・紀伊守元連の第二子。十三歳の時、義隆が元連に頼んで連れ帰り、それ以来山口に住んだ。
義隆に気に入られて、重用された。義隆の命で筑前の名門千手興国の聟となり、また、将軍家から白傘馬氈の鞍覆の使用を許された。大寧寺で殉死した。二十三歳だった。
臨終に岡部隆景、黒川隆像と連署で手紙をしたため、 義隆に同行しなかった小原安芸守、青景越後守、吉田平兵衛尉、仁保右衛門大夫らに送った。
娘が一人あった。父殉難の時、わずかに二歳だった。のちに、毛利氏は豊西郡に六十貫の地を与え、成人後、隆良の兄・紀伊守隆重の四男・元祐にめあわせて、元祐に隆良の跡を継がせた(元祐の曽孫・藤内量重は罪を犯して切腹したため、家は断絶した)。

大田隆通

隠岐守、軍評定衆。大寧寺で殉職。

岡屋隆秀一

左衛門尉、侍大将先手衆。大寧寺で殉職。子孫は今につづく。

禰宜右延

本氏は高橋、京極入道道誉の二男・四郎左衛門尉秀宗を先祖とする。秀宗孫・茂綱が、吉敷郡秋穂荘禰宜村に居住し、それ以来、禰宜を氏とした。
禰宜村は秋穂八幡宮の禰宜領だから、禰宜村というのである。茂綱はこの地に居住し、八幡宮の禰宜になったものと思われる。職名が氏のようになった例であり、厳島神社の棚守などと同じである。

右延は茂綱九世の孫。曽祖父・弘綱が山口築山大明神の社司となってより、社司職が世襲となった。右延の時に、多賀神社大宮司と今八幡宮の禰宜を兼ねるようになった。民部少丞。

天文十一年閏三月十五日、従五位下を授かる。
卜部兼右から神道行事についての知識を授かる。その名の右字は兼右からもらい受けたものである。和歌に巧みで、小坐敷衆首座であった。大寧寺で殉死。
二男一女があり、長男言延が家を継いだ。本氏に戻って高橋民部大夫と称した。慶長二十年、七十五歳の時、毛利輝元の命により己が見聞した大内氏の旧事を記したのが『言延覚書』。 父殉難時は十一歳だった。次男・神六は分家し、本末とも今につづいている。

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つぎの相良さんをここに入れるべきかは悩ましい。記事ボリュームの関係でここにおられますし、関連死であることも間違いなく、大寧寺に供養塔もあるのですが、上記までの人たちとは微妙に違い、主とともに逃避行しておられませんからね。

相良武任

遠江守正任の子。中務大丞。
天文六年正月六日、従五位下を授かる。
天文十年七月廿二日、遠江守となる。

天文十四年五月、 官職を辞して出家。
天文十七年八月、義隆の命で再仕。

天文十九年九月十五日、陶隆房との仲が険悪となり、身の危険を感じて白石の龍福寺で難を避ける。十六日の夜、石州津和野の吉見正頼のもとに逃れる。
天文二十年正月、肥後の同族を頼ろうとして、筑前に下向。大宰少弐杉興運に引き留めらたため、正月五日、興運に依頼して冤罪を訴えた。そののち、山口に呼び戻された。
杉興運

天文二十年四月、再度剃髪する。
天文二十年八月十日、義隆が密に命じたことがあって石州の吉見氏を訪ねた後、筑前に下った。

政変勃発により、花尾城にたてこもったが、隆房が隠岐守を派遣して花尾を囲む。武任は防ぐことができずに切腹した。
※義隆記、同異本とも天文十九年九月十六日出奔してからの記述がなく、ここにきて筑前に忍んで居た相良云々と書かれている(『実録』)。

行年五十四歳だった。首級は山口に梟された。

『実録』には「武任申条」の引用がある。

そもそも、相良と陶は不仲であったところに、第三者の讒言によりともに陥れられてさらに険悪となりその後の悲劇に至る。のちに、この「武任申条」を見た隆房は、相良について誤解していた点があったことを知り、一連の政変を起こしたことじたいを深く後悔して……という見解は、相良、陶両名ともに気の毒で取り返しのつかない話のように思えるけれども、果たしてそんなに単純なことなのだろうか、と疑問。
むろん、今となっては真相は闇であるし、確認する術はない。これらについては別のところで。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十九「諸臣」、巻二十一「殉難」、巻二十二「死事」より

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ミル@周防山口館

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