人物説明 於児丸の室町カフェ

細川澄之

2020年8月25日

九郎澄之・茶色のキウイ様画

大乱後の畿内と細川家と大内庭園(概観)

応仁・文明の乱において、全国各地でお家騒動が勃発。どこの家にも潜んでいた火種が一斉に大火事に発展した。三管領に名を連ねる名門、斯波家でも、畠山家でも。何しろ、武家の頂点に立つ将軍家すら弟か実子かで揉めている最中だから、そんなリーダーの命令を誰がきくだろう。騒ぎは我らが庭園にも飛び火し、法泉寺様は十年余に渡り京都に出陣。その留守に、伯父が家督を狙って兵を挙げた。

……というような全国規模での内輪もめ大流行の最中、宗家も分家も一門まとまって分裂知らずだった家があった。それは、三管領の一つ、細川家。『公方両将記』によれば、遙か昔に、庶流讃岐守清氏が讒言によって「御敵」とされて滅んだことを除けば、一門内には一人として「御敵」指定になった者がいないとか。斯波も畠山も、家督相続をめぐるゴタゴタから家中が分裂、弱体化してしまったのに、細川家だけは怖いもの知らず。一門一家一致団結して、我が世の春を謳っていた。

それなのに……。細川政元の代となり、実子がおらず養子を迎えた時から、ついにこの家も混乱の渦へと巻き込まれていった。タチが悪いのは、細川家が上のような事情から権力を誇り、幕府内、ひいてはこの国の行く末を左右する大勢力となっていたこと。そこらの田舎大名の家督相続くらいでは、それこそ内輪もめなのに、彼らの争いは周辺諸国を巻き込み、歴史すら変えてしまった。

1551年で滅んでしまった庭園の民からしたら、三好一族とか、松永久秀とか、剣豪将軍とか、織田信長とか、もうなんら興味も関心もなく、そもそも時代が重なっていないんですが。それでもその根っこのほうとは無関係でおれなかったので、その関係箇所、ほんの入り口付近だけをちょこっと見ていく企画です。

最初に、ざっくりと流れをまとめておくと。

細川政元には三人の養子がおり、澄之、澄元、髙国といった。
明応の政変で義材将軍を追い出した政元が押っ立てた傀儡将軍が足利義澄。

三人も養子にしたせいで、養子どうしの争いが起り、そこに元将軍義材と傀儡将軍との争いが絡まり、加えて細川家家中の家臣たちの争い(ココ、庭園の民からしたら、知らない人ばかりで、さっぱり分らないところですね)もあり、複雑化して大戦争に。

混乱の中、まずは政元が家来に殺され、続いて澄之が髙国に滅ぼされ、おかげで家督を継いだみたいに見えた澄元は家来の支持を得られずに地元・四国へ帰国。そそくさと元将軍をお出迎えに赴いた髙国が細川家代表みたいになことになってちゃっかり家督を継ぎ、管領職にも。

その後は、「将軍復帰した義材&髙国 vs 元将軍義澄&澄元」のような構図の合戦が延々と。

我らが凌雲寺様は、義材&髙国を援助して十年以上も在京させられるという損害を被った。周防に帰国したのち、彼らの揉め事がどうなろうとも、もう知ったことではないけれども、性懲りもなく争いは続き、義材が髙国と不和になって、澄元を頼るだとか意味不明な歪みも差し挟みつつ、子孫の代まで持ち越されていった。

皆が知ってる剣豪将軍は義澄の孫だし、三好一族は澄元が上洛した瞬間から全国区になってるし、最後の将軍が織田信長に抵抗して包囲網とか作ったのだって、この人が剣豪将軍の弟である以上、やはり、義澄将軍の孫だから、騒ぎの根源はここなのである。

まあ、関係あるのは、義材、義澄~義晴、ギリギリ義輝くらいだし、厳島の戦いと桶狭間の合戦が近いといっても、もう滅亡しているので、織田信長は無関係。三好については、超有名人の先祖レベルが名前出てきていた。

三人の養子とその養父・政元について、庭園の民も知らないより知っていたほうがいいのかな、程度のことを順番にみていく。さわりだけで何も掘り下げていないし、特に参考文献などもなく、どこかで読んだ記憶だけが頼りなので(それについては分かり次第書き込むつもりだけど)念のため。

なお、これらは『管領家の庭園日記』を補足する目的で書かれているので、相乗効果でともに名文になったらいいのに、と思ってはいます(なるはずもないが)。

公家の若君 九郎澄之

基本情報

生没年:1489~1507.8.1
九条政基の子。母は武者小路隆光の娘。
幼名:聡明丸。通称:九郎。

変わり者養父と謎の縁組み

奇人変人として有名な細川政元は、修験道に凝っていて、妻帯しなかった。そこで、跡継のために養子を迎えることになった。当然のごとく、養子は身内から、となる。そこで、名前が挙がったのが、京兆家庶流の男児(後の髙国)だった。しかし、この話は立ち消えとなり、政元は公家・九条政基の若君を養子に迎えた。

先に、近衛家に養子縁組の打診をして断られ、そこへ、だったらうちからどうぞ、と九条家から話があったという。この公家の若君は、政元が義材を追い払って傀儡に迎えた、足利義澄の従弟(母方)である。

普通に考えれば、養子は一門の中から、血縁がもっとも当主に近しい者を選ぶのが筋である。なにゆえに、公家の若君を選んだのか、本当に訳が分らない。『両将記』によると、当時の摂関九条太政大臣政基は公家にも武家にも崇敬された人物だった。政元もそれにあやかりたいと思ったとか。

1491(延徳三)年、父と養父の取り決めによって、九条家末子の若君は、わずか三歳で細川家の猶子となった。猶子とは、養子と違って、相続などの権利を持たない。文字通りの仮の親子関係である。両家の間では、若君は政元の猶子であり、もしも、将来政元に実子ができたならば、出家させる……などの条件が取り交わされた。

しかし、実際には、実子の誕生などあり得ぬ男だ……。若君四歳の時に、大内家における亀童丸同様、京兆家歴代が名乗ってきた幼名「聡明丸」を名乗らせている。少なくとも、こうした行動だけ見ると、政元は澄之を跡継と見なしており、とりたてて険悪な関係でもなかったと推察できる。

奇人変人の養父政元いうところの「修行」もイマドキの民的には楽しい趣味のひとつになりそうだが、当時はそうはいかなかった。
「修行」すること、それ自体は特に問題がない。また、修行をすれば本当に空を飛べると信じられているような時代だった。なので、政元が細川本家でも世継ぎではないか、あるいはどこかの分家にでも生まれていたのなら、出家して修行僧になったとしても本人の自由だったかも。しかし、彼には「本家の嫡男として家を継がなければならない」という責務があった。にも拘わらず、それを放り出して修行に没頭し、そのせいで息子ができなくとも、養子を迎えればいいだけだ、と考えた。

ちなみに、どのくらい「修行に没頭して」いたかについては、軍記物などで面白可笑しく書かれているだけで、まさか本当に空を飛べるはずなどないのであって、いわゆる山岳信仰、修験道に傾倒していたというだけのことである。実子に恵まれなかったこととて、よくあるケースだから、それを信仰のため、と決めつけるのも正しくはないかもしれない。

しかし、跡継ぎの実子ができなかったこと、そのために養子を迎えたこと、だけは紛れもない史実である。跡継ぎがいないため養子を迎える、至極当たり前に行われていたこの解決法が、古来どれほどの悲劇を生み出してきたかは、当時のほかの家の騒ぎを見ても分かったはず。だからこそ、細川家ではそうはならないようにと気を配って家門を繁栄させてきたのではなかったのか? 最悪、子宝に恵まれなかったとして、養子を迎える際には、慎重を期さねばならない。親戚、重臣一同で何度も話し合って、全員一致で相応しい人選を行うべきだ。

政元はそれも怠り、いや、彼なりの考えがあってのことだったのかもしれないが、よりにもよって細川家とはなんの血縁関係もない公家の若君を養子に迎えてしまった。細川家ほどの名門、それも大所帯を預かる京兆家当主として、政元は考えが足りなかったといえる。なにもかもが、彼の一存では決まらないのが世の中である。少なくとも、一門衆との意見のすり合わせは絶対に必要であった。

血は水よりも濃い?

文亀元年(1504)、わずか十三歳の澄之は早くも、政務について学び始める。変わり者の政元は、澄之にそこそこ満足していたように見える。今後細川の家は澄之に任せ、安富元家、薬師寺元長両名がサポートすると決めた。どうせ、子どもなど生まれるはずもないので、そのままいけば、彼にすんなり家督が渡ったかも。しかし、政元に異論がなくとも、一族には大ありだった。

当初はさして問題にもならなかったことも、政元がいっこうに妻帯する気配がなく、本当に実子が生まれそうにないことが確実となると、大問題となってきた。細川家は大所帯だから、畿内の京兆家以外にも四国を治める身内が大勢いる。公家の若君などを敢えて選ぶ必要はないだろう。細川家一門と内衆たちは、細川姓でない澄之が家を継ぐことに強く抗議して、細川澄元を新たな養子にたてようとした。

何もかも面倒で適当な政元は、親戚にいわれるままに、一門から養子を迎えることに同意(だったら最初からそうしておけばよかったのに……)。こうして、澄元は無事に、政元の二人目の養子となった。さらに、一人では心許なかったのか、もう一人迎えた。この二人目が細川高国。三人も養子が迎え入れられ、そのうちのどれが最有力かイマイチ分からないという状況に陥れば、家中が混乱しないはずはなかった。

畠山家の場合、畠山持国は、弟を養子にしたあと実子が生まれたので、跡継ぎを息子に変更しようとした。しかし、すでに、つぎの当主はこの方(養子)である、と思って接してきた家臣からしたら迷惑だった。いかに、血縁でもなんでもない公家の若君を勝手に養子にしていたとはいえ、彼を跡継ぎと認めて準備していた家臣も既にいただろう。何にせよ、途中からコロコロと考えが変わることが一番よろしくない。

跡継にはせめて細川家の人間をと主張する一門および被官たちと、そんなことは意にも介さない政元との間にまず、対立関係ができていた。相続人がいったい、誰になるのかわからないという不安定な状況下で、それぞれに連なる家臣たちも困惑した。元々どこの家にも普通にある家臣どうしの権力争いも複雑に絡み合い、お家の将来はまさに暗闇の中。

変わり者だったゆえにか、それほどまでに、聡明丸を我が子として認め、愛してさえいたのか、それはもう、歴史の闇の中だが、一門たちがいちゃもんをつけてきている中で、政元は平然と聡明丸を元服させ、澄之と名乗らせた。その後、政元は元服した澄之を早速、丹波の一色討伐へ向かわせる。ちょうど澄之が丹波に向かう前、政元は、「一門のすすめ」で養子に迎えた澄元と対面した。澄之も彼に会っている。

澄之が丹波へ向かった後、澄元は将軍・義澄を訪ねたり、あれこれと工作を始めた。この間、政元はずっと澄元と共にあり、また、澄元の実家・阿波からは彼を支える面々が続々と上洛した。
同じ一門で結束した澄元や高国の背後には、細川家一門の「総意」がある。どこをどう見ても、無関係な他所者出身である澄之には旗色が悪い。後からやって来た二人の養子は、澄之にとって脅威であるとともに、もしかしたら、養父に裏切られた気分にもなったかもしれない。

政元が実際に誰を跡継ぎに指名するつもりだったのか、それは永遠の謎となった。家臣に殺され、横死した彼には、最後の言葉を残す余裕もなかったからだ。

軍記物の中の澄之はひたすら哀れで、文字通りひ弱で慎み深い公家の若君として描かれているような気がする。政元の死についても、すべては家臣がやったことで、彼とは無関係である。政元を殺害した香西元長らが、家督として澄之を擁立した、というのが日本史辞典の説明文。いっぽう、『両将記』だと、政元のお気に入りだった薬師寺と澄元の被官・三好之長との不和が先にあり、薬師寺は香西と相談し、政元とともに澄元(三好)も除こうと考えていた。政元が死んで、澄元が跡を継いでしまったら、もともと気にくわない三好が、ますます大きな顔をすることになる。澄之が担ぎ出されたのは、単なる澄元の対抗馬であったからにすぎなかった。

澄之本人が細川家の後継者を名乗りたかったために、政元殺害を考えたようなことはどこにも書かれていない。辞典と軍記物だけを見て言っているので、研究者の意見は知らない。政元殺害まで計画していたかどうかは別として、普通、家督は継ぎたいと考えるだろうと思うのだが。

養父の死とともに終わった人生

政元の死後、澄之は京兆家の主となり、従兄である将軍・義澄も彼の家督相続を認めた。しかし、養父の命と引き換えに手にした地位を維持できたのは、ほんのわずかな時間でしかなかった。すぐに、澄元を筆頭とした細川一門の手で倒されてしまったからである。

上洛した澄元の行動はあたかも、我こそが真に細川家を継ぐ者として相応しいと言わんばかり。実際に、一戦交えることができるほどの準備を整えていた訳なので、澄之としたら、自分はいったいどうなってしまうのか、と心配になったろう。

しかも、我が身は丹波にあって、養父の政元は澄元とべったりだ。すでに、畿内では、澄元派の家来と澄之派の家来とが武力衝突におよぶなど、家臣同士の対立も激しくなっていた。政元の暗殺は、将来に不安を感じた澄之派の家来たちが暴走した結果による惨劇、とでもいったところか。澄之が倒れれば、どうせ、その配下である自分たちも終わりだからである。

とはいえ、家臣らのとった行動は結局、澄之の死期を早めただけであった。澄之は「養父殺し」の汚名を着せられ、「討伐対象」にまでなってしまった。元は配下であったはずの者たちにすら裏切られ、主君・政元の仇を討つ、という大義名分をもった一同に取り囲まれることになる。その中心人物が、「養父の仇を討つ」と張り切る澄元であった(辞典には、髙国の攻撃によって、と明記してある。どこかで間違えたかも。軍記物だと三好之長が張り切っているけど)。

もはやこれまでとなったとき、澄之は自害しようとしたが、腹を切るにはどうしたらいいのか、刃物はどう使うのかすら、分からなかったという。それゆえ、家臣の者が、無事に養父の元へ送り届けて差し上げねばならなかった。虫も殺さぬ生涯だったのだ(ここは『両将記』ではない何かの軍記物、出典忘れ)。

我が子の死について聞かされた九条家の実の両親は嘆き悲しみ、久しく涙にくれたという。末子とはいえ、政元について行かなければ、京でのんびりと過ごしていくことができたはず。
なんの因果か、畑違いの武家の家で家督相続の血の雨が降る中、その最後は本当に悲惨なものであった。四面楚歌の状況下で、最後まで付き添ってくれた僅かな忠臣とともに、洛中・崇禅寺の遊初軒にて自ら命を絶ったという。

九郎

梓弓張りて心は強けれど引く手すくなき身とぞなりぬる

三歳で政元の養子となった澄之には、かれの養子として生きた時間のほうが、公家の若君であった時間より遙かに長い。政元との間に、果たして親子の「情」に似たような感情はあったのだろうか。
養父の政元を暗殺するという血塗られた事件に巻き込まれたが、それでも家督を手に入れることはできず、後から来た養子たちにすべてを奪われて命まで落とした。十七年という短い生涯であった。

ゴタゴタはエンドレス

将軍・義澄が従弟の仇である澄元らについてどんな感情を抱いたのか、史書にはなにも記されてはいない。しかし、将軍は平然と、澄元を細川家の正統な跡継と認めたのだった。その澄元もすぐに髙国にとってかわられ、将軍もともに流浪の旅に出る……。こんなことなら、従弟のほうに味方してあげることはできなかったんだろうか? まあ、この時の将軍の役目なんて、文書にハンコを押すことくらいしかなかったように思えるけれども。

家名を守るということ、家を継ぐということ、そのために犠牲となった人々がどれほどいたことか。イマドキに比べると、昔は随分と生き辛い世の中であったのだなぁ……と思う。家督のために争い、血を流した細川政元の三人の養子たち。ほどなく、政元暗殺というとんでもない事件に揺らぐ京へ、大内義興に守られた元将軍義材が到着する。「元傀儡」将軍・足利義澄と細川澄元とは、大慌てで近江へと逃れて行った。
澄之本人の思惑があったにせよ、なかったにせよ、この政元暗殺が、元将軍義材の復職を果たそうと奔走していた面々にとって追い風になったことは明らかである。

そして、大内軍に守られて復職した義材将軍も、京の都も束の間の平穏を享受した。しかし、それは、本当に「束の間」。織田信長、いえ、徳川家康なんかが国を統一するまで、彼らの子孫たちのゴタゴタが終わることはなかったのである。

於児丸

初期の頃に書いた、とても恥ずかしい記事がほったらかしでのこされていたよ。

ミル

あああ、こういうの、最初から書くよりずっとメンドー。気持ち悪い……。まだ直ってないからね……。

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