ゆかりの人々

細川澄之

2024年1月7日

細川澄之イメージ画像

細川澄之とは?

細川政元の三人の養子の一人。父は前関白・九条政基というやんごとなき身分。何の血縁もない人物を養子に迎えるという政元の謎すぎる行為に周囲は当惑。それでも、当初は跡継として、大切に育てられた。養父の期待とは別に、一門以外の者を跡継にする奇怪な行為を非難する声が起り、政元はほかにも一門から養子を入れる。これが悲劇の始まりとなった。

養子は一人だけであっても、のちに実子が生まれたりすれば争いの種となる。政元は都合三人もの養子を迎えたから、それぞれを擁立する家臣たちをも巻き込み、家督争いは熾烈なものとなった。分裂する家中は、政元暗殺という信じられない惨劇をうむ。政元の死後、支持する家臣らによって家督に据えられたが、対立する二人の養子・澄元と高国によって排除され、自害して果てることになる。

細川澄之・基本情報

生没年:1489~1507.8.1
前関白・九条政基の子。母は武者小路隆光の娘。
幼名:聡明丸
通称:九郎

公家の若君・九郎澄之

澄之は関白まで務めた九条政基の子である。要するにやんごとなき若君。本来ならば、武家の養子、それも「執事の家(管領)」の者の養子になるなどあり得ぬことだ。しかし、この頃になると、武家は繁栄し、公家が困窮していたという事実を知らない人はいない。加えて、細川政元は気にくわない足利義材を追い出して、かわりに傀儡として義澄を据えるという将軍の首の挿げ替えまでやってのけている。要は将軍すら彼の言うがままという状態だから、幕府政権の影のトップと言えた。世の人はそんな政元をして「半将軍」と呼んで揶揄していた。

とりあえず、その辺の状況を頭の片隅に置いてから見て行くと、政元の養子になる=やがては政権トップになれるという図式も浮かんではくる。しかし、政元が「半将軍」足り得たのは、良くも悪くもそれだけの力量があったゆえ。養子となり、跡を継いだ者も同じように天下の実権を握れるかどうかは、その人次第となる。

そこが、将軍であるか、管領であるかの違いとも言えた。要は「血統」の違い。どう転んでも偉いのは将軍であり、管領はその補佐役にすぎない。無能な将軍ならば、管領が政務を私し、好き勝手に政治を動かすことはいくらでも可能。ただし、動かしていく管領の側にも実力が必要だ。その意味では、どう転んでも摂関家という高貴な家柄は誰にもとってかわれない尊いもの。それを捨て去ってまで、武家の養子にされた若君の将来は果たしてどうなるのだろうか。

変わり者養父と謎の縁組み

奇人変人として有名な細川政元は、修験道に凝っていて、妻帯しなかった。そこで、跡継のために養子を迎えることになった。当然のごとく、養子は身内から、となる。そこで、名前が挙がったのが、京兆家庶流の男児(後の髙国)だった。しかし、この話は立ち消えとなり、政元は公家・九条政基の若君を養子に迎えた。

先に、近衛家に養子縁組の打診をして断られ、そこへ、だったらうちからどうぞ、と九条家から話があったという。この公家の若君は、政元が義材を追い払って傀儡に迎えた、足利義澄の従弟(母方)である。

普通に考えれば、養子は一門の中から、血縁がもっとも当主に近しい者を選ぶのが筋である。なにゆえに、公家の若君を選んだのか、本当に訳が分らない。『公方両将記』によると、当時の摂関九条太政大臣政基は公家にも武家にも崇敬された人物だった。政元もそれにあやかりたいと思ったとか。

延徳三年(1491)、父と養父の取り決めによって、九条家末子の若君は、わずか三歳で細川家の猶子となった。猶子とは、養子と違って、相続などの権利を持たない。文字通りの仮の親子関係である。両家の間では、若君は政元の猶子であり、もしも、将来政元に実子ができたならば、出家させる……などの条件が取り交わされた。

しかし、実際には、実子の誕生などあり得ぬ男だ……。若君四歳の時に、大内家における亀童丸同様、京兆家歴代が名乗ってきた幼名「聡明丸」を名乗らせている。少なくとも、こうした行動だけ見ると、政元は澄之を跡継と見なしており、とりたてて険悪な関係でもなかったと推察できる。

奇人変人の養父政元いうところの「修行」もイマドキの民的には楽しい趣味のひとつになりそうだが、当時はそうはいかなかった。「修行」すること、それ自体は特に問題がない。また、修行をすれば本当に空を飛べると信じられているような時代だった。なので、政元が細川本家でも世継ぎではないか、あるいはどこかの分家にでも生まれていたのなら、出家して修行僧になったとしても本人の自由だったかも。しかし、彼には「本家の嫡男として家を継がなければならない」という責務があった。にも拘わらず、それを放り出して修行に没頭し、そのせいで息子ができなくとも、養子を迎えればいいだけだ、と考えた。

ちなみに、どのくらい「修行に没頭して」いたかについては、軍記物などで面白可笑しく書かれているだけで、まさか本当に空を飛べるはずなどないのであって、いわゆる山岳信仰、修験道に傾倒していたというだけのことである。実子に恵まれなかったこととて、よくあるケースだから、それを信仰のため、と決めつけるのも正しくはないかもしれない。

しかし、跡継ぎの実子ができなかったこと、そのために養子を迎えたこと、だけは紛れもない史実である。跡継ぎがいないため養子を迎える、至極当たり前に行われていたこの解決法が、古来どれほどの悲劇を生み出してきたかは、当時のほかの家の騒ぎを見ても分かったはず。だからこそ、細川家ではそうはならないようにと気を配って家門を繁栄させてきたのではなかったのか? 最悪、子宝に恵まれなかったとして、養子を迎える際には、慎重を期さねばならない。親戚、重臣一同で何度も話し合って、全員一致で相応しい人選を行うべきだ。

政元はそれも怠り、いや、彼なりの考えがあってのことだったのかもしれないが、よりにもよって細川家とはなんの血縁関係もない公家の若君を養子に迎えてしまった。細川家ほどの名門、それも大所帯を預かる京兆家当主として、政元は考えが足りなかったといえる。なにもかもが、彼の一存では決まらないのが世の中である。少なくとも、一門衆との意見のすり合わせは絶対に必要であった。

血は水よりも濃い?

文亀元年(1504)、わずか十三歳の澄之は早くも、政務について学び始める。変わり者の政元は、澄之にそこそこ満足していたように見える。今後細川の家は澄之に任せ、安富元家、薬師寺元長両名がサポートすると決めた。どうせ、子どもなど生まれるはずもないので、そのままいけば、彼にすんなり家督が渡ったかも。しかし、政元に異論がなくとも、一族には大ありだった。

当初はさして問題にもならなかったことも、政元がいっこうに妻帯する気配がなく、本当に実子が生まれそうにないのが確実となると、大問題となってきた。細川家は大所帯だから、畿内の京兆家以外にも四国を治める身内が大勢いる。公家の若君などを敢えて選ぶ必要はないだろう。細川家一門と内衆たちは、細川姓でない澄之が家を継ぐことに強く抗議して、細川澄元を新たな養子にたてようとした。

何もかも面倒で適当な政元は、親戚にいわれるままに、一門から養子を迎えることに同意(だったら最初からそうしておけばよかったのに……)。こうして、澄元は無事に、政元の二人目の養子となった。さらに、一人では心許なかったのか、もう一人迎えた。この二人目が細川高国。三人も養子が迎え入れられ、そのうちのどれが最有力かイマイチ分からないという状況に陥れば、家中が混乱しないはずはなかった。

畠山家の場合、畠山持国は、弟を養子にしたあと実子が生まれたので、跡継ぎを息子に変更しようとした。しかし、すでに、つぎの当主はこの方(養子)である、と思って接してきた家臣からしたら迷惑だった。いかに、血縁でもなんでもない公家の若君を勝手に養子にしていたとはいえ、彼を跡継ぎと認めて準備していた家臣も既にいただろう。何にせよ、途中からコロコロと考えが変わることが一番よろしくない。

跡継にはせめて細川家の人間をと主張する一門および被官たちと、そんなことは意にも介さない政元との間にまず、対立関係ができていた。相続人がいったい、誰になるのかわからないという不安定な状況下で、それぞれに連なる家臣たちも困惑した。元々どこの家にも普通にある家臣どうしの権力争いも複雑に絡み合い、お家の将来はまさに暗闇の中。

変わり者だったゆえにか、それほどまでに、聡明丸を我が子として認め、愛してさえいたのか、それはもう、歴史の闇の中だが、一門たちがいちゃもんをつけてきている中で、政元は平然と聡明丸を元服させ、澄之と名乗らせた。その後、政元は元服した澄之を早速、丹波の一色討伐へ向かわせる。ちょうど澄之が丹波に向かう前、政元は、「一門のすすめ」で養子に迎えた澄元と対面した。澄之も彼に会っている。

澄之が丹波へ向かった後、澄元は将軍・義澄を訪ねたり、あれこれと工作を始めた。この間、政元はずっと澄元と共にあり、また、澄元の実家・阿波からは彼を支える面々が続々と上洛した。

同じ一門で結束した澄元や高国の背後には、細川家一門の「総意」がある。どこをどう見ても、無関係な他所者出身である澄之には旗色が悪い。後からやって来た二人の養子は、澄之にとって脅威であるとともに、もしかしたら、養父に裏切られた気分になったかもしれない。

政元が実際に誰を跡継ぎに指名するつもりだったのか、それは永遠の謎となった。家臣に殺され、横死した彼には、最後の言葉を残す余裕もなかったからだ。

軍記物の中の澄之はひたすら哀れで、文字通りひ弱で慎み深い公家の若君として描かれているような気がする。政元の死についても、すべては家臣がやったことで、彼とは無関係である。政元を殺害した香西元長らが、家督として澄之を擁立した、というのが日本史辞典の説明文。いっぽう、『両将記』だと、政元のお気に入りだった薬師寺と澄元の被官・三好之長との不和が先にあり、薬師寺は香西と相談し、政元とともに澄元(三好)も除こうと考えていた。政元が死んで、澄元が跡を継いでしまったら、もともと気にくわない三好が、ますます大きな顔をすることになる。澄之が担ぎ出されたのは、単なる澄元の対抗馬であったからにすぎなかった。

澄之本人が細川家の後継者を名乗りたかったために、政元殺害を考えたようなことはどこにも書かれていない。辞典と軍記物だけを見て言っているので、研究者の意見は知らない。政元殺害まで計画していたかどうかは別として、普通、家督は継ぎたいと考えるだろうと思うのだが。

養父の死とともに終わった人生

政元の死後、澄之は京兆家の主となり、従兄である将軍・義澄も彼の家督相続を認めた。しかし、養父の命と引き換えに手にした地位を維持できたのは、ほんのわずかな時間でしかなかった。すぐに、澄元を筆頭とした細川一門の手で倒されてしまったからである。

上洛した澄元の行動はあたかも、我こそが真に細川家を継ぐ者として相応しいと言わんばかり。実際に、一戦交えることができるほどの準備を整えていた訳なので、澄之としたら、自分はいったいどうなってしまうのか、と心配になったろう。

しかも、我が身は丹波にあって、養父の政元は澄元とべったりだ。すでに、畿内では、澄元派の家来と澄之派の家来とが武力衝突におよぶなど、家臣同士の対立も激しくなっていた。政元の暗殺は、将来に不安を感じた澄之派の家来たちが暴走した結果による惨劇、とでもいったところか。澄之が倒れれば、どうせ、その配下である自分たちも終わりだからである。

とはいえ、家臣らのとった行動は結局、澄之の死期を早めただけであった。澄之は「養父殺し」の汚名を着せられ、「討伐対象」にまでなってしまった。元は配下であったはずの者たちにすら裏切られ、主君・政元の仇を討つ、という大義名分をもった一同に取り囲まれることになる。その中心人物が、「養父の仇を討つ」と張り切る澄元であった(辞典には、髙国の攻撃によって、と明記してある。どこかで間違えたかも。軍記物だと三好之長が張り切っているけど)。

もはやこれまでとなったとき、澄之は自害しようとしたが、腹を切るにはどうしたらいいのか、刃物はどう使うのかすら、分からなかったという。それゆえ、家臣の者が、無事に養父の元へ送り届けて差し上げねばならなかった。虫も殺さぬ生涯だったのだ(ここは『両将記』ではない何かの軍記物、出典忘れ)。

我が子の死について聞かされた九条家の実の両親は嘆き悲しみ、久しく涙にくれたという。末子とはいえ、政元について行かなければ、京でのんびりと過ごしていくことができたはず。なんの因果か、畑違いの武家の家で家督相続の血の雨が降る中、その最後は本当に悲惨なものであった。四面楚歌の状況下で、最後まで付き添ってくれた僅かな忠臣とともに、洛中・崇禅寺の遊初軒にて自ら命を絶ったという。

細川澄之吹き出し用イメージ画像
澄之

梓弓張りて心は強けれど引く手すくなき身とぞなりぬる

三歳で政元の養子となった澄之には、かれの養子として生きた時間のほうが、公家の若君であった時間より遙かに長い。政元との間に、果たして親子の「情」に似たような感情はあったのだろうか。

養父の政元を暗殺するという血塗られた事件に巻き込まれたが、それでも家督を手に入れることはできず、後から来た養子たちにすべてを奪われて命まで落とした。十七年という短い生涯であった。

ゴタゴタはエンドレス

将軍・義澄が従弟の仇である澄元らについてどんな感情を抱いたのか、史書にはなにも記されてはいない。しかし、将軍は平然と、澄元を細川家の正統な跡継と認めたのだった。その澄元もすぐに髙国にとってかわられ、将軍もともに流浪の旅に出る……。こんなことなら、従弟のほうに味方してあげることはできなかったんだろうか? まあ、この時の将軍の役目なんて、文書にハンコを押すことくらいしかなかったように思えるけれども。

家名を守るということ、家を継ぐということ、そのために犠牲となった人々がどれほどいたことか。イマドキに比べると、昔は随分と生き辛い世の中であったのだなぁ……と思う。家督のために争い、血を流した細川政元の三人の養子たち。ほどなく、政元暗殺というとんでもない事件に揺らぐ京へ、大内義興に守られた元将軍義材が到着する。「元傀儡」将軍・足利義澄と細川澄元とは、大慌てで近江へと逃れて行った。

澄之本人の思惑があったにせよ、なかったにせよ、政元暗殺が元将軍義材の復職を果たそうと奔走していた面々にとって追い風になったことは明らかである。

大内義興は十年にもわたって在京し、義材の政権を助けた。大内氏に守られて復職した義材将軍も、京の都も、束の間の平穏を享受した。しかし、それは、本当に「束の間」。義興が帰国すると、守ってくれる者がいなくなった京都は再び混乱の渦に突入していく。

いわゆる「天下人」なる人物が、諸国を統一するまで、彼らの子孫たちのゴタゴタが終わることはなかったのである。

参照文献:『日本史広辞典』、各種通史、『公方両将記』ほか

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