人物説明

親族 息女・妻妾

2022年4月8日

ミル

女性ばかりのご紹介ページです♪

凌雲寺殿御息女

大友義鑑室

名前不明、豊後国主・大友修理大夫義鑑の妻となる。大友義鎮、義長の母。
※系図は義隆の姉とする。少将と姉妹の順番不明。

少将

義隆の姉。石見国鹿足郡津和野一本松城主・吉見大蔵大輔正頼の妻となる。広頼、および一女の母。吉見系譜に、初め大宮姫と称したとあるがほかに所見なし。
天正五年五月十二日、死去。法名: 栄誉信盛。

小少将

阿波国主・細川讃岐守持隆の妻となる。
天文二十一年八月十九日、持隆が 家人三好豊前守義賢に殺害され、本国に帰って尼となった。

足利義冬室

名前不明。小少将の妹。
天文三年、足利義稙の嫡男・義冬が阿波国に下向した。細川持隆は義冬を那東郡平島荘に住まわせ、この女性を迎えて娶らせた。義親、義助、義理の母。

妻妾

弘世室三条氏

『残太平記』に、崇光院、後光厳院二代の国母・陽禄門院を賜って妻とした、とある。陽禄門院は三条内大臣公秀公の娘なので、旧記に「国清寺殿、永和三丁巳誕生云々、御母三条殿」とあるのと合致する。しかしながら残太平記は引用しにくい通俗本なので、ほかの裏付けが出るのをまつ。⇒ ということは、この項目はこの時点ではかなり怪しい。最近の研究書での補充に期待。

義興側室内藤氏

肥後守弘矩の長女。義隆の母。東向殿と称した。国難が起った時、宮野村真如寺に逃れた。驚愕のあまり気絶して死にそうになった。義隆はこれを聞いて、楊井国久を派遣して治療させた。のち旧殿東向に戻って住んだ。
永禄二年六月十一日死去。真如寺に葬り、真如寺芳林慶誉と法名した。

義隆室萬里小路氏

名前は貞子。内大臣秀房の長女である。十五歳で義隆の妻となる。婦徳があり、妬忌しなかった(やきもちをやかない)。
義隆はかつて密通する女に艶書を与えた。侍女があやまってこれを貞子に差し出した。貞子はひらいて見て、

 頼なよ行末かけてかはらじとわれにもいひし言の葉の露

と詠んでその文にそえておくり、また義隆には、

 思ふことふたつありその浜千鳥ふみちがへたる跡をこそ見れ

との歌をおくった。のち義隆が彼女のもとに、

 身をつみて人のいたさぞしられけるこひしかるらんこひしかりけり

と詠んで送った、という。

天文十八年冬、寵が衰えて離縁された。
※義隆記で春とするのは誤り。毛利元就下向饗応記の二月廿六日から五月十八日までの記述に、 「本女中様、東向殿様、御新造様、高徳院御新造」とあり、本女中様というのはすなわち万里小路氏のことである。
陶隆房等は、貞子を離縁することをいさめたが義隆はききいれず、遂に京師に送還した。

義隆继室廣橋氏

廣橋氏は実は小槻氏で官務尹治の娘である。はじめ万里小路氏に仕える上﨟で、 おさいの方といった。義隆が密通して義尊を生む。御新造、またはその居所から東御殿と称した。それ以来、義隆は万里小路氏を疎み、遂に天文十八年の冬、京師に送還し、小槻氏を本殿に 移した。
家格に問題があったため、廣橋兼秀の養女とし、廣橋氏を継がせた。人となりはかしこく巧みに媚びた(まどわした)。義隆は迷い溺れて、ききいれぬ言葉はなかったので、廣橋氏に群がり、つてによって功績もないのに重い褒美をもらう者が現れ、大内氏の家政は乱れたという。
国難が起ると義隆に従い、法泉寺に隨行したが、ここから宮野村妙喜寺に逃れて尼となる。のち山口に還っ て光厳寺に住んだ。⇒ 父・小槻尹治子・義尊

義隆側室廣橋氏

権中納言兼秀の娘。 広徳尼院の弟子となって、喝食として住んでいた。 義隆が密通して遂に妾とした。廣徳院御新造と称した。
天文十八年、小槻氏を本殿に移し、その旧邸に廣橋氏を移し東御殿と言わせた。
国難が起ると廣徳院に逃れて尼となった。

於児丸

お身内ではありませんが、傍近く仕えたご縁と、同じく女性であることから、お二人を追加します。

附録

烈女・中将局&宰相局

二人は姉妹で、ともに吉川氏の女性。義興の奥方に仕えていた。

奥方が亡くなった時、悲しみのあまり、葬儀の日に荼毘の火中に身を投げた。傍にいた人が助け出し、死ぬことができなかったので、髪を下ろして比丘尼となり、奥方の冥福を祈り続けた。

義隆はその志を憐れみ、姉妹を厚遇した。

国難が起って義隆が長門に逃れ、大寧寺で亡くなったときき、二人は驚愕して気を失った。我に返ると家に火を放ち、自害したという。

※ミル注:義興夫人としては、義隆の母・東向殿について知られているが、この人は「側室」。つまり、「正室」がほかにいたはずだが、伝わっていない。
烈女伝の原文は「義興の北の方に仕ふ」となっている。古文の授業では、北の方は「貴人の正妻」と習ったけれども、辞書には単に「貴人の妻の敬称」とあった(『岩波古語辞典』)。いずれにしても、単に「北の方」とあるだけで、そのうえ、本人ではなくその侍女についてのエピソードなのでなんの手がかりにもならない。残念である。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十五「妻妾」、巻十七「子女」、巻二十六「烈女」より

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